灰狼と薔薇
北塔へ行く道は、城の中でもっとも静かだった。
石の廊は冬の底に沈んで、昼であるのに、明かり取りの窓から入る光は青く細かった。壁際には古い槍がかかっている。もう使われぬものばかりで、穂先は磨かれているのに、どこか墓標のようであった。
ローゼフェリアは白い外套の裾を片手で持ち上げ、階段をのぼった。足音が一段ごとに塔の腹へ響き、すぐに吸われて消えた。
途中の踊り場に、兵が二人立っている。
彼らはローゼフェリアを見ると、黙って頭を下げた。敬意というより、気まずさに近かった。この塔へ来る者は少ない。来てよい者はもっと少ない。
「鍵を」
ローゼフェリアが言うと、年嵩の兵が腰から鍵束を外した。
鉄の輪につながれた鍵は、重く、冷たそうだった。兵はそれを彼女に渡しかけて、少しためらった。ローゼフェリアはその指の迷いを見た。
「わたしが開けます」
「ですが、お嬢様」
「彼は猛獣ではありません」
兵は唇を結んだ。
言い返すことはできたはずである。猛獣でなければ、なぜ閉じ込めるのか、と。だが彼は言わなかった。城の兵たちは皆、北塔について多くを言わない。言えば、自分たちが何を守っているのか分からなくなるからだった。
ローゼフェリアは鍵を受け取り、最後の階段をのぼった。
北塔の最上階にある部屋は、地下牢ではない。
厚い絨毯が敷かれ、暖炉には火がある。寝台も机も、粗末なものではない。壁には本棚が据えられ、戦記、聖書、詩集、地図、古い軍令書などが並べられていた。窓辺には小さな椅子が二脚あり、一脚はいつも空いている。
ただし、窓には鉄格子が入っている。
扉の外には兵が立つ。
そして、その部屋にいる男は、自由に外へ出ることができない。
ローゼフェリアは鍵を差し込んだ。錠が鳴る。その音はいつも、彼女の胸の奥に小さな傷を作った。
扉を開けると、火の匂いと、乾いた革の匂いがした。
ジークは窓辺にいた。
彼は椅子に腰かけ、膝に本を置いていた。灰色の上衣を着ている。髪は短く、かつて戦場で血と雪をかぶったというその髪にも、今は静かな光が落ちていた。
大柄な男だった。けれど、彼のまわりには不思議と圧がなかった。檻に入れられた獣というより、ひどく遠い土地から帰ってきて、まだ自分の靴の泥を払えずにいる旅人のように見えた。
ジークは顔を上げた。
「今日は遅かったな」
「階段の途中で、兵が鍵を渡すかどうか考えていたの」
「賢い兵だ」
「わたしが危ないと?」
「いや。鍵を持った女は、たいてい男より危ない」
ローゼフェリアは扉を閉めた。
「では、気をつけて。今日は籠の鳥に餌を持ってきたのではなく、狼に説教をしに来たのですから」
「狼は説教を食わない」
「知っています。だから葡萄酒も持ってきました」
彼女は卓の上に、小さな籠を置いた。中にはパンと燻製肉、それから布にくるんだ瓶がある。ジークは本を閉じ、少しだけ眉を上げた。
「辺境伯の姫君が密輸とは、な」
「城の厨房から持ってきただけよ」
「もっと悪い。家内犯だ」
「父上に訴えますか」
「俺の告発状は、いつも扉の外で止まる」
ローゼフェリアは笑おうとして、うまく笑えなかった。
こういう冗談は、二人のあいだでいつからか始まった。鍵、扉、兵、北塔。口にすれば重くなるものを、軽く言い換えるためだった。だが言い換えたところで、そこにあるものが消えるわけではない。
ジークは立ち上がり、卓の方へ歩いた。足取りに不自由はない。体はよく鍛えられている。部屋の中を歩くだけの男には、あまりに無駄な肉体だった。
ローゼフェリアは瓶の栓を抜いた。
「少しだけです。医師が、飲みすぎるなと」
「その医師は俺を病人だと思っている」
「表向きはそうです」
「では、俺は表向きにだけ従う」
杯は一つしかない。ローゼフェリアが持ってくるたびに、ジークは彼女に先に飲ませようとし、彼女は断った。今日も同じだった。
「毒見を?」
「習慣だ」
「わたしがあなたに毒を盛るなら、もっと上等な酒にします」
「それなら安心だ。俺はまだ安い酒で殺される程度の男らしい」
ジークは杯を受け取り、一口飲んだ。外套についた雪が、ローゼフェリアの肩の上で溶けていた。部屋の中は暖かい。だが、暖かければ暖かいほど、扉の向こうの寒さが濃く思えた。
彼は窓の外を見た。
「今年は早いな」
「雪?」
「ああ」
「昨日からよ。城下の屋根が、朝には白くなっていたわ」
「市場は?」
「まだ開いています。魚屋の親父が、氷より先に女房の機嫌が悪くなると怒鳴っていました」
「それは災害だ」
「あなたならどうします」
「降伏する」
ローゼフェリアは今度は笑えた。
ジークはその顔を見て、ほんのわずか目を細めた。彼の笑い方は、いつも遅れて来る。先に相手が笑って、それから、ああ笑ってよかったのかというふうに、静かに口元を動かす。
ローゼフェリアはその笑い方が好きだった。
城下の者たちは、ジークを灰狼と呼ぶ。
戦場で三度包囲を破り、凍った川を渡り、敵将の首を取った男。死にかけた兵を背負って帰り、飢えた村に軍糧を分け、北門の上で旗を掲げた男。歌い手たちはその名を好んだ。兵士たちは酒を飲むと、彼の話をした。子どもたちは木の棒を振り回して、灰狼ごっこをした。
だがローゼフェリアの前にいるジークは、よく詰まらない冗談を言い、葡萄酒をゆっくり飲み、彼女が持ってくる本を読む男だった。
英雄という言葉は、彼には大きすぎた。
大きすぎる衣を着せられた男は、いつかその重さで骨を折る。
「今日は、何を読んでいたの」
「修道院の年代記」
「退屈でしょう」
「退屈な本は信用できる。書いた人間が自分を面白がらせる気を起こしていない」
「あなたは本当に、読書家に向いていないわ」
「では何に向いている」
ローゼフェリアは答えなかった。
剣、と言えば、彼を灰狼へ戻してしまう。戦場、と言えば、この部屋の壁がいっそう厚くなる。自由、と言えば、二人とも痛む。
ジークは彼女の沈黙を責めなかった。そういう男だった。必要なときにだけ言葉を使う。だからこそ、彼が戦場で叫んだ名や命令は、兵に届いたのかもしれない。
ローゼフェリアは本棚の前へ行き、指で背表紙をたどった。
「次は詩集にしましょうか」
「勘弁してくれ」
「なぜ?」
「戦場で生き残ったのに、比喩で殺される」
「あなたに必要なのは教養です」
「教養は腹の足しにならない」
「だから燻製肉も持ってきたの」
「完璧だな。姫君は軍站を理解している」
彼女は本を一冊抜き、卓に置いた。薄い詩集だった。花と冬と、失われた春について書かれたもの。ジークはそれを見て、心底困った顔をした。
「読まない顔をしていますね」
「読んだふりをする顔だ」
「では次に来たとき、感想を聞きます」
「それは拷問に当たらないのか」
「当たりません。辺境伯家の公式見解です」
「なら仕方ない。ここの法律は信用できないが、逃げ場もない」
その言葉が落ちたあと、二人は少し黙った。
逃げ場もない。
ジークは何気なく言ったのだろう。だが何気なさは、時に刃より深く入る。ローゼフェリアは、卓の上に置いた自分の手を見た。指先が白くなっていた。
「ジーク」
「何だ」
「あなたは、外へ出たい?」
彼はすぐには答えなかった。
火が薪の内側を崩す音がした。窓の外で、風が細く鳴った。北の冬は、何かを待つことに慣れている。
「出たいかと聞かれれば、出たい」
ジークは静かに言った。
「でも、出るべきかと聞かれれば、分からない」
「なぜ」
「俺が外へ出るだけならいい。雪を見る。市場へ行く。酒場で飲む。馬に乗る。くだらないことをする。だが、俺が外へ出たと人が知れば、そうはならない」
「みんな、あなたに会いたがっているわ」
「そうだな」
「あなたを憎んでいるわけではない」
「それが厄介だ」
ジークは杯を置いた。
「憎まれているなら、まだ扱いやすい。石を投げられれば避ける。剣を向けられれば折る。だが、愛されると困る。俺の知らない俺を、皆が勝手に作る」
ローゼフェリアは彼を見た。
「灰狼」
「そう呼ばれるたびに、俺は少しずつ俺でなくなる」
「でも、あなたは辺境を救った」
「救えなかった者もいる」
「誰もすべては救えないわ」
「その言葉は正しい。正しい言葉は、時々、人を殺す」
ジークの声には怒りがなかった。だからこそ、痛かった。
ローゼフェリアは椅子に座った。窓辺の、いつも空いている方の椅子である。ここに座ると、城下の屋根が少しだけ見える。鉄格子が景色を細く切っていた。
「父上を恨んでいる?」
「辺境伯を?」
「ええ」
「恨めば楽だろうな」
「では、恨んでいないの」
「分からない」
ジークはそれだけ言って、窓の外へ目をやった。
「俺をここへ入れたのは、あの人だ。俺を騎士にしたのも、あの人だ。俺に馬をくれた。鎧もくれた。名もくれた。兵の前に立てと言った。勝てと言った。俺は勝った。勝ちすぎた」
「勝ちすぎたことが罪なの」
「罪ではない。だが、火種にはなる」
その言い方は、オットーに似ていた。
ローゼフェリアはそのことに気づき、胸の奥が冷えた。ジークは父を恨みきっていない。父もまた、ジークを憎んでいない。そのせいで、この部屋はただの牢にならなかった。
憎しみなら、壊せばよい。
愛と恐れで作られた檻は、どこから手をかければよいのか分からない。
「わたしは、あなたをここから出したい」
ローゼフェリアは言った。
声は思ったより小さかった。
ジークは彼女を見た。
「知っている」
「知っているだけ?」
「それで十分だ」
「十分ではないわ」
「ローゼフェリア」
彼はその名を、丁寧に呼んだ。
彼が彼女を姫君と呼ぶとき、そこには距離がある。お嬢様と呼ぶときは、冗談がある。だが名を呼ぶときは、どちらもなかった。
「あなたが望めば、父上は考えるかもしれない」
「何を」
「あなたを正式に家へ迎えることを」
ジークは何も言わなかった。
「婿に、という意味よ」
言ってしまうと、部屋の空気が変わった。
その言葉は、ローゼフェリアの胸の中で幾度も形になり、幾度も崩れてきたものだった。口にした瞬間、それは夢ではなく、政治になった。家名、継承、兵、民衆、王都。目に見えない無数の手が、その言葉の裾をつかんだ気がした。
ジークは杯の縁を指でなぞった。
「辺境伯は許さない」
「まだ聞いていない」
「聞く前から分かることはある」
「あなたは、わたしの夫になりたくないの?」
その問いは、責めるように響いた。
ローゼフェリア自身も、言ってから後悔した。そういう言い方をしたかったのではない。だが心は、ときどき礼儀を忘れる。
ジークは静かに彼女を見ていた。
「なりたい」
彼は言った。
たった一言だった。
その一言で、ローゼフェリアの喉が詰まった。
「だったら」
「だから、恐ろしい」
「何が」
「俺があなたの夫になることではない。あなたが、灰狼の妻にされることがだ」
ローゼフェリアは息を止めた。
「俺がただのジークなら、あなたの隣に立ちたい。だが人は、そう呼ばない。灰狼が辺境伯家に入ったと言う。灰狼が姫君を得たと言う。灰狼が次の主になると言う」
「人が何と言おうと」
「人が言うことで、戦は始まる」
彼の声は低かった。
「俺はそれを見た。兵は命令より噂で動くことがある。村は布告より歌で燃えることがある。人は正しい言葉より、気持ちのいい嘘を選ぶことがある」
「わたしは嘘ではないわ」
「あなたは違う」
ジークはすぐに言った。
「だから、いちばん困る」
ローゼフェリアはうつむいた。
彼の言葉は残酷ではなかった。むしろ優しかった。優しさは、時に逃げ道を塞ぐ。ひどい言葉なら怒れた。冷たい言葉なら憎めた。だが彼は、彼女を愛しているから拒もうとしている。
そんな拒絶は、どう破ればいい。
暖炉の火が揺れた。窓の外の雪は強くなっていた。細かな白い粒が、鉄格子の向こうで斜めに流れている。
ローゼフェリアは立ち上がった。
「父上に話します」
「ローゼフェリア」
「あなたが止めても、話します」
「俺は止めない」
「止めないの?」
「ああ」
ジークは少し困ったように笑った。
「あなたは、止められて止まる人ではない」
「そういうところだけ、よく分かっているのね」
「ここは暇だからな。人を見る時間だけはある」
「では、わたしが怒っているのも分かる?」
「分かる」
「悲しいのも?」
「分かる」
「なら、なぜそんな顔をするの」
「どんな顔だ」
「諦めた人の顔」
ジークは答えなかった。
ローゼフェリアは籠の布を直し、詩集を彼の前へ押し出した。
「読みなさい」
「命令か」
「命令です」
「感想は?」
「次に聞きます」
「難しいな」
「生きていればできることよ」
ジークはその言葉に、かすかに目を伏せた。
ローゼフェリアは扉へ向かった。鍵を開けるときより、閉めるときの方が嫌いだった。開ける音には、まだ希望のまねごとがある。閉める音には、言い訳がない。
扉の前で振り返ると、ジークは詩集を手に取っていた。
「ローゼフェリア」
「何?」
「父君と話すなら、怒らせるな」
「無理ね」
「だろうな」
「でも、泣き落としもしません」
「それは効かない」
「知っています。父上は、涙より損得を信じる人ですから」
「違う」
ジークは静かに言った。
「あの人は、損得を信じているふりをしている。そうしないと、自分のしたことを見ていられないんだ」
ローゼフェリアは、しばらく彼を見つめた。
その言葉には、恨みよりも理解があった。理解されることは、許されることではない。だが許されないまま理解されるのは、ときに罰より苦しい。
「あなたは優しすぎるわ」
「よく言われる」
「嘘」
「ああ、今初めて言われた」
ローゼフェリアは小さく息を吐いた。
「詩集、読んでおいて」
「ああ」
「感想を聞くまで、死なないで」
ジークは笑わなかった。
ただ、まっすぐに彼女を見た。
「分かった」
ローゼフェリアは扉を閉めた。
錠が鳴る。
廊下に出ると、兵たちが同じ姿勢で立っていた。ローゼフェリアは鍵を返した。年嵩の兵が受け取る。その手は、わずかに震えていた。
彼女は階段を下りた。
下へ行くほど、城の音が戻ってくる。皿の触れ合う音。遠くで誰かを呼ぶ声。廊下を走る小姓の足音。薪を運ぶ召使いたちの息遣い。生きている城の音だった。
北塔だけが、死なない死者を抱いている。
ローゼフェリアは外套の前をかき合わせ、父の執務室へ向かった。
窓の外では雪が降り続いていた。
城下の者たちは、今ごろ暖炉の前で灰狼の昔話をしているかもしれない。子どもたちは木の剣を持って、ジークの名を叫んでいるかもしれない。
その誰も、北塔の部屋で一人の男が詩集を開いていることなど知らない。
ローゼフェリアは歩きながら、唇を噛んだ。
灰狼など、いらなかった。
彼女が欲しかったのは、あの困ったように笑う、ただのジークだった。
辺境伯の執務室は、城の南側にあった。
北塔とは違い、そこには人の気配が濃い。扉の前には侍従が立ち、廊下の壁には狩猟の絵と古い戦旗がかけられている。暖炉の煙は細く天井へ吸われ、開かれた扉の隙間から、紙と羊皮紙の匂いが漂ってきた。
ローゼフェリアは足を止めなかった。
「父上にお目通りを」
侍従は彼女を見るなり、少し困った顔をした。
「旦那様は、ただいま家令と――」
「通しますか。それとも、わたしが自分で開けましょうか」
「お嬢様」
「選ばせているのです。親切でしょう」
侍従は一瞬だけ天井を仰ぎ、それから扉を叩いた。
「ローゼフェリア様がお越しです」
中から、低い声がした。
「入れ」
侍従が扉を開ける。
ローゼフェリアは中へ入った。
オットー・フォン・ノルデン辺境伯は、机の向こうに座っていた。大きな男ではない。だが、広い部屋の中で小さく見えたことは一度もなかった。白くなり始めた髪、深く刻まれた眉間のシワ、冬枯れの木のような指。彼の前には書類が積まれ、蝋封のされた書簡が三通、まだ開かれずに置かれている。
家令が脇に立っていた。彼はローゼフェリアの顔を見ると、すぐに一礼した。長くこの家に仕える者の勘で、今は同席すべきでないと悟ったのだろう。
「下がれ」
オットーが言った。
家令は静かに退出した。
扉が閉まると、部屋には薪のはぜる音だけが残った。
「北塔へ行っていたな」
オットーは書類から目を上げずに言った。
「ご存じなら、聞く必要はありません」
「行くなとは言っていない」
「言えば、行かないと思っていらっしゃる?」
「思っていない」
彼はようやく顔を上げた。
父の目は、冬の湖に似ていた。表面は静かで、どこから凍っているのか分からない。幼いころ、ローゼフェリアはその目が怖かった。今でも怖い。ただ、怖いだけではなくなった。そこに疲れがあり、諦めがあり、愛があり、それを全部まとめて隠そうとする意地があることを、今は知っていた。
「なら、話は早いわ」
「早い話は、たいてい後始末が長い」
「ジークを、わたしの婿に迎えてください」
言葉は、部屋の中央に落ちた。
オットーは動かなかった。怒るでもなく、驚くでもない。ただ、机の上に置いていた指を少し曲げた。
「それだけか」
「それだけです」
「ずいぶん簡単に言うな」
「簡単なことを、難しくしているのは父上です」
「違う」
オットーは即座に言った。
「難しいことを、簡単に見える形でお前が言っただけだ」
「では、難しい理由をお聞かせください」
「聞けば納得するのか」
「内容によります」
「正直だな」
「父上に似たのです」
「不幸なことだ」
オットーは立ち上がり、暖炉のそばへ行った。火掻き棒で薪を動かす。崩れた火が内側から赤くなった。彼はしばらくその火を見ていた。
「ジークを婿に取る話は、すでに考えたことがある」
ローゼフェリアは息を呑んだ。
「いつです」
「北方戦役の直後だ」
「わたしには、何も」
「言う前に終わった」
「なぜ」
オットーは振り向かなかった。
「お前はそのころ、まだ十六だった」
「だから?」
「だから、まだ父親は娘を守れると錯覚していた」
「その錯覚のために、彼を北塔へ?」
「順番が違う」
オットーは火掻き棒を戻した。
「北塔は、私の失敗の結果だ」
ローゼフェリアは言葉を失った。
父が自分の失敗を口にすることは稀だった。彼は失敗を認めない人間ではない。ただし、それを感情の形では決して言わない。記録、損害、責任、処分。そういう言葉に置き換える。
今は違った。
「ジークが勝った。勝ちすぎた。敵は退き、城下は救われ、兵は生き残った。私はあの男を誇った。平民の子であろうと、戦場であれだけ働いた者を冷遇する気はなかった。騎士にした。馬を与えた。領民の前に立たせた。剣を掲げさせた」
「それが間違いだったと?」
「間違いではない」
オットーの声は硬かった。
「だが、足りなかった。私は名を与えることの重さを、軽く見た」
ローゼフェリアは父を見つめた。
オットーは壁にかけられた古い戦旗へ目をやった。ノルデン家の紋、雪原を走る黒い獣。灰狼ではない。あれはもっと古い、家の獣だった。
「戦のあと、城下で歌が作られた。初めは酒場の悪ふざけだった。灰狼がどうした、氷河を裂いた、敵の首を七つ並べた、そんなくだらない歌だ。私は放っておいた。兵には英雄が必要だ。民にもだ。冬を越すには麦だけでは足りない。話もいる」
「それで?」
「話は飯より早く増える」
オットーは静かに言った。
「ある日、退役兵どもが城門の前に集まった。年金が遅れていた。理由は単純だ。王都からの補助が来ず、ここの金庫にも余裕がなかった。私は待てと言った。彼らは待てなかった。そこまでは、よくあることだ」
「その場にジークが?」
「いなかった」
ローゼフェリアは眉を寄せた。
「では」
「いなかったから、危なかった」
オットーは机へ戻り、引き出しから古い紙束を取り出した。黄ばんだ報告書だった。彼はそれを開かず、手の中に置いたまま話した。
「兵たちは、灰狼なら自分たちを飢えさせないと言った。灰狼なら辺境伯にものを言ってくれると言った。灰狼が領主なら、こうはならないと言った」
「ジークは、そんなことを望んでいないわ」
「望んでいない。だから厄介なのだ」
「なぜ」
「本人の意思が関係なくなったからだ」
ローゼフェリアは黙った。
父の言葉は冷たいのに、そこに嘘はなかった。
「それでも私は、まだ甘く見ていた。兵の不満はどこにでもある。酒場の歌に政治はできん。そう思った。だが、その三日後、若い騎士が十七人、ジークに忠誠を誓いたいと申し出た」
「忠誠?」
「そうだ。私の騎士であるにもかかわらず、だ」
「ジークは?」
「断った」
「なら」
「その場で断ったから、彼らは泣いた」
ローゼフェリアは、答えられなかった。
「裏切られたのではない。見捨てられたのでもない。彼らは、清いものに触れて泣く顔をしていた。断られたことさえ、美談にした。灰狼は謙虚であらせられる、と」
オットーの口元に、苦いものが浮かんだ。
「そのとき私は悟った。あれはもう、ジークでは足りないのだ。彼らが欲しがっているのは、血の通った男ではない。自分たちの貧しさと怒りと、報われなかった忠義を預ける旗だ」
「それと、婿入りと何の関係があるのです」
「大いにある」
オットーは手の中の報告書を机に置いた。
「お前とジークのことは、私も知らなかったわけではない」
ローゼフェリアは頬が熱くなるのを感じた。だが、父から目を逸らさなかった。
「からかうつもりはない。そんな歳でもない。私は考えた。あの男を家に入れれば、熱狂を家の秩序の中に収められるかもしれない。お前も、あれを慕っていた。ジークも、お前を粗末には扱わん。戦功も十分。血筋の低さは、叙爵と婚姻で補える。そう考えた」
「なら、なぜ」
「噂を流した者がいた」
「噂?」
「正式ではない。私が家臣に一言漏らしただけだった。ジークをローゼフェリアの婿にしてはどうか、と。翌朝には、城下で灰狼の婚礼の話になっていた」
ローゼフェリアは、指先を握りしめた。
「早すぎる」
「火は乾いた草を選ばない」
「誰が」
「分からん。分かっても同じだ。問題は漏れたことではない。広がったあと、誰も止められなかったことだ」
オットーは淡々と続けた。
「城下の者は喜んだ。灰狼が辺境伯家に入る、と。若い騎士たちは浮き足だった。退役兵は、これで自分たちの暮らしもよくなると言った。商人たちは、灰狼の婚礼に合わせて祭りを開こうとした」
「悪いことではないでしょう」
「表だけならな」
父の目が、ローゼフェリアを射た。
「古参家臣たちは何と言ったと思う」
「平民上がりを嫌った」
「それもある。だが、それだけではない。彼らは恐れた。ジークが婿に入れば、ノルデン家は灰狼の家になる。お前がジークの妻になれば、お前は辺境伯の娘ではなく、灰狼の妻として見られる。やがて私が死ねば、人々は誰を主と見る?」
「わたしです」
「違う」
オットーは冷たく言った。
「お前の隣に立つ男だ」
「わたしは、それほど愚かに見えますか」
「お前の才の話ではない。人の目の話だ」
ローゼフェリアは言い返そうとして、言葉が詰まった。
父は彼女を侮っているのではない。むしろ、彼女の能力とは無関係に、世間が何を見るかを言っている。そこが腹立たしかった。正しいからだ。
「それでも、わたしが主であると示せば」
「そのために、お前は夫を抑えるのか」
「必要なら」
「では、お前は愛する男を政治的に縛る妻になる」
ローゼフェリアは唇を噛んだ。
「逆にジークを立てれば」
オットーは続けた。
「お前は自分の家を灰狼に明け渡す女になる。どちらにしても、お前たちの婚姻はお前たちだけのものではなくなる」
「結婚とは、もともと家のものです」
「そうだ。だから恐ろしい」
オットーは書簡の一つを手に取り、蝋封を見せた。王都の印だった。
「噂が出た十日後、王都からこれが来た」
「何です」
「問い合わせだ。ノルデン辺境伯家は、灰狼ジークヴァルトを継嗣とするのか、と」
「継嗣など」
「王都はそう読んだ」
「勝手に」
「政治は、勝手に読むものだ」
父の声には疲れがあった。
「王都は北方を信用していない。北方は王都を信用していない。そこへ民衆的人気を持つ救国の英雄が辺境伯家に入る。どう見える」
「反乱の準備」
「そうだ」
「でも、そんなつもりは」
「つもりで軍は動かん。見え方で動く」
ローゼフェリアは、暖炉の火を見た。
ジークを婿に迎える。
その言葉は、彼女の胸の中では美しいものだった。北塔の扉が開き、彼が自由になり、城の礼拝堂で誓いを立てる。白い花。鐘。雪の止んだ空。そういうものを、彼女は幾度も想像した。
だが父の言葉は、その花に次々と泥をつけていく。
民衆の熱狂。騎士の忠誠。古参家臣の恐怖。王都の疑念。
それらはどれも、ありえない話ではなかった。
「そのころ、ジークは何と言ったのです」
「本人には最後まで知らせなかった」
「なぜ」
「知らせれば、あれはお前のために断った」
「それの何が悪いの」
「お前は、それを耐えられたか」
ローゼフェリアは息を止めた。
オットーは目を伏せた。
「私は耐えられなかった。だから言わなかった。自分のためでもある。お前のためでもある。ジークのためでもある。言い訳はいくらでもつく。だが、結局は私が決めた。婚姻の話を消し、灰狼の露出を減らし、療養という名で北塔に移した」
「閉じ込めたのです」
「そうだ」
彼は逃げなかった。
「私はジークを閉じ込めた」
ローゼフェリアの胸の奥に、熱いものが上がった。
「父上は、それで何を守ったのですか」
「ここだ」
「本当に?」
「そう信じるしかない」
「ずるい言い方です」
「そうだ」
「自分で分かっていて、なぜ」
「分かっているからだ」
オットーの声が、少しだけ荒くなった。
「分からない者は、楽に善人でいられる。分かっている者は、汚れた手で門を閉めるしかない」
「それでジークを犠牲にした」
「した」
「わたしも」
オットーは黙った。
「わたしも犠牲にしたのですか」
ローゼフェリアの声は震えていた。怒りか、悲しみか、自分でも分からなかった。
父はしばらく答えなかった。
窓の外で、雪が硝子を叩いた。風の音が低くうなり、部屋の火が揺れた。
「お前については」
オットーは言った。
「考えないようにした」
ローゼフェリアは、かえって冷静になった。
「最低ですね」
「そうだな」
「父親としても、領主としても」
「領主としては、まだ分からん」
「分からない?」
「私が死んだあと、辺境が残っていれば少しはましな判断だったと言える。残らなければ、ただの卑怯者だ」
「では父親としては」
「失格だ」
その言葉は、あまりにも簡単に出た。
ローゼフェリアは怒る準備をしていた。父がもっと言い訳をし、彼女を子ども扱いし、家のためだと押しつけてくるなら、いくらでも反論できた。
けれど、彼は自分で失格だと言った。
それは、彼女から刃を奪う言葉だった。許したくはない。だが、切る場所がない。
「父上は、ジークを愛していたのではないの」
「愛している」
「なら、なぜ」
「愛している者を、自由にすれば救えるとは限らない」
「閉じ込めれば救えるのですか」
「救えていない」
「なら」
「だが、生きている」
オットーは低く言った。
「北塔にいれば、少なくとも生きている。外に出れば、あれは旗になる。旗は風で裂ける。火で焼ける。最後は、誰かの手に奪われる」
ローゼフェリアはジークの顔を思い出した。
詩集を手に取り、困ったように見ていた男。葡萄酒を飲み、冗談を言い、彼女の名を丁寧に呼んだ男。
あの人は、旗ではない。
そう叫びたかった。だが叫ぶほど、旗ではないと証明しなければならないこと自体が、もうおかしかった。
「では、一生あそこに?」
ローゼフェリアは言った。
「父上が生きているかぎり。わたしが生きているかぎり。ジークが死ぬまで、あの塔で本を読ませ、暖炉を焚き、上等な食事を与えて、これは牢ではないと言い張るのですか」
オットーの顔が、かすかに歪んだ。
「そうだ」
「そんなものは、飼っているのと同じです」
「そうだ」
「英雄を?」
「人間をだ」
ローゼフェリアは息を呑んだ。
オットーは、まっすぐに彼女を見た。
「私は英雄など飼っていない。あれが英雄なら、もっと楽だった。石像にし、歌にし、祭日に名前を読み上げれば済む。だがジークは生きている。食う。眠る。冗談を言う。お前を見て笑う。だから始末が悪い」
「父上」
「分かっている。私の言い方はひどい。だが、事実だ」
彼は疲れたように椅子へ座った。
「私はあの男を殺せなかった。殺すべきだと言う者もいた。ジークが生きているかぎり危ない、と。処刑ではなく、病死にすればよい、と言った者もいる。私はそいつを遠い砦へ送った」
「誰です」
「聞くな」
「父上」
「聞けば、お前は憎む。憎めば、そいつは物語の悪役になる。楽になる。だが、そういう話ではない」
ローゼフェリアは父の机に手をついた。
「では、どういう話なのです」
「誰もが少しずつ正しく、少しずつ間違っている話だ」
「そんな話、大嫌いです」
「私もだ」
オットーは静かに答えた。
部屋が沈黙した。
ローゼフェリアは、父の顔を見た。老いていた。自分が思っていたよりも、ずっと。彼は辺境伯である前に、一人の老人になりかけていた。だが、その老いでさえ、責任から逃がしてはくれない。
「わたしは諦めません」
ローゼフェリアは言った。
「そうだろうな」
「ジークをあの塔から出します」
「どうやって」
「考えます」
「考えるだけなら、私も二年やった」
「父上より、よい考えを出します」
「そうしてくれ」
その声に、わずかな本音があった。
ローゼフェリアは目を見開いた。
オットーは視線を逸らした。
「私も、よい考えを待っている」
ローゼフェリアは何も言えなかった。
父は彼女を止めようとしているのではない。試しているのでもない。彼は本当に、別の答えを待っている。自分では見つけられなかった道を、娘が見つけることを、どこかで願っている。
それは卑怯だった。
最初から諦めた顔をしておきながら、希望だけは娘に預けるのか。
「父上は、ずるい」
「知っている」
「嫌いです」
「それも仕方ない」
「でも」
ローゼフェリアは一度、言葉を切った。
「それでも、あなたがジークを殺さなかったことだけは、感謝します」
オットーは目を閉じた。
その顔に浮かんだものを、ローゼフェリアは見なかったことにした。父にも、見られたくないものはある。
「下がります」
「ああ」
ローゼフェリアは扉へ向かった。
手をかけたところで、父の声がした。
「ローゼフェリア」
「何です」
「ジークを婿に迎えることは、まだできない」
「まだ、ですか」
「言葉の綾だ」
「いいえ。今、父上は“まだ”と言いました」
オットーは苦い顔をした。
「お前は本当に、嫌なところだけ私に似た」
「光栄です」
「褒めていない」
「知っています」
ローゼフェリアは少しだけ笑った。
その笑いは、北塔での笑いとは違っていた。冷たく、硬く、折れそうで折れないものだった。
「父上」
「何だ」
「ジークは詩集を読むそうです」
「……何の話だ」
「次に行ったとき、感想を聞く約束をしました」
「そうか」
「だから、死なせないでください」
オットーは長く黙った。
やがて、低く答えた。
「その約束なら、私も守りたい」
ローゼフェリアは扉を開けた。
廊下の空気は冷えていた。けれど、執務室の中にいたときより、少しだけ息がしやすかった。
城は相変わらず忙しげに動いている。誰もが冬支度をし、書類を運び、薪を積み、命令を待ち、明日が今日の続きであるかのように働いていた。
だがローゼフェリアには、城の石壁の内側で、何かが静かに軋み始めたのが分かった。
婿入りでは救えない。
だが、塔に閉じ込めたままでも救えない。
では、どうするのか。
彼女は廊下の窓から北塔を見上げた。雪の中に、塔は黒く立っていた。最上階の窓にだけ、薄く火の色がにじんでいる。
あそこにいるのは灰狼ではない。
英雄でもない。
わたしの愛した男だ。
ローゼフェリアは、胸の中でそう言った。
けれど、その言葉を誰に聞かせればよいのか、まだ分からなかった。
*
その晩、ローゼフェリアは眠らなかった。
城の夜は、昼よりも多くの音を持っている。石壁の中を風が這い、古い梁がときおり低く鳴る。遠くの厨では、明朝の仕込みをする者がまだ動いていた。馬屋の方からは、馬が蹄で床を掻く音もした。
何もかも、昨日と同じように続いている。
それがローゼフェリアには、不思議でならなかった。
父はジークを閉じ込めた。
ジークはそれを受け入れている。
自分は彼を救いたい。
ただそれだけのことなのに、城は崩れもせず、鐘も鳴らず、誰も叫ばない。世界というものは、ときどき残酷なほど平然としている。
ローゼフェリアは机に向かい、白い紙を前にしていた。
何を書こうとしているのか、自分でも分からなかった。王都への嘆願書。家臣団への申し入れ。父への再度の願い。ジークへの手紙。どれも、書き出す前から嘘になった。
彼を救う言葉など、この紙の上にはなかった。
夜明け前、彼女は立ち上がった。
窓の外には、雪が薄く積もっていた。冬の空はまだ暗く、城の庭だけがぼんやり白い。ローゼフェリアは厚い肩掛けを羽織り、部屋を出た。
向かったのは礼拝堂ではない。
庭だった。
冬の庭には花が少ない。薔薇はもう枝ばかりで、噴水の水は止められている。ただ、礼拝堂の脇に植えられた白い冬咲きの花だけが、雪の下で小さく残っていた。修道女が好む花だと、幼いころ聞いたことがある。名は忘れた。清らかな名だった気がする。
ローゼフェリアは膝をつき、雪を払った。
細い茎が折れそうに震えた。彼女は数本だけ摘み、ハンカチで包んだ。手袋の指先が濡れた。冷たさは、かえってありがたかった。胸の奥で熱くなりすぎたものを、少しだけ鎮めてくれる。
「お嬢様」
背後で声がした。
振り返ると、若い騎士が立っていた。
名はレオンハルト・ヴァイス。まだ二十を少し越えたばかりで、北方戦役の末期に初陣を迎えた男だった。ジークに命を救われた一人でもある。整った顔に、まだ少年のような硬さが残っていた。こういう若者は、冬の朝でも寒さを認めない。
「早いのね、レオンハルト」
「見回りです」
「庭まで?」
「はい」
嘘だった。
ローゼフェリアはそう思ったが、言わなかった。
レオンハルトの目は、彼女の手元を見ていた。白い花。ハンカチ。朝まだきの庭。彼は何かを察したようだった。若い者は、察してはいけないことほど早く察する。
「北塔へ行かれるのですか」
「ええ」
「ジーク卿に?」
「他に、北塔で花を受け取る人がいると思う?」
レオンハルトは一瞬、うつむいた。
「お嬢様は、あの方をお救いになるおつもりですか」
「救えるなら」
「あの方は、救われるべきです」
声が強かった。
ローゼフェリアは彼を見た。
「あなたにとって、救われるとは何?」
「当然です。北塔から出て、兵の前に立たれることです。皆、待っています。灰狼が戻れば、辺境はまた一つになります」
「一つに?」
「はい」
「誰の下で?」
レオンハルトは答えなかった。
それだけで十分だった。
ローゼフェリアは白い花を握り直した。茎が手の中でかすかに潰れる。
「ジークは、旗ではないわ」
「存じています」
「知らない顔ね」
「お嬢様」
「その呼び方をする人は、みんな知っていると言うの。父上も、家臣たちも、あなたたちも。けれど誰一人、彼をそのままにしてくれない」
レオンハルトの顔が強張った。
「私は、ジーク卿を敬愛しています」
「ええ」
「命を救われました」
「知っているわ」
「あの方は、我らの誇りです」
「それが怖いの」
「誇りが、ですか」
「誇りは、人を簡単に殺すわ」
レオンハルトは黙った。
彼には分からないのだ、とローゼフェリアは思った。あるいは、分かりたくないのだ。彼にとってジークは、戦場の暗闇で灯った火だった。飢え、恐怖、敗北の気配。その中で、ただ一人前へ進んだ男。その記憶を否定されれば、自分の生き残った理由まで揺らぐ。
彼もまた、ジークにすがっている。
そして、すがる手は、ときに鎖になる。
「戻りなさい」
ローゼフェリアは言った。
「朝の見回りなら、庭で終わらせてはいけないでしょう」
レオンハルトは一礼した。
その礼は丁寧だった。だが、去り際の目には、傷ついた信仰の色があった。
ローゼフェリアはしばらく庭に立っていた。
雪の上には、若い騎士の足跡が残っている。その足跡が北塔の方を向いていないことに、彼女は小さく息をついた。
けれど安心はしなかった。
信仰は、迂回する。
正面の扉が閉ざされても、どこか別の隙間を探す。
*
北塔の扉を開けると、ジークは机に向かっていた。
ローゼフェリアが渡した詩集が開かれている。彼はその上に肘をつき、ひどく難しい軍議に臨むような顔をしていた。
「読んでいるの?」
「戦っている」
「どちらが勝ちそう?」
「詩人だ。こちらの武器が少ない」
ローゼフェリアは扉を閉めた。
「感想を聞きましょうか」
「まだ降伏していない」
「では捕虜交換にします」
「何と?」
ローゼフェリアはハンカチを開いた。
白い花が現れた。
ジークの表情が、少し変わった。
困惑ではない。喜びでもない。もっと静かな、傷に触れられたときのような顔だった。
「庭に咲いていたの」
「寒かっただろう」
「わたしが?」
「花が」
「あなたは本当に、そういうところがずるい」
「何がだ」
「わたしより先に、花の心配をするところ」
ジークは小さく笑った。
「あなたは寒さに強い」
「勝手に決めないで」
「では、寒かったのか」
「ええ。少し」
彼は暖炉のそばの椅子を引いた。
ローゼフェリアは座らなかった。白い花を手にしたまま、部屋の中央に立っていた。窓の鉄格子から入る朝の光が、床に細い影を落としている。
「ジーク」
「ああ」
「今日は、花を渡しに来たの」
「見れば分かる」
「いいえ。そういう意味ではなくて」
喉が渇いた。
何度も考えてきた言葉だった。夜の間、紙には書けなかった言葉。庭で、雪に濡れながらようやく形になった言葉。
けれど、いざ彼を前にすると、それはあまりに幼く、愚かで、逃げ場のないものに思えた。
「今日だけでいいの」
ローゼフェリアは言った。
「わたしの花婿になって」
ジークは動かなかった。
火が薪を崩した。外の風が、窓の鉄を細く鳴らした。部屋の中のすべてが、その一言を聞いてしまったようだった。
「ローゼフェリア」
「正式なことではないわ。分かっている。父上も、家臣も、王都も、民衆も、何も認めない。礼拝堂でもない。神父もいない。誓約書もない。ただの、わたしのわがままよ」
「それを、わがままと呼ぶのか」
「呼ばないと、立っていられない」
彼女は笑おうとした。だが、唇が震えただけだった。
「わたしは、あなたを救えないかもしれない。婿に迎えることも、塔から出すことも、父上を説き伏せることも、できないかもしれない。何を選んでも、あなたは灰狼にされる。父上もそう言った。あなたも分かっている」
「なら」
「だから、今日だけ」
ローゼフェリアは白い花を差し出した。
「今日だけ、誰にも見られず、誰にも名づけられず、わたしだけの花婿になって。明日には、また何もなかったことにしていい。世界がそう望むなら、そうすればいい。でも、今日だけは」
声がそこで折れた。
ジークは彼女の手元を見ていた。
長い沈黙のあと、彼はゆっくりと花を受け取った。大きな手の中で、白い花はひどく小さく見えた。戦場で剣を握ってきた手が、今は折れそうな茎を慎重に支えている。
「今日だけなら」
ジークは言った。
「なおさら罪が重い」
「分かっているわ」
「分かっていない」
「分かっている」
「俺が受け取れば、あなたは忘れられなくなる」
「受け取らなくても、忘れられない」
ジークは苦しそうに目を閉じた。
「俺は、あなたを灰狼の妻にしたくない」
「わたしも、灰狼の妻になりたいわけではないわ」
「では何に」
「あなたの妻に」
その言葉は、静かだった。
静かすぎて、かえって部屋の奥まで届いた。
ジークは花を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、彼は自分の上衣の胸元に、白い花を挿した。戦場の勲章のようではなかった。むしろ、喪の席に置かれる小さな供花に似ていた。
「これでいいか」
「ええ」
「花婿らしく見えるか」
「少しだけ」
「ひどいな」
「だって、髪も整えていないし」
「牢番が床屋を兼ねていない」
「あと、詩集と戦っている顔をしている」
「それは花婿として悪いのか」
「少なくとも、伝説にはならないわ」
ジークはその言葉に、ようやく笑った。
「なら、上出来だ」
ローゼフェリアも笑った。
笑えたことに、自分で少し驚いた。
それから彼女は、椅子を二脚向かい合わせに置いた。卓も、杯も、燭台もない。婚礼に必要なものは何一つなかった。ただ、暖炉の火と、鉄格子越しの朝の光と、胸に白い花を挿した男がいた。
「誓いの言葉は?」
ジークが言った。
「あなたが言うの?」
「俺は詩を読まされた。何かの罰として、少しは言葉を学んだ」
「では、どうぞ」
彼は少し考えた。
「俺は、あなたを灰狼の妻にしない」
「それが誓い?」
「俺にできる、いちばんマシな誓いだ」
ローゼフェリアは彼を見た。
「なら、わたしも誓います」
「ああ」
「わたしは、あなたを英雄として愛さない」
ジークの目が揺れた。
「ジークヴァルト・グライフ。あなたが救った村も、勝った戦も、掲げた旗も、わたしは忘れない。でも、それを理由にあなたを愛したわけではない」
声は、もう震えていなかった。
「あなたが葡萄酒を少しずつ飲むこと。詩集を嫌がること。人より花の寒さを心配すること。わたしの名を呼ぶときだけ、少し声が低くなること。そういう、くだらないことを、わたしは愛しています」
ジークは何も言わなかった。
ローゼフェリアは続けた。
「だから、わたしは灰狼の妻ではありません。今日だけでも、あなたの妻です」
ジークは白い花に触れた。
その指が、わずかに震えていた。
「ローゼフェリア」
「はい」
「それは、反則だ」
「戦場では勝てないので」
「俺にも勝ち目がない」
「では、降伏しますか」
「ああ」
ジークは静かに言った。
「降伏する」
二人は近づいた。
抱き合うというには、あまりに慎重だった。ジークは彼女に触れることを恐れているようだったし、ローゼフェリアは彼の体温を確かめるだけで胸が痛んだ。
それでも、彼の腕が背に回った瞬間、彼女は目を閉じた。
鉄格子も、扉も、兵も、父も、城も、そのときだけ少し遠のいた。
彼は生きている。
この腕も、この胸の鼓動も、この不器用な息遣いも、英雄譚ではない。歌ではない。石像ではない。ここにいる一人の男だった。
ローゼフェリアは彼の胸に額を寄せた。白い花が頬に触れた。
「ジーク」
「何だ」
「今日だけと言ったけれど」
「ああ」
「わたしは、たぶん一生、今日を覚えている」
「それは困る」
「なぜ」
「俺も忘れられなくなる」
「なら、同罪ね」
「そうだな」
ジークは彼女の髪に触れた。
その手つきは、戦場の男のものとは思えないほど静かだった。
「あなたを、外へ連れて行きたかった」
ローゼフェリアは言った。
「雪の城下を歩いて、市場でパンを買って、酒場でくだらない噂を聞いて、父上に内緒で遠乗りをして。そんなことを、したかった」
「俺はパンを選ぶのが下手だ」
「練習すればいいわ」
「酒場では目立つ」
「帽子をかぶればいい」
「遠乗りは、辺境伯に怒られる」
「そのときは、あなたのせいにします」
「悪い妻だ」
「今日だけなら、許されるわ」
ジークは笑った。
ローゼフェリアは、その笑いを胸にしまった。
この先、何が起きても、この笑いだけは自分のものだと思った。誰も灰狼の伝説に書き込めない。歌い手がどれほど美しく声を張っても、民衆がどれほど彼を讃えても、この困ったような笑い方までは知らない。
知らないものは、奪えない。
そのはずだった。
*
昼近くになって、北塔の下が騒がしくなった。
最初は、兵の足音だった。次に、押し殺した声。それから、甲冑の触れ合う音がした。
ジークはローゼフェリアから身を離した。
「何かあったな」
「待って。わたしが見る」
「いや」
彼は胸の白い花を抜き、机の上に置いた。
「ジーク?」
「ここにいろ」
「なぜ」
「足音が乱れている」
ローゼフェリアは扉の方を見た。
外から、誰かが低く言い争う声が聞こえた。兵が止めている。別の誰かが詰め寄っている。言葉はまだ聞き取れない。
だが、次の瞬間、はっきりと響いた。
「灰狼卿にお目通りを!」
ローゼフェリアの背筋が冷えた。
レオンハルトの声だった。
「お下がりください、ヴァイス卿。許可がありません」
「辺境が危うい時に、許可など待てるか!」
ジークの顔から、柔らかさが消えた。
兵の声が続く。
「ジーク卿は療養中です」
「嘘だ! 皆、知っている! 辺境伯は灰狼を閉じ込めている!」
その言葉は、石壁にぶつかって部屋の中へ入ってきた。
ローゼフェリアは扉へ向かった。
ジークが腕を取った。
「開けるな」
「でも」
「開ければ、終わる」
彼の声は静かだった。
それが、何より怖かった。
外では足音が増えていた。レオンハルト一人ではない。何人かいる。若い騎士たちだろう。誰かがジークの名を呼んでいる。灰狼卿。灰狼卿。救い主の名を呼ぶように。
ローゼフェリアは、今朝の庭での会話を思い出した。
誇りは、人を簡単に殺す。
自分で言った言葉が、自分の喉を締めた。
「ジーク」
「ああ」
「どうすればいいの」
彼はしばらく答えなかった。
扉の外で、鈍い音がした。誰かが突き飛ばされたのか、鎧が壁に当たったのか。兵の怒声が上がる。
ジークは机の上の白い花を見た。
そして、ひどく穏やかな顔をした。
「たぶん」
彼は言った。
「もう、隠れているだけでは済まない」
「何をするつもり」
「灰狼を殺す」
ローゼフェリアは息を呑んだ。
「ジーク」
「人を殺すよりはましだ」
「そんな言い方をしないで」
「すまない」
彼は白い花をもう一度取り、胸に挿した。
「でも、あなたに誓った」
「何を」
「あなたを、灰狼の妻にはしない」
扉の外で、レオンハルトが叫んだ。
「我らはあなたを待っています! ジーク卿!」
ジークは目を閉じた。
それは祈りではなかった。
覚悟でも、まだ足りない。
自分がこれから壊すものの重さを、最後に量っている顔だった。
ローゼフェリアは彼の袖を掴んだ。
「行かないで」
ジークは彼女を見た。
その目は優しかった。
優しい目は、いつも別れに似ている。
「ローゼフェリア」
「いや」
「今日、俺はあなたの花婿だった」
「だった、なんて言わないで」
「なら、今もだ」
ジークは彼女の手を取った。
その手は温かかった。
「だから、行く」
「どうして」
「花婿が、花嫁を伝説に売るわけにはいかない」
扉の向こうで、鍵が乱暴に鳴った。
ローゼフェリアは彼の手を離せなかった。けれど、ジークは無理にほどかなかった。ただ、彼女が自分から離すまで待っていた。
その優しさが、何より残酷だった。
やがて、ローゼフェリアは指を解いた。
ジークは頷いた。
そして扉の方へ歩いた。
その背に白い花は見えない。けれどローゼフェリアには分かっていた。彼の胸には、確かにそれがある。誰も知らない婚礼の花。誰も認めない誓い。誰にも渡したくない、一人の男のしるし。
錠が開く音がした。
北塔の扉が、内側から開いた。
*
扉の外には、若い騎士たちがいた。
レオンハルト・ヴァイスを先頭に、五人。皆、鎧を着ていた。儀礼のための鎧ではない。冬の朝に金属の匂いを濃くさせる、戦うための装いだった。
塔番の兵二人は、壁際に押しやられていた。血は流れていない。だが、一人は腕を押さえている。もう一人は歯を食いしばり、剣の柄から手を離さずにいた。
ジークが姿を見せた瞬間、若い騎士たちは一斉に膝をついた。
その動きに、ローゼフェリアは背筋の冷えるものを見た。
敬意ではない。
祈りだった。
「灰狼卿」
レオンハルトが言った。
声が震えていた。歓喜のせいで。
「我らは、お迎えに参りました」
ジークはしばらく彼らを見下ろしていた。
胸には白い花が挿してある。若い騎士たちのうち、誰もそれに気づいていないようだった。気づいても、意味は分からなかっただろう。
「立て」
ジークは言った。
騎士たちは立ち上がった。
「誰の命令だ」
「命令など、ございません」
「なら反乱か」
レオンハルトの顔が強張った。
「違います。我らは、あなたをお救いしようと」
「俺はそういう善意を、戦場で何度か見た。だいたい死人が増える」
「ジーク卿」
「灰狼と呼ぶな」
その一言で、廊下の空気が凍った。
レオンハルトの目が揺れた。
「……では、何とお呼びすれば」
「名前がある」
「ジークヴァルト卿」
「卿もいらない」
「しかし」
「名前があると言った」
若い騎士たちは互いに顔を見合わせた。彼らはジークを助けに来たつもりだった。その救うべき相手が、自分たちの差し出した名を拒んだ。それだけで、彼らは足場を失う。
ローゼフェリアは、ジークの背後に立っていた。
彼の肩越しに、レオンハルトの顔が見える。苦しそうだった。信じる対象に拒まれる者の顔。だが、同時に、拒まれたことをまだ理解できない顔でもあった。
「城下に、人が集まっています」
レオンハルトは言った。
「あなたのお姿を一目見たいと。皆、知っています。辺境伯があなたを北塔に閉じ込めていたことを。もう隠せません」
「誰が知らせた」
「真実は、隠しても漏れます」
「便利な言葉だな。自分で穴を開けたやつほど、そう言う」
レオンハルトは唇を噛んだ。
ジークは階段の方へ目を向けた。
「城下の広場か」
「はい」
「なら、そこで話す」
ローゼフェリアは一歩前へ出た。
「ジーク」
「ここで押し問答をすれば、塔の中で血が出る」
「行けば、もっと」
「分かっている」
ジークは振り返った。
その目は、北塔の部屋で詩集に困っていた男のものではなかった。戦場で人を動かし、死ぬ場所を選び、勝つために捨てるものを決めてきた男の目だった。
けれどローゼフェリアには、その奥に別のものも見えた。
怖れている。
彼は怖れている。自分が傷つくことではなく、自分の名が誰かを傷つけることを。
「わたしも行きます」
「来るな」
「行きます」
「ローゼフェリア」
「今日だけでも、わたしはあなたの妻でしょう」
ジークの顔が、わずかに崩れた。
そんな言い方をするな、と言いたげだった。だが、彼は言わなかった。
「では、離れるな」
「ええ」
「俺が何を言っても」
「ええ」
「俺を嫌うな」
ローゼフェリアは息を止めた。
「それは、無理ね」
「そうか」
「あなたが何を言っても、嫌いにはなれないもの」
ジークは一瞬だけ目を閉じた。
それから階段を下り始めた。
若い騎士たちは左右に分かれた。まるで王を通すように。
ローゼフェリアはその後ろを歩いた。ジークの背には何もない。ただ、その胸に白い花があることを、彼女は知っている。彼が一歩下りるたびに、自分たちだけの婚礼が遠のいていくようだった。
階下へ降りるにつれて、城のざわめきが大きくなった。
誰かが走る音。扉の開く音。女中の悲鳴。命令を叫ぶ兵の声。どれも雪に包まれて鈍くなりながら、城全体に広がっていく。
北塔の出口に、オットーがいた。
外套も羽織らず、執務室からそのまま来たのだろう。髪は乱れ、顔には夜を越したような疲れがあった。彼の後ろには家令と古参の兵が数人立っている。
ジークとオットーは向かい合った。
その二人の間には、十年分の戦と、恩と、裏切りと、沈黙があった。
「出るのか」
オットーが言った。
「はい」
「戻れると思うな」
「思っていません」
「何をする」
「終わらせます」
オットーは、ジークの胸の白い花に気づいた。
一瞬、彼の視線がローゼフェリアへ動いた。父の目は何も言わなかった。だが、それだけで彼は理解したようだった。
ローゼフェリアは、父から目を逸らさなかった。
オットーは深く息を吐いた。
「私は、お前を守れなかったな」
それがジークに向けられた言葉なのか、ローゼフェリアに向けられた言葉なのか、分からなかった。
ジークは首を横に振った。
「閣下は、生かしてくださいました」
「同じことではない」
「違います」
ジークは静かに言った。
「でも、今はそれで十分です」
オットーは何かを言いかけ、やめた。
彼は家令に命じた。
「広場へ兵を出せ。ただし、剣を抜かせるな。弓も構えさせるな。民を押すな。誰かが叫んでも、動くな」
「旦那様」
「命令だ」
家令は一礼して走った。
オットーはローゼフェリアを見た。
「お前は残れ」
「嫌です」
「父親の命令だ」
「では、娘として拒みます」
「領主の命令だ」
「今日のわたしは、領主の娘ではありません」
オットーの目が痛むように細められた。
「では、何だ」
ローゼフェリアは、はっきり答えた。
「ジークの妻です」
若い騎士たちの間に、かすかなざわめきが走った。
オットーは黙った。
ジークも黙った。
ローゼフェリアは、胸の内で何かが静かに割れる音を聞いた。恥ではない。恐怖でもない。もう戻れない場所へ、自分で足を置いた音だった。
「そうか」
オットーは言った。
それだけだった。
*
城下広場は、雪の中に人で埋まっていた。
市場の屋台は半ば閉じられ、馬車は端へ寄せられている。職人、商人、退役兵、女たち、子どもたち、城の下働き。誰もが白い息を吐き、城門の方を見ていた。
ジークが姿を現すと、最初に静寂が来た。
それから、歓声が爆ぜた。
「灰狼だ!」
「灰狼卿!」
「ジークヴァルト様!」
声が四方から押し寄せた。泣いている者もいた。帽子を脱ぐ者、膝をつく者、子どもを抱き上げる者。雪の中で人々の目だけが熱を帯びている。
ローゼフェリアは、ジークの隣に立っていた。
歓声は彼女を通り過ぎ、彼だけに降り注いだ。人々は彼女を見ていない。見ていても、意味を与えない。彼女は辺境伯の娘ではなく、灰狼の傍らにいる女になっていた。
父の言葉は正しかった。
そのことが、ひどく腹立たしかった。
ジークは広場の中央へ進んだ。雪を踏む音が、人の声の下でかすかに聞こえる。彼は手を上げた。
それだけで、少しずつ歓声が鎮まった。
誰もが彼の言葉を待っている。
勝利の言葉を。
帰還の言葉を。
自分たちが信じてきた灰狼が、やはり灰狼であったと証明してくれる言葉を。
ジークは、広場を見渡した。
「俺の名は、ジークヴァルト・グライフだ」
声は大きくなかった。だが、不思議とよく通った。
「灰狼ではない」
広場の空気が揺れた。
遠くで誰かが笑った。冗談だと思ったのかもしれない。だが、ジークの顔を見て、その笑いはすぐ消えた。
「北門の戦で、俺が敵を破ったという歌がある。敵将を討ち、逃げる者を追い、夜明けまで戦ったと」
ジークは淡々と話した。
「あれは半分違う。俺は命令を破った。北門を守れと言われていたのに、持ち場を離れた。敵の側面を突いた。それで勝った。だが、その間に門の前に残した兵が三十七人死んだ」
人々が顔を見合わせた。
「氷河を渡ったという話もある。俺が先頭に立ち、兵を導いたと」
彼は続けた。
「違う。氷は薄かった。俺は軽い者から先に渡らせた。重傷者と荷車を後にした。敵が迫っていたからだ。最後の荷車は沈んだ。中には、動けない兵が二人いた」
ローゼフェリアは拳を握った。
ジークの声は揺れなかった。
だから余計に、その一つ一つが雪の中へ深く刺さっていく。
「東の村を救ったという歌がある。俺が火の中へ飛び込み、女と子どもを助けたと」
広場の老女が、顔を上げた。
「あの村は救えなかった。俺たちが着いたとき、もう火は回っていた。俺は兵を止めた。入れば全員死ぬと思ったからだ。泣いている声は聞こえた。今でも聞こえる」
沈黙が広がっていった。
誰も叫ばなかった。
彼らは、何を聞かされているのか分からなくなっていた。英雄の物語には、こういう場面がない。歌い手は、聞こえた泣き声の後に何ができなかったかまでは歌わない。
「俺は勝った。勝つために、人を置いてきた。救った命もある。見捨てた命もある。俺だけが特別だったわけではない。死んだ者の中には、俺より勇敢な者がいた。俺より正しい者もいた。だが、そいつらは死んだ。俺は生き残った」
ジークは、自分の胸の白い花に触れた。
「生き残った者には、名前が残る。死んだ者には、歌も残らないことがある。だから俺の名が大きくなっただけだ」
レオンハルトが、広場の前列に立っていた。
彼の顔は蒼白だった。
「やめてください」
小さな声だった。
ジークはそちらを見た。
「あなたは、そんな人ではない」
レオンハルトは一歩前に出た。
「あなたは、我らを救った。私を救った。北の民を救った。皆があなたを待っていた。あなたがいてくださるから、我々は――」
「俺に救われたことまで、嘘にする気はない」
ジークは言った。
「だが、それだけを真実にするな」
「なぜです!」
レオンハルトの声が裂けた。
「なぜ、そんなことをおっしゃるのです! 我らはあなたを信じていた。あなたが灰狼であることを信じて、ここまで耐えてきたのに!」
「それが間違いだった」
「違う!」
「レオンハルト」
「違う!」
若い騎士は、少年のように首を振った。
「あなたは灰狼です。そうでなければならない。そうでなければ、あの戦で死んだ者は何のために死んだのです。私たちは何を信じて生きればいいのです」
「自分で選べ」
ジークの声は、静かだった。
「死人に意味を背負わせるな。生き残った俺にもだ」
レオンハルトの顔から、血の色が消えた。
広場の人々は息をひそめていた。誰も動けない。英雄が、自分で英雄の像を壊している。それを止める言葉を、誰も持っていなかった。
ジークはもう一度、広場を見渡した。
「俺は灰狼ではない」
彼は言った。
「ただ、死に損なった兵士だ」
その言葉が終わった瞬間、雪の音が聞こえた。
歓声はなかった。
憎しみも、まだなかった。
ただ、人々は寒そうに立っていた。自分たちが暖を取っていた火を、突然消された者たちのように。
ローゼフェリアは、ジークの横顔を見ていた。
彼はやり遂げたのだと思った。
灰狼は、今、死んだ。
ジークは生きている。
そう思った。
その一瞬だけ。
「嘘だ」
レオンハルトが言った。
彼は歩き出していた。
誰も止めなかった。いや、止めるべきだと気づくのが遅れた。彼の手が外套の内へ入ったとき、ローゼフェリアはようやく叫ぼうとした。
だが、声より早く、銀色のものが雪明かりに光った。
「あなたは、そんな男ではない!」
レオンハルトが叫んだ。
次の瞬間、ジークの体がわずかに傾いた。
広場のすべての音が消えた。
ローゼフェリアは、何が起きたのかすぐには分からなかった。ジークが一歩下がり、胸に手を当てた。白い花が乱れている。
レオンハルトは、呆然と立っていた。
自分のしたことを、自分で信じられない顔だった。
「ジーク!」
ローゼフェリアは駆け寄った。
ジークの体が膝から崩れた。彼女はそれを受け止めようとして、一緒に雪の上へ座り込んだ。重かった。生きている人間の重さだった。
白い花に、赤い色が滲んでいた。
ローゼフェリアはそれを見ないようにした。見れば、何かが終わってしまう気がした。
「医師を!」
誰かが叫んだ。
オットーの怒号が飛んだ。
「ヴァイスを押さえろ! 誰も動くな!」
兵たちが走る。人々がどよめく。女の悲鳴が上がる。雪の静けさは破れた。
だがローゼフェリアの周りだけ、異様に遠かった。
ジークは彼女を見上げていた。
目はまだ、はっきりしている。
「悪い」
彼は言った。
「花婿には、なれなかった」
ローゼフェリアは首を振った。
声が出なかった。
やっと出た声は、自分のものとは思えないほど静かだった。
「いいえ」
彼女は、ジークの胸の白い花に触れた。
「今日だけは、そうでした」
ジークの口元が、少しだけ動いた。
困ったような笑みだった。
北塔で何度も見た笑い方。
誰も知らない、彼女だけのもの。
「詩集は」
ジークはかすれた声で言った。
「読まなかったわね」
「少し読んだ」
「感想は」
「難しい」
ローゼフェリアは涙をこぼさなかった。
今泣けば、彼の顔が見えなくなる。
「ひどい感想ね」
「すまない」
「いいわ。あなたらしい」
ジークの手が、わずかに動いた。
ローゼフェリアはその手を握った。冷えていくにはまだ早い。まだ温かい。まだ彼はここにいる。
「ローゼフェリア」
「はい」
「俺を」
言葉が途切れた。
彼は苦しそうに息をした。
ローゼフェリアは耳を近づけた。
「灰狼なんかに、戻すな」
「ええ」
「あなたは」
「ええ」
「俺の名を」
それ以上は、言葉にならなかった。
彼の指から力が抜けた。
ローゼフェリアはその手を握ったまま、しばらく動かなかった。
広場は騒がしかった。人が叫んでいる。兵が命令を飛ばしている。レオンハルトは取り押さえられ、地面に膝をついていた。彼は泣いていた。泣きながら、何度も同じことを言っていた。
「違う。違う。灰狼は、こんなふうに死んではならない。違う」
その声を聞いた瞬間、ローゼフェリアの中で何かが静かに澄んだ。
悲しみではない。
怒りでも、まだ足りない。
もっと冷たい、拒絶だった。
人々の中から、誰かが叫んだ。
「灰狼が死んだ!」
別の声が重なった。
「英雄が殺された!」
「灰狼を悼め!」
その言葉が、雪の中で膨らんでいく。
ジークが壊したはずの像が、彼の死を材料にして、また立ち上がろうとしていた。死んだ途端に、彼は再び奪われていく。彼が最後に否定した名で、彼を包み直そうとする手が、無数に伸びてくる。
ローゼフェリアは、ジークの体を抱いたまま顔を上げた。
「その名で呼ばないで」
声は大きくなかった。
だが、不思議と広場に通った。
人々が彼女を見た。
今になって、ようやく。
ローゼフェリアは立ち上がらなかった。雪の上に膝をつき、ジークを腕に抱いたまま、広場を見渡した。
「彼は灰狼ではありません」
誰かが何か言おうとした。
彼女は遮った。
「あなたたちが待っていた英雄ではありません。あなたたちの歌でも、旗でも、祈りでもない。彼には名前がありました。ジークヴァルト・グライフ。葡萄酒を少しずつ飲む人でした。詩を読むのが下手な人でした。花の寒さを先に心配する人でした」
オットーが近づこうとして、止まった。
彼女は父を見なかった。
「あなたたちは、彼を愛したのでしょう。なら、なぜ彼の言葉を聞かなかったの。彼が灰狼ではないと言ったのに、なぜ死んだ途端にその名へ戻すの」
広場に、沈黙が落ちた。
ローゼフェリアは、ジークの胸から白い花をそっと抜いた。
白い花は、もう白くなかった。
けれど彼女には、それが婚礼の花に見えた。
「彼は、今日だけわたしの花婿でした」
その言葉に、人々が息を呑んだ。
「誰も認めなくていい。父上も、家臣も、王都も、神父も、あなたたちも。けれど、わたしは知っています。彼は灰狼として死んだのではない。わたしの夫として、わたしの腕の中で死んだのです」
「ローゼフェリア」
オットーの声がした。
初めて聞くような声だった。
父の声ではない。辺境伯の声でもない。何も守れなかった男の声だった。
ローゼフェリアは、白い花を胸に抱いた。
「父上」
彼女は静かに言った。
「どうか、もう彼を飼わないで」
オットーは顔を歪めた。
「やめろ」
「歌にもしないで。旗にも、祭日にも、石像にも」
「ローゼフェリア」
「わたしが連れていきます」
雪の上に落ちた短剣を、ローゼフェリアは静かに拾った。
父の叫びが聞こえた。
けれど彼女は振り向かなかった。
ローゼフェリアはジークのそばに身を沈めた。雪の上に、白い外套が赤く広がる。彼女は最後まで、刃を人に向けなかった。誰にも復讐せず、誰にも呪いを吐かず、ただ彼の名を奪い返すように、ジークの手を握った。
広場のざわめきが遠くなった。
雪が降っている。
北塔へ行く朝も、こんな雪だった。
ジークは、詩集に困った顔をしていた。花婿らしくないと笑った。今日だけは自分のものだった。誰にも見られず、誰にも名づけられず、ただ一人の男として、彼は彼女の前にいた。
ローゼフェリアは、ジークの手を握ったまま目を閉じた。
彼の指は、まだわずかに温かかった。
*
その年の冬は長かった。
広場の雪は何度も降り直し、血の跡も、人々の足跡も、やがて消えた。だが、北の者たちは長くその日のことを語った。
灰狼が死んだ日、と言う者がいた。
辺境伯の娘が恋に殉じた日、と言う者もいた。
若い騎士の狂信が英雄を殺した日、と記録に残そうとした者もいた。
けれどオットー・フォン・ノルデンは、そのどれも許さなかった。
広場に石像は建てられなかった。
歌い手には銀貨が与えられ、代わりに沈黙を命じられた。
城の記録には、ただ一行だけが書かれた。
ジークヴァルト・グライフ、死去。
ローゼフェリア・フォン・ノルデン、その傍らにて息絶える。
灰狼の名は、そこにはなかった。
北塔の部屋は閉ざされた。
本棚には、読みかけの詩集が残された。頁の間には、乾いた白い花が一輪挟まれていた。誰がそこに挟んだのかは分からない。ある者は辺境伯だと言い、ある者は塔番の兵だと言った。
真実を知る者は、もうほとんどいなかった。
ただ、冬になると、北の城では塔の窓にだけ長く雪が残った。
人々はそれを見上げ、かつて灰狼と呼ばれた男の話をしようとして、なぜか声を落とした。
彼が本当に何者であったのか。




