【第40話 将軍と教皇】
アクリオン王国の王宮、その一角にある皇太子ジーゼルの執務室は、常に研ぎ澄まされた静寂に包まれている。
壁一面を埋める膨大な古文書と、軍事境界線の詳細が記された巨大な地図。
それらはこの国の理知と均衡の象徴だった。
だがその日、重厚なオーク材の扉が、その静謐を無惨に打ち砕いた。
「失礼します!!」
飛び込んできた文官は、なりふり構わず息を切らしていた。
端正に整えられていたはずの官服は乱れ、額にはべっとりと脂汗が浮いている。
机に向かい、羽ペンを走らせていた皇太子ジーゼルは、書面に視線を落としたまま、低く、重い声を出す。
「何事だ。ここは戦場ではないぞ」
「も、申し訳ございません! しかし、緊急事態です!」
文官は膝をつかんばかりの勢いで叫んだ。
「今朝の国境付近における戦闘で、我が国の飛竜第一隊、3頭が撃墜されました! 聖国の地上新兵器による狙撃です。射程は、雲まで届くとの事!」
「落ち着け!!」
ジーゼルの怒声が、室内を震わせた。
普段、感情を出さず、冷徹なまでの沈着さで国を導く彼の激昂。
文官はあまりの威圧感に肩を震わせ、言葉を失う。
だが、ジーゼルはすぐさま深く、長く息を吸い込んだ。
肺の奥まで冷たい空気を送り込み、燃え上がった感情を強引に鎮めていく。
数秒後、彼が再び口を開いたとき、その声は元の、氷のように静かなものに戻っていた。
「すまない。声を荒らげた。ゆっくりと、分かっていることを、すべて報告してくれ」
その静けさが、かえって事態の深刻さを物語っていた。文官は震える喉を無理やり動かし、報告を再開する。
「は、はい・・・昨日の聖国兵の偵察に向かった飛竜第一隊ですが、国境付近で攻撃を受けて、グレン隊長とタープ殿が戦死。ツバイ殿は・・・・・」
文官の説明は続いていたが、ジーゼルの視線が無意識に窓際へと向く。
そこには、王女ティーナが立っていた。
彼女は先ほどまで、兄との穏やかな談笑の最中にあった。
だが今の彼女の顔面は、血の気が完全に引き、陶器の人形のように蒼白だった。
(グレンが戦死?・・・・)
ティーナは目眩を感じていた。
グレンの笑顔を思い出す
(そうだ、グレンは言ったのよ"生きて帰る"と・・・・彼は絶対に帰ってくる!)
ティーナは祈るように強く目を閉じた。
窓の外では、何も知らない小鳥がさえずり、春の柔らかな日差しが降り注いでいる。
その平穏が、今の彼女には何よりも残酷な毒に感じられた。
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アクリオン聖国の聖都。
白亜の建物が立ち並び、宗教的な荘厳さに満ちたその街並みを、一人の旅人が馬を駆って進んでいた。
肩まで伸びた黒髪。夜の闇を溶かし込んだような黒い瞳。
旅装束こそ地味だが、その背筋の伸び方や、周囲の気配を察知する鋭い視線は、彼が単なる物見遊山ではないことを雄弁に語っていた。
シナル王国第一外交書記官、エンメル。
各国の情勢を冷徹に見極める「シナルの目」と呼ばれる男である。
石畳の道をゆっくりと進む彼の元に、一人の男が足早に近寄った。
衆人環視の中、ごく自然に近づく。
一瞬の接触で、エンメルの手の内に小さな羊皮紙の筒が滑り込む。
男は振り返ることもなく、群衆の中に消えていった。
エンメルは馬の歩みを緩め、人目のつかない路地に入ると、手際よく紙を開いた。
そこに記されていた内容を読み進めるにつれ、彼の眉間の皺が深くなっていく。
「……ちっ」
短く、苦々しい舌打ちが漏れた。
「均衡が崩れるな。……これほど早く、しかも最悪の形でか」
彼は羊皮紙を握りつぶすと、そのまま聖国の中心部――巨大な大聖堂と、それに隣接する政治の中枢へと視線を向けた。
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聖国の中枢、大理石の柱が林立する荘厳な広間。
そこには、対照的な二人の男が対峙していた。
一人は、白髪を後ろに撫で付け、痩身の体格で純白の法衣に金糸刺繍。
この国の精神的支柱であり、神の声を聞くとされる教皇。
その老いた体は重厚な法衣に包まれ、慈愛と、それ以上の深い疲労を漂わせていた。
もう一人は、聖国軍を統べる強硬派、バルカ将軍。
鋼のような筋肉を軍服に包み、腰には数多の戦場を潜り抜けてきた大剣を帯びている。
「穏便に済まそうと、私がこれまでどれほど手綱を抑えてきたかご存じでしょ。それを、一方的に聖国の飛竜を撃墜しつづけ、戦端を開いたのは王国の方ですぞ!」
将軍の声が、高い天井に反響した。
「結果はそうであっても、王国には王国の言い分もあったであろう!、お前は拙速すぎるのだ」
教皇は、強い口調で将軍を叱責した。
将軍は不敵に笑い、一歩も引かない。
「我が聖国の飛竜は、この1年・・・たった1年で5頭もの飛竜が王国の不当な挑発によって失った。それを悠長に話し合いで解決などと・・・」
将軍は教皇に説明をつづけた。
「先ほども説明した通り、我が聖国が秘密裏に開発を続けてきた対竜兵器『竜撃砲』。これを用いて、今朝、王国の飛竜3頭を確実に屠りました。……神の使いとされた飛竜を、人が、技術によって落としたのです。これこそが神の意志ではありませんか?」
静寂が、冷たい霧のように広間を支配した。
その言葉が持つ意味の重さに、教皇の顔が歪む。
「将軍は飛竜の損耗ばかりを口にするが……同時に、その飛竜に乗っていた聖国の若き兵たちも命を落としているのではないか? 貴公の目には、人の命が、ただの数字としてしか映っていないのか」
「ふん」
将軍は鼻を鳴らし、肩をすくめた。
「戦いに犠牲は付き物です。しかし、この『竜撃砲』を量産し、前線に配備すれば、王国はもはや飛竜を飛ばすことさえ叶わなくなる。これが何を意味するか、聡明な教皇殿ならお判りでしょう」
将軍は軍靴の音を響かせ、教皇に肉薄した。
「制空権の完全なる掌握。空からの脅威が消えれば、地上の走竜部隊に対しても、我々は安全圏から一方的な殲滅が可能になる。――すなわち、聖国は、これ以上の損耗なしで勝てるのです。これこそが最も慈悲深い結末ではありませんか?」
「しかし、それは神の奇跡ではない。貴公が言った通り、ただの殺戮の兵器ではないか」
「ええ、その通り。これは奇跡でも魔法でもない。純粋なる『技術』の結晶です」
将軍の目が、冷酷な光を放った。
「技術によって生み出された兵器は、理屈が解明されればいずれ模倣される。つまり、我が国のこの圧倒的な優位は、長くは続きません。・・・今、この瞬間しか、好機は無いのです」
「くっ!!」
教皇の顔に、今度は明確な怒気が走った。
「アクリオン教の教義において、『空は神の領域』と定められている! 飛竜を撃ち落とすための兵器開発など、明確な神への冒涜だ! なぜ、私に一言の相談もなく、このような不浄な研究を進めた!」
将軍は一瞬だけ沈黙した。そして、嘲笑を浮かべて言い放つ。
「それを仰るなら、そもそも飛竜を軍事に利用し、鞍を乗せ、手綱を引いた時点で、我々は『神の領域』を十分に犯している。今更何を綺麗事を。そんな話は、最初に竜を手懐けた数代前の教皇にでも聞いてくだされ」
「話を逸らすな、バルカ!!」
教皇の杖が床を激しく叩いた。
「私は、これ以上 人の血が流れる、泥沼の戦争を避けたいと言っているのだ!」
将軍は、その言葉を待っていたと言わぬばかりに、静かに、深く頷いた。
「だからこそ、なのです」
そして、毒を含んだ甘い言葉を落とす。
「今、王国を叩き潰すことが、最も血を流さずに済む道です。我が軍の圧倒的な武威を示せば、実戦を交えるまでもなく、降伏勧告だけで無血開城させることも可能でしょう」
「降伏・・・? 貴公、王国をどうするつもりだ」
「皆殺しなどという、野蛮なことはいたしません」
将軍は即答した。
「ただ、アクリオン教の禁止令を即刻廃止させ、我が国の管理下での併合を受け入れさせる。それだけです」
「軍事侵攻による強引な併合・・・。それを世間では『侵略』と呼ぶのだよ」
教皇の悲痛な指摘。
だが、将軍は一歩も引かなかった。
「では、このまま手をこまねいて、自ら軍事的優位を捨てるのですか? 人の血を避けたい、と仰ったのは教皇殿、あなたではなかったか?」
「・・・・・・」
教皇は、絶句した。
平和を願う言葉が、戦争を正当化する刃として自分に向けられる。
長い沈黙。やがて、絞り出すような声で教皇は言った。
「・・・条件だ。テルミ王家の一族は、誰一人として殺害しないと約束しろ。彼らには、王族としての尊厳を保ったままの亡命を許すのだ」
将軍の表情が、劇的に変化した。
獲物を罠に追い込んだ猟師のような、冷徹な勝利の確信。
彼は恭しく、深く頭を下げた。
「承知いたしました。・・・全軍への進軍許可、並びに王家保護の特命。しかと承りました。慈悲深きご決断、感謝いたします、教皇陛下」
将軍は流れるような動作で踵を返した。
教皇が何かを言い直そうと手を伸ばしたが、その時にはもう、将軍の背中は遠ざかり、重厚な扉の向こうへと消えていた。
「しまった・・・・」
教皇は、崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。
言葉を巧みに誘導され、実質的な開戦の言質を取られた。
一度動き出した軍隊という巨大な歯車を、老いた自分の言葉で止めることは、もはや不可能だった。
アクリオン聖国による、テルミ王国への全面侵攻。
その歴史的な決断は、あまりにも一方的に下された。
長い回廊を、バルカ将軍が大股で歩いていく。
深紅のマントが風を孕んで大きく翻り、その後ろを数人の副官が必死に追いかける。
「閣僚を至急招集しろ! 聖務会を緊急開催する。最終作戦『天罰』の発動だ!」
将軍の野太い声が回廊に響き渡り、それを受けた文官や伝令兵たちが、蜂の巣をつついたような騒ぎで四方八方へ走り出した。
祈りと静寂の国であった聖国が、瞬時にして、血の匂いを孕んだ巨大な戦争機械へと変貌を遂げていく。
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教皇の執務室。
先ほどの喧騒が嘘のように、再び静寂が戻っていた。
そこに、控えめな、だがはっきりとしたノックの音が響く。
「入れ・・・」
教皇の許しを得て入ってきたのは、黒髪の男、エンメルだった。
彼は一歩踏み入れた瞬間に、部屋を満たしている重苦しい敗北感と、机の向こうで項垂れる教皇の姿を見て、すべてを悟った。
(遅かったか・・・・。既に賽は投げられた、というわけだ)
「これは・・・少々、お邪魔する時期が良くなかったようですね。出直しましょうか?」
エンメルは努めて軽く言った。しかし、その黒い瞳には一切の笑みはない。
教皇はゆっくりと顔を上げた。
「すまぬ、エンメル殿。呼んだのは私の方だというのに・・・。ただ、今日は交易の契約の話ではなく、一人の老いぼれの愚痴を聞いてはくれまいか」
「私のような、他国の使い走りでよろしければ。喜んで承りましょう」
エンメルは静かに、教皇の対面に腰を下ろした。
「私は・・・・教皇という座を長く続けすぎたようだ」
教皇がぽつりと呟いた。
「神の声を聴くふりをして、足元の人間たちの野心を見逃していた」
「それもまた、神の導きなのでしょう。過ぎた時間は戻りません。ご自身を責める必要はないかと」
「貴国・・・シナル王国は羨ましい」
教皇は窓の外、遠く広がる国境の空を見つめた。
「宗教国家としての誇りを持ちながら、賢明な王が座し、不必要な流血もなく国を統治している」
エンメルは自嘲気味に、わずかに口角を上げた。
「立地に恵まれただけですよ、陛下。国境は大河と険しい山脈で仕切られている。土地は肥え、作物も実る。奪い合う必要がないから、交易で豊かになれた。それだけのことです」
「いや、それは結果に過ぎん」
教皇は首を振った。
「貴国は古い。長い年月の中で、多くの賢人が、国が暴走せぬための『形』を築いてきたのだ。我が国のような、急造の熱狂の上に成り立つ国とは違う」
エンメルの瞳が、わずかに揺れた。
「シナルの神話は、実は血なまぐさい破壊と再生の物語ばかりです。だからこそ・・・我々は現世くらいは、穏やかに過ごしたいと願うのですよ」
その静かな返答に、教皇は何事かを思い出したように言った。
「聖国の飛竜が、また3頭落とされたという話は知っているか」
「ええ。・・・そして、聖国が王国の飛竜3頭を、見たこともない兵器で落としたという話も」
教皇の目が見開かれた。
「そこまで知っているのか。さすがは『シナルの目』だ」
教皇は将軍の言葉を思い出していた(そうか・・・秘密兵器は使った瞬間から秘密ではなくなるのだな・・・)
彼は力なく笑った。
「飛竜の時代が終わるのだな。そして、地獄のような戦いが始まる」
エンメルは、窓の外を流れる雲を見つめたまま、静かに口を開いた。
「シナルでは、空を飛ぶ飛竜も、地を駆ける走竜も、区別はいたしません。すべて等しく『竜』と呼びます」
教皇は目を閉じ、その言葉を反芻するように深く息をつく。
「そうか・・・終わるのは、飛竜の時代だけではないのか」
ゆっくりと、その真意を噛み締める。
「・・・竜の時代、そのものが終わるのだな。」
重く、深い沈黙が二人を包み込む。
教皇の声が、今度ははっきりと震えていた。
「そして・・・私の指導力がないばかりに。再び、人同士がすり潰し合う凄惨な血みどろな時代に戻るのだな」
その嘆きに、エンメルは何も答えなかった。
彼はただ、そこに静かに立っていた。
これから訪れる未曾有の嵐、空を焦がす炎、そして失われる無数の命。
それらすべてを知りながら、それでも歴史の歯車を止める術を持たない、一人の観察者のように。
聖国の鐘が、夕刻を告げる。
その音は、まるで間もなく始まる悲劇への、弔鐘のように響いていた。




