【第23話 失敗】
カイルは特別班として行動していた。
特別班に編入されてから、カイルの一日は以前よりも静かで、そして肌を刺すような重苦しさを帯びるようになった。
かつての所属先であった走竜班とは完全に別枠の扱いとなり、軍の編制図上、彼は浮いた存在だ。
しかし、その立場は奇妙なほど高い。
形式上、新兵の若造であるカイルは各班長と同格の権限を与えられ、作戦会議や兵站の打ち合わせにも出席を義務付けられていた。
重厚な扉の中、会議室のテーブルを囲むのは、軍隊を長年過ごしてきたリーダー達だ。
よく焼けた肌、顔に刻み込まれた皺さえもベテランの雰囲気が漂う。
カイルは服装を正して、新調されたばかりの椅子に深く腰掛ける。
彼らがカイルに向ける視線は、決して厳しいものではなかった。
「あいつが例の『飛べない飛竜』の乗り手か」
「『飛ぶように走る竜』の特別班だろ」
そんな声が、壁の向こうから聞こえてくる。
会議中、熟練の班長たちはカイルを無視するわけではなく、むしろ丁寧に「教示」を与えた。
「ここは地形的に風が巻く。走竜を突っ込ませるなら、無理をさせるな」
「補給路の確保には三日はかかる。カイル、貴殿の班はどう動くつもりだ?」
助言を受けながら、カイルは必死に頷く。
肩書きは一人前でも、中身はまだ教えを乞う側でしかない。
テーブルに置かれたカイルの手は、緊張でかすかに震えていた。
実戦を想定しない定型の訓練は、以前と同じように走竜達と行動した。
長距離の行軍訓練や、王都での軍事パレードを想定した整列行進。
他の走竜たちと足並みを揃え、重い大地の振動を刻み続ける時間は、カイルに「自分もまだこの軍の一部なのだ」という微かな帰属意識を与えてくれた。
だが、実戦形式の訓練に移行すると、以前とは違う内容になった。
走竜の攻撃訓練において、マックスは常に「受ける側」に回された。
周囲を囲む屈強な走竜たちが、鋭い尾撃や巨体を生かした突進を繰り出す。
カイルはマックスの背で必死に手綱を操り、それらを紙一重で回避し続ける。
跳躍し、泥を撥ね、マックスは巨体に見合わぬ敏捷さで敵をいなす。
だが、反撃は許されない。
マックスの攻撃訓練は、常に無機質な木製ダミーが相手だった。
「本気の一撃が入れば、訓練の走竜が死にかねないからな」
教官のその言葉は、マックスの圧倒的な破壊力を認めるものだった。
カイルにも異論はなく、マックスと共に対走竜の攻撃訓練を、走竜隊とは別行動で続けた。
そして、その訓練には決定的に欠けているものがあった。
――上空から飛来する「真の飛竜」への対処だ。
騎士が放つ長弓の矢は、飛竜の硬質な鱗に虚しく弾かれる。
地上を走る走竜の尾撃は、悠々と空を舞う死神の手には届かない。
古来より、飛竜に対抗できるのは、同じ高さにまで昇れる飛竜だけだった。
それは、翼を持ちながら飛べないマックスにとっても、致命的な弱点だった。
低高度での回避や、立体的な遮蔽物を利用した逃走は得意だ。
だが、雲の上から音もなく降下してくる敵を撃ち落とす手段を、走竜隊もカイル達も持っていない。
かつて飛竜隊のグレンが見せた、空中で回転しながら放つ鮮やかな尾撃。
あれをマックスが放つには、高度が全く足りていないので真似できるはずもなかった。
「守られる側……か」
訓練の合間、マックスの首筋を撫でながら、カイルはその言葉を噛み締める。
自分たちがどれだけ地上の技術を磨いても、空にいる敵に対しては無力だ。
その冷酷な事実が、心の底に澱のように沈殿していく。
それでも、カイルは走るのをやめなかった。
今日も誰もいない演習場のコースを、マックスと共に駆け抜ける。
土を力強く蹴り、積み上げられた障害物を軽やかに跳び越える。
ダン。
かつては重い音を立てていた着地音、次第に軽やかになり、衝撃がカイルの身体へと滑らかに伝わってくるようになった。
カイルは鞍に深く沈み込み、マックスの荒い鼓動に自分の呼吸を重ねる。
走れば走るほど、彼らの一体感は極限まで高まっていった。
マックスが踏み切る瞬間、カイルは無意識に重心を前へと移動させ、着地の瞬間に古傷の残る右脚にかかる負担を最小限に抑える。
痛みはあった。軋むような、嫌な感覚が膝を走る。
だが、それを越えてマックスの筋肉の躍動と同調瞬間、彼は自分が何者であるかを忘れることができた。
次々に迫る地形。
考えるより先に身体が勝手に動く。
思考が消失して、無心に走り続ける。
速く、速く、もっと速く
ダダダダダダダダ
訓練を終え、汗だくになって草地に腰を下ろす。
マックスは長い鼻先をカイルの肩に預け、甘えるように小突いた。
グルルル
「……なあ、マックス」
カイルは青く澄み渡った空を見上げる。
あそこには、自分たちが決して立ち入ることのできない「聖域」がある。
「おれは、このままバカみたいに、努力を続けていていいのかな」
目を閉じれば、あの戦場で見た敵の飛竜が脳裏に蘇る。
太陽を背負い、巨大な死の影が地上を覆い尽くす。
陽光を弾いて銀色に輝く鱗。大気を切り裂く翼の音。
あの圧倒的な恐怖。
それに抗うには、今の自分たちは、ただ地面を走り続けるしかない。
「おれは、この選択を……いつか後悔するのかな」
マックスが正規の飛竜として運用される日は来ない。その現実は、もう十分に理解していた。
ならば、もっと効率的な道があるのではないか?
--自分が飛竜騎士になればいいのでは?
マックスから降り、空を飛べる別の飛竜に乗れば、この胸を締め付ける不安は消えるのではないか。
おれがマックスに騎乗しているから、マックスは無理やり戦場へと引きずり出されている。
おれが諦めて、マックスを厩舎へ、あるいは故郷の山へと返してやれば、こいつが前線で命を散らす必要もなくなるはずだ。
そして、根本的な事に立ち戻ることになった。
なぜ軍部は、おれに「飛竜騎士訓練資格、剥奪」という命令を下したんだ。
試験の時の墜落は、誰のせいでもないとなっていたじゃないか。
理由を知るには、飛竜部隊長に聞くのが一番のはずだ。
だが、新兵という立場では、幹部にあう機会なんてない。
カイルは迷った末、結局、医務室へと向かった。
-------------------------------------------------------
鼻を突く薬草の匂いと、消毒液の冷たい空気。
時々、治療をしてくれている担当医と会話するつもりで医務室に入ったが、そこに思わぬ人物がいた。
カイルが試験で墜落した時に来てくれた軍医官ドロテアだ。
「お邪魔します」
部屋の奥で書類に目を通していたドロテアが顔を上げた。
「どうしたの、カイル。今日は顔色が悪いわね」
彼女の声はいつも通り穏やかだった。
だが、その眼鏡の奥にある瞳は、すべてを見透かすような冷徹さを秘めている。
「もし、ご存じであれば教えていただきたいのですが」
カイルは逃げ場を断つように、ドロテアを真っ直ぐに見据えた。
「単刀直入に伺います。おれが、飛竜騎士の訓練資格を剥奪された本当の理由を教えてください。マックスの適性ではなく、おれ個人の資質の問題として、です」
ドロテアは静かにペンを置いた。そこに、ためらいの色があった。
「詳細は通達されなかったはずよ。若い騎士には酷だから」
「酷?・・・それでも、俺はちゃんと知りたいです」
ドロテアはカイルの目を見て、一呼吸おいてから話し始めた。
「過去の飛竜騎士たちが積み上げてきた、膨大な実績からの判断よ」
「実績……?」
「そう。あなたの症状は、飛竜騎士特有の『病』なの。決して、あなた一人が特別というわけではないわ」
カイルは息を呑んだ。
「飛竜から落下し、運よく生き残った者に発症する例が非常に多い症例よ。……極限の恐怖、あるいは死の予感に直面した際、脳が自己防衛のために思考と身体を切り離す。つまり、大切な瞬間に、身体が完全に硬直するのよ」
あの事故の光景がフラッシュバックする。
空中で投げ出され、重力に翻弄されるだけの肉体。
「治療法はないわ。これまで、どれだけ優秀だと謳われた騎士であっても、一度この『死への恐怖』を身体に刻み込まれた者は、二度と克服できなかった」
ドロテアの言葉が、冷たい針のようにカイルの心臓に突き刺さる。
「軍はそれを考慮して、あなたを空から降ろしたの。冷酷な判断ではなく、効率と安全を重んじた結果よ」
カイルは膝の上で拳を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込み、鈍い痛みが走る。
「でも……硬直は一瞬です! ほんの一瞬、呼吸を整えれば動ける。実際、マックスとの訓練では一度も起きていない!」
「跳躍のときも?」
ドロテアの問いは鋭かった。
「川を飛び越えるとき、崖を跳ねるとき。一瞬でも滞空している間は、同じ空にいるはずだ!」
ドロテアは静かに、そして悲しげに首を振った。
「高度が低すぎるのよ。あなたの脳が『死』を確信する条件を満たしていないだけ。……恐怖を呼び起こすスイッチは、もっと高い場所にある」
彼女は机の上のカルテを指でなぞる。
「たとえ一瞬であっても、空の上での硬直は致命的よ。空には足をかける地面も、掴まる枝もない。一瞬の遅れが、自分と飛竜の死を招く」
ドロテアは椅子から立ち上がり、窓の外を見つめた。
「戦闘中、本当の絶体絶命の瞬間が訪れたとする。その一瞬に、抗い、足掻き、できる限りの『生き残る努力』を尽くした者だけが、次の数秒を勝ち取ることができる。戦場とは、そういう場所よ」
彼女の視線が、再びカイルを射抜く。
「諦めた者はもちろん、恐怖で何もしなかった者にも、次の一瞬は永遠に来ない」
答えられなかった。
マックスの飛行能力を試して突然の降下が起きた時、何もできないどころか、死を意識した。
そして、ただ固まった。
カイルは、死を受け入れてしまったのだ。
「最後の一瞬まで、生きようとするか。それとも、ただ死を受け入れるか。その境界線を超えられない者は、飛竜騎士として不適格なの」
飛べない飛竜。
そして、飛べない騎士。
マックスが飛べるかどうかを確かめるつもりで行った行為で、自分自身が飛べない騎士だったことが分かってしまった。
医務室を出ると、廊下には夕闇が忍び寄っていた。
長く伸びる影の中を、カイルは重い足取りで歩く。
厩舎の奥では、いつものようにマックスが主人の帰りを待っていた。
カイルの姿を認めると、マックスは嬉しそうに鼻を鳴らし、太い尻尾をブンブンと左右に振った。その無邪気さが、今はひどく痛々しい。
カイルはマックスの温かい額に、自分の額を強く押し当てた。
「失敗したなぁ・・・」
こぼれ落ちそうになる弱音を、マックスの鱗に埋める。
空に挑み、空に焦がれた代償。
それは、自分たちが地上の住人でしかないという、あまりにも残酷で平凡な現実を知ることだった。
マックスは何も言わず、ただ静かに息を吐いた。
その吐息は熱く、生きている実感をカイルに伝えてくる。
【あとがき】
今回は、カイル回でした。
次回はミレイが怒ります。「わたし、困ります!」
第24話:越える




