【第41話 残響】
青い空は、妙に澄み切っていた。
だが、その透明な美しさとは裏腹に、テクスア山脈一帯は見えない何かに押し潰されるような、重苦しい緊張に包まれていた。
国境砦へ向かっていた飛竜第二隊は、その進路の途中で立ち寄った“飛竜の休憩処”で足止めを食らっていた。
降り立った三頭の飛竜は、翼を半ば広げたまま、落ち着きなく首を振り、喉の奥で震えるような鳴き声を漏らしている。
その周囲を、走竜が円を描くように囲み、鋭い眼光を空へと向けていた。
「動くな、だと?、どういうことだ」
第二隊の隊長が、手綱を握りしめたまま、苛立ちを隠さずに吐き捨てた。
対する走竜隊の騎士は、今朝の飛竜第一隊の惨事を説明する。
「はい。これ以上の行動は危険です。すでに飛竜第一隊は聖国の新兵器で壊滅しています」
「壊滅!?・・・グレン隊長は?」
「雲の高さを飛行中に狙撃され、真下に墜落しました」
「つっ、墜落!」
言葉を飲み込む。そのわずかな沈黙だけで、現場に流れる空気の質が変わった。
飛竜を撃ち落とす兵器。
それも、常識外れの高度から、姿を見せぬままに。
その情報は、飛竜第二隊の騎士たちの背筋を凍らせるには十分な現実感を持っていた。
「雲の高さに、届いたのか?、そんなものが、あり得るのか?」
「少なくとも、我々の弓の射程では話になりません。……上空400を超えていた可能性も」
その言葉に、誰も反論しなかった。
400という数字は、この世界の空の理を無視している。
飛竜乗りにとって、これまで絶対の“安全圏”とされてきた高度。
そこが、もはや逃げ場のない死地へと変貌したという冷酷な事実。
それは、彼らが長年積み上げてきた戦いの前提そのものを、根底から覆していた。
「・・・まずい、下手に動けばやられるぞ。このまま待機だ」
やがて隊長が、奥歯を噛み締め、絞り出すように命じた。
声には、空の覇者としての矜持をへし折られた悔しさが滲んでいた。
だが、それ以上に正体不明の「何か」に狙われているという根源的な恐怖が、屈強な騎士たちの肩を強張らせていた。
同じ頃、国境砦でも異変は急速に広がっていた。
「門を閉じろ! 全閉鎖だ! 隙間を作るな!」
守備隊長の怒号が響き渡り、分厚く重い門が、悲鳴のような軋みを上げながらゆっくりと閉じられる。
見張り台では弓兵が持ち場につき、壁上には槍兵が隙間なく並んだ。
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軍本部への報告は、満身創痍で帰還したツバイの到着と同時に、衝撃を伴って伝わった。
そして、その反応は異的なほど速かった。
命令は即座に下る。
走竜隊、追加出動。
長弓隊、前線投入。
そして――飛竜隊、全機留め置き。
最強の矛である飛竜を封印するという異例の措置。
その三つの指令だけで、王国の軍部がいかにこの事態を「破局的」と捉えているかが、末端の兵士たちにも明らかだった。
走竜隊の班長たちは、緊急招集を受けて即設の大きな天幕に集められていた。
粗い布で作られた天幕の下、使い込まれた地図が広げられ、簡易な卓を囲んで男たちが殺気立った様子で立っている。
その中に、カイルもいた。
胸騒ぎが止まらない。隣に立つ馴染みの班長たちの顔も、一様に土色をしていた。
「――以上が現時点での情報だ。聖国軍は、我々の想像を絶する長距離攻撃手段を有している」
先遣隊の班長の一人が、乾いた声で言い切る。
一瞬、深海のような沈黙がテントを支配した。
「……グレン隊長が……戦死!?」
おれには、信じられない情報だった。
全身の毛が逆立つ。
頭を殴られたような衝撃に、視界がわずかに歪む。
あの、誰よりも空を愛し、誰よりも強かったグレンが。
「あの人が……そんな、嘘だろ……?」
震える声で、走竜隊四班の班長が続けた。
「飛竜同士の空戦じゃないんですか? 聖国に、グレン隊長を落とせる乗り手がいたってことですか?」
「違う」
状況を伝えに来た伝令官が、短く、拒絶するように答える。
「敵の新兵器だ。空からじゃない。地上から・・・姿も見えぬ距離から、一撃で撃ち抜かれた。飛竜を正確にな」
テントの空気が、さらに重く、粘り気を帯びて沈んでいく。
「その、空・・・“空刺し”は、どんなものなんだ? 数は? どこに配置されている?」
別の班長が、恐怖を振り払うように食い下がる。
「詳細は不明だ。だが、あれが一つであるはずがない」
説明に立っていた伝令官が、ゆっくりと全員を見回した。
その瞳には、覚悟とも諦念ともつかぬ色が宿っている。
「これまでの国境付近での小競り合いで済むはずがない。・・・聖国との、大きな戦になりそうだ」
誰も否定しない。
空を奪われた。
その事実が、王国の防衛網がいかに脆弱であるかを突きつけていた。
「指示のあった班は即行動。それ以外は、いつでも動ける状態で待機だ。愛竜を労っておけ。次は、地獄へ向かうことになるかもしれん」
「おおぅ!」
一斉に応じる野太い声。
だが、その響きにはいつもの勇ましさはなかった。
班長たちは、弾かれるようにテントを飛び出し、それぞれの受け持ちへと散っていった。
おれは、重い足取りで厩舎へ戻った。
中に入ると、マックスがいつもと変わらぬ様子で、ゆったりとした呼吸を刻みながら立っていた。
マックスは、おれに大きな鼻を寄せてくる。
「カイルなにがあったの? 顔色がひどいわよ」
準備を整えていたミレイも、おれの様子を気遣った。
おれはマックスの首筋に触れ、その温もりに縋るようにして短く答える。
「聖国と・・・本格的な戦争になりそうだ」
その言葉に、ミレイの表情が瞬時に強張る。
「グレン隊長が、やられた。・・・地上からの、得体の知れない攻撃で」
ミレイが息を呑む。
「いつでも出れるように、準備しておいてくれ。」
「指示は?」
「待機だ。今はまだ、上層部も混乱してる」
一拍の間。
ふんっ!
マックスが大きく鼻を鳴らし、そのまま重厚な体をゆすって地面に寝転がった。
大きな瞳でおれをじっと見つめ、まるで「慌てても始まらない、今は休め」とでも言うかのように。
おれは、肺に溜まっていた濁った空気を、ようやく吐き出した。
「そうだな。悪かったよ、マックス」
だが――その日、続報は来なかった。
誰もが張り詰めた糸のように神経を尖らせ、武器を研ぎ、竜の体調を整え続けたが、ただ時間だけが無慈悲に過ぎていく。
夕日が山脈の端を血のように赤く染め、夜の静寂が訪れても、伝令の足音は聞こえない。
何も、決まらない。
それが一番の恐怖だった。
夜。
おれはいたたまれなくなり、ふらりと、飛竜第一隊の厩舎へ足を向けていた。
かつては勇壮な飛竜たちが並び、騎士たちの笑い声が絶えなかったそこは、今や墓場のように静まり返っていた。
奥の方に、一頭の飛竜と、一人の男がいた。
「アイン」
おれは躊躇いがちに声をかける。
「よかった・・・お前は無事だったのか」
アインは、藁の上に座り込み、飛竜の足を磨く手を止めてゆっくりと顔を上げた。
オイルランプの弱々しい光に照らされたその目は、どこか遠くを見ているようで、虚ろだった。
「ああ。飛竜第一隊は・・・」
かすれた声が、広い厩舎に寂しく響く。
「俺一人になっちまったよ」
おれの喉は、熱い塊に塞がれたように詰まった。かける言葉が見つからない。
「何があったんだ?、グレン隊長はどうなったんだ? 」
アインは、自嘲気味に口角を上げた。
「いや・・・、俺じゃないんだ。」
「?」
「今回の巡回、俺の飛竜・・・バンデッドの調子が悪くてな。急遽、ツバイに代わってもらったんだ」
「じゃあ、帰還したのはツバイか?」
「ツバイの飛竜・・・ストロームも翼をやられてツバイは、馬に乗り換えて、報告に戻ったそうだ」
「会ったのか?」
「ああ……」
アインの顔が、苦痛に歪む。
「あの野郎、俺の顔を見るなり、泣きながら謝りやがるんだ。自分のせいだって・・・」
アインの握りしめた拳が、小刻みに震えていた。
「ツバイは?」
「暴れてな。怪我した体でストロームを迎えに行くってきかなくて・・・無理やり取り押さえられて、今は軍医に薬を飲まされて寝てるよ。あんなツバイ、見たことねぇ」
再び、重苦しい静寂が訪れる。
アインは、ぽっかりと空いてしまった隣の厩舎のスペースを見渡した。
「なあ・・・」
ぽつりと、祈るような呟き。
「グレンさん・・・生きてると思うんだよ。大丈夫だって」
おれは、何も言えなかった。安易な慰めは、かえってアインを傷つける。
「ツバイの情報が間違ってるなんて思っちゃいない。でも・・・あの人が、あの『空の英雄』が、簡単に終わるはずがないだろ?」
言葉が途切れる。
オイルランプの炎が、忍び寄る夜風に静かに揺れていた。
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翌日。
最前線の緊張とは対照的に、静謐な王宮の一室。
「陛下、聖国から親書が届きました」
皇太子ジーゼルの低い声が、厚いカーテンの閉ざされた部屋に響く。
カーテンの向こうから、テルミ王の声が返る。
「……読んでくれ」
親書を封じていた蝋印が、ナイフで割られる。
そして親書が開かれた。
書面に眼を走らせていたジーゼルの眉が、険しく寄せられる。
「くっ・・・なぜ、バレている」
ジーゼルが低く唸る。
その手に持たれた書状には、隠匿されていたはずの王の容態が正確に指摘されていた。
「すまぬ、医師たちは外してくれ」
王の命により、控えていた者たちが静かに退出する。
重厚な扉が閉まり、室内には二人だけが残された。
ジーゼルがカーテンを開ける。
そこには、かつての威厳を失い、蒼白な肌をした痩せ細った王の姿があった。
「わしも・・・今年で七十二歳だ」
テルミ王が、かすかな笑みを浮かべて静かに言う。
「どんなに隠そうとも、公務の動きが止まれば、外の鳥どもには察しもつくというものよ」
「では、内容を読み上げます」
それは、慇懃無礼な言葉で飾られた、事実上の宣戦布告だった。
アクリオン教に改宗して聖国の一部になれと言う、聖なる「浄化」を掲げた、狂気と野心に満ちた最後通牒。
「……教皇の文ではないな」
「はい。おそらく、竜撃砲という絶大な力を得た、強硬派の将軍たちの暴走かと」
「そうか……」
王は、濁った瞳を窓の外の、見えない山脈へと向けるように呟いた。
「かつて、ジーゼル・・・お前と教皇とわしの三人で笑い合ったのが……昨日のことのようだ」
長い沈黙が流れる。やがて、ジーゼルが姿勢を正した。
「方針を」
「・・・お前が決めよ」
「まだ、私には荷が重すぎます。私は未熟です、陛下」
「ふふ・・・お前は既に、十分に出来ている。案ずるな」
王が、久方ぶりに父親のような優しい微笑を見せた。
「この戦いに勝利したら、わしは王位をお前に継承することにする。」
王は、震える手で寝台の縁を掴み、ゆっくりと身を起こす。その瞳に、かつて戦場を駆けた英雄としての光が、最期の残光のように宿る。
「戦はな・・・始めることよりも、終わり方を考えて進めよ。」
「・・・はい」
「教皇は・・・決して殺すな。生かして捕らえよ。狂った将軍たちを抑え、この不毛な戦を終わらせるため、彼は必要な鍵だ」
「理解しております。最優先事項といたします」
「そして――」
王は静かに、だが鋼のような響きを持って言った。
「もし、万が一にも王国が窮地に陥るなら・・・迷わずわしの首を差し出せ。そしてティーナと共に、シナルへ行け。血を絶やすな。それが王としての、最後の責任だ」
一瞬の沈黙。ジーゼルの拳が、親書を握りしめたまま震える。
「分かりました」
ジーゼルは、深く、深く頭を下げた。
「ですが・・・簡単には負けません。我らには、まだ優秀な者たちががおります」
その声には、冷徹な策略家の面影を消し去るほどの、確かな熱と意志が宿っていた。
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ティーナの執務室の扉が叩かれた。
飛竜部隊の旗隊長セルジュだった。
「グレンが発見されました」
その言葉に、ティーナは一瞬表情を輝かせたが、言葉を飲み込んだ。
だが。
セルジュは静かに兜を差し出した。
ティーナは、その兜を胸に抱きしめたまま立ち尽くした。
何も言えない。
セルジュが静かに部屋を出てゆく。
一人になった部屋に風が吹き込みカーテンを揺らす。
「ねぇ、グレン・・・"帰る"と言ったじゃないですか」
声は、誰にも届かなかった。
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「グレン隊長と、タープ殿の遺体が戻られました」
分かっていた事ではあるが、「遺体」と言われて、おれとアインは動揺する。
「場所は?」
「遺体安置所です」
おれとアインは無言で歩いた。何も語らなかった・・・
遺体安置所として設けられたテントに、ドライに付き添われたツバイが立っていた。
「入れますか?」
おれは、担当医官に聞いた。
「もう少しだけ、お待ちください」
おれたちは、テントの前で会話もせずに、静かに待ち続けた。
顔色が悪いアイン・・・焦燥しきったツバイ・・・
見ていて、いたたまれない気分になる。
「どうぞ」医官に呼ばれ、おれたちはテントに入る
机の上に、大きめの袋があった。
「タープ殿の遺体は・・・出来る限り拾い集めたそうです」
空からの墜落とは、こういうことだと分かっていて、覚悟をしていても辛いものだった。
うっ、ぐふっ、くっ
アインは必死に涙を堪えようとするが、止まらない。
崩れそうになったツバイをドライが支える・・・・
「グレン殿はこちらです」
おれたちは、次のテントに移動する。
おれは、ゆっくりとグレンの顔の横に膝をついた。
冷たい。
生きていた頃、あれほど熱を帯びていた人の体が、
ただの“物”のように静かにそこにあった。
「……隊長」
呼んでも、もう返事はない。
分かっているのに、
それでも喉が勝手に動いた。
横で、アインが崩れ落ちる。
「嘘だろ……なあ……起きろよ……」
嗚咽混じりの声が、テントの中に響く。
ツバイは、一歩も動けなかった。
ただ、目を見開いたまま、
呼吸の仕方すら忘れたように立ち尽くしている。
おれは、グレンの残された左手に触れた。
固く、重かった。
(・・・これが、死か)
頭では分かっていたはずなのに、
まるで初めて知ったみたいに、
胸の奥が、ゆっくりと壊れていく。
「なぜ・・・損傷が少ないんですか」
おれの声は、自分でも驚くほど平坦だった。
医官は、少しだけ間を置いてから答えた。
「発見されたとき、グレン隊長は飛竜の蒼い翼に包まれていたそうです」
「翼に・・・」
ツバイの肩が、大きく揺れた。
(即死していたはずだ・・・)
それでも。
あの巨体が。
あの翼が。
落ちながら、最後に取った行動が
「・・・守ったのか」
おれの口から、言葉が漏れた。
誰に言ったわけでもない。
ただ、そうとしか思えなかった。
グレンの体は、
壊れていない。
まるで、
最後まで戦場に立つ騎士の姿のまま、残されていた。
外で風が鳴る。
遠くで、竜の泣き声が残響となって木霊していた。




