空白の封筒
だいぶ昔に書いた短編小説です!供養供養…
傘から滴る雨水が、冷たいリノリウムの床に黒いシミを作っていた。
ターミナル駅の地下の奥深く、蛍光灯が不健康に明滅する『お忘れ物総合センター』。そこで窓口業務をしている俺——修平の日常は、誰かが失くした「過去」を棚に並べ、持ち主が引き取りに来るのをただ待つだけの、ひどく無機質なものだった。
「あの……落とし物を、探しているんですが」
その日の午後、土砂降りの雨の匂いと共に、彼女は現れた。
透き通るような白い肌に、濡れた長い黒髪。年齢は俺と同じ二十代半ばくらいだろうか。彼女はひどく切羽詰まった様子で、カウンターにすがりつくように身を乗り出した。
「どのようなお品物でしょうか」
「……白い、封筒です。宛名も、差出人も書いていない、ただの真っ白な封筒。中に、便箋が三枚入っています」
現金が入っているわけでも、重要な書類でもない。ただの白い封筒。
俺はバックヤードの棚を探し、該当する一つの封筒を見つけ出した。彼女の前に差し出すと、彼女は震える両手でそれを受け取り、そっと中身を確かめた。
何も書かれていない、真っ白な三枚の便箋。
それを見た瞬間、彼女の大きな瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「ああ……よかった。……使わなくて、本当によかった」
彼女は空っぽの封筒を胸に抱きしめ、子供のように泣きじゃくった。
俺は何も聞かず、ただ黙って温かい缶コーヒーを差し出した。それが、俺と奈津菜の、最初の出会いだった。
「あの時は、突然泣き出したりしてごめんなさい。……これ、コーヒーのお礼です」
数日後、奈津菜はよく晴れた空のように明るい笑顔で、再びセンターを訪れた。手には小さなケーキの箱が提げられている。
それをきっかけに、俺たちは少しずつ言葉を交わすようになった。彼女は駅の近くの小さな花屋で働いており、休憩時間になると、缶コーヒー片手に俺の窓口へとやってくるのが日課になった。
奈津菜は、不思議な女性だった。
彼女はいつも、目を閉じて「音」を聴いていた。改札を抜ける人々の足音、発車ベルのメロディ、雨がコンクリートを叩く音。
「駅って、世界中の音が集まる場所みたいで好きなの」と、彼女はよく笑った。
無彩色だった俺の日常は、彼女の存在によって少しずつ鮮やかな色を帯び始めていた。休日に二人で映画を観に行き、海辺を歩き、他愛のない話で笑い合う。俺は確実に、彼女に惹かれていた。
だが、夏の終わりが近づくにつれ、彼女の様子に奇妙な違和感を覚えるようになった。
背後から声をかけても気づかないことが増え、会話の途中で何度も聞き返されるようになったのだ。
ある日の夕暮れ。駅前の公園のベンチで、俺は思い切って尋ねた。
「奈津菜……耳、悪くしてるのか?」
彼女は少しだけ肩を揺らし、やがて諦めたように薄く笑った。
「……気づかれちゃったか。さすが、落とし物を見つけるプロだね」
奈津菜の聴力は、原因不明の病によって急速に失われつつあった。右耳はすでに全く聞こえず、左耳も、あと数ヶ月で完全に音を失うという。
「怖いよ」
彼女は俺の袖を強く握りしめ、震える声でこぼした。
「毎日、少しずつ世界から音が消えていくの。自分の足音も、雨の音も、修平くんの声も。……あの日、私が探していた真っ白な便箋」
彼女は自嘲するように目を伏せた。
「あれ、遺書を書くつもりだったの。音が全部消えちゃう前に、死んじゃおうと思って。でも、駅のホームでカバンから落としちゃって……。修平くんが見つけてくれたあの空っぽの封筒を見た時、なんだか、まだ何も書かれていない自分の人生みたいだなって思えて……もう少しだけ、生きてみようって思ったの」
俺は言葉を失い、ただ彼女の震える小さな体を、強く抱きしめることしかできなかった。
「俺がいる。音がなくなっても、俺がお前の手を取る。だから、絶対にそんな封筒は使わせない」
彼女は俺の胸の中で、声を上げて泣いた。
その日から、俺たちは「音」を記憶に残すためのデートを重ねた。打ち上げ花火の轟音、秋祭りの太鼓、教会の鐘の音。
耳が聞こえなくなる恐怖に怯える彼女を、俺の全ての時間を懸けて守り抜く。そう、本気で誓っていた。
木枯らしが吹き始めた十一月。奈津菜の左耳からも、完全に音が消えた。
俺たちは小さなノートを持ち歩き、筆談で会話をするようになった。彼女は音を失っても、俺が書く不格好な文字を見ては、変わらず太陽のように笑ってくれた。
だが、運命は、俺が考えていたよりもずっと残酷に、そして唐突に終わりを告げた。
クリスマスの約束をノートに書き込んで別れた翌日。
奈津菜は、待ち合わせの場所に現れなかった。
LINEは既読にならず、花屋に行くと「奈津菜ちゃんは昨日付けで退職しましたよ」と告げられた。
嫌な予感が胸を締め付け、俺は彼女のアパートへと走った。
ドアには鍵がかかっておらず、部屋の中は……すっかり荷物が片付けられ、もぬけの殻になっていた。
「奈津菜……?」
静まり返った部屋の中央、小さなローテーブルの上に、一通の白い封筒が置かれていた。
あの日、俺が遺失物センターで彼女に手渡した、あの封筒だ。
震える手で封を開けると、中には、彼女の丸みを帯びた文字でびっしりと埋め尽くされた便箋が入っていた。
『修平くんへ。
何も言わずにいなくなって、ごめんなさい。
音が聞こえなくなった時、修平くんは「ずっとそばにいる」って言ってくれたね。あの言葉だけで、私は一生分の幸せをもらいました。
でもね、修平くん。私、嘘をついていたの。
耳が聞こえなくなったのは、ただの耳の病気じゃないの。私の頭の中には、ずっと前から悪いものがいて、それが聴神経を圧迫していただけ。
お医者様には、今年の春の時点で「もってあと半年」って言われていました。
あの日、遺書を書こうとしたのは本当です。でもね、修平くんに出会って、一緒に笑い合ううちに、どうしても生きたくなってしまったの。
神様がくれた、ほんの少しの執行猶予。
音が消えていくのは怖かったけど、修平くんの声だけは、私の心の中にずっと響いていました。
でも、もう限界みたい。最近は目もかすむようになってきて、立って歩くことも難しくなってきちゃった。
これ以上一緒にいたら、修平くんに、私が壊れていく惨めな姿を見せてしまう。私の最後のお願いです。私を探さないでください。修平くんの中の私は、ずっとあのベンチで笑っていた私のままでいさせてください。』
便箋の文字は、後半になるにつれて涙で滲み、かすれていた。
『あの日、空っぽだったこの便箋に、私は「修平くんへの愛」を全部書き込みました。
私の世界から音が消えても、光が消えても、あなたにもらった温もりだけは、絶対に忘れない。
私の落とし物を見つけてくれて、本当にありがとう。
どうか、前を向いて。私の分まで、生きてください。
ずっと、ずっと愛しています。 奈津菜より』
俺は空っぽになった部屋で、声にならない絶叫を上げた。
彼女の嘘。優しすぎる、残酷な嘘。
俺は彼女の聴力を失う恐怖ばかりに気を取られ、彼女の命そのものが砂時計のように落ちていっていることに、どうして気づけなかったのか。
それから三ヶ月後。
冬の冷たい風が少しだけ緩み、駅前の花壇に小さな春の花が咲き始めた頃。
俺は、奈津菜の母親からの手紙で、彼女が病院で静かに息を引き取ったことを知った。最期まで、俺がノートに書いた文字の切れ端を、大切に握りしめていたという。
俺は今日も、ターミナル駅の『お忘れ物総合センター』の窓口に立っている。
相変わらず、誰かが失くした傘やマフラーが山のように届けられる。
休憩時間。俺は缶コーヒーを買い、かつて奈津菜とよく座った公園のベンチに腰を下ろした。
目を閉じて、耳を澄ます。
改札を抜ける人々の足音。発車ベルのメロディ。風が木々を揺らす音。
奈津菜が愛した、世界中の音が集まる場所。
俺の世界に、彼女の声はもう二度と響かない。
けれど、この耳を塞ぐような静寂の中で、俺の心には確かに、彼女が遺してくれた『色』が焼き付いている。
俺は立ち上がり、空っぽになった缶コーヒーをゴミ箱に捨てた。
顔を上げ、眩しい春の光に向かって、ゆっくりと一歩を踏み出す。
あの日、彼女の真っ白な封筒を見つけ出したこの手で。
今度は俺自身の、空白の明日を描いていくために。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。




