空を飛ぶ夢
「パパ、私ね、昨日、鳥さんになった夢を見たんだよ。大きな羽をいっぱいに広げて、大空を飛び回ったの。楽しかったなぁ。今度は一人じゃなくて、パパとママと一緒に飛びたいなぁ」
ほんの数日前まで、雪子は希望に満ち溢れ、目を輝かせながら、無邪気にそう話したものだった。
それが今は……病室のベッドで迫り来る死をじっと待ち続けている。路上で車にはねられ、救急車でこの病院に運ばれてきてからほぼ15時間。雪子は一度たりとも目を覚まさなかった。
娘の手術を執刀した医師は「今夜が峠だ」といった。
今夜が峠……本当に今夜を乗り切れば、娘は助かるのだろうか。ベッドで眠る雪子の表情は死人そのものだ。感情もなく、伝わってくるものは何一つない。ただ心電図だけが、雪子の生存を教えてくれるだけ。私がこんなに心配しているのに、雪子は眉一つ動かさない。
ああ、我が一人娘、雪子……
君はまだ生まれて8年しかたっていないというのに、こんな冷たい病室のベッドで一人、死を待とうというのか。
私や妻に何の別れの言葉もなく、逝ってしまうというのか。
君には未だやりたいことがいっぱいあるはずだ。人生の喜びや悲しみ、苦しみを半分も味わってはいないだろう。
お願いだ、雪子、目覚めてくれ。そして、私を「パパ」と呼んでくれ。
私は雪子の手を両手で優しく握った。
温かい……何て温かいんだ。確かに生きてる。そうか、雪子、君も戦っているんだね。生きよう生きようとしているんだね。
パパが悪かった。本当に辛いのは、パパじゃなく君なのに。
私は、雪子の顔をじっと見つめた。頭に巻かれた包帯が私の胸を強く締めつけた。
表情は相変わらず人形のように無表情だ。しかし、雪子の心の叫びは雪子の手を通して、熱く伝わってくる。
「雪子はもし鳥になれたら、どこへ行きたいんだい」
「うんとねぇ、空ぁ」
「空か。雪子は空を自由に飛び回りたいんだね」
「それもあるけどねぇ、雪子ね、もっともっと高い空に行きたいんだ」
「そんなに高いところへ行ってどうするんだい」
「おばあちゃんに会うの」
「おばあちゃんに?」
「そう。天国のおばあちゃんの所へ行って、あやとり教えてもらうの」
「馬鹿だな、天国へ行ったら、こっちへは戻ってこれなくなるんだぞ」
「大丈夫だもん。ちゃんと夕方には帰るもん」
「駄目だよ、天国なんて」
「パパって変。これはもしもの話でしょ。パパったら、おっかしい」
はっ。
私は我に返った。どうやらうたた寝をしていたらしい。
それにしても変な夢を見たものだ、全く。
ん?
ふと私の手を何かがくすぐったような気がした。見ると、雪子の小さな手が微かに動いたのだ。
私はびっくりして雪子を見た。すると雪子が目を細めながら、開けている。
「雪子、起きたのか」
私は思わず喜びの声を上げた。
「……」
雪子は口をぱくぱくと動かしたが、それが声にならず、よく聞こえない。
「何を言ってるんだい?」
私はそっと耳を雪子の口元に近づけた。
「わたしね、もうすぐ飛べるようになるんだよ」
雪子は掠れた声で言った。
「え?」
私は雪子の言葉が理解できなかった。
「二人の天使さんがね、私をおばあちゃんのところまで案内してくれるの」
「ゆ、雪子……」
私は急に不安になった。「雪子、おばあちゃんのところへ行っては駄目だ」
「ちょっと行ってくるだけだよ」
「絶対駄目だ。雪子、お願いだから、パパの言うことを聞いておくれ」
私は雪子に哀願した。
「わたし、夢なんだ。空を飛ぶの。パパ、いいでしょ」
「やめるんだ、雪子。天国なんかに行ったら、もう会えないじゃないか」
私は泣き出しそうな声で言った。
「パパ、ごめんなさい。天使さんが急げって言うの」
「雪子!」
私は思わず雪子を抱き抱えようとした時、突然、窓から光が差し込んだ。
その光は雪子を包み込んだ。
次の瞬間、雪子の体から雪子が抜け出した。その雪子は体が半透明であった。
「パパ、空、飛んでる」
半透明の雪子は宙に浮いたまま、にっこりと笑った。
「雪子、行かないでくれ」
「行ってきます」
半透明の雪子がすうっと窓を通り抜けた。
私は急いで窓を開けた。
「ああ……」
私は絶望の声を上げた。
月へ向かって、雪子が飛んでいく。そして雪子の両脇には二人の天使が後ろの羽を動かしながら、飛んでいた。
「ゆきこぉぉぉ!!!」
私は月夜に向かって、叫んだ。しかし、その声は雪子に届くことなく消えた。
私はもう喋ることのないベッドに残された雪子の体をぎゅっと抱き締めた。
「雪子、おばあちゃんにあやとり、教えてもらったら、帰ってこいよ。ずっと待ってるからな」
私はその夜、子供のように泣き続けた、ただ雪子のためだけに。




