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DARKNESS ―奪われた自由のために―  作者: Ilysiasnorm


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第52話 奪われた自由のために

黒層が崩れ始めていた。

 床には亀裂が走り、天井から配管が落ちる。

 赤い警報灯が明滅し、黒い壁を血のように染めていた。

 警告音声が、何度も繰り返される。

 黒層中枢、制御不能。

 B8全域、崩壊進行。

 隔壁閉鎖開始。

 全作戦員、退避。

 啓介は、ユリを胸に抱いていた。

 その身体は冷たい。

 呼吸も浅い。

 それでも、ユリは生きている。

 自分の意思で目を開き、自分の意思で啓介の名を呼んだ。

「啓介……」

「ああ」

 啓介はユリを抱き直した。

 撃たれた傷が痛む。

 黒血を使った反動で、身体の感覚も薄れていた。

 だが、腕の中にいるユリだけは、はっきりと感じられた。

 黒瀬が端末を確認する。

「正規の搬出口は閉じた」

「B7からB6へ戻る。そこから黒脈の保守線に入る」

 鬼塚が崩れかけた通路を見る。

「またあの地下鉄かよ」

「嫌なら、ここで埋まれ」

「それよりはましだ」

 一真が赤血を腕に纏わせる。

「喋ってる暇があるなら走れ!」

 鬼塚が鼻を鳴らした。

「ガキに命令される筋合いはねえ」

「誰がガキだ!」

「それだよ」

「何がだ!」

 黒層が大きく揺れた。

 天井から鉄骨が落下する。

 鬼塚が前へ出て、血装した腕で鉄骨を弾き飛ばした。

「続きは外でやれ!」

「行くぞ!」

 鬼塚を先頭に、一行は走り始めた。

     ◇

 啓介の腕の中で、ユリが小さく身じろぎした。

「啓介……」

「無理に喋るな」

「私……あなたを撃った」

 啓介の足が、わずかに鈍った。

「私が撃ったの」

「命令されただけじゃない」

「私が……引き金を引いた」

 ユリの声が震える。

 雨の中。

 銃声。

 倒れた啓介。

 戻り始めた記憶の中で、その瞬間だけは鮮明に残っていた。

「ごめんなさい……」

 啓介は前を見たまま答えた。

「起きてしまった事を、無かった事には出来ない……」

 「でも、それでお前が終わるわけじゃない」

ユリの指が、啓介の胸元を掴む。

「許して……くれるの……?」

「許すとか許さないとかじゃない……」

「初めからユリは悪くない。」

 崩れる通路を走りながら、啓介は言った。

「今は生きて出る」

「その後で、何度でも話せばいい」

 ユリは啓介を見上げた。

「その後……」

「ああ」

 啓介の呼吸は荒い。

 それでも声は揺れなかった。

「お前も生きろ」

「俺も生きて聞く」

 ユリの目から、また涙がこぼれた。

 あの雨の夜、啓介は終わろうとしていた。

 だが今は違う。

 失った時間をなかったことにはできない。

 それでも、その先を選ぶことはできる。

 ユリは小さく頷いた。

「……うん」

     ◇

 黒瀬は走りながら端末を操作していた。

 画面には、黒層の記録が次々と表示される。

 CRV-23研究記録。

 被験者選別記録。

 外装化適合実験。

 記憶改ざん処理。

 SP-07管理記録。

 AS-01、AS-02関連データ。

 DARKNESSα計画。

 死亡記録改ざん。

 孤児院からの対象者選別。

 そして、その上に新たな警告が重なる。

 機密記録削除開始。

 外部送信遮断。

 全記録初期化まで、残り三分。

「都合が悪くなったら、全部消す気か」

 黒瀬が吐き捨てる。

 端末に通信が入った。

『黒瀬』

 南條の声だった。

『記録は受け取り始めている』

『だが、一つの回線だけでは消される』

「分かってる」

 黒瀬は送信先を増やす。

 一つではない。

 二つでもない。

 国内外の複数の保管先。

 報道機関。

 司法関係者。

 監視組織。

 誰か一人が裏切っても、真実まで消せないように。

『上層部から削除命令が来ている』

「従うのか」

 通信の向こうで、南條が黙った。

『従わない』

 黒瀬がわずかに笑う。

「自分の名前も入ってるぞ」

「あんたの関与も、全部だ」

『構わない』

 南條の声は静かだった。

『私の罪だけを消して、何が真実だ』

 黒瀬の指が止まる。

 ほんの一瞬だけだった。

 すぐに操作を再開する。

「俺たちは記録から消された」

 送信率が上がっていく。

「なら今度は、消せない記録を残す」

 送信完了まで、残り二十秒。

 黒層の削除処理が追いかけてくる。

 黒瀬はすべての回線を開いた。

「消せるものなら、消してみろ」

 送信率、百パーセント。

 複製完了。

 外部保管先、複数。

 一括削除不能。

 黒瀬は息を吐いた。

「これでもう、なかったことにはできない」

     ◇

「止まって!」

 相良の声が響いた。

 啓介が足を止める。

 相良は黒瀬に支えられながら、ユリの首元を見た。

 制御具は外れている。

 だが、皮膚の下に小さな赤い光が残っていた。

「制御信号がまだ生きてるわ」

 啓介の表情が変わる。

「また記憶を……?」

「違う」

「身体の強制停止信号よ」

 相良は息を整える。

「黒層から一定距離を離れた時に、神経を止めるように組まれている」

 一真が振り返った。

「どこまで人を縛れば気が済むんだよ……!」

 相良は指先を血装化させた。

 細い針のような端子が伸びる。

 黒瀬がその腕を掴む。

「待て」

「今のお前が接続したら危険だ」

「これ以上無茶はするな…」

 相良がわずかに笑った。

「心配ないわ…これくらい大丈夫。」

 相良はユリを見る。

「少しだけ痛むかもしれない」

 ユリは弱く頷いた。

「お願いします」

 相良の端子が、ユリの首元へ触れる。

 赤い光が走った。

 ユリの身体が震える。

「ユリ!」

「大丈夫……」

 相良の顔から血の気が引いていく。

 それでも接続を切らない。

「これは、あなたの身体に残された最後の命令」

 相良の血装が、制御信号へ食い込む。

「でも、もう従わなくていい」

 赤い光が強く点滅する。

 警告音声が流れた。

 SP-07。

 管理領域離脱を検知。

 生体停止処理、開始。

 相良が歯を食いしばる。

「させない……!」

 細い血装端子が、信号を断ち切った。

 ユリの首元から赤い光が消える。

 端末表示が変わる。

 SP-07。

 生体管理信号、消失。

 対象、追跡不能。

 相良の身体が崩れた。

 黒瀬が受け止める。

「相良!」

「大丈夫よ……」

「少し、疲れただけ……」

「それを大丈夫とは言わない」

 相良はユリを見た。

「これで、あなたはもうSP-07じゃない」

 ユリの瞳が揺れる。

「あなたは、御崎ユリよ」

「相良さん……」

「私は、壊した記憶を全部戻せるわけじゃない」

 相良は苦しそうに息を吐いた。

「でも、これ以上壊させないことはできる」

 ユリは涙を浮かべたまま頷いた。

「ありがとう……」

     ◇

 B7へ続く通路の前で、大型隔壁が閉じ始めた。

「急げ!」

 黒瀬が叫ぶ。

 鬼塚が先に駆け込み、血装した両腕で隔壁を受け止める。

 金属が軋む。

「先に行け!」

 啓介がユリを抱えたまま足を止める。

「鬼塚!」

「振り返るな!」

 隔壁の圧力が増していく。

 鬼塚の外殻に亀裂が入る。

 血が腕を伝った。

「早くしろ!」

 一真が黒瀬と相良を通す。

 啓介は動かない。

「お前を置いていけるか!」

 鬼塚が啓介を睨んだ。

「置いていくんじゃねえ!」

 その声が通路に響く。

「戻ってこいって言ってんだ!」

 その言葉は、鬼塚自身にも向けられていた。

「俺を勝手に死人にするな!」

「死亡記録なら、もう間に合ってんだよ!」

 一真が啓介の肩を押す。

「行け!」

「でも――」

「あのおっさんは死なねえ」

 鬼塚の額に青筋が浮かぶ。

「誰がおっさんだ!」

 一真が笑う。

「ほら、元気だ」

「あとで説教だ!」

「生きて出てからにしろ!」

 啓介は鬼塚を見る。

 鬼塚が顎をしゃくった。

「行け、DARKNESS」

「今度こそ、その女を外まで連れていけ」

 啓介は一度だけ頷いた。

「必ず戻れ」

 鬼塚は口の端を上げた。

「すまない……」

 啓介は隔壁を抜けた。

 その直後、鬼塚が血装の出力を一気に上げる。

 隔壁をわずかに押し返し、自らも隙間へ飛び込んだ。

 背後で隔壁が完全に閉じる。

 鬼塚は床を転がり、一真の足元で止まった。

 一真が見下ろす。

「遅えよ、おっさん」

 鬼塚の拳が、一真の脛へ入った。

「痛え!」

「誰がおっさんだ」

「今それやるか普通!」

「俺流の説教だよ。」

 鬼塚は立ち上がる。

 砕けた血装の拳を見て、小さく呟いた。

「壊すための拳だと思ってたが……」

 一真が脛を押さえながら睨む。

「何だよ」

「案外、支えるのにも使えるもんだな」

 一真は鼻で笑った。

「似合わねえ」

「もう一発いるか」

「いらねえよ!」

     ◇

 東京都心地下。

 黒脈中央管制室では、南條光太が一人、鳥島黒層の崩壊記録を見つめていた。

 複数の画面に、上層部からの命令が表示されている。

 黒脈全線封鎖。

 鳥島黒層との接続切断。

 機密記録の完全削除。

 侵入個体の回収、または排除。

 通信が入る。

『南條管理官』

『直ちに削除命令を実行してください』

 南條は画面を見たまま答えない。

『これは国家安全保障上の命令です』

「私は、命令に従いすぎた」

『何を言っている』

「その結果、多くの不幸を生んだ……」

 南條は端末を操作する。

 黒脈の非常経路が開く。

 同時に、自分の権限記録、指示記録、TAIDA上層部との通信記録を外部へ送る。

『南條管理官』

『命令違反は反逆とみなします』

「ならば、そう記録しろ」

『直ちに停止してください』

「拒否する」

 南條は立ち上がった。

 管理者用端末から記録媒体を抜き取る。

 管制室の外では、警備部隊が近づいていた。

 黒瀬から通信が入る。

『あんた、戻る場所なくなるぞ』

「最初から、戻る資格などなかった」

『それで捕まる気か』

「いや」

 南條は管理者専用の非常通路を開く。

「生きて逃げる」

「逃げて、すべてを残す」

 通信の向こうで、黒瀬がわずかに笑った。

『やっとまともな判断をしたな』

「否定はしない」

 南條は管制室を振り返る。

 長い間、ここから人間を管理してきた。

 生死を数字で見て、名前を番号に変えてきた。

 その場所を、初めて自分の意思で捨てる。

 南條は非常通路へ入った。

 扉が閉じる直前、啓介へ通信を繋ぐ。

『風間』

「南條」

『黒脈の非常搬送車を起動した』

『あと四分で保守線へ到着する』

「南條さんは……?」

『私も逃げる』

 啓介がわずかに黙った。

『死んで償うつもりはない』

 南條は暗い通路を歩く。

『生きて、私がしたことを話す』

『すべて残す』

「……そうか」

『ユリを頼む』

「命令か」

『いや』

 南條の声が、少しだけ柔らかくなる。

『一人の人間としての頼みだ』

 啓介は答えた。

「分かった」

『また会えるなら、その時は管理者ではなく話そう』

「南條光太としてか」

『ああ』

 通信が切れた。

 南條は振り返らなかった。

     ◇

 B6へ続く通路で、啓介の足が止まった。

 視界が揺れる。

 黒血が薄く剥がれ、膝が崩れかけた。

「啓介!」

 一真がすぐに身体を支える。

 ユリを抱く腕だけは、啓介は緩めなかった。

「ユリを……頼む」

 一真は即座に答えた。

「断る」

「一真……」

「自分で連れて出せ」

 一真は啓介の肩を担ぐ。

「そのために、ここまで来たんだろ」

 赤血が啓介の黒血へ触れる。

 暴れかけた流れを静かに逸らす。

「俺は、お前を殺すための牙じゃない」

 一真は前を向いたまま言った。

「お前を人間に戻すための牙だ」

 啓介は一真を見る。

「ああ」

「それと」

 一真の赤血が、さらに啓介を支える。

「俺はもう、AS-02じゃねえ」

「分かってる」

 啓介は苦しそうに息を吐く。

「剣城一真だ」

 一真が顔をしかめた。

「今さら名前で呼ぶな」

「気持ち悪い」

「事実だ」

「余計に気持ち悪い」

 ユリが啓介の腕の中で、かすかに笑った。

 その笑い声を聞いて、二人は一瞬だけ黙る。

 一真が小さく言った。

「……早く出るぞ」

     ◇

 黒脈の保守線に、無人搬送車が滑り込んできた。

 扉が開く。

 一行は車内へ乗り込んだ。

 黒瀬が操作盤へ向かう。

 相良は座席に横たわりながら、ユリの状態を確認する。

 鬼塚は歪んだ扉を押さえる。

 一真は啓介の隣に立った。

 扉が閉じる。

 搬送車が動き始めた。

 背後で、鳥島黒層が崩れていく。

 黒脈全体が大きく揺れる。

 照明が消えた。

 車両が急減速する。

「止まるぞ!」

 鬼塚が叫ぶ。

 黒瀬が予備電源を繋ぐ。

「黙って押さえてろ!」

「押さえてる!」

「もっと押さえろ!」

「無茶言うな!」

 相良が弱く言った。

「二人とも……声が大きいわ」

 一真が操作盤を見る。

「黒瀬、動くのか!」

「動かす!」

 黒瀬が予備回路を強制接続する。

 搬送車が再び動き始めた。

 その時、認証音声が流れた。

 認証対象。

 AS-01。

 AS-02。

 SP-07。

 BR系統死亡記録対象。

 一真が顔をしかめる。

「最後まで番号かよ」

 黒瀬は認証記録を開いた。

「なら、消す」

 表示を書き換える。

 AS-01――風間啓介。

 AS-02――剣城一真。

 SP-07――御崎ユリ。

 BR系統――鬼塚。

 記録外対象――黒瀬、相良。

 鬼塚が操作盤を覗く。

「俺だけ名字かよ」

「文句を言うな」

「時間がない」

「せめて名前まで入れろ」

「知らん」

「お前、長い付き合いだろうが!」

「本人が名乗らないのが悪い」

 認証音声が変わる。

 個体番号、照合不能。

 搬送対象、未登録。

 一真が目を見開く。

「駄目じゃねえか!」

 黒瀬は画面を見たまま答える。

「いや」

 黒脈の前方隔壁が開いていく。

 管理対象なし。

 非登録者、通過。

「これでいい」

 搬送車は、そのまま闇の中を走り抜けた。

 もう誰も、TAIDAの番号ではなかった。

     ◇

 無名駅の非常扉が開いた。

 冷たい風が、地下へ流れ込む。

 雨は止んでいた。

 啓介たちは、地上へ続く階段を上がる。

 一段。

 また一段。

 長い階段の先に、薄い光が見えた。

 夜明け前だった。

 都心外縁の廃区画。

 崩れた建物の向こうで、空が少しずつ白み始めている。

 啓介はユリを胸の前に抱え、地上へ出た。

 黒い外殻は砕けている。

 身体は血に濡れ、足取りも重い。

 その後ろから、一真、黒瀬、相良、鬼塚が続く。

 ユリがゆっくりと目を開けた。

「啓介……」

「ああ」

「ここは……どこ……?」

 啓介は前を見た。

「外だ」

 ユリは夜明け前の空を見上げる。

「自由……?」

 啓介はすぐには答えなかった。

 失った時間は戻らない。

 消された記憶……

 TAIDAの闇も、完全には終わっていない。

「まだ、全部じゃない」

 ユリが啓介を見る。

「でも、ここから取り戻す」

「一緒に……?」

「ああ」

 啓介はユリを抱く腕に、少しだけ力を込めた。

「今度は、一緒だ」

 ユリは啓介の胸元で目を閉じた。

 黒瀬の端末には、記録送信完了の文字が残っている。

 相良はユリの呼吸を確認し、静かに微笑んだ。

 鬼塚は砕けた拳を見つめる。

 一真は赤血を消し、自分の手を見る。

「俺はもう、AS-02じゃねえ」

 鬼塚が横から言う。

「何回言うんだ、それ」

「うるせえ」

「忘れそうなら、額に書いてやろうか」

「殺すぞ」

「できるもんならやってみろ」

 相良が小さく息を吐く。

「本当に、元気ね……」

 黒瀬は端末を閉じた。

「行くぞ」

「追手が来る前に、ここを離れる」

 それぞれが歩き出す。

 誰も、完全には救われていない。

 傷は残っている。

 罪も、後悔も、失ったものも消えてはいない。

 それでも、誰ももうTAIDAの所有物ではなかった。

 奪われた自由は、完全には戻らない。

 失った時間も、消された記憶も、すべてをなかったことにはできない。

 それでも、生きている。

 生きている限り、取り戻すことはできる。

 奪われた自由のために、

 彼らは闇の中を歩いてきた。

 そして今、夜明けの手前で、

 初めて自分たちの意思で、その一歩を踏み出した。

 闇は消えない。

 それでも彼らはもう、闇の所有物ではなかった。

     ◇

 崩壊した鳥島黒層。

 誰もいない瓦礫の底で、黒い外殻の破片が動いた。

 小さな石が転がる。

 やがて、ひとつの手が瓦礫の隙間から伸びた。

 指先が、黒い床を掴む。

 砕けたDARKNESSαの外殻。

 傷だらけの身体。

 天城総司は、ゆっくりと瓦礫の中から這い上がった。

 もう、命令音声は聞こえない。

 番号を呼ぶ声もない。

 天城は荒い息を吐きながら、顔を上げた。

 脳裏に浮かんだのは、処理台に拘束されていたユリの顔だった。

「……ユリ……」

 その瞳に、初めて感情が宿る。

 天城は震える指を握りしめた。

「妹よ……」



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