氷柱
薄紫の空をほんのりと透過させる一本の細長い氷柱。実にきれいだ。
彼女に触れたくてそっと手を伸ばす。じわじわと凍りついていく指が色を変えてゆく。そして氷柱ごしのキス。なんて妄想をしてしまうのは心が汚れている証拠だ。
実際には何もせず、ただただベンチに座って、軒先の屋根から滴り落ちてくるはずの氷柱を眺めているだけ。
だが、隣にいるかわいい彼女とこんな風にゆっくりと雪化粧を楽しめるなんて、なんて幸せなのだろう。
そんなにかっこいい訳でもない俺を好きになってくれた彼女は、俺のはじめての彼女。
地味な片思いの末に実った地味な両思い。でも、昔の派手な恋愛は本当に疲れたと言っていた彼女にはちょうど良かったのかもしれない。
同じ大学の同じサークルで、だいたい行動パターンも似ている俺ら。お互いにどちらが大人しいかという話をするほど非行動派。図書室でぼぉっとしたり、中庭でぼぉっとしているうちに、いつの間にか惹かれていって、気付いたらこうして真横に彼女がいた。
「あらっ?」
なんて言いながら彼女の肩に乗っていた雪の粒をそっとつまみ捨てる俺。こういう風にきっかけがないと彼女に一切触れられない。生粋の草食系男子である。俺みたいな草食系には一生彼女なんてできるはずないと思っていたが、世の中とは不思議なものだ。
「やだっ」
不意に彼女が悲鳴にも聞こえる声を出す。白くフワフワした地面に、俺ら二人以外の小さな足あとが残っていた。その足あとの先に目線を移していくと、輪郭のぼやけた狸が一匹。彼女はきっと足元を通り抜けていく狸に驚いていたのだと気づき、俺は白い息を吐きながら軽く吹き出した。
「もう、笑い事じゃないよぉ」
鼻と耳が真っ赤な彼女は、まるで泣いた後のようで、それもまた微笑ましい。手袋で口元を抑えながら俺に寄り添ってくる。
「ほんと、面白い反応するよな」
「面白いって言わないで!」
照れながらうつむく彼女。ちらつく雪が彼女の頬を赤く染めていく。その間、狸は一度だけ俺らの方に振り返って、またどこかへトコトコと行ってしまった。
「またあの狸くんに会いたいなぁ」
「どうして?」
ついさっきあんなに驚いていたのに。この何分かの間に何があったというのか。
「だって、あの狸くんがいなかったら、私こうやって肩にもたれることもできなかったもん」
「あ、ああ、なるほどぉ」
答えが彼女らしくって可愛らしい。結局、彼女もまた草食系なわけだ。
氷柱のような鋭くつらい風が時々吹いて、その度に俺らは肩をすくめた。
「俺はてっきりもう会いたくないんだと思ってた」
「そんなこわい顔しないでよ。熊が来たんじゃないんだから。狸くんくらいだったら大丈夫だよ」
彼女が肩に頭を乗せたまま苦笑いしたのがわかった。そうじゃない、そうじゃなくって。
「俺と会うのが嫌になったと思ってた」
「えっ」
彼女の表情が一気に真顔に戻った。お互いの間にさむい空気が通り抜けていく。白い肌の彼女がさらに白くなっていく。心の中の黒いものが徐々に膨らんでいく。本当は口にする予定じゃなかった。もう全て終わりにしてゼロからスタートしようと思っていた。でも、このにがいモヤモヤをずっと貯めこんで過ごすのは俺には無理だった。
数日前から突然メールの返信が遅くなった彼女。たったそれだけだけど、全てがはじめての経験で、何でも不安要素になりうる。数年後、このことを思い出したらきっと笑い話になっているのだろうが、今の俺には想像以上に重くのしかかっていた。
「そんなわけないじゃん。好きだから付き合ってるのに。会いたいからこうして隣にいるのに」
優しい彼女は俺を攻めることなく、丁寧に俺に言い聞かせてくれている。いつもこうして俺が不安になれば彼女は諭すように励ましてくれる。そんなところが、一番好きだった。そうやって他人の心をわかってくれる彼女だからこそ、メールだけでも不安になってしまったのかもしれない。ただ単に嫌いじゃないって言って欲しかっただけなのに、もっと嬉しい言葉をもらった俺は、何をどう言えばいいのかわからなかった。目の前に広がる雪化粧のように、真っ白になっている。
「俺、不安症だからさ、メールの返信、最近やけに遅いなぁって。一度思ったら、もうなんかどんどん不安になっちゃってさ。なんか、アホらしいよな。ごめんごめん」
耳たぶがじんとする。凍って固まってしまったような、そんな感覚。さっきまで真顔だった彼女は、失いかけていた微笑みを取り戻していた。
「そんなことないよ。そういう繊細なところ、いいところだと思うよ? でもごめんね。そんな思いさせてたなんて思ってなかった」
「いや、こちらこそごめん。変なこと言っちゃってさ」
手袋をしていないせいか、指先の感覚がなくなってきた。俺はゆっくりズボンのポケットに両手を入れた。
「氷柱とおんなじだよ」
「えっ?」
彼女が急に目の前にある大きな氷柱を見ながらそう呟いた。
「こんなに鋭い氷柱でも、ちょっと温まれば溶けて先が丸くなるでしょ。もっと温めたら溶けきって無くなる。それと同じ。不安なことが鋭くなって心を傷つけていくのなら、私がそれを温めてあげる。だからさ、もう何もかも貯めこまないで私に言ってよ。ね?」
なんて人だ。もちろん今まで会った人々の中で一番に大好きなのは変わらないが、もっと好きになってしまいそうだ。いや、どんどん好きになっていく。彼女の優しさにいつまでも包まれていたい。そして、俺も同じように彼女を包んで守ってやりたい。広い意味で守ってやりたいと思ったのははじめてだ。大事にしていこうと改めて決意した瞬間だった。
「そうだね。お互いに、ね」
ちらつく雪が、また彼女の真っ赤な頬に舞い落ちてきて、そっと溶けた。
その時、また彼女の悲鳴にも似た声が耳を突き抜けていった。さっきよりもさらに近い距離に彼女のぬくもりがある。漫画みたいに抱きついてくるのはいいけど、ちょっと痛い。決して重たくはないけど、場所が悪かったみたいだ。
「いてて、今度は何?」
「……狸くん」
彼女が指さす足元を見ると、先ほどの狸がまた戻ってきていた。俺の足元で彼女のようによりそう狸。俺はそっと彼女に声をかけた後、狸を静かに逃した。
「あはは、やっぱ会いたくないんじゃん」
「なんでそんな事言うの? さっきせっかく氷柱を溶かせたと思ったのにぃ。ううぅ」
「違う違う。今度は狸の話」
「えっ? あ、ああ、わー、ごめんごめん、勘違いだったよ。ごめんごめん」
彼女はまた照れながら、今度は俺の方を向いて苦笑いしてきた。意外と天然なんだな。そういうところもまた魅力だったりする。
「あのさ、さっきのメールの件、言い訳させてくれる?」
恥ずかしいのか何なのか、彼女は俺から数センチ離れ、少しだけ真剣な感じの表情に変わった。
「あ、うん、言って言って、全部言っていいんだから」
「あのね、この前友達に教えてもらったんだけどね、返信の早さを変えると彼が気になってくれるって言ってたから、やってみただけなんだ。なんていうか……もっと私のこと気になってほしいなって。思ってさ!」
語尾を力強く言い放って。彼女はどこかへ走っていった。一人だけ照れ隠しなんてずるい奴だ。どうしようもなく俺はしゃがみ込んでベンチの下にいるはずの狸を探した。が、その狸もまたすでに去っていた。降り注ぐ雪の結晶が、未だに薄紫の町を白く包み込んでいる。俺は彼女の走った跡が消えないうちに、その足あとをゆっくり辿った。
心の氷柱は、もう溶けきっていた。