幻話
茹だる様な外界の暑さは窓越しの視覚からでも伝達される気がして、私は視線を室内へと戻した。室内は申し訳程度に稼動している冷房機と扇風機の活躍により、私を脱水症状に陥らせる事は無い程度の状況を保っている。
視界に映る、机上で汗だくになっているグラスとその汗に塗れて皺だらけになっている書類。
その書類の無残な姿に己の堕落した生活が重なり、思わず舌打が出てしまう。
あたかも舌打による空気の振動がグラスの中の氷を落としたかというタイミングで音が響き、何をする気にもなれない私を叱咤しているかの様。だがそれでも堕落に身を委ね、私はソファへと墜落し、眼を瞑るのであった。
※
「おっちゃん! また仕事して無いのかよ」
唐突に私に向けられる声。その声に意識は覚醒し惰眠から強制排除されてしまったが、私はそれでも声の主には顔を向けもしない。する必要も無い。
私が何も反応しない事に業を煮やしたのか、声の主は只でさえ馬鹿でかい事を殊更にでかくして吼える。
「おっちゃん! 起きなさいよ! 態々このアタシが来てあげてるんだぞっ! 町内でも評判な性格良しで器量良しなこの早紀様がこんな怪しい幽霊探偵事務所に来てあげてるんだぞっ!」
「……お前程度が評判になるくらいなら、この地域のレベルも落ちたもんだわなぁ」
ごすりと、背中を凹ませる重圧。幼子に足蹴にされる気分は全国共通、決して心地よい物ではない。特殊な性癖があれば勿論話は別であろう。
私を踏んで止まない彼女はその足に捩りを加え、私の背中を更に蹂躙し、それでも口上は何事も起きていないかのように会話を続ける。若し育ての親がこの光景を微笑を湛えて観て居ようならば、封印されし私のアッパーカットが牙を剥くことだろう。
「なぁ、外凄いぞ? 道路に蜃気楼が出来てやがる」
「お前の言うシンキロウってのは、蛤の吐いた気で出来た楼閣の事か? それなら間違いだぜ? 蜃気楼ってのは春の風物詩だ。夏の話題って意味ではお門違いって奴なんだが……嗚呼、そうか。お前の言いたいのは蜃気楼ではなく、逃げ水現象の事だろう。ま、光の屈折に起因する幻って分類では同一だがなぁ」
「ふーん」
私の懇切丁寧な豆知識情報を高々三文字で斬り捨て、興味を失ったのか私から足を退けた。何て忌々しい餓鬼だろう。
この情操教育が上手く行われていない餓鬼に説教すべく、仰向け状態へと移行すれば、それを待ち構え抑え付ける様に声を掛ける餓鬼。部屋の主に断りもせず悠々と客人用ソファに腰を落ち着けていた。
「で? 話を聞かせてくれるんだろ?」
唐突に尋ねてくる。それも私が惚ける事を既に予測し、御丁寧にも皺くちゃになった机上の書類を摘み上げながら。それをひらひらと振って意地悪く言う。
「別にアタシに話を聞かれたとしても何の損にもなりはしないだろ。おっちゃんが躊躇する事は無い」
「あのな、この仕事には守秘義務ってもんがあって」
「話してくれるまでずーっと喚き散らしてあげようか」
精神的な攻撃が得意な聡い娘である。口は悪いし性格も捻じ曲がっているが、私の急所を狙わせれば世界でも五本の指に入るだろう。
その後国連会議級の白熱した水面下の遣り取りの末、私は己の心の友である睡眠と平穏を安全に守り通す為にも、依頼人には申し訳無いが話の聞かせてやる事になった。とは言え、私もこの娘に何を教え込もうが、何の被害も無い事を承知しているが故の所業だ。そうでなければ、例え睡眠と平穏を人質に取られても教える事は無い。
「……仕方が無い。特別に話を聞かせてやろうか」
「やったっ!」
「まぁ、あまり面白い物でもすっきりする話でもないんだがな」
私は話し始めた。先日終えた調査に纏わる未完成な話を。
またひとつ、からんと氷が落ちる音がした。
正直な所、その依頼は良くある浮気調査の一つでしかなかった。
依頼者――仮にA子としよう――とその夫――A男と仮定――は結婚して早五年経った夫婦であり、A子は専業主婦、A男は極一般的な会社員という極ありきたりな二十代半ばの二人であった。結婚という契約の元でのその五年間が永いのかどうかは当事者達に依るのだが、兎に角その月日は夫に別の女――B子――へと興味を持たせるのに十分な物だった様だ。A子は薄々その気配を感じ取っていたようだが、此処最近特にその気配が濃厚となってきた様で、流石に見て見ぬ振りが出来る程愛情は冷めておらず、かと言って自分ではどうしようもないと、この場末の便利屋の所へノコノコ出向いて来たそうだ。
何処か擦り切れた印象の細い女、それが私の彼女に対する印象だった。
「如何か、如何かお願い致します。あの人が悪い女に騙されているんじゃないかと。あの人、とても優しいからそこにつけ込まれて……でも、どんな調査結果になっても構いませんから、如何か真実を教えて下さい。宜しく、宜しくお願い致します……」
そう私に告げて彼女は事務所から立ち去って行った。彼女の瞳は、一度として口を付けられなかった牛乳紅茶の濁りを連想させた。
その翌日から、私は早速A男の調査へと出向いた。彼の尾行だけには留まらず、彼の周辺からの聴き込み、彼が足繁く立ち寄る場所での調査等々、思い付く限り且つ彼にはその気配を感じさせぬ様に。
周囲の評価は一致して、普通の人、優しい人といった当たり障りの無い答ばかり。上司に忠実で、部下の面倒見は良く、仕事はそこそこに迅速正確で、取り立てて大きな失敗も無い。無論、会社や外に密な関係を持つ女性の姿は確認出来ず、逆に『奥さんにべったりな万年新婚夫婦』という揶揄が聞える始末。そう言った周囲の評価を受ける、至極平凡な男が彼だった。
だがしかし、依頼日から数えて、初めての休日。A男が尻尾を見せる時が来た。
「奥さん以外とデートしたの?」
クリクリの眼を向けて私に聞いてくる。既に手に持っていた報告書は無い。私の仕事机に放置されている事だろう。
「その通り。その奥さんが言うB子だと思うがね。この女性も線が細かったが、奥さんとは違って華やかな印象を後姿からは感じられたかな」
あの暑い休日を思い出す。あの日も今日と同じく茹だる様な気候で。
脳裡に浮かぶは女性の紅い、紅い衣装。遠目から観ても幸せそうな二人の姿。
それを密かに追い続ける己の姿は何と痛ましかった事だろう。事実、二人が進む歩行者天国は私にとって灼熱地獄でしかなかった。
「……色々としんどかったなぁ」
買い物行脚に食事に、二人の仲睦まじい姿は絶える事がなかった。その姿を周囲になるべく不審がられない様、注意を払ってカメラのメモリに収めていく。データが蓄積されていく。楽しい家族の思い出でもなければ、照れ臭い彼女との記録でもない、見ず知らずの他人の写真でメモリが食われていく。
細心の注意を払った尾行で彼女の顔を拝む事は出来なかったが、これでA男の浮気も疑惑という段階では無くなっていった。彼らが華やかな道からホテル街へと足を向け、ある一つのファッションホテルへと姿を消していった事で確信へと移行していた。
勿論、私もこの一度きりの逢瀬で全てを判断するほど、短慮では無い。私は来る日も来る日も彼の素行を調査し、そして休日での彼女との逢瀬を更に幾度か見せ付けられることになる。彼女の顔を正面から覗う事は一度としてなかったが、彼が逢う女性が常に同一人物だという事は後姿からも容易に理解出来た。
こうして、約一ヶ月に亘る調査は終わりを告げた。
調査結果を集約した報告書と数GBの写真データを前に、私はA子に如何にして切り出すかを考慮していた。このまま、正直にこれらのデータを提示し、さっさとこの件から手を引いて次なる依頼を受ける状態にしておくべきか。それとも、この結果を元に、今度は相手の女性を標的としてより詳細な、今後起こされる可能性もある裁判の証拠物件としても提出出来る様な資料を作成するべきか。
私は思案に明け暮れていた。
「で、どうしたのよ?」
息苦しいのか、狂った調子で喚き散らす蝉の声が聞こえる。眼を開け窓の外を見れば、きっと生き苦しい世界が広がっているに違いない。熱気は我らの蛋白質を硬化させようと躍起になっているのか。
「ねぇ! 聞いてるの?」
「んあ……ああ。えーと、何処まで話したか……おーけーおーけー。で、そういった浮気の証拠を目の前に机でうんうん唸っていた時にさ、お客がやって来る訳よ」
「別におっさんの苦労話を聴きに来た訳ではないんだけど?」
如何してこう、物事に対してじっくりと腰を据えて待つ事が出来ないのだろうか。少しは『待つ』『我慢する』という事を覚えてもいいのではないか。君の前頭葉が心配だ。
「まぁ聞け。そうして私が苦悩している時に現われた客ってのが」
「てのが?」
「A男。亭主が此処に乗り込んできた訳だ」
「は?」
そう言えば、あの日もアスファルト上に幻影が揺蕩っていた。
暑い暑い夏の日の午後の事だった。
ぎぃっと、熟睡していても目を覚まさせる戸の音が私を思考の海から呼び戻した。目を向ければ、其処に立ち尽くすのは既に見飽きた男だった。私は半ば自動的に彼を応接用ソファへと導き座らせ、珈琲を彼の前に差し出し、自身も自分用のソファへと身を沈めた。目の前に座る男は、平日に頻繁に見せていた――何処か擦り切れた印象の――表情を浮べていた。
内心、台風時の大海の様に荒れ狂っていた。勿論、戸惑いと恐怖でである。もしかしたら、尾行が筒抜けになっていたのではないか、奥さんがこっそり此処に依頼したのが発覚したのではないか、こんな所で修羅場を繰り広げられても困るのだが、という心境だった。
だが、実際に話を聞いてみればそんな憂慮は不要で、同時に私に驚愕を齎すモノだった。
曰く、妻が不貞を働いていると。
「何それ? 浮気していたのは夫だけじゃなかったの?」
「まぁ、そういう事らしい。あの夫婦は揃いも揃って同じ過ちを犯していたという事になるなぁ。一応、私も仕事という事で平日にA子を監視した結果を渡しておいたよ」
「あれ? 奥さんの依頼の方は? おっさん、迷ってたって言ってたじゃん?」
「そうだったんだが……そうなった以上、調査を続行する意義が見つからなくてな。夫に調査書を渡す前日に送ってしまったよ。まぁ、そういう訳でこの話は終了だ。どっちの依頼も完遂して夫婦両方から調査費を頂いて御仕舞いって訳さ」
沈黙がやってくる。BGMは蝉の絶叫。きっと眼を開けて窓の外を見れば、彼女が言っていた『逃げ水現象』が無料で見放題に違いない。光の屈折は其処に存在しない幻を容赦無く私達に押し付け、幻を幻と気付かなければ幻は『幻』では無く、『実』と成り代わる。
私の話が終わり、この静けさに耐えられなかったのか、彼女は私の傍ににじり寄り私の腹の上へと不時着した。一気に押し出される肺の中の空気。この糞餓鬼、私を殺す気か。
悪びれた様子も無く、飄飄とした態度を見せ、ずいっと私の顔へ自身の顔を近付ける。
「で、本当は?」
余りにも分かり易い嘘だったか。先程までの自分の言動を後悔する。
そう、この一連の話はあれで終わった訳ではない。寧ろ、あの後に起きた事が私の頭にこびり付いて、作業の遅延の原因となっている。
「ふぅ……実際、私も何が何だか自分の中で整理が付いていないから話したくないし、こっから先お前が聞いてもね。夜一人で眠れなくなっても知らないぞ」
え、と口を開けて固まる目の前の子。
それを無視して私は事の顛末を語り出す。
軽く引き受けた迷い猫の捜索を無事終了し、夏の日差しに曝され水分を奪われた体に水分補給をしていた私は、事務所の電話にメッセージが入っている事に気が付いた。何故か嫌な予感がしたが、聞かずに消去しては一社会人として如何なものかと渋々再生ボタンを押す。
録音された声は抑揚が消えた、技術発展の遅れた再生機械の様な声だった。
「**です。先日は貴重な調査資料をお送り頂いて有難う御座いました。また、夫がお世話になったそうで……今、主人とその人達に来て頂いて一緒に話し合っている所です。結論が出ましたらまたお知らせ致します。では失礼致します」
「度々すみません。**です……決着つけました、ふふ。簡単な事でした、ふふ。有難う御座いました。失礼いた――」
私は最後まで聞かず、あの夫婦の家へと急行した。幾人もの『精神不安定』な人間に出会ってきたが、ああいった声は拙いと経験上身に染みている。何より彼女が『決着が付いた』と言った事が致命的だ。私は逸る気を必死に落ち着かせ、愛機を駆った。
そして、件の家へと足を踏み入れたのである。
「で?」
この後に続く惨劇を予想しているのだろう、彼女の眼には怯えがはっきりと映り、体は小刻みに振動してるのが感じ取れる。さっきまでの勝気で不遜な姿が嘘の様。
「何故か家の玄関の鍵が開いていてな。一応、挨拶を言いながら家ん中に踏み込んだんだ。まぁ、中は一般的な一軒家で玄関から廊下にかけては別に異常は無かった。寧ろ、今迄相談事や諍いがあったにしては静か過ぎてな。後、冷房の効き過ぎか、外気との温度差に一瞬震え上がったくらいだ」
ここで、にぃっと私は意識的に口角を上げる。さぁこれからが本番だと言う様に。
「廊下を抜けて居間に入ったら……まぁ惨劇の後だ。包丁を持ったA子がこっちを見ていらっしゃいませと哂っていたし、ソファの上でA男は気を失ってて、股からしたがこう濡れてたな……他には中身を穿り返されて無残に撒きち」
「ごめん、アタシ帰るねっじゃねっ!」
耳を塞ぎながら走り去っていく。
まだ終わってないんだがな、と独りごちソファから身を起こした。
※
久々に開けた目に外からの光は眩し過ぎる。照り付ける太陽はまだ大地を焦がしていた。
既にコップの中の氷は融解してしまい、表面についているコップの汗は書類をさらに皺くちゃにしていた。それを指で摘み、目の前でぶらぶらと揺らしてみる。真実が透けて見える訳ではない。只何となくそういう気分になった。
実際の所、あの夫婦の家に上がり込んで見た光景はスプラッタのスの字も見えないモノだった。其処にあったのは、抜け殻の様な夫婦と床に放置された刃物と中身をぶちまけられたクッション二つ。A男の濡れた下半身は彼自身が失禁した事に由るものだろう。そして、何処にもB子とB男の姿は無かった。
「まぁ、今更気が付いてもなんだがなぁ」
匿名で警察と救急車の手配をし、私はその一軒家から立ち退いた。その後、事務所に戻って再度検討した後に気が付いた、否疑問に思った事がある。
それは、そもそもB子やB男等というのは居たのだろうかという点。
私は確かにあの亭主と『私の見た事が無い』女が二人で楽しんでいた事を確認したが、相手の素性を確かめた訳ではない。そして、私は一度たりともB子を真正面から見た事が無いのだ。つまり、そもそも私がB子と見当をつけていた女性がA子でないとは言い切れないと言う事。女性は髪形と化粧の仕方で文字通り化ける事を何度も経験している。
そして、私は夫の言っていた『妻の不貞』を見た事が無い。彼は依頼の時に何と言ったか。そう、『休日は妻と一緒だが、平日の事はよく分からない。だから調べて欲しい』と。
「だが……そもそも両方が浮気していなかったとして、如何して彼女は『主人とその人達に来て頂いて』と言ったんだろうか」
同時に浮かぶ、あの居間の光景。あの二つのクッションは夫婦が座っていた位置の隣にあっただろう事はソファにも刻まれた刃の跡で分かっている。それから導かれる推測は、あの位置に『B子・B男』が『座っていた』と思っていたA子が刃を向けたと言う事であるが。
「だとしたら、『彼ら』はあの夫婦の他の人格で、だからこそ姿が無く、そして主人格からして見れば他人格の行動は自分のものでは無いから浮気に当たる……確かにこれだと話が通りそうだが、論理が飛躍していないだろうか。そもそも、多重人格として、一体どれが主人格だっていうんだ……」
ぶらぶらさせていた書類をぐしゃっと潰す。
夫婦は病院へと搬送され、未だに意識が戻らず、真相は完全に闇の中へと迷い込んでいる。私がこれ以上手を尽くしても調べきれない事は明白だ。これ以上は不毛だろう。
でももし、と私は思う。
でももし、彼らが多重人格だとして、どうやって他人格と主人格の見分けが付いたのだろうか。そもそも、私に依頼に来た時、彼らは『虚』『実』のどちらだったのだろうか。夫と妻がそれぞれ愛していたのは、本当に彼らの『実』部だったのだろうかと。
ノック音、きぃっと言う音と共に、客が事務所へやって来る。今日初めての来訪者は夕暮れ時の終業時間間際で、随分と切羽詰った様子であった。
私は客をソファへと導き、珈琲を淹れ差し出す。
「じ、実は娘がもう何週間も行方不明で、私達も如何したらいいか分からなくて……サキという名前なんですが」
今度は行方不明者探しか。私は少しの情報でも洩らさぬかという姿勢で、依頼主からその詳細を聞き出していくのであった。




