【第21話 アクリオン聖国】
朝の鐘が、重厚な音色でアクリオン聖国の空を震わせた。
清浄な大気を震わせるその音は、敬虔な信徒たちにとって祈りの合図である。
しかし、他国から来ている異邦者にとっては眠りを妨げる無慈悲な騒音でもある。
白い尖塔が林立する聖都は、夜の間に降りた深い霧をまといながら、明けてゆく空の元でゆっくりとその巨大な身躯を震わせて目を覚ました。
石畳の通りには、夜明け前から準備を始めていた露店が色とりどりの天幕を広げ、街路を埋め尽くしていく。
東方から運ばれた香辛料のツンと鼻を突く刺激的な匂いと、竈で焼き上げられたばかりの薄焼きパンの香ばしさが、冷たい霧の中に混ざり合う。
人々は、夜明けと共に活動を開始し、日が沈むと共に眠るのだ。
市場は、いつものように騒がしい生命力に満ちていた。
色鮮やかな果実を山のように積み上げる者。
織り上げられたばかりの滑らかな布を、陽光に透かして見せる者。
軒先に吊るされた干し肉の脂が、朝日を浴びて鈍く光っている。
「さあ、安いよ! 神の恵みを分けてやるよ!」
「昨日より一割も高いじゃないか。教皇様に言いつけてやろうかしら」
笑い声が飛び交い、値切り交渉のやり取りが、歌のようなリズムで軽やかに響く。
だが、その喧騒の渦中にあって、一角だけが凪いだ海のように静まり返っていた。
古びた木箱を無造作に並べただけの、小さな露店である。
並んでいるのは、ありふれた錫の装身具や、磨きが甘く曇ったままの銀器。
どれもが安価で、道行く人々の目を引くような輝きはない。
店主は、使い古した布で銀の匙を執拗に磨き続けていた。
そこへ、古びた帽子を深く被った一人の男が歩み寄った。
男は並べられた品を品定めするように視線を落としたまま、周囲の喧騒に紛れ込ませるような低い声で、何気なく言った。
「よい品はあるかい」
店主は匙を磨く手を止めず、鼻を鳴らした。
「残念だが、目ぼしいものは全部売っちまったよ」
その言葉が交わされた瞬間、二人の間に、ほんの一瞬だけ針を落としたような沈黙が降りた。
それは諜報を確認し合う、プロ同士の僅かな間だった。
「そうかい。それは残念だ」
男は銀器をひとつ手に取ると、その重さを確かめるふりをして、わずかに指先を滑らせた。
「……また来るよ」
「お待ちしてますよ。次はいいもんを用意しとく」
男は背を向け、雑踏の中に溶け込むように去っていった。
店主は一度も顔を上げることなく、再び匙を磨き始める。
ただ、その指先が、カウンター代わりの木箱をトントンと三回、規則正しく叩いた。
「報告した以上の情報はない。それだけのことだ」
呟きは独り言として処理され、空気に溶けた。
市場の喧騒は、まるでその場に最初から誰もいなかったかのように、何事もなかったかのように続いていた。
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市場の活気とは対照的に、聖都の中枢をなす大聖堂は、死のような静寂に包まれていた。
白い大理石が敷き詰められた回廊を、軍靴の音が無遠慮に叩く。
高天井に反響するその足音は、静謐を尊ぶこの場所において、明確な拒絶の意志を示していた。
聖堂奥の「謁見の間」。
重い扉の向こう側には、肺に刺さるような冷たい空気が漂っていた。
部屋の奥、一段高い場所に据えられた黄金の玉座。
そこに腰を下ろしているのは、白い法衣に身を包んだアクリオン聖国の最高権威、教皇である。
彼は深い皺が刻まれた年老いた眼差しで、階下に直立する男を射抜くように睨みつけていた。
教皇の前に立つのは、鈍い銀光を放つフルプレートの鎧を纏った将軍だ。
「なぜ、私の許可なく王国に進軍した!」
教皇の声は、低く、そして抑えきれない怒気が滲み出ていた。
しかし、将軍は恐縮する素振りも見せない。
片膝をつくという最低限の礼儀すら欠いたまま、広い胸を張って平然と答えた。
「教皇さま、それはおかしなことを言われますな。我が国の領空で飛竜隊の隊長に直接攻撃を加えたのは、あちらですぞ。我らはただ、聖国の威厳を守るために剣を抜いたに過ぎません」
「テクスア山脈の向こう側は、何十年も前から勢力圏が入り乱れるデリケートな地域だ。王国から正式な外交官が来ているこの時期に、なぜそこまでやりすぎる必要がある」
教皇は肘掛けを強く叩いた。
「外交とは刃を隠して行うものだ。お前のように剥き出しにしては、野蛮人と変わらん」
将軍の唇の端が、嘲るように吊り上がった。
「ナマぬるい。教皇さま、そんな甘い言葉を言っているから、奴らがつけあがるのですぞ。王国を一度徹底的に叩き、恐怖を刻み込まねば、この聖国の国境線は地図から消えてしまうでしょうな」
「その結果が、何だ」
教皇の言葉が、氷の塊のように落ちる。
「我が国の至宝である飛竜を二頭、そして熟練の騎士二名を失ったのだろう。……この愚か者が」
将軍の眉がわずかに、ぴくりと動いた。
「こちらは、敵の走竜八頭を屠り、兵士を多数始末しております。戦果としては十分でしょう」
「飛竜一頭が、走竜何頭分の価値になるのか、お前ほどの軍人が知らぬわけではあるまい」
教皇の冷徹な指摘に、場が静まり返る。
飛竜は、聖国が誇る最強の航空戦力だ。
育成に数十年を要し、代わりがきかない。
対して走竜は、王国が量産しているただの騎獣に過ぎない。
今回の結果は、戦術的には大敗に近い。
沈黙。
将軍は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、服従の色など微塵もなかった。
不敵な、そして狂気を孕んだ笑みが浮かぶ。
「価値などというものは、状況によって劇的に変わるものです、教皇さま。……しかし、不変の価値であるはずの教義を伝えるお立場として、いまだに現人神を名乗り、我が聖国の神聖さを汚し続けるテルミ王三世を放置していることこそ、真の愚かさだとは思いませんか?」
空気が凍りついた。
周囲に控えていた司祭たちが、一斉に息を呑み、ざわめきが波のように広がった。それは禁忌に触れる発言だった。
教皇の目が、細く、鋭くなる。
「その話は、もう百年も前に決着がついている。古傷を何度も蒸し返すな」
「諜報局の報告によれば、そのテルミ王三世が重い病に臥せっているとのこと。王国の権力が揺らいでいる今こそ、強気に出る絶好のタイミングですぞ。今、叩かずしていつ叩くというのですか!」
「黙れ!」
教皇の声がホールに響き渡った。
「王国の皇太子と私が、個人的にどれほど懇意にしているか、お前も知っているはずだ。戦争は手段であって、目的ではない。私は平和な統治を望んでいるのだ」
教皇の声は低く、だが鋼のような重みがあった。
将軍は一瞬だけ視線を伏せた。鎧の継ぎ目が小さく軋む。
「……承知いたしました。教皇さまの仰せの通りに」
だが、その言葉とは裏腹に、彼の目から闘志の炎が消えることはなかった。
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謁見の間を辞した将軍は、大股で回廊を歩き、待機していた副官に顎で合図を送った。
「行くぞ。技術局だ」
二人は白い聖堂地区を足早に抜け、高い石壁に囲まれた重厚な建物へと向かった。
そこは、祈りと聖歌が支配するこの街において、あまりにも異質な空気を放っていた。
建物の隙間からは、鉄を叩く鈍い音が絶え間なく響き、鼻を突くのは抹香ではなく、焦げた金属と油の匂いだ。
入口の重い鉄扉の前で、将軍は足を止めた。
「スパイのあぶり出しはどうなっている」
副官が表情を変えずに報告する。
「先日捕らえたネズミを王国に対する見せしめとして火あぶりに処した事は、王国内に噂として流してあります。当分、連中も深入りはしてこないでしょう」
将軍は感情のない声で短く応じた。
「引き続き念入りにやれ」
扉が開くと、内部は雑然とした倉庫とも工場とも言い難い広い空間だった。
壁には工具がいくつも吊り下がり、床にはいくつもの作業台が並んでいる。
作業台には、無造作に放置された図面や箱がのっていた。
何人もの技術者が動きまわる通路を進むと、奥の一角にひときわ広い台があり。
陽が当たる台上には、整然と並べられた無数の部品があった。
巨大な歯車、黒光りする軸、そして複雑な曲線を描く金属板。
壁一面には、緻密な計算式と図面がびっしりと貼り付けられている。
「将軍様、お越しいただきありがとうございます」
奥から、白衣を羽織った痩せぎすの男が現れた。技術局の局長だ。彼は油で黒ずんだ手を布で拭いながら、深々と頭を下げる。
「局長。例の『開発』の進み具合はどうだ」
局長は困惑したように視線を泳がせた。
「順調ではありますが……これの技術者が、『こんな殺し合いの道具ではなく、水揚げ機のような民生品を開発したい』と不満を漏らしておりましてな」
将軍は鼻で笑った。
「勝手なことを。あれが完成し、王国を支配下に置いた暁には、山のような予算をつけて好きなものを作らせてやると言っておけ。それまでは、奴らの脳髄を機械のために差し出させろ」
奥から、再び乾いた音が響き始めた。
――カリカリカリカリ……。
精密な歯車が、正確無比に噛み合う音。
将軍はその音に誘われるように、作業台へと歩み寄る。
以前は木製だったはずの試験部品が、今は鈍い光沢を放つ冷たい金属へと置き換わっていた。
「ほう。歯車を金属製に変えたのだな」
「はい。耐久性と回転効率が飛躍的に向上しました。これにより、以前は耐えられなかった高負荷にも、この心臓部は耐えることができます」
作業台の上には、一見すると何の機械なのか分からない、異形の骨組みが鎮座していた。
そこには複雑な大小の歯車が組み込まれている。
「完成まで、あと少しかと……」
説明する技術者の声には、自らの生み出した怪物を恐れるような、誇りと不安が複雑に混ざり合っていた。
将軍は、その冷たい鉄の塊を、愛おしげに指先でなぞった。
金属の歯車が、再び回り始める。
――カリカリカリ……。
それは、静かだが、確実に歴史の歯車を狂わせる音だった。
信仰の国の一角で、教理とは別の「技術」が形を成そうとしていた。
将軍は背を向け、出口へと向かう。
「急げ、局長。この兵器で時代をかえてやる」
市場では、今日も変わらぬ賑わいを見せていた。
聖堂の尖塔からは、人々の幸せを願う夕暮れの祈りが捧げられている。
だが、その平穏な街の中で、
歯車は止まらずに、不気味に回り続けていた。
【あとがき】
不思議な現象を「神聖な神の御業」と扱う聖国だからこそ、逆に技術の探求が進んでます。
次回はマックスについて描きます。
第22話:本能




