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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

灰狼と薔薇

作者: パレルモ
掲載日:2026/05/20

 北塔へ行く道は、城の中でもっとも静かだった。


 石の廊は冬の底に沈んで、昼であるのに、明かり取りの窓から入る光は青く細かった。壁際には古い槍がかかっている。もう使われぬものばかりで、穂先は磨かれているのに、どこか墓標のようであった。


 ローゼフェリアは白い外套の裾を片手で持ち上げ、階段をのぼった。足音が一段ごとに塔の腹へ響き、すぐに吸われて消えた。


 途中の踊り場に、兵が二人立っている。


 彼らはローゼフェリアを見ると、黙って頭を下げた。敬意というより、気まずさに近かった。この塔へ来る者は少ない。来てよい者はもっと少ない。


「鍵を」


 ローゼフェリアが言うと、年嵩の兵が腰から鍵束を外した。


 鉄の輪につながれた鍵は、重く、冷たそうだった。兵はそれを彼女に渡しかけて、少しためらった。ローゼフェリアはその指の迷いを見た。


「わたしが開けます」


「ですが、お嬢様」


「彼は猛獣ではありません」


 兵は唇を結んだ。


 言い返すことはできたはずである。猛獣でなければ、なぜ閉じ込めるのか、と。だが彼は言わなかった。城の兵たちは皆、北塔について多くを言わない。言えば、自分たちが何を守っているのか分からなくなるからだった。


 ローゼフェリアは鍵を受け取り、最後の階段をのぼった。


 北塔の最上階にある部屋は、地下牢ではない。


 厚い絨毯が敷かれ、暖炉には火がある。寝台も机も、粗末なものではない。壁には本棚が据えられ、戦記、聖書、詩集、地図、古い軍令書などが並べられていた。窓辺には小さな椅子が二脚あり、一脚はいつも空いている。


 ただし、窓には鉄格子が入っている。


 扉の外には兵が立つ。


 そして、その部屋にいる男は、自由に外へ出ることができない。


 ローゼフェリアは鍵を差し込んだ。錠が鳴る。その音はいつも、彼女の胸の奥に小さな傷を作った。


 扉を開けると、火の匂いと、乾いた革の匂いがした。


 ジークは窓辺にいた。


 彼は椅子に腰かけ、膝に本を置いていた。灰色の上衣を着ている。髪は短く、かつて戦場で血と雪をかぶったというその髪にも、今は静かな光が落ちていた。


 大柄な男だった。けれど、彼のまわりには不思議と圧がなかった。檻に入れられた獣というより、ひどく遠い土地から帰ってきて、まだ自分の靴の泥を払えずにいる旅人のように見えた。


 ジークは顔を上げた。


「今日は遅かったな」


「階段の途中で、兵が鍵を渡すかどうか考えていたの」


「賢い兵だ」


「わたしが危ないと?」


「いや。鍵を持った女は、たいてい男より危ない」


 ローゼフェリアは扉を閉めた。


「では、気をつけて。今日は籠の鳥に餌を持ってきたのではなく、狼に説教をしに来たのですから」


「狼は説教を食わない」


「知っています。だから葡萄酒も持ってきました」


 彼女は卓の上に、小さな籠を置いた。中にはパンと燻製肉、それから布にくるんだ瓶がある。ジークは本を閉じ、少しだけ眉を上げた。


「辺境伯の姫君が密輸とは、な」


「城の厨房から持ってきただけよ」


「もっと悪い。家内犯だ」


「父上に訴えますか」


「俺の告発状は、いつも扉の外で止まる」


 ローゼフェリアは笑おうとして、うまく笑えなかった。


 こういう冗談は、二人のあいだでいつからか始まった。鍵、扉、兵、北塔。口にすれば重くなるものを、軽く言い換えるためだった。だが言い換えたところで、そこにあるものが消えるわけではない。


 ジークは立ち上がり、卓の方へ歩いた。足取りに不自由はない。体はよく鍛えられている。部屋の中を歩くだけの男には、あまりに無駄な肉体だった。


 ローゼフェリアは瓶の栓を抜いた。


「少しだけです。医師が、飲みすぎるなと」


「その医師は俺を病人だと思っている」


「表向きはそうです」


「では、俺は表向きにだけ従う」


 杯は一つしかない。ローゼフェリアが持ってくるたびに、ジークは彼女に先に飲ませようとし、彼女は断った。今日も同じだった。


「毒見を?」


「習慣だ」


「わたしがあなたに毒を盛るなら、もっと上等な酒にします」


「それなら安心だ。俺はまだ安い酒で殺される程度の男らしい」


 ジークは杯を受け取り、一口飲んだ。外套についた雪が、ローゼフェリアの肩の上で溶けていた。部屋の中は暖かい。だが、暖かければ暖かいほど、扉の向こうの寒さが濃く思えた。


 彼は窓の外を見た。


「今年は早いな」


「雪?」


「ああ」


「昨日からよ。城下の屋根が、朝には白くなっていたわ」


「市場は?」


「まだ開いています。魚屋の親父が、氷より先に女房の機嫌が悪くなると怒鳴っていました」


「それは災害だ」


「あなたならどうします」


「降伏する」


 ローゼフェリアは今度は笑えた。


 ジークはその顔を見て、ほんのわずか目を細めた。彼の笑い方は、いつも遅れて来る。先に相手が笑って、それから、ああ笑ってよかったのかというふうに、静かに口元を動かす。


 ローゼフェリアはその笑い方が好きだった。


 城下の者たちは、ジークを灰狼と呼ぶ。


 戦場で三度包囲を破り、凍った川を渡り、敵将の首を取った男。死にかけた兵を背負って帰り、飢えた村に軍糧を分け、北門の上で旗を掲げた男。歌い手たちはその名を好んだ。兵士たちは酒を飲むと、彼の話をした。子どもたちは木の棒を振り回して、灰狼ごっこをした。


 だがローゼフェリアの前にいるジークは、よく詰まらない冗談を言い、葡萄酒をゆっくり飲み、彼女が持ってくる本を読む男だった。


 英雄という言葉は、彼には大きすぎた。


 大きすぎる衣を着せられた男は、いつかその重さで骨を折る。


「今日は、何を読んでいたの」


「修道院の年代記」


「退屈でしょう」


「退屈な本は信用できる。書いた人間が自分を面白がらせる気を起こしていない」


「あなたは本当に、読書家に向いていないわ」


「では何に向いている」


 ローゼフェリアは答えなかった。


 剣、と言えば、彼を灰狼へ戻してしまう。戦場、と言えば、この部屋の壁がいっそう厚くなる。自由、と言えば、二人とも痛む。


 ジークは彼女の沈黙を責めなかった。そういう男だった。必要なときにだけ言葉を使う。だからこそ、彼が戦場で叫んだ名や命令は、兵に届いたのかもしれない。


 ローゼフェリアは本棚の前へ行き、指で背表紙をたどった。


「次は詩集にしましょうか」


「勘弁してくれ」


「なぜ?」


「戦場で生き残ったのに、比喩で殺される」


「あなたに必要なのは教養です」


「教養は腹の足しにならない」


「だから燻製肉も持ってきたの」


「完璧だな。姫君は軍站を理解している」


 彼女は本を一冊抜き、卓に置いた。薄い詩集だった。花と冬と、失われた春について書かれたもの。ジークはそれを見て、心底困った顔をした。


「読まない顔をしていますね」


「読んだふりをする顔だ」


「では次に来たとき、感想を聞きます」


「それは拷問に当たらないのか」


「当たりません。辺境伯家の公式見解です」


「なら仕方ない。ここの法律は信用できないが、逃げ場もない」


 その言葉が落ちたあと、二人は少し黙った。


 逃げ場もない。


 ジークは何気なく言ったのだろう。だが何気なさは、時に刃より深く入る。ローゼフェリアは、卓の上に置いた自分の手を見た。指先が白くなっていた。


「ジーク」


「何だ」


「あなたは、外へ出たい?」


 彼はすぐには答えなかった。


 火が薪の内側を崩す音がした。窓の外で、風が細く鳴った。北の冬は、何かを待つことに慣れている。


「出たいかと聞かれれば、出たい」


 ジークは静かに言った。


「でも、出るべきかと聞かれれば、分からない」


「なぜ」


「俺が外へ出るだけならいい。雪を見る。市場へ行く。酒場で飲む。馬に乗る。くだらないことをする。だが、俺が外へ出たと人が知れば、そうはならない」


「みんな、あなたに会いたがっているわ」


「そうだな」


「あなたを憎んでいるわけではない」


「それが厄介だ」


 ジークは杯を置いた。


「憎まれているなら、まだ扱いやすい。石を投げられれば避ける。剣を向けられれば折る。だが、愛されると困る。俺の知らない俺を、皆が勝手に作る」


 ローゼフェリアは彼を見た。


「灰狼」


「そう呼ばれるたびに、俺は少しずつ俺でなくなる」


「でも、あなたは辺境を救った」


「救えなかった者もいる」


「誰もすべては救えないわ」


「その言葉は正しい。正しい言葉は、時々、人を殺す」


 ジークの声には怒りがなかった。だからこそ、痛かった。


 ローゼフェリアは椅子に座った。窓辺の、いつも空いている方の椅子である。ここに座ると、城下の屋根が少しだけ見える。鉄格子が景色を細く切っていた。


「父上を恨んでいる?」


「辺境伯を?」


「ええ」


「恨めば楽だろうな」


「では、恨んでいないの」


「分からない」


 ジークはそれだけ言って、窓の外へ目をやった。


「俺をここへ入れたのは、あの人だ。俺を騎士にしたのも、あの人だ。俺に馬をくれた。鎧もくれた。名もくれた。兵の前に立てと言った。勝てと言った。俺は勝った。勝ちすぎた」


「勝ちすぎたことが罪なの」


「罪ではない。だが、火種にはなる」


 その言い方は、オットーに似ていた。


 ローゼフェリアはそのことに気づき、胸の奥が冷えた。ジークは父を恨みきっていない。父もまた、ジークを憎んでいない。そのせいで、この部屋はただの牢にならなかった。


 憎しみなら、壊せばよい。


 愛と恐れで作られた檻は、どこから手をかければよいのか分からない。


「わたしは、あなたをここから出したい」


 ローゼフェリアは言った。


 声は思ったより小さかった。


 ジークは彼女を見た。


「知っている」


「知っているだけ?」


「それで十分だ」


「十分ではないわ」


「ローゼフェリア」


 彼はその名を、丁寧に呼んだ。


 彼が彼女を姫君と呼ぶとき、そこには距離がある。お嬢様と呼ぶときは、冗談がある。だが名を呼ぶときは、どちらもなかった。


「あなたが望めば、父上は考えるかもしれない」


「何を」


「あなたを正式に家へ迎えることを」


 ジークは何も言わなかった。


「婿に、という意味よ」


 言ってしまうと、部屋の空気が変わった。


 その言葉は、ローゼフェリアの胸の中で幾度も形になり、幾度も崩れてきたものだった。口にした瞬間、それは夢ではなく、政治になった。家名、継承、兵、民衆、王都。目に見えない無数の手が、その言葉の裾をつかんだ気がした。


 ジークは杯の縁を指でなぞった。


「辺境伯は許さない」


「まだ聞いていない」


「聞く前から分かることはある」


「あなたは、わたしの夫になりたくないの?」


 その問いは、責めるように響いた。


 ローゼフェリア自身も、言ってから後悔した。そういう言い方をしたかったのではない。だが心は、ときどき礼儀を忘れる。


 ジークは静かに彼女を見ていた。


「なりたい」


 彼は言った。


 たった一言だった。


 その一言で、ローゼフェリアの喉が詰まった。


「だったら」


「だから、恐ろしい」


「何が」


「俺があなたの夫になることではない。あなたが、灰狼の妻にされることがだ」


 ローゼフェリアは息を止めた。


「俺がただのジークなら、あなたの隣に立ちたい。だが人は、そう呼ばない。灰狼が辺境伯家に入ったと言う。灰狼が姫君を得たと言う。灰狼が次の主になると言う」


「人が何と言おうと」


「人が言うことで、戦は始まる」


 彼の声は低かった。


「俺はそれを見た。兵は命令より噂で動くことがある。村は布告より歌で燃えることがある。人は正しい言葉より、気持ちのいい嘘を選ぶことがある」


「わたしは嘘ではないわ」


「あなたは違う」


 ジークはすぐに言った。


「だから、いちばん困る」


 ローゼフェリアはうつむいた。


 彼の言葉は残酷ではなかった。むしろ優しかった。優しさは、時に逃げ道を塞ぐ。ひどい言葉なら怒れた。冷たい言葉なら憎めた。だが彼は、彼女を愛しているから拒もうとしている。


 そんな拒絶は、どう破ればいい。


 暖炉の火が揺れた。窓の外の雪は強くなっていた。細かな白い粒が、鉄格子の向こうで斜めに流れている。


 ローゼフェリアは立ち上がった。


「父上に話します」


「ローゼフェリア」


「あなたが止めても、話します」


「俺は止めない」


「止めないの?」


「ああ」


 ジークは少し困ったように笑った。


「あなたは、止められて止まる人ではない」


「そういうところだけ、よく分かっているのね」


「ここは暇だからな。人を見る時間だけはある」


「では、わたしが怒っているのも分かる?」


「分かる」


「悲しいのも?」


「分かる」


「なら、なぜそんな顔をするの」


「どんな顔だ」


「諦めた人の顔」


 ジークは答えなかった。


 ローゼフェリアは籠の布を直し、詩集を彼の前へ押し出した。


「読みなさい」


「命令か」


「命令です」


「感想は?」


「次に聞きます」


「難しいな」


「生きていればできることよ」


 ジークはその言葉に、かすかに目を伏せた。


 ローゼフェリアは扉へ向かった。鍵を開けるときより、閉めるときの方が嫌いだった。開ける音には、まだ希望のまねごとがある。閉める音には、言い訳がない。


 扉の前で振り返ると、ジークは詩集を手に取っていた。


「ローゼフェリア」


「何?」


「父君と話すなら、怒らせるな」


「無理ね」


「だろうな」


「でも、泣き落としもしません」


「それは効かない」


「知っています。父上は、涙より損得を信じる人ですから」


「違う」


 ジークは静かに言った。


「あの人は、損得を信じているふりをしている。そうしないと、自分のしたことを見ていられないんだ」


 ローゼフェリアは、しばらく彼を見つめた。


 その言葉には、恨みよりも理解があった。理解されることは、許されることではない。だが許されないまま理解されるのは、ときに罰より苦しい。


「あなたは優しすぎるわ」


「よく言われる」


「嘘」


「ああ、今初めて言われた」


 ローゼフェリアは小さく息を吐いた。


「詩集、読んでおいて」


「ああ」


「感想を聞くまで、死なないで」


 ジークは笑わなかった。


 ただ、まっすぐに彼女を見た。


「分かった」


 ローゼフェリアは扉を閉めた。


 錠が鳴る。


 廊下に出ると、兵たちが同じ姿勢で立っていた。ローゼフェリアは鍵を返した。年嵩の兵が受け取る。その手は、わずかに震えていた。


 彼女は階段を下りた。


 下へ行くほど、城の音が戻ってくる。皿の触れ合う音。遠くで誰かを呼ぶ声。廊下を走る小姓の足音。薪を運ぶ召使いたちの息遣い。生きている城の音だった。


 北塔だけが、死なない死者を抱いている。


 ローゼフェリアは外套の前をかき合わせ、父の執務室へ向かった。


 窓の外では雪が降り続いていた。

 城下の者たちは、今ごろ暖炉の前で灰狼の昔話をしているかもしれない。子どもたちは木の剣を持って、ジークの名を叫んでいるかもしれない。


 その誰も、北塔の部屋で一人の男が詩集を開いていることなど知らない。


 ローゼフェリアは歩きながら、唇を噛んだ。


 灰狼など、いらなかった。


 彼女が欲しかったのは、あの困ったように笑う、ただのジークだった。


 辺境伯の執務室は、城の南側にあった。


 北塔とは違い、そこには人の気配が濃い。扉の前には侍従が立ち、廊下の壁には狩猟の絵と古い戦旗がかけられている。暖炉の煙は細く天井へ吸われ、開かれた扉の隙間から、紙と羊皮紙の匂いが漂ってきた。


 ローゼフェリアは足を止めなかった。


「父上にお目通りを」


 侍従は彼女を見るなり、少し困った顔をした。


「旦那様は、ただいま家令と――」


「通しますか。それとも、わたしが自分で開けましょうか」


「お嬢様」


「選ばせているのです。親切でしょう」


 侍従は一瞬だけ天井を仰ぎ、それから扉を叩いた。


「ローゼフェリア様がお越しです」


 中から、低い声がした。


「入れ」


 侍従が扉を開ける。


 ローゼフェリアは中へ入った。


 オットー・フォン・ノルデン辺境伯は、机の向こうに座っていた。大きな男ではない。だが、広い部屋の中で小さく見えたことは一度もなかった。白くなり始めた髪、深く刻まれた眉間のシワ、冬枯れの木のような指。彼の前には書類が積まれ、蝋封のされた書簡が三通、まだ開かれずに置かれている。


 家令が脇に立っていた。彼はローゼフェリアの顔を見ると、すぐに一礼した。長くこの家に仕える者の勘で、今は同席すべきでないと悟ったのだろう。


「下がれ」


 オットーが言った。


 家令は静かに退出した。


 扉が閉まると、部屋には薪のはぜる音だけが残った。


「北塔へ行っていたな」


 オットーは書類から目を上げずに言った。


「ご存じなら、聞く必要はありません」


「行くなとは言っていない」


「言えば、行かないと思っていらっしゃる?」


「思っていない」


 彼はようやく顔を上げた。


 父の目は、冬の湖に似ていた。表面は静かで、どこから凍っているのか分からない。幼いころ、ローゼフェリアはその目が怖かった。今でも怖い。ただ、怖いだけではなくなった。そこに疲れがあり、諦めがあり、愛があり、それを全部まとめて隠そうとする意地があることを、今は知っていた。


「なら、話は早いわ」


「早い話は、たいてい後始末が長い」


「ジークを、わたしの婿に迎えてください」


 言葉は、部屋の中央に落ちた。


 オットーは動かなかった。怒るでもなく、驚くでもない。ただ、机の上に置いていた指を少し曲げた。


「それだけか」


「それだけです」


「ずいぶん簡単に言うな」


「簡単なことを、難しくしているのは父上です」


「違う」


 オットーは即座に言った。


「難しいことを、簡単に見える形でお前が言っただけだ」


「では、難しい理由をお聞かせください」


「聞けば納得するのか」


「内容によります」


「正直だな」


「父上に似たのです」


「不幸なことだ」


 オットーは立ち上がり、暖炉のそばへ行った。火掻き棒で薪を動かす。崩れた火が内側から赤くなった。彼はしばらくその火を見ていた。


「ジークを婿に取る話は、すでに考えたことがある」


 ローゼフェリアは息を呑んだ。


「いつです」


「北方戦役の直後だ」


「わたしには、何も」


「言う前に終わった」


「なぜ」


 オットーは振り向かなかった。


「お前はそのころ、まだ十六だった」


「だから?」


「だから、まだ父親は娘を守れると錯覚していた」


「その錯覚のために、彼を北塔へ?」


「順番が違う」


 オットーは火掻き棒を戻した。


「北塔は、私の失敗の結果だ」


 ローゼフェリアは言葉を失った。


 父が自分の失敗を口にすることは稀だった。彼は失敗を認めない人間ではない。ただし、それを感情の形では決して言わない。記録、損害、責任、処分。そういう言葉に置き換える。


 今は違った。


「ジークが勝った。勝ちすぎた。敵は退き、城下は救われ、兵は生き残った。私はあの男を誇った。平民の子であろうと、戦場であれだけ働いた者を冷遇する気はなかった。騎士にした。馬を与えた。領民の前に立たせた。剣を掲げさせた」


「それが間違いだったと?」


「間違いではない」


 オットーの声は硬かった。


「だが、足りなかった。私は名を与えることの重さを、軽く見た」


 ローゼフェリアは父を見つめた。


 オットーは壁にかけられた古い戦旗へ目をやった。ノルデン家の紋、雪原を走る黒い獣。灰狼ではない。あれはもっと古い、家の獣だった。


「戦のあと、城下で歌が作られた。初めは酒場の悪ふざけだった。灰狼がどうした、氷河を裂いた、敵の首を七つ並べた、そんなくだらない歌だ。私は放っておいた。兵には英雄が必要だ。民にもだ。冬を越すには麦だけでは足りない。話もいる」


「それで?」


「話は飯より早く増える」


 オットーは静かに言った。


「ある日、退役兵どもが城門の前に集まった。年金が遅れていた。理由は単純だ。王都からの補助が来ず、ここの金庫にも余裕がなかった。私は待てと言った。彼らは待てなかった。そこまでは、よくあることだ」


「その場にジークが?」


「いなかった」


 ローゼフェリアは眉を寄せた。


「では」


「いなかったから、危なかった」


 オットーは机へ戻り、引き出しから古い紙束を取り出した。黄ばんだ報告書だった。彼はそれを開かず、手の中に置いたまま話した。


「兵たちは、灰狼なら自分たちを飢えさせないと言った。灰狼なら辺境伯にものを言ってくれると言った。灰狼が領主なら、こうはならないと言った」


「ジークは、そんなことを望んでいないわ」


「望んでいない。だから厄介なのだ」


「なぜ」


「本人の意思が関係なくなったからだ」


 ローゼフェリアは黙った。


 父の言葉は冷たいのに、そこに嘘はなかった。


「それでも私は、まだ甘く見ていた。兵の不満はどこにでもある。酒場の歌に政治はできん。そう思った。だが、その三日後、若い騎士が十七人、ジークに忠誠を誓いたいと申し出た」


「忠誠?」


「そうだ。私の騎士であるにもかかわらず、だ」


「ジークは?」


「断った」


「なら」


「その場で断ったから、彼らは泣いた」


 ローゼフェリアは、答えられなかった。


「裏切られたのではない。見捨てられたのでもない。彼らは、清いものに触れて泣く顔をしていた。断られたことさえ、美談にした。灰狼は謙虚であらせられる、と」


 オットーの口元に、苦いものが浮かんだ。


「そのとき私は悟った。あれはもう、ジークでは足りないのだ。彼らが欲しがっているのは、血の通った男ではない。自分たちの貧しさと怒りと、報われなかった忠義を預ける旗だ」


「それと、婿入りと何の関係があるのです」


「大いにある」


 オットーは手の中の報告書を机に置いた。


「お前とジークのことは、私も知らなかったわけではない」


 ローゼフェリアは頬が熱くなるのを感じた。だが、父から目を逸らさなかった。


「からかうつもりはない。そんな歳でもない。私は考えた。あの男を家に入れれば、熱狂を家の秩序の中に収められるかもしれない。お前も、あれを慕っていた。ジークも、お前を粗末には扱わん。戦功も十分。血筋の低さは、叙爵と婚姻で補える。そう考えた」


「なら、なぜ」


「噂を流した者がいた」


「噂?」


「正式ではない。私が家臣に一言漏らしただけだった。ジークをローゼフェリアの婿にしてはどうか、と。翌朝には、城下で灰狼の婚礼の話になっていた」


 ローゼフェリアは、指先を握りしめた。


「早すぎる」


「火は乾いた草を選ばない」


「誰が」


「分からん。分かっても同じだ。問題は漏れたことではない。広がったあと、誰も止められなかったことだ」


 オットーは淡々と続けた。


「城下の者は喜んだ。灰狼が辺境伯家に入る、と。若い騎士たちは浮き足だった。退役兵は、これで自分たちの暮らしもよくなると言った。商人たちは、灰狼の婚礼に合わせて祭りを開こうとした」


「悪いことではないでしょう」


「表だけならな」


 父の目が、ローゼフェリアを射た。


「古参家臣たちは何と言ったと思う」


「平民上がりを嫌った」


「それもある。だが、それだけではない。彼らは恐れた。ジークが婿に入れば、ノルデン家は灰狼の家になる。お前がジークの妻になれば、お前は辺境伯の娘ではなく、灰狼の妻として見られる。やがて私が死ねば、人々は誰を主と見る?」


「わたしです」


「違う」


 オットーは冷たく言った。


「お前の隣に立つ男だ」


「わたしは、それほど愚かに見えますか」


「お前の才の話ではない。人の目の話だ」


 ローゼフェリアは言い返そうとして、言葉が詰まった。


 父は彼女を侮っているのではない。むしろ、彼女の能力とは無関係に、世間が何を見るかを言っている。そこが腹立たしかった。正しいからだ。


「それでも、わたしが主であると示せば」


「そのために、お前は夫を抑えるのか」


「必要なら」


「では、お前は愛する男を政治的に縛る妻になる」


 ローゼフェリアは唇を噛んだ。


「逆にジークを立てれば」


 オットーは続けた。


「お前は自分の家を灰狼に明け渡す女になる。どちらにしても、お前たちの婚姻はお前たちだけのものではなくなる」


「結婚とは、もともと家のものです」


「そうだ。だから恐ろしい」


 オットーは書簡の一つを手に取り、蝋封を見せた。王都の印だった。


「噂が出た十日後、王都からこれが来た」


「何です」


「問い合わせだ。ノルデン辺境伯家は、灰狼ジークヴァルトを継嗣とするのか、と」


「継嗣など」


「王都はそう読んだ」


「勝手に」


「政治は、勝手に読むものだ」


 父の声には疲れがあった。


「王都は北方を信用していない。北方は王都を信用していない。そこへ民衆的人気を持つ救国の英雄が辺境伯家に入る。どう見える」


「反乱の準備」


「そうだ」


「でも、そんなつもりは」


「つもりで軍は動かん。見え方で動く」


 ローゼフェリアは、暖炉の火を見た。


 ジークを婿に迎える。


 その言葉は、彼女の胸の中では美しいものだった。北塔の扉が開き、彼が自由になり、城の礼拝堂で誓いを立てる。白い花。鐘。雪の止んだ空。そういうものを、彼女は幾度も想像した。


 だが父の言葉は、その花に次々と泥をつけていく。


 民衆の熱狂。騎士の忠誠。古参家臣の恐怖。王都の疑念。


 それらはどれも、ありえない話ではなかった。


「そのころ、ジークは何と言ったのです」


「本人には最後まで知らせなかった」


「なぜ」


「知らせれば、あれはお前のために断った」


「それの何が悪いの」


「お前は、それを耐えられたか」


 ローゼフェリアは息を止めた。


 オットーは目を伏せた。


「私は耐えられなかった。だから言わなかった。自分のためでもある。お前のためでもある。ジークのためでもある。言い訳はいくらでもつく。だが、結局は私が決めた。婚姻の話を消し、灰狼の露出を減らし、療養という名で北塔に移した」


「閉じ込めたのです」


「そうだ」


 彼は逃げなかった。


「私はジークを閉じ込めた」


 ローゼフェリアの胸の奥に、熱いものが上がった。


「父上は、それで何を守ったのですか」


「ここだ」


「本当に?」


「そう信じるしかない」


「ずるい言い方です」


「そうだ」


「自分で分かっていて、なぜ」


「分かっているからだ」


 オットーの声が、少しだけ荒くなった。


「分からない者は、楽に善人でいられる。分かっている者は、汚れた手で門を閉めるしかない」


「それでジークを犠牲にした」


「した」


「わたしも」


 オットーは黙った。


「わたしも犠牲にしたのですか」


 ローゼフェリアの声は震えていた。怒りか、悲しみか、自分でも分からなかった。


 父はしばらく答えなかった。


 窓の外で、雪が硝子を叩いた。風の音が低くうなり、部屋の火が揺れた。


「お前については」


 オットーは言った。


「考えないようにした」


 ローゼフェリアは、かえって冷静になった。


「最低ですね」


「そうだな」


「父親としても、領主としても」


「領主としては、まだ分からん」


「分からない?」


「私が死んだあと、辺境が残っていれば少しはましな判断だったと言える。残らなければ、ただの卑怯者だ」


「では父親としては」


「失格だ」


 その言葉は、あまりにも簡単に出た。


 ローゼフェリアは怒る準備をしていた。父がもっと言い訳をし、彼女を子ども扱いし、家のためだと押しつけてくるなら、いくらでも反論できた。


 けれど、彼は自分で失格だと言った。


 それは、彼女から刃を奪う言葉だった。許したくはない。だが、切る場所がない。


「父上は、ジークを愛していたのではないの」


「愛している」


「なら、なぜ」


「愛している者を、自由にすれば救えるとは限らない」


「閉じ込めれば救えるのですか」


「救えていない」


「なら」


「だが、生きている」


 オットーは低く言った。


「北塔にいれば、少なくとも生きている。外に出れば、あれは旗になる。旗は風で裂ける。火で焼ける。最後は、誰かの手に奪われる」


 ローゼフェリアはジークの顔を思い出した。


 詩集を手に取り、困ったように見ていた男。葡萄酒を飲み、冗談を言い、彼女の名を丁寧に呼んだ男。


 あの人は、旗ではない。


 そう叫びたかった。だが叫ぶほど、旗ではないと証明しなければならないこと自体が、もうおかしかった。


「では、一生あそこに?」


 ローゼフェリアは言った。


「父上が生きているかぎり。わたしが生きているかぎり。ジークが死ぬまで、あの塔で本を読ませ、暖炉を焚き、上等な食事を与えて、これは牢ではないと言い張るのですか」


 オットーの顔が、かすかに歪んだ。


「そうだ」


「そんなものは、飼っているのと同じです」


「そうだ」


「英雄を?」


「人間をだ」


 ローゼフェリアは息を呑んだ。


 オットーは、まっすぐに彼女を見た。


「私は英雄など飼っていない。あれが英雄なら、もっと楽だった。石像にし、歌にし、祭日に名前を読み上げれば済む。だがジークは生きている。食う。眠る。冗談を言う。お前を見て笑う。だから始末が悪い」


「父上」


「分かっている。私の言い方はひどい。だが、事実だ」


 彼は疲れたように椅子へ座った。


「私はあの男を殺せなかった。殺すべきだと言う者もいた。ジークが生きているかぎり危ない、と。処刑ではなく、病死にすればよい、と言った者もいる。私はそいつを遠い砦へ送った」


「誰です」


「聞くな」


「父上」


「聞けば、お前は憎む。憎めば、そいつは物語の悪役になる。楽になる。だが、そういう話ではない」


 ローゼフェリアは父の机に手をついた。


「では、どういう話なのです」


「誰もが少しずつ正しく、少しずつ間違っている話だ」


「そんな話、大嫌いです」


「私もだ」


 オットーは静かに答えた。


 部屋が沈黙した。


 ローゼフェリアは、父の顔を見た。老いていた。自分が思っていたよりも、ずっと。彼は辺境伯である前に、一人の老人になりかけていた。だが、その老いでさえ、責任から逃がしてはくれない。


「わたしは諦めません」


 ローゼフェリアは言った。


「そうだろうな」


「ジークをあの塔から出します」


「どうやって」


「考えます」


「考えるだけなら、私も二年やった」


「父上より、よい考えを出します」


「そうしてくれ」


 その声に、わずかな本音があった。


 ローゼフェリアは目を見開いた。


 オットーは視線を逸らした。


「私も、よい考えを待っている」


 ローゼフェリアは何も言えなかった。


 父は彼女を止めようとしているのではない。試しているのでもない。彼は本当に、別の答えを待っている。自分では見つけられなかった道を、娘が見つけることを、どこかで願っている。


 それは卑怯だった。


 最初から諦めた顔をしておきながら、希望だけは娘に預けるのか。


「父上は、ずるい」


「知っている」


「嫌いです」


「それも仕方ない」


「でも」


 ローゼフェリアは一度、言葉を切った。


「それでも、あなたがジークを殺さなかったことだけは、感謝します」


 オットーは目を閉じた。


 その顔に浮かんだものを、ローゼフェリアは見なかったことにした。父にも、見られたくないものはある。


「下がります」


「ああ」


 ローゼフェリアは扉へ向かった。


 手をかけたところで、父の声がした。


「ローゼフェリア」


「何です」


「ジークを婿に迎えることは、まだできない」


「まだ、ですか」


「言葉の綾だ」


「いいえ。今、父上は“まだ”と言いました」


 オットーは苦い顔をした。


「お前は本当に、嫌なところだけ私に似た」


「光栄です」


「褒めていない」


「知っています」


 ローゼフェリアは少しだけ笑った。


 その笑いは、北塔での笑いとは違っていた。冷たく、硬く、折れそうで折れないものだった。


「父上」


「何だ」


「ジークは詩集を読むそうです」


「……何の話だ」


「次に行ったとき、感想を聞く約束をしました」


「そうか」


「だから、死なせないでください」


 オットーは長く黙った。


 やがて、低く答えた。


「その約束なら、私も守りたい」


 ローゼフェリアは扉を開けた。


 廊下の空気は冷えていた。けれど、執務室の中にいたときより、少しだけ息がしやすかった。


 城は相変わらず忙しげに動いている。誰もが冬支度をし、書類を運び、薪を積み、命令を待ち、明日が今日の続きであるかのように働いていた。


 だがローゼフェリアには、城の石壁の内側で、何かが静かに軋み始めたのが分かった。


 婿入りでは救えない。


 だが、塔に閉じ込めたままでも救えない。


 では、どうするのか。


 彼女は廊下の窓から北塔を見上げた。雪の中に、塔は黒く立っていた。最上階の窓にだけ、薄く火の色がにじんでいる。


 あそこにいるのは灰狼ではない。


 英雄でもない。


 わたしの愛した男だ。


 ローゼフェリアは、胸の中でそう言った。


 けれど、その言葉を誰に聞かせればよいのか、まだ分からなかった。


   *


 その晩、ローゼフェリアは眠らなかった。


 城の夜は、昼よりも多くの音を持っている。石壁の中を風が這い、古い梁がときおり低く鳴る。遠くの厨では、明朝の仕込みをする者がまだ動いていた。馬屋の方からは、馬が蹄で床を掻く音もした。


 何もかも、昨日と同じように続いている。


 それがローゼフェリアには、不思議でならなかった。


 父はジークを閉じ込めた。

 ジークはそれを受け入れている。

 自分は彼を救いたい。


 ただそれだけのことなのに、城は崩れもせず、鐘も鳴らず、誰も叫ばない。世界というものは、ときどき残酷なほど平然としている。


 ローゼフェリアは机に向かい、白い紙を前にしていた。


 何を書こうとしているのか、自分でも分からなかった。王都への嘆願書。家臣団への申し入れ。父への再度の願い。ジークへの手紙。どれも、書き出す前から嘘になった。


 彼を救う言葉など、この紙の上にはなかった。


 夜明け前、彼女は立ち上がった。


 窓の外には、雪が薄く積もっていた。冬の空はまだ暗く、城の庭だけがぼんやり白い。ローゼフェリアは厚い肩掛けを羽織り、部屋を出た。


 向かったのは礼拝堂ではない。


 庭だった。


 冬の庭には花が少ない。薔薇はもう枝ばかりで、噴水の水は止められている。ただ、礼拝堂の脇に植えられた白い冬咲きの花だけが、雪の下で小さく残っていた。修道女が好む花だと、幼いころ聞いたことがある。名は忘れた。清らかな名だった気がする。


 ローゼフェリアは膝をつき、雪を払った。


 細い茎が折れそうに震えた。彼女は数本だけ摘み、ハンカチで包んだ。手袋の指先が濡れた。冷たさは、かえってありがたかった。胸の奥で熱くなりすぎたものを、少しだけ鎮めてくれる。


「お嬢様」


 背後で声がした。


 振り返ると、若い騎士が立っていた。


 名はレオンハルト・ヴァイス。まだ二十を少し越えたばかりで、北方戦役の末期に初陣を迎えた男だった。ジークに命を救われた一人でもある。整った顔に、まだ少年のような硬さが残っていた。こういう若者は、冬の朝でも寒さを認めない。


「早いのね、レオンハルト」


「見回りです」


「庭まで?」


「はい」


 嘘だった。


 ローゼフェリアはそう思ったが、言わなかった。


 レオンハルトの目は、彼女の手元を見ていた。白い花。ハンカチ。朝まだきの庭。彼は何かを察したようだった。若い者は、察してはいけないことほど早く察する。


「北塔へ行かれるのですか」


「ええ」


「ジーク卿に?」


「他に、北塔で花を受け取る人がいると思う?」


 レオンハルトは一瞬、うつむいた。


「お嬢様は、あの方をお救いになるおつもりですか」


「救えるなら」


「あの方は、救われるべきです」


 声が強かった。


 ローゼフェリアは彼を見た。


「あなたにとって、救われるとは何?」


「当然です。北塔から出て、兵の前に立たれることです。皆、待っています。灰狼が戻れば、辺境はまた一つになります」


「一つに?」


「はい」


「誰の下で?」


 レオンハルトは答えなかった。


 それだけで十分だった。


 ローゼフェリアは白い花を握り直した。茎が手の中でかすかに潰れる。


「ジークは、旗ではないわ」


「存じています」


「知らない顔ね」


「お嬢様」


「その呼び方をする人は、みんな知っていると言うの。父上も、家臣たちも、あなたたちも。けれど誰一人、彼をそのままにしてくれない」


 レオンハルトの顔が強張った。


「私は、ジーク卿を敬愛しています」


「ええ」


「命を救われました」


「知っているわ」


「あの方は、我らの誇りです」


「それが怖いの」


「誇りが、ですか」


「誇りは、人を簡単に殺すわ」


 レオンハルトは黙った。


 彼には分からないのだ、とローゼフェリアは思った。あるいは、分かりたくないのだ。彼にとってジークは、戦場の暗闇で灯った火だった。飢え、恐怖、敗北の気配。その中で、ただ一人前へ進んだ男。その記憶を否定されれば、自分の生き残った理由まで揺らぐ。


 彼もまた、ジークにすがっている。


 そして、すがる手は、ときに鎖になる。


「戻りなさい」


 ローゼフェリアは言った。


「朝の見回りなら、庭で終わらせてはいけないでしょう」


 レオンハルトは一礼した。


 その礼は丁寧だった。だが、去り際の目には、傷ついた信仰の色があった。


 ローゼフェリアはしばらく庭に立っていた。


 雪の上には、若い騎士の足跡が残っている。その足跡が北塔の方を向いていないことに、彼女は小さく息をついた。


 けれど安心はしなかった。


 信仰は、迂回する。


 正面の扉が閉ざされても、どこか別の隙間を探す。


   *


 北塔の扉を開けると、ジークは机に向かっていた。


 ローゼフェリアが渡した詩集が開かれている。彼はその上に肘をつき、ひどく難しい軍議に臨むような顔をしていた。


「読んでいるの?」


「戦っている」


「どちらが勝ちそう?」


「詩人だ。こちらの武器が少ない」


 ローゼフェリアは扉を閉めた。


「感想を聞きましょうか」


「まだ降伏していない」


「では捕虜交換にします」


「何と?」


 ローゼフェリアはハンカチを開いた。


 白い花が現れた。


 ジークの表情が、少し変わった。


 困惑ではない。喜びでもない。もっと静かな、傷に触れられたときのような顔だった。


「庭に咲いていたの」


「寒かっただろう」


「わたしが?」


「花が」


「あなたは本当に、そういうところがずるい」


「何がだ」


「わたしより先に、花の心配をするところ」


 ジークは小さく笑った。


「あなたは寒さに強い」


「勝手に決めないで」


「では、寒かったのか」


「ええ。少し」


 彼は暖炉のそばの椅子を引いた。


 ローゼフェリアは座らなかった。白い花を手にしたまま、部屋の中央に立っていた。窓の鉄格子から入る朝の光が、床に細い影を落としている。


「ジーク」


「ああ」


「今日は、花を渡しに来たの」


「見れば分かる」


「いいえ。そういう意味ではなくて」


 喉が渇いた。


 何度も考えてきた言葉だった。夜の間、紙には書けなかった言葉。庭で、雪に濡れながらようやく形になった言葉。


 けれど、いざ彼を前にすると、それはあまりに幼く、愚かで、逃げ場のないものに思えた。


「今日だけでいいの」


 ローゼフェリアは言った。


「わたしの花婿になって」


 ジークは動かなかった。


 火が薪を崩した。外の風が、窓の鉄を細く鳴らした。部屋の中のすべてが、その一言を聞いてしまったようだった。


「ローゼフェリア」


「正式なことではないわ。分かっている。父上も、家臣も、王都も、民衆も、何も認めない。礼拝堂でもない。神父もいない。誓約書もない。ただの、わたしのわがままよ」


「それを、わがままと呼ぶのか」


「呼ばないと、立っていられない」


 彼女は笑おうとした。だが、唇が震えただけだった。


「わたしは、あなたを救えないかもしれない。婿に迎えることも、塔から出すことも、父上を説き伏せることも、できないかもしれない。何を選んでも、あなたは灰狼にされる。父上もそう言った。あなたも分かっている」


「なら」


「だから、今日だけ」


 ローゼフェリアは白い花を差し出した。


「今日だけ、誰にも見られず、誰にも名づけられず、わたしだけの花婿になって。明日には、また何もなかったことにしていい。世界がそう望むなら、そうすればいい。でも、今日だけは」


 声がそこで折れた。


 ジークは彼女の手元を見ていた。


 長い沈黙のあと、彼はゆっくりと花を受け取った。大きな手の中で、白い花はひどく小さく見えた。戦場で剣を握ってきた手が、今は折れそうな茎を慎重に支えている。


「今日だけなら」


 ジークは言った。


「なおさら罪が重い」


「分かっているわ」


「分かっていない」


「分かっている」


「俺が受け取れば、あなたは忘れられなくなる」


「受け取らなくても、忘れられない」


 ジークは苦しそうに目を閉じた。


「俺は、あなたを灰狼の妻にしたくない」


「わたしも、灰狼の妻になりたいわけではないわ」


「では何に」


「あなたの妻に」


 その言葉は、静かだった。


 静かすぎて、かえって部屋の奥まで届いた。


 ジークは花を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。


 やがて、彼は自分の上衣の胸元に、白い花を挿した。戦場の勲章のようではなかった。むしろ、喪の席に置かれる小さな供花に似ていた。


「これでいいか」


「ええ」


「花婿らしく見えるか」


「少しだけ」


「ひどいな」


「だって、髪も整えていないし」


「牢番が床屋を兼ねていない」


「あと、詩集と戦っている顔をしている」


「それは花婿として悪いのか」


「少なくとも、伝説にはならないわ」


 ジークはその言葉に、ようやく笑った。


「なら、上出来だ」


 ローゼフェリアも笑った。


 笑えたことに、自分で少し驚いた。


 それから彼女は、椅子を二脚向かい合わせに置いた。卓も、杯も、燭台もない。婚礼に必要なものは何一つなかった。ただ、暖炉の火と、鉄格子越しの朝の光と、胸に白い花を挿した男がいた。


「誓いの言葉は?」


 ジークが言った。


「あなたが言うの?」


「俺は詩を読まされた。何かの罰として、少しは言葉を学んだ」


「では、どうぞ」


 彼は少し考えた。


「俺は、あなたを灰狼の妻にしない」


「それが誓い?」


「俺にできる、いちばんマシな誓いだ」


 ローゼフェリアは彼を見た。


「なら、わたしも誓います」


「ああ」


「わたしは、あなたを英雄として愛さない」


 ジークの目が揺れた。


「ジークヴァルト・グライフ。あなたが救った村も、勝った戦も、掲げた旗も、わたしは忘れない。でも、それを理由にあなたを愛したわけではない」


 声は、もう震えていなかった。


「あなたが葡萄酒を少しずつ飲むこと。詩集を嫌がること。人より花の寒さを心配すること。わたしの名を呼ぶときだけ、少し声が低くなること。そういう、くだらないことを、わたしは愛しています」


 ジークは何も言わなかった。


 ローゼフェリアは続けた。


「だから、わたしは灰狼の妻ではありません。今日だけでも、あなたの妻です」


 ジークは白い花に触れた。


 その指が、わずかに震えていた。


「ローゼフェリア」


「はい」


「それは、反則だ」


「戦場では勝てないので」


「俺にも勝ち目がない」


「では、降伏しますか」


「ああ」


 ジークは静かに言った。


「降伏する」


 二人は近づいた。


 抱き合うというには、あまりに慎重だった。ジークは彼女に触れることを恐れているようだったし、ローゼフェリアは彼の体温を確かめるだけで胸が痛んだ。


 それでも、彼の腕が背に回った瞬間、彼女は目を閉じた。


 鉄格子も、扉も、兵も、父も、城も、そのときだけ少し遠のいた。


 彼は生きている。


 この腕も、この胸の鼓動も、この不器用な息遣いも、英雄譚ではない。歌ではない。石像ではない。ここにいる一人の男だった。


 ローゼフェリアは彼の胸に額を寄せた。白い花が頬に触れた。


「ジーク」


「何だ」


「今日だけと言ったけれど」


「ああ」


「わたしは、たぶん一生、今日を覚えている」


「それは困る」


「なぜ」


「俺も忘れられなくなる」


「なら、同罪ね」


「そうだな」


 ジークは彼女の髪に触れた。


 その手つきは、戦場の男のものとは思えないほど静かだった。


「あなたを、外へ連れて行きたかった」


 ローゼフェリアは言った。


「雪の城下を歩いて、市場でパンを買って、酒場でくだらない噂を聞いて、父上に内緒で遠乗りをして。そんなことを、したかった」


「俺はパンを選ぶのが下手だ」


「練習すればいいわ」


「酒場では目立つ」


「帽子をかぶればいい」


「遠乗りは、辺境伯に怒られる」


「そのときは、あなたのせいにします」


「悪い妻だ」


「今日だけなら、許されるわ」


 ジークは笑った。


 ローゼフェリアは、その笑いを胸にしまった。


 この先、何が起きても、この笑いだけは自分のものだと思った。誰も灰狼の伝説に書き込めない。歌い手がどれほど美しく声を張っても、民衆がどれほど彼を讃えても、この困ったような笑い方までは知らない。


 知らないものは、奪えない。


 そのはずだった。


   *


 昼近くになって、北塔の下が騒がしくなった。


 最初は、兵の足音だった。次に、押し殺した声。それから、甲冑の触れ合う音がした。


 ジークはローゼフェリアから身を離した。


「何かあったな」


「待って。わたしが見る」


「いや」


 彼は胸の白い花を抜き、机の上に置いた。


「ジーク?」


「ここにいろ」


「なぜ」


「足音が乱れている」


 ローゼフェリアは扉の方を見た。


 外から、誰かが低く言い争う声が聞こえた。兵が止めている。別の誰かが詰め寄っている。言葉はまだ聞き取れない。


 だが、次の瞬間、はっきりと響いた。


「灰狼卿にお目通りを!」


 ローゼフェリアの背筋が冷えた。


 レオンハルトの声だった。


「お下がりください、ヴァイス卿。許可がありません」


「辺境が危うい時に、許可など待てるか!」


 ジークの顔から、柔らかさが消えた。


 兵の声が続く。


「ジーク卿は療養中です」


「嘘だ! 皆、知っている! 辺境伯は灰狼を閉じ込めている!」


 その言葉は、石壁にぶつかって部屋の中へ入ってきた。


 ローゼフェリアは扉へ向かった。


 ジークが腕を取った。


「開けるな」


「でも」


「開ければ、終わる」


 彼の声は静かだった。


 それが、何より怖かった。


 外では足音が増えていた。レオンハルト一人ではない。何人かいる。若い騎士たちだろう。誰かがジークの名を呼んでいる。灰狼卿。灰狼卿。救い主の名を呼ぶように。


 ローゼフェリアは、今朝の庭での会話を思い出した。


 誇りは、人を簡単に殺す。


 自分で言った言葉が、自分の喉を締めた。


「ジーク」


「ああ」


「どうすればいいの」


 彼はしばらく答えなかった。


 扉の外で、鈍い音がした。誰かが突き飛ばされたのか、鎧が壁に当たったのか。兵の怒声が上がる。


 ジークは机の上の白い花を見た。


 そして、ひどく穏やかな顔をした。


「たぶん」


 彼は言った。


「もう、隠れているだけでは済まない」


「何をするつもり」


「灰狼を殺す」


 ローゼフェリアは息を呑んだ。


「ジーク」


「人を殺すよりはましだ」


「そんな言い方をしないで」


「すまない」


 彼は白い花をもう一度取り、胸に挿した。


「でも、あなたに誓った」


「何を」


「あなたを、灰狼の妻にはしない」


 扉の外で、レオンハルトが叫んだ。


「我らはあなたを待っています! ジーク卿!」


 ジークは目を閉じた。


 それは祈りではなかった。


 覚悟でも、まだ足りない。


 自分がこれから壊すものの重さを、最後に量っている顔だった。


 ローゼフェリアは彼の袖を掴んだ。


「行かないで」


 ジークは彼女を見た。


 その目は優しかった。


 優しい目は、いつも別れに似ている。


「ローゼフェリア」


「いや」


「今日、俺はあなたの花婿だった」


「だった、なんて言わないで」


「なら、今もだ」


 ジークは彼女の手を取った。


 その手は温かかった。


「だから、行く」


「どうして」


「花婿が、花嫁を伝説に売るわけにはいかない」


 扉の向こうで、鍵が乱暴に鳴った。


 ローゼフェリアは彼の手を離せなかった。けれど、ジークは無理にほどかなかった。ただ、彼女が自分から離すまで待っていた。


 その優しさが、何より残酷だった。


 やがて、ローゼフェリアは指を解いた。


 ジークは頷いた。


 そして扉の方へ歩いた。


 その背に白い花は見えない。けれどローゼフェリアには分かっていた。彼の胸には、確かにそれがある。誰も知らない婚礼の花。誰も認めない誓い。誰にも渡したくない、一人の男のしるし。


 錠が開く音がした。


 北塔の扉が、内側から開いた。


   *


 扉の外には、若い騎士たちがいた。


 レオンハルト・ヴァイスを先頭に、五人。皆、鎧を着ていた。儀礼のための鎧ではない。冬の朝に金属の匂いを濃くさせる、戦うための装いだった。


 塔番の兵二人は、壁際に押しやられていた。血は流れていない。だが、一人は腕を押さえている。もう一人は歯を食いしばり、剣の柄から手を離さずにいた。


 ジークが姿を見せた瞬間、若い騎士たちは一斉に膝をついた。


 その動きに、ローゼフェリアは背筋の冷えるものを見た。


 敬意ではない。

 祈りだった。


「灰狼卿」


 レオンハルトが言った。


 声が震えていた。歓喜のせいで。


「我らは、お迎えに参りました」


 ジークはしばらく彼らを見下ろしていた。


 胸には白い花が挿してある。若い騎士たちのうち、誰もそれに気づいていないようだった。気づいても、意味は分からなかっただろう。


「立て」


 ジークは言った。


 騎士たちは立ち上がった。


「誰の命令だ」


「命令など、ございません」


「なら反乱か」


 レオンハルトの顔が強張った。


「違います。我らは、あなたをお救いしようと」


「俺はそういう善意を、戦場で何度か見た。だいたい死人が増える」


「ジーク卿」


「灰狼と呼ぶな」


 その一言で、廊下の空気が凍った。


 レオンハルトの目が揺れた。


「……では、何とお呼びすれば」


「名前がある」


「ジークヴァルト卿」


「卿もいらない」


「しかし」


「名前があると言った」


 若い騎士たちは互いに顔を見合わせた。彼らはジークを助けに来たつもりだった。その救うべき相手が、自分たちの差し出した名を拒んだ。それだけで、彼らは足場を失う。


 ローゼフェリアは、ジークの背後に立っていた。


 彼の肩越しに、レオンハルトの顔が見える。苦しそうだった。信じる対象に拒まれる者の顔。だが、同時に、拒まれたことをまだ理解できない顔でもあった。


「城下に、人が集まっています」


 レオンハルトは言った。


「あなたのお姿を一目見たいと。皆、知っています。辺境伯があなたを北塔に閉じ込めていたことを。もう隠せません」


「誰が知らせた」


「真実は、隠しても漏れます」


「便利な言葉だな。自分で穴を開けたやつほど、そう言う」


 レオンハルトは唇を噛んだ。


 ジークは階段の方へ目を向けた。


「城下の広場か」


「はい」


「なら、そこで話す」


 ローゼフェリアは一歩前へ出た。


「ジーク」


「ここで押し問答をすれば、塔の中で血が出る」


「行けば、もっと」


「分かっている」


 ジークは振り返った。


 その目は、北塔の部屋で詩集に困っていた男のものではなかった。戦場で人を動かし、死ぬ場所を選び、勝つために捨てるものを決めてきた男の目だった。


 けれどローゼフェリアには、その奥に別のものも見えた。


 怖れている。


 彼は怖れている。自分が傷つくことではなく、自分の名が誰かを傷つけることを。


「わたしも行きます」


「来るな」


「行きます」


「ローゼフェリア」


「今日だけでも、わたしはあなたの妻でしょう」


 ジークの顔が、わずかに崩れた。


 そんな言い方をするな、と言いたげだった。だが、彼は言わなかった。


「では、離れるな」


「ええ」


「俺が何を言っても」


「ええ」


「俺を嫌うな」


 ローゼフェリアは息を止めた。


「それは、無理ね」


「そうか」


「あなたが何を言っても、嫌いにはなれないもの」


 ジークは一瞬だけ目を閉じた。


 それから階段を下り始めた。


 若い騎士たちは左右に分かれた。まるで王を通すように。


 ローゼフェリアはその後ろを歩いた。ジークの背には何もない。ただ、その胸に白い花があることを、彼女は知っている。彼が一歩下りるたびに、自分たちだけの婚礼が遠のいていくようだった。


 階下へ降りるにつれて、城のざわめきが大きくなった。


 誰かが走る音。扉の開く音。女中の悲鳴。命令を叫ぶ兵の声。どれも雪に包まれて鈍くなりながら、城全体に広がっていく。


 北塔の出口に、オットーがいた。


 外套も羽織らず、執務室からそのまま来たのだろう。髪は乱れ、顔には夜を越したような疲れがあった。彼の後ろには家令と古参の兵が数人立っている。


 ジークとオットーは向かい合った。


 その二人の間には、十年分の戦と、恩と、裏切りと、沈黙があった。


「出るのか」


 オットーが言った。


「はい」


「戻れると思うな」


「思っていません」


「何をする」


「終わらせます」


 オットーは、ジークの胸の白い花に気づいた。


 一瞬、彼の視線がローゼフェリアへ動いた。父の目は何も言わなかった。だが、それだけで彼は理解したようだった。


 ローゼフェリアは、父から目を逸らさなかった。


 オットーは深く息を吐いた。


「私は、お前を守れなかったな」


 それがジークに向けられた言葉なのか、ローゼフェリアに向けられた言葉なのか、分からなかった。


 ジークは首を横に振った。


「閣下は、生かしてくださいました」


「同じことではない」


「違います」


 ジークは静かに言った。


「でも、今はそれで十分です」


 オットーは何かを言いかけ、やめた。


 彼は家令に命じた。


「広場へ兵を出せ。ただし、剣を抜かせるな。弓も構えさせるな。民を押すな。誰かが叫んでも、動くな」


「旦那様」


「命令だ」


 家令は一礼して走った。


 オットーはローゼフェリアを見た。


「お前は残れ」


「嫌です」


「父親の命令だ」


「では、娘として拒みます」


「領主の命令だ」


「今日のわたしは、領主の娘ではありません」


 オットーの目が痛むように細められた。


「では、何だ」


 ローゼフェリアは、はっきり答えた。


「ジークの妻です」


 若い騎士たちの間に、かすかなざわめきが走った。


 オットーは黙った。

 ジークも黙った。


 ローゼフェリアは、胸の内で何かが静かに割れる音を聞いた。恥ではない。恐怖でもない。もう戻れない場所へ、自分で足を置いた音だった。


「そうか」


 オットーは言った。


 それだけだった。


   *


 城下広場は、雪の中に人で埋まっていた。


 市場の屋台は半ば閉じられ、馬車は端へ寄せられている。職人、商人、退役兵、女たち、子どもたち、城の下働き。誰もが白い息を吐き、城門の方を見ていた。


 ジークが姿を現すと、最初に静寂が来た。


 それから、歓声が爆ぜた。


「灰狼だ!」


「灰狼卿!」


「ジークヴァルト様!」


 声が四方から押し寄せた。泣いている者もいた。帽子を脱ぐ者、膝をつく者、子どもを抱き上げる者。雪の中で人々の目だけが熱を帯びている。


 ローゼフェリアは、ジークの隣に立っていた。


 歓声は彼女を通り過ぎ、彼だけに降り注いだ。人々は彼女を見ていない。見ていても、意味を与えない。彼女は辺境伯の娘ではなく、灰狼の傍らにいる女になっていた。


 父の言葉は正しかった。


 そのことが、ひどく腹立たしかった。


 ジークは広場の中央へ進んだ。雪を踏む音が、人の声の下でかすかに聞こえる。彼は手を上げた。


 それだけで、少しずつ歓声が鎮まった。


 誰もが彼の言葉を待っている。


 勝利の言葉を。

 帰還の言葉を。

 自分たちが信じてきた灰狼が、やはり灰狼であったと証明してくれる言葉を。


 ジークは、広場を見渡した。


「俺の名は、ジークヴァルト・グライフだ」


 声は大きくなかった。だが、不思議とよく通った。


「灰狼ではない」


 広場の空気が揺れた。


 遠くで誰かが笑った。冗談だと思ったのかもしれない。だが、ジークの顔を見て、その笑いはすぐ消えた。


「北門の戦で、俺が敵を破ったという歌がある。敵将を討ち、逃げる者を追い、夜明けまで戦ったと」


 ジークは淡々と話した。


「あれは半分違う。俺は命令を破った。北門を守れと言われていたのに、持ち場を離れた。敵の側面を突いた。それで勝った。だが、その間に門の前に残した兵が三十七人死んだ」


 人々が顔を見合わせた。


「氷河を渡ったという話もある。俺が先頭に立ち、兵を導いたと」


 彼は続けた。


「違う。氷は薄かった。俺は軽い者から先に渡らせた。重傷者と荷車を後にした。敵が迫っていたからだ。最後の荷車は沈んだ。中には、動けない兵が二人いた」


 ローゼフェリアは拳を握った。


 ジークの声は揺れなかった。


 だから余計に、その一つ一つが雪の中へ深く刺さっていく。


「東の村を救ったという歌がある。俺が火の中へ飛び込み、女と子どもを助けたと」


 広場の老女が、顔を上げた。


「あの村は救えなかった。俺たちが着いたとき、もう火は回っていた。俺は兵を止めた。入れば全員死ぬと思ったからだ。泣いている声は聞こえた。今でも聞こえる」


 沈黙が広がっていった。


 誰も叫ばなかった。


 彼らは、何を聞かされているのか分からなくなっていた。英雄の物語には、こういう場面がない。歌い手は、聞こえた泣き声の後に何ができなかったかまでは歌わない。


「俺は勝った。勝つために、人を置いてきた。救った命もある。見捨てた命もある。俺だけが特別だったわけではない。死んだ者の中には、俺より勇敢な者がいた。俺より正しい者もいた。だが、そいつらは死んだ。俺は生き残った」


 ジークは、自分の胸の白い花に触れた。


「生き残った者には、名前が残る。死んだ者には、歌も残らないことがある。だから俺の名が大きくなっただけだ」


 レオンハルトが、広場の前列に立っていた。


 彼の顔は蒼白だった。


「やめてください」


 小さな声だった。


 ジークはそちらを見た。


「あなたは、そんな人ではない」


 レオンハルトは一歩前に出た。


「あなたは、我らを救った。私を救った。北の民を救った。皆があなたを待っていた。あなたがいてくださるから、我々は――」


「俺に救われたことまで、嘘にする気はない」


 ジークは言った。


「だが、それだけを真実にするな」


「なぜです!」


 レオンハルトの声が裂けた。


「なぜ、そんなことをおっしゃるのです! 我らはあなたを信じていた。あなたが灰狼であることを信じて、ここまで耐えてきたのに!」


「それが間違いだった」


「違う!」


「レオンハルト」


「違う!」


 若い騎士は、少年のように首を振った。


「あなたは灰狼です。そうでなければならない。そうでなければ、あの戦で死んだ者は何のために死んだのです。私たちは何を信じて生きればいいのです」


「自分で選べ」


 ジークの声は、静かだった。


「死人に意味を背負わせるな。生き残った俺にもだ」


 レオンハルトの顔から、血の色が消えた。


 広場の人々は息をひそめていた。誰も動けない。英雄が、自分で英雄の像を壊している。それを止める言葉を、誰も持っていなかった。


 ジークはもう一度、広場を見渡した。


「俺は灰狼ではない」


 彼は言った。


「ただ、死に損なった兵士だ」


 その言葉が終わった瞬間、雪の音が聞こえた。


 歓声はなかった。


 憎しみも、まだなかった。


 ただ、人々は寒そうに立っていた。自分たちが暖を取っていた火を、突然消された者たちのように。


 ローゼフェリアは、ジークの横顔を見ていた。


 彼はやり遂げたのだと思った。


 灰狼は、今、死んだ。


 ジークは生きている。


 そう思った。


 その一瞬だけ。


「嘘だ」


 レオンハルトが言った。


 彼は歩き出していた。


 誰も止めなかった。いや、止めるべきだと気づくのが遅れた。彼の手が外套の内へ入ったとき、ローゼフェリアはようやく叫ぼうとした。


 だが、声より早く、銀色のものが雪明かりに光った。


「あなたは、そんな男ではない!」


 レオンハルトが叫んだ。


 次の瞬間、ジークの体がわずかに傾いた。


 広場のすべての音が消えた。


 ローゼフェリアは、何が起きたのかすぐには分からなかった。ジークが一歩下がり、胸に手を当てた。白い花が乱れている。


 レオンハルトは、呆然と立っていた。


 自分のしたことを、自分で信じられない顔だった。


「ジーク!」


 ローゼフェリアは駆け寄った。


 ジークの体が膝から崩れた。彼女はそれを受け止めようとして、一緒に雪の上へ座り込んだ。重かった。生きている人間の重さだった。


 白い花に、赤い色が滲んでいた。


 ローゼフェリアはそれを見ないようにした。見れば、何かが終わってしまう気がした。


「医師を!」


 誰かが叫んだ。


 オットーの怒号が飛んだ。


「ヴァイスを押さえろ! 誰も動くな!」


 兵たちが走る。人々がどよめく。女の悲鳴が上がる。雪の静けさは破れた。


 だがローゼフェリアの周りだけ、異様に遠かった。


 ジークは彼女を見上げていた。


 目はまだ、はっきりしている。


「悪い」


 彼は言った。


「花婿には、なれなかった」


 ローゼフェリアは首を振った。


 声が出なかった。


 やっと出た声は、自分のものとは思えないほど静かだった。


「いいえ」


 彼女は、ジークの胸の白い花に触れた。


「今日だけは、そうでした」


 ジークの口元が、少しだけ動いた。


 困ったような笑みだった。


 北塔で何度も見た笑い方。


 誰も知らない、彼女だけのもの。


「詩集は」


 ジークはかすれた声で言った。


「読まなかったわね」


「少し読んだ」


「感想は」


「難しい」


 ローゼフェリアは涙をこぼさなかった。


 今泣けば、彼の顔が見えなくなる。


「ひどい感想ね」


「すまない」


「いいわ。あなたらしい」


 ジークの手が、わずかに動いた。


 ローゼフェリアはその手を握った。冷えていくにはまだ早い。まだ温かい。まだ彼はここにいる。


「ローゼフェリア」


「はい」


「俺を」


 言葉が途切れた。


 彼は苦しそうに息をした。


 ローゼフェリアは耳を近づけた。


「灰狼なんかに、戻すな」


「ええ」


「あなたは」


「ええ」


「俺の名を」


 それ以上は、言葉にならなかった。


 彼の指から力が抜けた。


 ローゼフェリアはその手を握ったまま、しばらく動かなかった。


 広場は騒がしかった。人が叫んでいる。兵が命令を飛ばしている。レオンハルトは取り押さえられ、地面に膝をついていた。彼は泣いていた。泣きながら、何度も同じことを言っていた。


「違う。違う。灰狼は、こんなふうに死んではならない。違う」


 その声を聞いた瞬間、ローゼフェリアの中で何かが静かに澄んだ。


 悲しみではない。


 怒りでも、まだ足りない。


 もっと冷たい、拒絶だった。


 人々の中から、誰かが叫んだ。


「灰狼が死んだ!」


 別の声が重なった。


「英雄が殺された!」


「灰狼を悼め!」


 その言葉が、雪の中で膨らんでいく。


 ジークが壊したはずの像が、彼の死を材料にして、また立ち上がろうとしていた。死んだ途端に、彼は再び奪われていく。彼が最後に否定した名で、彼を包み直そうとする手が、無数に伸びてくる。


 ローゼフェリアは、ジークの体を抱いたまま顔を上げた。


「その名で呼ばないで」


 声は大きくなかった。


 だが、不思議と広場に通った。


 人々が彼女を見た。


 今になって、ようやく。


 ローゼフェリアは立ち上がらなかった。雪の上に膝をつき、ジークを腕に抱いたまま、広場を見渡した。


「彼は灰狼ではありません」


 誰かが何か言おうとした。


 彼女は遮った。


「あなたたちが待っていた英雄ではありません。あなたたちの歌でも、旗でも、祈りでもない。彼には名前がありました。ジークヴァルト・グライフ。葡萄酒を少しずつ飲む人でした。詩を読むのが下手な人でした。花の寒さを先に心配する人でした」


 オットーが近づこうとして、止まった。


 彼女は父を見なかった。


「あなたたちは、彼を愛したのでしょう。なら、なぜ彼の言葉を聞かなかったの。彼が灰狼ではないと言ったのに、なぜ死んだ途端にその名へ戻すの」


 広場に、沈黙が落ちた。


 ローゼフェリアは、ジークの胸から白い花をそっと抜いた。


 白い花は、もう白くなかった。


 けれど彼女には、それが婚礼の花に見えた。


「彼は、今日だけわたしの花婿でした」


 その言葉に、人々が息を呑んだ。


「誰も認めなくていい。父上も、家臣も、王都も、神父も、あなたたちも。けれど、わたしは知っています。彼は灰狼として死んだのではない。わたしの夫として、わたしの腕の中で死んだのです」


「ローゼフェリア」


 オットーの声がした。


 初めて聞くような声だった。


 父の声ではない。辺境伯の声でもない。何も守れなかった男の声だった。


 ローゼフェリアは、白い花を胸に抱いた。


「父上」


 彼女は静かに言った。


「どうか、もう彼を飼わないで」


 オットーは顔を歪めた。


「やめろ」


「歌にもしないで。旗にも、祭日にも、石像にも」


「ローゼフェリア」


「わたしが連れていきます」


 雪の上に落ちた短剣を、ローゼフェリアは静かに拾った。


 父の叫びが聞こえた。


 けれど彼女は振り向かなかった。


 ローゼフェリアはジークのそばに身を沈めた。雪の上に、白い外套が赤く広がる。彼女は最後まで、刃を人に向けなかった。誰にも復讐せず、誰にも呪いを吐かず、ただ彼の名を奪い返すように、ジークの手を握った。


 広場のざわめきが遠くなった。


 雪が降っている。


 北塔へ行く朝も、こんな雪だった。


 ジークは、詩集に困った顔をしていた。花婿らしくないと笑った。今日だけは自分のものだった。誰にも見られず、誰にも名づけられず、ただ一人の男として、彼は彼女の前にいた。


 ローゼフェリアは、ジークの手を握ったまま目を閉じた。


 彼の指は、まだわずかに温かかった。


   *


 その年の冬は長かった。


 広場の雪は何度も降り直し、血の跡も、人々の足跡も、やがて消えた。だが、北の者たちは長くその日のことを語った。


 灰狼が死んだ日、と言う者がいた。


 辺境伯の娘が恋に殉じた日、と言う者もいた。


 若い騎士の狂信が英雄を殺した日、と記録に残そうとした者もいた。


 けれどオットー・フォン・ノルデンは、そのどれも許さなかった。


 広場に石像は建てられなかった。


 歌い手には銀貨が与えられ、代わりに沈黙を命じられた。


 城の記録には、ただ一行だけが書かれた。


 ジークヴァルト・グライフ、死去。

 ローゼフェリア・フォン・ノルデン、その傍らにて息絶える。


 灰狼の名は、そこにはなかった。


 北塔の部屋は閉ざされた。


 本棚には、読みかけの詩集が残された。頁の間には、乾いた白い花が一輪挟まれていた。誰がそこに挟んだのかは分からない。ある者は辺境伯だと言い、ある者は塔番の兵だと言った。


 真実を知る者は、もうほとんどいなかった。


 ただ、冬になると、北の城では塔の窓にだけ長く雪が残った。


 人々はそれを見上げ、かつて灰狼と呼ばれた男の話をしようとして、なぜか声を落とした。


 彼が本当に何者であったのか。


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