【第24話 越える】
朝の空気はまだ冷たく、吐く息が白くにじんでいた。
カイルは長剣を構え、ゆっくりと振り下ろす。
ヒュン。
刃が風を裂く音が、湿り気を帯びた訓練場に溶けていく。
カイルが相棒のマックスに騎乗するとき、装備するのは太ももに沿わせた短剣だけだ。
長剣は持たない。いや、持てないと言ったほうが正しい。
それでも、彼はこうして地に立ち、長剣を振る。
対地戦になったとき、自分が何もできないという事実を、認めたくはなかったのだ。
周囲では、走竜隊の騎士たちが規則正しい掛け声とともに素振りを繰り返している。
だが、走竜隊にとっても「騎士」としての訓練と、「剣士」としての訓練は別物だ。
騎士は「乗る者」。
剣士は「地に立つ者」。
同じ剣を振る動作でも、重心の位置、踏み込みの深さ、身体の使い方がまるで違う。
走竜の背で戦う者は、常に揺れる足場を前提とした「点」の打撃を求められるが、地上では大地を味方につけた「線」の斬撃が求められる。
「そこ、腰が浮いてるぞ! 重心を落とせ、カイル!」
教官の鋭い怒号が飛ぶ。
カイルは歯を食いしばり、重い鉄の刃を振り抜いた。手のひらに伝わる振動が、じわりと痺れを残していく。
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その横では、走竜隊の本格的な対地戦訓練が始まっていた。
走る走竜に騎士が跨る。
ドスン、ドスン、ドスン。
地面が震える。地響きが足の裏から伝わってくる。
騎士は五メートル近い長槍を構え、一直線に標的へと突進する。
ドカ!
藁束で作られた重厚な標的に、槍が深々と突き立った。衝撃で藁が舞い散る。
別の組では、走竜に騎乗した騎士が、すれ違いざまに長剣を振るう。
仮想敵役の兵士が、強化された大盾でそれを受け止める。
ギィン!
鼓膜を突くような、鋭い金属音が響く。
走竜が地面を蹴るたび、その衝撃は左右へと大きく揺れる。走竜の独特な歩法が生む振動は、振り子のような「横揺れ」だ。
その喧騒の中を、カイルはマックスを走らせはじめた。
背中には、整備班に頼んで作ってもらった特注の装具で固定した長剣がある。
ドン、ドン、ドン、ドン。
だが、マックスから伝わる衝撃は、他の走竜とは決定的に違っていた。
上下に叩きつけるような、激しい振動が脊髄を突き上げる。
そして。
ガン、ガン、ガン!
「いたたたた、これはダメだ、話にならない・・・・くっ!」
カイルは顔をしかめて呻いた。
固定しているはずの長剣が、跳ねるたびに背中で暴れ回り、カイル自身のバランスを奪っていくのだ。
他の走竜の揺れは「左右」のいなしで済む。
だがマックスの走りは、爆発的な脚力による「上下」の反発だ。
まるで巨大な弓の弦の上に乗っているような、強烈な弾性。
以前、腰に剣を下げたときはさらに悲惨だった。
剣がマックスの脇腹を叩き、マックスが驚いて暴走しかけたのだ。
今回は背負い式に改良したが、結果はまたも惨敗。
重量物が背中で踊れば、人・竜一体の精密な操作など望むべくもない。
「対地戦になった時は、俺はただの荷物だな・・・」
自嘲が口をつく。
もっとも、マックス単体での戦闘力は凄まじい。
敵を蹴散らし、踏み砕き、圧倒的な速度で翻弄する。
そもそも、この速度域で騎乗しているカイルが、物理的な武器を振るう場面など、戦術的には存在し得ないのだ。
もしマックスから振り落とされたなら。
その時は、カイルが再び立てる状況とは、到底思えなかった。
「もっと、長剣が動かないようにガチガチに固定したら、どうにかなりそう?」
不意に背後から涼やかな声がした。
整備士のミレイだ。
茶色がかった金髪を後ろで一つに束ね、濃い青色の瞳が、まるで機械の内部を透視するかのような鋭さでカイルを見ていた。
「いや……」
カイルは重い溜息をつき、首を振る。
「固定を強めれば強めるほど、長剣の重さがダイレクトに俺の背骨を砕きに来るんだ。長剣を持とうとするのは、もうあきらめるよ」
彼は太ももに密着させた短剣を、ポンと軽く叩いた。
「これだけで十分だ。マックスの速度と攻撃力があれば問題ない、長剣は邪魔になる」
ミレイは少しだけ考えるようにし、納得いったような様子で、それ以上は何も言わなかった。
カイルは慣れない装具を外し、長剣を地面へ置く。
その瞬間、身体から重石が取れたように、ふっと軽くなった。
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次は実戦を想定した、障害物コースの走行訓練だ。
カイルはマックスの首筋を撫で、意識を集中させる。
ドス、ドス、ドス、ドス。
最初は低く、重い足音。
徐々にマックスの筋肉が温まり、ギアが上がっていく。
ドドドドドド。
ダダダダダダ。
振動の間隔が極限まで短くなる。視界の両端が流れ始め、風がカイルが被るメットを叩く。
前方に、人の背丈ほどもある丸太の障害が立ちはだかる。
マックスが後脚に力を溜め、踏み切る。
ドン……ダン。
着地。
カイルは目を見開いた。以前よりも、着地の衝撃が明らかに軽い。
背中に重い長剣がないおかげで、カイル自身の膝が柔らかく動き、マックスの振動を柔軟に吸収できているのだ。
最近、カイルが繰り返して試している「走り方」がある。
それは、従来の跳躍とは根本的に異なる思想だ。
「より低く、より遠くへ跳ぶ」。
高く跳ぶには、上へと強く踏み切る。
遠くへ跳ぶには、助走の絶対速度を上げる。
では――「低く遠くへ」抜けるには?
その答えは、意外なほどシンプルだった。
速い助走の勢いを殺さず、踏み切るベクトルを「真上」ではなく「斜め前」へ、地面を滑らせるように押し出すのだ。
マックスの後脚が、爆発的に大地を蹴る。
前へ。
弾くのではなく、空気を押し出す。
障害物を、飛び越えるのではない。「滑るように」越えていく。
着地の音が変わった。
ダン、ではない。
タン。
乾いた、軽い音。
衝撃が殺されず、そのまま次の一歩への推進力へと転換される。
タタタタタタタ、ダン・・・タン、タタタタ。
障害物を越えるたびに生じていた、わずかな速度低下が消えた。
いや、むしろ着地するたびに、マックスはさらに加速していく。
空気が裂ける。
地面が濁流のように流れる。
乗り越えていく。
目の前の障害物だけではない。
これまで生き物の限界だと思われていた、物理的な壁を。
マックスの走りが、また一段、未知の領域へと足を踏み入れた。
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やがて訓練の時間が終わり、走竜たちが厩舎へと戻り始める。
カイルは手綱を緩め、心地よい疲労感の中で息を整えた。
「俺も、こいつを厩舎まで送ってくるよ」
「あら、その必要はないわ。この子の様子、私が見ておきたいし」
ミレイが軽やかな動作で鐙に足をかけた。
彼女は驚くほど自然に、マックスの背に跨ってみせる。
「じゃあ、頼むよ」
カイルは手綱を彼女に託した。
ミレイは得意げに笑い、カイルを振り返る。
「その代わり、今日の晩御飯はおごりね!」
「わかってる。約束だ」
「マックス、お散歩がてら帰りましょうねー」
ミレイの合図で、マックスがゆっくりと歩き出す。
ズザッ、ザッ、ザッ、ザッ
カイルはその背中を静かに見送り、肺いっぱいに冷たい空気を吸い込んだ。
そして、彼は一人で訓練場の中央へと戻る。
そこには、先ほど彼が脱ぎ捨てた長剣が横たわっていた。
カイルはそれを拾い上げ、再び構える。
周囲の騎士たちはすでに引き上げ、静寂が訓練場を包んでいる。
ヒュン。
重い刃が、夜の帳が降り始めた空を切る。
地に立つ自分。
マックスと共に走る自分。
そのどちらも、まだ完成には程遠い。
だが、確実に何かを越えつつある。
音が変わるたびに。
速度が上がるたびに。
カイルは、ただ静かに、ひたむきに刃を振り続けた。
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夕暮れのタチミ街は、訓練場の静寂とは対照的な賑わいを見せていた。
商店街の軒先に吊るされた油灯が一つ、また一つと柔らかな光を灯していく。
露店からは焼きたての肉の脂が落ちる匂いや、ピリッとした香辛料の香りが漂い、一日の労働を終えた人々の笑い声が路地に響いていた。
カイルは、質素な訓練服のままだ。
だが、隣を歩くミレイは少し違った。
私服に着替えた彼女は、油汚れの作業着姿とはまるで別人のようだ。
小柄で華奢な体格だが、街の灯りに照らされた横顔には、女性らしい柔らかさが宿っている。
茶色がかった金髪が夜風に揺れ、濃い青色の瞳が楽しげに街の景色を追っていた。
「どこにする? 指定があるなら聞くけど」
カイルが尋ねると、ミレイは悪戯っぽく微笑んだ。
「今日はおごりなんでしょ? 遠慮なく、ちょっといい店を選ばせてもらおうかな」
二人が談笑しながら歩いていると、不意に背後から太い声が飛んできた。
「おい、カイル! 紹介してくれよ、その状況!」
振り返ると、そこには同期の飛竜騎士、アインがニヤニヤしながら立っていた。
「なんだ、アインか」
「『なんだ』とは冷たいな。非番のところを美女とデートか? 隅に置けないな」
カイルは困った顔をして、ミレイを紹介した。
「こちらはミレイ。マックスの専属整備士だ。デートじゃないよ」
アインの表情が、驚きに変わる。
細い指先、華奢な肩。重い装甲や工具を扱う「整備士」のイメージからかけ離れていたからだろう。
「・・・本当に? マックスって、あの暴れ馬ならぬ暴れ竜だろ?」
「失礼ね。マックスは暴れてるんじゃなくて、元気が良すぎるだけよ。それに今は暴れないわ」
ミレイが一歩前に出て、毅然と言い返す。
「飛竜隊第十二班の新兵、アインだ。よろしくな、お嬢さん」
アインは芝居がかった一礼をして、二人の会話に強引に割り込んできた。
結局、三人は連れ立って、騎士たちが行きつけの酒場へと向かうことになった。
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酒場の中は、熱気と活気に満ちていた。
重厚な木のテーブルを囲み、次々と料理が運ばれてくる。
山盛りの焼き肉、熱々の煮込み豆、香ばしい黒パン。そして、黄金色のエール。
「いいか、飛竜の戦術ってのはな・・・」
アインがエールのジョッキを片手に、熱っぽく語り出す。
「基本は上空からの急降下だ。高度を稼いで、重力を味方につけて一気に爪を叩き込む。これが王道にして最強だ」
彼は手を高く掲げ、獲物を狩る鷹のような動きをしてみせる。
「もし、上を取られて襲われる側の乗り手だったら?」
ミレイが、肉を頬張りながら鋭い質問を投げた。
「そりゃあ、左右どちらかに急旋回して軸を外すさ。相手の視界から一瞬で消えるのがセオリーだ」
アインが手の平を横に滑らせる。
ミレイは顎に指を当て、少しの間、空間にイメージでも描くかのように視線を動かした。
「・・・なら、旋回するんじゃなくて、あえて翼を垂直に立てて、風の抵抗で急減速しながら上昇したら? 相手の突進速度を利用して、逆に背後を取れるんじゃない?」
一瞬、アインのジョッキを持つ手が止まった。
彼は目を丸くし、カイルとミレイを交互に見る。
「・・・おい。あんた、本当に飛竜に乗ったことがないのか?」
「整備士だもの。翼の受風面積と、揚力のバランスくらい頭の中で計算できるわよ」
ミレイは事も無げに言って、ジュースを啜った。
カイルが誇らしげに笑う。
「だろ? 彼女の分析はいつも正しいんだ」
「・・・参ったな。カイル、お前、とんでもない才女を味方につけたな!」
アインが愉快そうに笑い、テーブルを叩く。
「おい、店員さん! この子に最高のエールを持ってきてくれ!」
「あっ、私、まだお酒は飲めない年齢なんです! ジュースでいいです!」
慌てて手を振るミレイに、酒場全体から笑いが起きた。
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夜が更けるにつれ、話題は自然と今日の訓練のことになった。
「カイル、最近のお前の走り、噂になってるぞ。伝令用の駿馬より速いって」
アインが真剣な目でカイルを見た。
「自分でも驚いてるんだ。速度が上がるほど、不思議と地面の凹凸が消えていくような感覚になるんだ」
「凹凸が消える?」
「以前は、障害物を越えるたびに激しいショックがあったし、路面のうねりも走りの邪魔になっていたんだ。でも今は、速くなればなるほど、走りやすくなるんだ」
ミレイが、補足するように口を開く。
「それはね、跳躍の『質』が変わったからよ」
彼女の瞳に、技術者としての熱が宿る。
「これまでの走竜は、障害物を『飛び越える』ために上方向へエネルギーを使っていた。でも今のカイルとマックスは、全ての力を『前方向』への推進力に変えているの。着地の角度が極限まで浅くなっているから、衝撃が上に跳ね返らず、前方へ逃げていく」
「物理現象を乗りこなしてるってわけか」
アインが感心したように唸る。
「越えるべき壁ってのは、力で壊すだけじゃない。その壁の定義自体を変えちまえば、壁は壁じゃなくなる・・・そういうことか」
「難しいことはわからないけど、マックスが気持ちよさそうに走ってる。それが一番の答えよ」
「速度が速くなると、飛び越した時の跳躍の距離もだいぶ伸びるんだ」
ミレイが微笑む。
アインはすでに酔いが回り、何度もカイルの背中を叩いて上機嫌だ。
「おい、カイル! 乾杯だ! 壁を越えたお前と、それを支える女神様に!」
「ちょ、ちょっとアイン、飲みすぎだ」
「いいんだよ! ほら、ミレイさんも一杯だけ!」
「ですから、私はまだ飲めないって!」
ミレイが、助けを求めるようにカイルの袖を引く。
その光景を見て、カイルは心の底から笑ってしまった。
マックスは速度の壁を越えた。
自分は「騎士はこうあるべき」という固定観念の壁を捨てた。
長剣を背負うことを諦めたのは、挫折ではない。
自分たちの強みを最大限に活かすための、戦略的な選択だ。
速くなるほど、世界は静かになり、走りやすくなる。
困難だと思っていた壁も、視点を変え、速度を上げれば、単なる通過点に過ぎない。
店内に響くアインの笑い声と、ミレイの困ったような、それでいて楽しげな声。
賑やかな喧騒の中で、アインがジョッキを掲げて叫んだ。
「乾杯だぁ!」
困り果てたミレイは叫んだ「わたし、困ります!」
【あとがき】
激しい振動を膝で吸収するライダーにとって、荷物が暴れない場所は、「太もも」と「お腹」の2か所になります。
懐かしい日々を思い出しながら、描きました。
次回は一休みの特別編です
第25話:カイル人助けをする




