【第31話 霧】
エルネストとセルジュが去ったあと、訓練場に重たい沈黙が居座り続けていた。
遠くでマックスが所在なげに地面を掻く音だけが、やけに硬く、大きく響く。
カイルはマックスから降りたあと、手綱を握りしめたまま立ち尽くしていた。
試走を披露して、その結果として帰ってきた言葉が、あまりにも辛辣だったからだ。
飛竜部隊の最高責任者と、軍の財布を握る文官から突きつけられた「劣化版」という烙印。
それは、カイルが心のどこかで最も恐れていた言葉だった。
軍の高官がわざわざ視察に来たのだから、「期待」されたのだと思っていたのだ。
---くやしい
カイルは、無性に悔しかった・・・・
グラウスは太い腕を組んだまま、地蔵のように動かなかった。
やがて、深く、肺の底から吐き出すような溜息をつくと、ゆっくりとカイルに向き直った。
「……カイル」
低く地響きのような声に呼ばれ、カイルは反射的に背筋を伸ばした。
「はい」
「さっきの連中の言葉は、気にするな――とは言わん。軍人に『気にするな』と言って、耳を塞げる奴は無能だけだからな」
グラウスの無骨な顔に、苦い笑みが浮かぶ。
「だがな、一つだけ覚えておけ。俺が責任を取る。お前は今のまま、その異端の技を磨き続けろ」
カイルは思わず目を見開いた。
「責任、ですか? グラウス隊長が、僕たちのために……?」
「ああ。特別班を編成し、お前たちを前線に出し続けるという判断は、すべて俺の名で通す。上層部が何を喚こうが、俺が矢面に立つ。お前は後ろを見るな」
グラウスは一歩近づき、声を潜めた。その瞳には、老練な武人特有の鋭い光が宿っている。
「軍という組織はな、本質的に変化を嫌う。管理する立場にある者ほど、『想定外』の事態を病的に恐れるものだ。彼らにとって、既存の戦術の枠に収まらない力は、勝利をもたらす剣ではなく、管理を乱す厄介者でしかない。……お前たちは今、完全にその『枠』の外側にいる」
カイルは拳を固く握りしめた。爪が手のひらに食い込む。
「……それでも、もし僕たちの力が、この国に必要だと言っていただけるなら」
「そうだ。それだけで十分だ」
グラウスはカイルの肩を、砕かんばかりの力で叩いた。
「だが、決して忘れるな。我々は『仲間』だ。お前の敵は室内にいる文官じゃない。外にいる、剣を持った敵だ。それを履き違えるなよ」
その言葉は、どんな鋼の鎧よりも重く、確かな信頼の証としてカイルの胸に深く落ちた。
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翌日、カイルとマックスは走竜隊の主力とともに、再び国境砦へと向かっていた。
一週間交代で行われる宿直任務のためだ。
砦の再建工事は着々と進んでいたが、連日の悪天候が作業を阻んでいる。
積み上げられた石材や真新しい木材、半ば露出したままの足場が、立ち込める薄い霧の中にぼんやりと溶け込んでいた。
輸送馬車の中、向かい合わせに座った若い騎士が、退屈そうに肩をすくめた。
「ったく、最近は雨ばかりで嫌になるな。まあ、この視界じゃ敵の飛竜も来やしない。湿気で翼が重くなるからな。今週はのんびりさせてもらうさ」
カイルは生返事の代わりに、馬車の小窓から空を見上げた。
鉛色の雲が低く垂れ込め、重力に耐えかねたように今にも崩れ落ちそうだ。
街道のぬかるみを車輪が軋ませ、泥を跳ね上げる。
やがて前方から、巡回を終えた先遣の走竜隊が見えてきた。
「お疲れ様です!」
馬車の騎士が身を乗り出して声を張る。
「おう、交代か。やっと暖かい飯が食える、ありがたいよ」
すれ違いざま、走竜に跨った騎士が疲弊した顔で笑った。
彼の愛竜の腹部は、跳ね上げた泥で汚れ、重い足取りで歩いている。
マックスが、低く鼻を鳴らし進路を一瞬嫌がった。
湿った土の匂い。肌にまとわりつく重い空気。
カイルは胸の奥で、正体の知れない騒がしさを感じていた。
それは嵐の前の静けさというより、もっと粘り気のある、悪意のような気配だった。
同刻。
テクスア山脈を越えた王国側の領空を、三頭の飛竜が偵察飛行していた。
「ちっ……本格的に降ってきやがったな」
編隊の先頭を行く騎士が、兜の隙間から空を睨む。
細かな霧雨が視界を遮り、冷たい水滴が顔を叩く。
飛竜たちは少しでも視界を確保しようと、さらに高度を上げた。
山脈を乗り越えてきた巨大な雲塊が、斜面を流れ落ちる白い滝のように、眼下の世界を覆い尽くしている。
濃く、重く、すべてを飲み込む霧の海。
その白い海の中に、一点。
「見つけた。聖国の影だ。こんな悪天候の中を、ご苦労なことだな」
合図が交わされ、三頭は即座に戦闘編隊を組んだ。
逃げ場を塞ぐように、聖国の飛竜の後方へと回り込む。
だが、本格的な空中戦には発展しなかった。
互いに翼を濡らし、急旋回による失速を恐れているのだ。
追い、追われる形で、白い霧の淵をなぞるような旋回が延々と続く。
「この天気じゃ、翼が鉛のように重いのはお互い様だ。深追いはするなよ」
距離は一向に縮まらない。聖国の飛竜は、峡谷を覆う濃霧を背に、わざとらしく大きな弧を描いて見せた。
「・・・帰りたくても、視界が悪くて巣に戻れないってか。同情するぜ」
やがて、聖国の飛竜は逃げ込むように、眼下の雲の深淵へと沈んでいった。
「おい、そこは俺たちの巡回ポイントにある休憩所だぞ! 逃がすかよ!」
王国の三頭は上空で数回旋回したあと、一人が手振りで決断を下した――「降りるぞ」。
「これ以上、雲の上で踊っていても体力の無駄だ。地上で決着をつけるぞ!」
三頭は、決死の覚悟で雲の壁へと突っ込んだ。
瞬間、世界が消えた。
激しい水滴が全身を叩きつけ、飛竜の鱗も騎士の革鎧も、瞬時に重い水分を吸う。
雲を抜けた先は、さらに視界の悪い濃霧だった。
「まずい、ぶつかるぞ! 距離を取れ!」
互いの姿がぼやけ、隣にいるはずの仲間の気配すら希薄になる。
騎士たちは地表が辛うじて見える高度まで無理やり機体を下げ、水平飛行へと移った。
目指すは、霧の中でも位置が特定しやすい岩場に隣接した広場。
巡回で頻繁に使用する、着地ポイントだ。
騎士たちは無言で長剣を抜いた。
聖国の飛竜も、同じ場所を狙っている可能性が高い。
着地と同時に、泥沼の中での斬り合いになる――誰もがそう覚悟していた。
バサバサバサ――。
広場の端、山影を背負った位置に、聖国の飛竜のシルエットがぼんやりと浮かび上がった。
「見つけたぞ、聖国の飛竜だ!」
王国の1頭が、森を背にした反対側へと急降下する。
バサバサ――。
2頭目が着地し、爪が泥を掴んだ、その瞬間だった。
バァン!
鼓膜を突き破るような衝撃音が霧の中で炸裂した。
「なっ……がはっ!?」
王国の騎士が鞍から吹き飛び、ぬかるんだ地面へと無様に叩きつけられた。
聖国の飛竜ではない。
広場に隣接した深い森の中に、あらかじめ潜んでいた聖国の「走竜」が、霧に紛れて致命的な尾撃を放ったのだ。
「待ち伏せだ! 飛び立て、早く!」
残った1頭が慌てて翼を広げ、助走を開始する。
だが、飛竜にとって最も無防備なのは、地上からの離陸時だ。
羽ばたきが空気を掴もうとしたその瞬間、上空の霧の中から3頭目の味方が、混乱のあまり姿勢を崩して降下してきた。
バサァン!
二頭が空中で絡まり合い、絡み合ったまま地面を転がった。
グオォォォォ!
地響きを立てて森から2頭目の走竜が飛び出し、さらに霧の奥から聖国の歩兵六名が姿を現す。
主を失い、恐怖に駆られた王国の飛竜が、半ば錯乱状態で空へと逃げ去っていく。
泥の中でもがく転倒した二頭も、必死に起き上がろうとするが、1頭の翼は、逃れようのない角度で無残に折れ曲がっていた。
「くそ……嵌められた!」
騎士は己の飛竜の翼を見つめ、絶望に舌打ちした。もう、飛べない。
重い霧の中、相棒の騎士の姿を追う。
だが、彼は鞍にだらしなく垂れ下がったまま、微動だにしなかった。
「……ダメか」
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霧に包まれた国境砦。
遠く、南の方角から、野獣の悲鳴にも似た竜の遠吠えが響いてきた。
「戦闘だ! 南に1キロ、巡回広場付近!」
詰め所の憲兵が叫ぶ。
その声が終わらぬうちに、宿直の走竜隊が動き出した。
最初に霧の中へ飛び出したのは、カイルとマックスだった。
「行くぞ、マックス! 急げ!」
ダダダダッ!
マックスの脚が泥を力強く蹴り、3頭の走竜がその背を追う。
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ギャォォォォォォン!
手負いの飛竜に跨った王国の騎士が、2頭の走竜と数人の兵士に完全包囲されている。
騎士は即座に判断を下した。
動けぬ飛竜に縛られていては、ただの標的でしかない。
彼は短剣を抜き、自らの命を繋いでいた落下防止ベルトを断ち切った。
騎士は泥の中へ飛び降り、両手に剣を構える。
視界の端には、最初に吹き飛ばされた仲間の、胸を貫かれた骸が横たわっていた。
絶体絶命。
六人の兵が、死神のように距離を詰める。
バァン! ドザザァ!
騎士が飛び降りたばかりの飛竜が、聖国の走竜の尾撃を食らって、地面に叩き伏せられる。
走竜が転倒した王国の飛竜に乗るように抑え、首に食らいついた。
グオォ!、ガオォォ!
聖国の走竜と王国の走竜の戦いは、互いの首を狙うように口を大きく開けて、半立ち状態で激突した。
「行くぞ、マックス!」
ダダダ、バシャン!
戦場へ到着したカイルの視界に飛び込んできたのは、惨劇だった。
霧を、そして泥を裂いて、銀色の影が弾丸のように突っ込んだ。
「うわぁっ!?」
横合いから突進してきたマックスの衝撃に、聖国の兵三名が木の葉のように吹き飛ぶ。
「王国の加勢だ! ・・・なんだあれは!」
聖国の指揮官が驚愕の声を上げる。
「引け! 森へ退け!」
指揮官の冷静な判断により、残った兵と走竜1頭が深い森の中へと消えていく。
聖国の飛竜は、マックスの姿を確認した瞬間、すでに霧の向こうへと羽ばたいて逃走していた。
走竜と走竜の戦いは、王国の騎士が聖国の騎士を討ち取っていた。
国境砦から駆け付けた走竜3頭が追いついて、戦いは終了した。
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翌朝。
意地悪なほどに空は晴れ渡り、昨日の霧が嘘のような青空が広がっていた。
広場からそう遠くない崖下で、王国の飛竜1頭の死骸が発見された。
霧の中で方向感覚を失い、パニックに陥ったまま崖へと衝突したらしい。
今回の小規模な小競り合いで、王国軍が失ったものはあまりに大きかった。
飛竜3頭。そして2名の騎士
対する聖国の損害は、歩兵数名と騎士1名のみ。
数字だけを見れば――これ以上ないほどの惨敗だった。
砦の空気は、鉛のように重かった。
飛竜は王国の象徴であり、最強の戦略資源だ。
その損失は、単なる一戦の敗北ではない。
国の「空」に穴が開いたに等しい。
「戦いが変わったな」
死骸を見下ろしながら、グラウスが低く、重々しく呟いた。
霧の戦場。
空はもはや、絶対の安息地ではない。
雲の下、霧の幕の向こう側――。
そこには、かつて見向きもされなかった森と地面に潜む牙が、虎視眈々と翼を引きずり下ろす機会を狙っている。
カイルは、遠くのテクスア山脈を見つめた。
霧は晴れたはずなのに、胸の奥にこびりついた白い靄は、どうしても消えてくれなかった。
飛竜の強さは絶対ではない。
【あとがき】
飛竜と走竜の戦いを描きました。
次回は、王女ティーナを描きたいな・・・できるかな?
第32話:協議




