【第36話 空】
空は、あまりに高かった。
どこまでも深く、透き通った青い空。
視界の端から端まで、不純物の一切を排したその青は、魂を吸い込む空洞のようでもある。
雲は遥か低層に、ちぎれた綿菓子のように薄く、無造作に散らばっていた。
風が鋭いナイフとなっておれの頬を叩く。
凍てつくような冷たさだ。
しかし、革のフライトジャケット越しに感じる太陽の光は、奇妙なほど温かかった。
視線を下方へ投じる。
遥か数百メートル下、おもちゃの様な世界が広がっている。
玩具のように整然と並ぶ家々。
淡い緑と茶色の継ぎ合わせたような彩りの畑模様。
濃緑色のインクをこぼしたような森の塊。
すべてが小さい。あまりに、無力なほどに。
地上で蠢く人々の営みも、愛憎も、泥臭い葛藤も、この高度から見れば取るに足らない塵に過ぎない。
「ああ・・・」
おれは、胸の奥で震えるような嘆息を漏らした。
冷たい酸素が肺を満たし、頭の芯が痺れるような感覚。
同時に、おれの理性の断片が冷徹にささやく。
---これは夢を見ているのだな、と。
おれは今、飛竜の背に跨っている。
それも、戦闘用の飛竜ではない。
訓練生時代、来る日も来る日も共に汗を流した、あの軽装備の飛竜だ。
尻に馴染んだ使い古しの革鞍。手の内の汗を吸い、独特の滑らかさを得た手綱の感触。
すべてが瑞々しく、恐ろしいほどにリアルだった。
飛竜の巨大な翼が、目に見えない空気の壁をガシッと掴む。
ドッ、ドッ、という力強い拍動。
一掻きごとに、凄まじい揚力がおれの内臓を押し上げ、体がわずかに宙へ浮く。
重力からの解放。
この瞬間こそが、空乗りの存在理由だった。
そのときだった。
おれの視界の右端、死角から音もなく滑り込んできた影があった。
アインだ。
彼は完璧な編隊位置を保ち、おれの飛竜と翼端を並べていた。
鈍く光る革の兜。風防のゴーグル。
その奥にある表情までは見えないはずなのに、おれには確信があった。
彼は笑っている。
あの、生意気で、自信に満ち溢れた、悪ガキのような笑みを。
アインが右手を挙げ、親指を立てた。
そのまま手首を鋭くひねり、腕を前方へ振る。
戦闘開始の合図だ。
次の瞬間、アインの飛竜がバンク(傾斜)をかけた。
優雅な、しかしカミソリのように鋭利な旋回。
彼は空のキャンバスに巨大な弧を描き、重力を嘲笑うかのように加速していく。
「遅れるなよ、カイル!」
幻聴のような声が響く。おれは即座に応答した。
左の鐙に全体重をかけ、手綱を内側へ引き絞る。
おれの飛竜が応えた。翼を深く倒し、空気の渦を切り裂く。
ピィィィィィーーーーーーーー。
翼端板が風を切り裂く、あの高周波の悲鳴。
視界が横倒しになり、世界が猛烈な勢いで流れ始める。
青が傾き、地平線が垂直に立ち上がる。
二頭の飛竜は、まるで目に見えない糸で結ばれたペア・ダンサーのように、完璧な同心円を描きながら高度を稼いでいった。
荷重(重力加速度)が全身を圧迫する。
血液が足元へ沈み、視野がわずかに狭窄する。
だが、それが心地よい。
風は轟音となり、速度は限界を超えて高まっていく。
----圧倒的な、暴力的ですらある爽快感----
おれは一度翼を水平に戻し、竜体の姿勢を整えた。
無意識に腰の安全ベルトを指先で確認する。
単なる癖だ。この速度域では、ベルト一本が命の境界線になる。
おれは竜の首筋に顔を寄せるようにして、体を深く前傾させた。
竜と一体化し、空気抵抗を極限まで削ぎ落とす。
「行くぞ!」
無言の合図。
次の瞬間、おれは世界を反転させた。
飛竜が身を捩り、軸を中心として急速横転を開始する。
空が回る。
地上が頭上に来る。
一回転。二回転。三回転。
青と茶、空と大地が万華鏡のように交互に入れ替わり、三半規管が歓喜の悲鳴を上げる。
回転をピタリと止め、水平飛行へ戻る。
隣を見れば、アインが再び片腕を高く掲げていた。
称賛だ。
おれは耐えきれず、ゴーグルの下で歯を見せて笑った。
アインが両手の拳を胸の前で合わせた。
遊びは終わりだ。
次の合図――近接模擬戦
二頭は同時に咆哮し、垂直に近い角度で上昇を開始した。
だが、速い。
アインの駆る竜の方が、一歩先に空の深淵へと手を伸ばす。
見上げるおれの視界の中で、アインの飛竜はその白い腹を大胆にさらけ出し、重力という鎖を食いちぎるように昇っていく。
一気呵成。これこそが彼特有の、心臓が止まるような上昇機動だ。
おれも遅れじと風を掴む。
だが同時に、狂ったように首を振り、全周囲を索敵する。
アインを探せ。奴はどこだ?
空において、視界から消えた敵は死神と同義だ。
見つけた。
おれの上空、時計の4時方向。
太陽の光を背負い、黒い影となった奴が急降下の体勢に入っている。
おれは反射的に旋回した。
旋回半径を最小にし、奴の照準軸から無理やり身を逸らす。
しかし、アインの追従は正確無比だった。
まるでおれの思考を先読みしているかのように、奴の竜はぴったりと背後に食らいつく。
そのとき、首筋の産毛が逆立つような気配を感じた。
来る。
アインが牙を剥くように降下してくる。
おれは逃げるのをやめ、逆に飛竜の鼻面を跳ね上げた。
背面飛行のまま、足を空に向ける。
2頭の飛竜が、互いの鼻先が触れんばかりの距離で交差した。
そのまま、垂直に落下する。
2頭の足が絡み合う。危険極まりない近距離。
繋がっている。
互いの風を喰らい合いながら、螺旋を描いて墜ちていく。
一回転。二回転。三回転。四回転。
地面が、緑の怪物が、凄まじい勢いで口を開けて迫ってくる。
衝突まで、あと数秒。
「今だ!」
おれたちは互いに逆方向へ翼を広げ、散った。
地表スレスレで水平飛行に移る。
それは、もはや戦いではなかった。
殺し合いの技術を昇華させた、あまりに美しく、残酷な儀式。
まるで――
----空で踊っているかのようだった----
「あはははははは!」
その笑い声が、自分のものなのか、
アインのものなのか、
風のものなのか、もう分からなかった。
2頭は大きく弧を描き、再び翼を並べた。
今度は緩やかな角度で降下していく。
位置エネルギーが速度へと変換され、景色が加速する。
どんどん、どんどん、速くなる。
地上が近づく。
高度百メートル。
水平。
巨大な樫の木が、矢のように後方へ飛び去る。
色とりどりの畑が、高速で流れる帯となって消えていく。
楽しい
空は、こんなにも自由で。
どこまでも、どこまでも――
たのしい!
その瞬間。
世界が、ぐにゃりと歪んだ。
色彩が急激に彩度を失い、視界が急速にブラックアウトしていく。
耳元を流れていた風の咆哮が、遠い潮騒のような音に変わる。
温かかった太陽の光が消え、冷たい闇が降りてくる。
夢だ。
おれは、重い瞼を押し上げた。
-----------------------------------
目に飛び込んできたのは、見飽きた灰色の天井だった。
厩舎の隅に置かれた、硬い寝台。
隙間から差し込む朝の光に、埃が踊っている。
鼻を突くのは、飛竜の体臭と乾燥した藁の、噎せ返るような匂い。
おれはしばらく、指一本動かさなかった。
肺の奥に溜まった古い空気を、ゆっくりと、長く吐き出す。
自分でも驚くほど、心臓が激しく鐘を打っていた。
----まだ、あんな夢を見るのか-------
もう、終わったことだ。
空のことなど、飛ぶことの快楽など、とうの昔に意識の底へ沈めたはずだった。
----おれって、まだ「空」に未練があるのか?------
そんなはずないんだけどなぁ・・・・
おれは、残酷なほどはっきりと理解する。
自分はもう、あの空へ戻るべき存在ではないのだということを。
這い出すようにして外へ出ると、冷気と共に活気ある音が聞こえてきた。
飛竜部隊の朝の訓練だ。
上空では、数騎の飛竜が投石訓練に励んでいた。
高度を保ったまま、竜が腹の下に抱えた模擬石を解放する。
ヒュッ、という風切り音のあと、地上に置かれた走竜型の標的が見事に粉砕された。
圧倒的。
地上にいる者にとって、それは抗いようのない神の雷だ。
見上げれば、そこには死しかない。
かつておれが愛したあの爽快感は、地上から見れば剥き出しの恐怖そのものなのだ。
そのとき、ふとグレンの言葉が脳裏をよぎった。
『カイル。君の敵は「空」じゃない』
『戦う相手を、間違えるなよ』
おれは隣にいるマックスを見た。
彼は力強く地を蹴り、驚異的な跳躍を見せる。
泥を跳ね上げ、獲物へ向かって肉薄するその姿。
だが――。
それは、空を飛んでいるのではない。
風を切り、重力を忘れ、魂を青に溶かすあの行為とは、根本的に異なる「別の何か」だ。
「カイル、そこにいたの」
声に振り返ると、ミレイがこちらに歩いてくるところだった。
彼女の足取りは確かで、その瞳はしっかりと現実を見据えている。
「ミレイ、おはよう」
「おはよう、カイル。なんだか、ぼーっとしてるわね?」
おれは気まずさを隠すように、後頭部をガリガリとかいた。
「いや、今朝さ……空を飛んでる夢を見ちゃってな」
「空を?」
「ああ。昔の訓練時代のやつだ。なんで今さら、あんな夢を見たのか自分でもよくわからなくてさ」
ミレイは少し足を止め、おれの顔を覗き込んだ。
「夢、ね……。詳しくは知らないけど、脳が記憶の整理をしてるって、誰かが言ってたわよ。本棚の古い書類を片付けるみたいに、もう必要ない記憶を整理してるんじゃないかしら」
おれは自嘲気味に鼻を鳴らした。
「整理、か。だとしたら、もっとマシな夢を見せてほしかったよ。目が覚めた時のガッカリ感が酷い」
そう口にしてから、おれは自分の嘘に気づいた。
いや。
夢は、間違いなく楽しかった。
あの瞬間、おれは確かに生きていた。
空は甘美だ。
酒よりも、どんな美辞麗句よりも人を酔わせる。
そして、その甘さの分だけ、地上に生きる者にとっては残酷だった。
おれはマックスの硬い鱗に手を触れた。
掌に伝わる、生命の熱。
「行こう。訓練の時間だ」
おれは二度と振り返ることなく、泥の染み込んだ大地を一歩、踏み出した。




