【第35話 地を蹴る竜】
夜の整備場には、静かな時間が流れていた。
昼間は竜の鳴き声と工具の音で満ちているこの場所も、夜になると別の顔を見せる。遠くで警備兵の足音が響く以外、ほとんど音はない。油と革の匂いが、冷えた空気に混ざっている。
おれは壁にもたれながら、目の前の光景をぼんやりと眺めていた。
マックスは床に伏せて、ゆっくりと寝息を立てている。大きな胸が、規則正しく上下していた。
その隣では、ミレイが木箱を椅子代わりにして座ったまま、同じように眠っている。
作業着の袖には、まだ油の染みが残っていた。
今日も遅くまで調整をしていたのだろう。
おれは二人を見つめながら、頭の中でこれまでの時間を整理していた。
――おれがマックスとやってきたこと。
最初は「乗りこなす」ことだった。
飛べない飛竜。そんな噂の竜に乗ることになったとき、正直どう扱えばいいのか分からなかった。
だが、走らせて、転んで、また走らせて。
気づけばマックスの動きは少しずつ身体に馴染んでいった。
次は「長所を伸ばす」。
飛べないなら、地上で強くすればいい。
脚力、踏み込み、体重移動。マックスの後ろ脚は、驚くほど強かった。
そして――
「速く走る」。
最初は重く響くような足音だった。
ドスン。
それがやがて、ドンになり、ダンになり、タンになり、トンへと変わっていった。
速度が上がるたび、地面から伝わる振動も変わっていく。
そして最近、おれたちはもう一歩先に進んだ。
「立体的に動く」。
障害物を越え、斜面を駆け上がり、跳躍する。
マックスは地を這うように跳ぶ。
空を飛ぶのではない。地面を蹴り砕くように跳ぶのだ。
……だが。
「ここまで来て、欠けているものがある」
おれは小さく呟いた。
「戦い方だ」
走竜の戦い方は決まっている。
尾撃。
そして騎士による槍突き。
だが――
「マックスには無理だな」
ミレイがいつの間にか目を覚ましていた。少し眠そうな目でこちらを見ている。
「尾撃?」
「ああ」
おれは頷いた。
「走竜は回転して尾で叩く。だがマックスは脚の構造が違う。爪のある二本足で、あの鋭い回転ステップは踏めない」
「そうね」
ミレイは腕を組んだ。
「後ろ脚の踏み込みが強すぎるのよ。あの脚で回ろうとすると、地面を削っちゃう」
「それに槍突きも厳しい」
おれは手綱を軽く引く動作をしてみせた。
「マックスの走り方は上下振動が激しい。槍を構えていたら腕が持たない」
「無理にやると速度も落ちるわね」
「そうだ」
つまり。
走竜の戦い方は、ほとんど使えない。
「飛竜の戦い方は?」
「縦尾撃?」
ミレイが苦笑した。
「地上でやるの?」
「……無理だな」
飛竜が空中から叩きつけるように使う攻撃だ。地面にいる状態では意味がない。
すると。
残るものは一つしかない。
おれはマックスの前足を見た。
鋭い爪。
これだけは、飛竜の特徴そのものだ。
「爪を使うしかない」
「つまり」
ミレイが言う。
「跳躍して飛び掛かる?」
「ああ」
蛇と鳥の戦い方だ。
地面から跳び、相手に食らいつく。
そして引き裂く。
「これから訓練するべき動きは決まったな」
おれは言った。
「跳躍して、切り裂き、踏み潰す」
ミレイは少し考えてから言った。
「走竜が回転尾撃をしようとしたら?」
「避けるために跳躍する」
「そして?」
「また跳躍して攻撃する」
しばらく沈黙が続いた。
やがておれは呟いた。
「一撃を入れたほうが勝つ勝負になるな……」
ミレイはゆっくり頷いた。
「離れた場所から跳躍したら、音もなく襲い掛かることが出来るわよね?それって、かなり強いと思うんだけど」
イメージしてみる・・・だが。
「問題は着地だ」
おれは眉を寄せた。
「今は衝撃を逃がすために走り抜けている」
マックスの跳躍は着地の衝撃が大きい。
だから、そのまま走り続けて衝撃を逃がしている。
だが。
「襲い掛かるってことは……」
ミレイが言う。
「激突ね」
「ああ」
激突は危険だ。
相手に速度分の打撃を与える。
だが。
同時に、自分も同じ衝撃を受ける。
「高速跳躍で激突したら」
おれは首を振った。
「自滅だ」
ミレイが言う。
「爪で裂いて、そのまま通過することは出来ないの?」
おれは少し考えた。
「その場で跳躍して爪を使うと」
「うん」
「引き裂く反動で体勢が振り回される」
「……あ」
ミレイの表情が変わった。
「高速でやったら」
おれは言った。
「爪で裂いた瞬間に、おれたちがコマみたいに回転する」
「それは……そうね」
しばらく沈黙が落ちた。
やがておれは、ぽつりと呟いた。
「騎士だけを切り裂くことが出来れば……」
ミレイがこちらを見る。
「あるいは?」
「駆け抜けられるかもしれない」
おれは目を閉じた。
そして、戦いの光景を思い浮かべる。
疾走。
地面を蹴り、マックスが跳躍する。
こちらに気づいていない走竜と騎士が近づいてくる。
距離が縮まる。
あと数歩。
その瞬間。
マックスが脚を前に向け、爪を立てる。
爪が騎士に食い込み――
「……っ」
おれは思わず声を漏らした。
「どうしたの?」
「このやり方だと」
おれはゆっくり言った。
「騎士が千切れ飛ぶ」
その瞬間だった。
霧の戦場。
あの日の景色が、いきなり頭の中に蘇った。
倒れていた味方。
背中に突き立てられた長剣。
そして――
あの時、マックスで突き飛ばすことで、おれは敵兵を三人殺した。
胸の奥が重くなる。
おれは頭を振った。
「……これが戦場なんだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
だが。
この感情は何だ?
死に対する恐怖?
敵を殺すことへの恐れ?
それとも、殺された味方への怒り?
頭の中が整理できない。
ミレイがじっとこちらを見ていた。
「あなたは」
静かに言う。
「優しい人なのね」
そして続けた。
「でも、戦争は殺さないと殺されるのよ」
おれはミレイを見た。
彼女は今にも泣きそうな表情をしていた。
「どうした?」
思わず聞く。
「なにかあったのか?」
ミレイは小さく息を吸った。
「わたしの姉が」
静かに言う。
「聖国の兵士に殺されたの」
おれは黙って次の言葉を待った。
「亡くなったことは、だいぶ前に聞いていたの」
ミレイは言う。
「でも姉さんは返してもらえなくて……」
声が少し震えていた。
「お墓には遺品として、姉さんのエプロンが収められてるだけ」
ミレイは拳を握った。
「私は、あいつらのことが許せない」
そして続けた。
「でも」
ゆっくりと息を吐く。
「私と同じ気持ちの人が、あちらの国にも居ることを知ってる」
深く深呼吸する。
「だから」
静かに言った。
「戦いは無くなってほしいと思うのは、本当の気持ち」
そして、もう一度言った。
「それでも」
ミレイの声が強くなる。
「殺し合いが続いている間は、殺さないと殺されるのよ」
おれはその言葉を噛みしめた。
――殺さないと殺される。
間違いない言葉だ。
ふと、訓練生のときの教官の声が頭に浮かんだ。
『殺していいのは兵士だけだ』
『民間人を殺すのは野盗だ。そこに正義はない』
……ミレイの姉は。
軍人だったのだろうか?
だとしたら。
なぜ聖国にいたのだろう。
ミレイがぽつりと言った。
「姉は」
顔を上げる。
「聖国のパン屋で働いていたの」
おれは言葉を失った。
「とても美味しいパンで、人気があったのよ」
ミレイは少しだけ微笑んだ。
「作り方を教えてもらって、私も作れるようになってるの」
そして言った。
「いつか焼いてあげるわね」
おれは少し慌てて頷いた。
「あ、ああ」
それしか言えなかった。
「楽しみにしているよ」
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翌日。
訓練場。
おれたちは新しい攻撃方法を試していた。
ミレイが提案した方法だ。
「爪を立てて引き裂いたあと、翼を広げて着地する」
正確には。
「爪を立てる直前に、翼で跳躍の勢いを殺して踏み潰す」
二人は短い言葉を交わす。
「いけそう?」
「たぶん大丈夫」
訓練が始まる。
地形を利用した跳躍。
距離。
角度。
速度。
すべてが計算の対象だった。
竜と騎士の呼吸が合ったときだけ成立する技。
マックスが地面を蹴る。
ドン!!
巨体が跳躍した。
飛距離はゆうに50メートル近い。
一瞬。
空中にいる感覚。
そして。
低く地面を滑るように、標的へ迫る。
おれは手綱を引いた。
「今だ!」
マックスの体勢が起き上がる。
両脚の爪が正面を向く。
同時に。
翼が広がった。
バサッ――
ドン!!
標的の木材は粉々に砕けた。
破片が吹き飛ぶ。
そして。
マックスとおれは、標的のあった場所をわずかに通過した位置に――
音もなく舞い降りた。
静寂。
おれは息を吐いた。
「よし」
小さく言う。
「これなら実戦で使える」
だが。
おれの視線は、砕け散った木材を見ていた。
……もし、これが人だったら。
胸の奥に、不安が残っていた。




