【第18話 地上戦の洗礼】
飛竜は、この世界の空における絶対的な支配者であり、同時に絶滅に瀕した希少種でもある。
王国の北部に位置する竜騎士基地。そこに繋ぎ止められている個体数はわずか37頭。
王国全土の視察や伝令、極秘任務に従事している個体をすべて合わせても、その数は50頭にも満たない。
飛竜の繁殖は極めて困難を極める。特定の条件でしか産卵せず、孵化率も低い。
かつて大陸の空を埋め尽くしたといわれる野生種は、乱獲と環境の変化によって、今やほとんど存在しない。
空を統べる絶対的な機動力と破壊力を持ちながら、その存在は硝子細工のように脆い均衡の上に成り立っていた。
それは、テクスア山脈を隔てた先に位置するアクリオン聖国においても同様の事情であるといわれている。
ゆえに、飛竜同士が空で刃を交えるという事態は、単なる一兵卒の死を意味しない。
それは国家が数十年かけて育て上げた至宝を、文字通り削り合う「国家そのものの損耗」に他ならないのだ。
それでも、戦いの歯車は一度回り始めれば止まることはなかった。
運命に導かれるように、両国の翼は国境の空で邂逅した。
今回の戦いで、先行調査として6頭が出ている。
そのうちの1頭が国境砦の情報を基地に持ち帰った。
この段階では、敵の飛竜が確認されていなかったので、王国側は戦力として飛竜を3頭を出動させた。。
国境砦が位置する地勢は、鋭利な刃物のように切り立った断崖絶壁と、蛇のように入り組んだ狭い山道に囲まれている。
通常、飛竜が地上を往く敵の走竜隊に攻撃を加えるには、これほど複雑な地形は適さない。
岩陰に隠れられれば、上空からの急降下攻撃は精度を欠き、逆に地上からの攻撃の餌食になるリスクがあるからだ。
「これなら、大がかりな空中戦力は不要だろう」
王国の軍部はそう判断した。戦力として出動を命じられたのは、わずか3頭。
主目的は戦闘ではなく、高度からの監視と地上部隊への進路指示。つまり、地上を這う味方部隊を導くための“目”としての役割であった。
飛竜隊隊長、グレン。
彼は数々の空戦を潜り抜けてきた壮年の男だ。彼が率いる三騎が、基地から力強く飛び立った。
青い空へと舞い上がる巨大な翼は、高高度の清冽な陽光を浴びて、眩いほど白く輝いた。
地上では泥まみれの行軍が続いていたが、雲の上は静寂そのものだ。
国境砦へ向かう航路の途中、役目を終えて帰還する先行調査隊の残りとすれ違った。
互いに飛竜の首を軽く振らせ、短い信号を送る。空の騎士たちに言葉は不要だった。
進路を譲り合い、翼を休める者と戦地へ赴く者が一瞬だけ交差する。
その時の空気は、不気味なほどに静まり返っていた。
やがて、眼下に砦の手前で陣を構える味方の走竜隊が視認できる距離に入った。
谷間の先では、すでに地上戦が始まっているのか、細い糸のような土煙が幾筋も立ち上っている。
その瞬間だった。
「……ッ!」
グレンたちは息をのんだ。
国境砦の背後から、突如として五つの黒い影が、重力に逆らうように同時に跳ね上がったのだ。
「敵飛竜……!? 馬鹿な、報告にはなかったぞ!」
誰かの叫びが、激しい風の音に掻き消される。
敵は狡猾だった。最初から飛竜を戦力として隠匿していたのだ。
先行調査隊に見つからぬよう、翼を畳み、体温を隠し、険しい地形の死角に紛れ込ませていた。
五対三。
数的不利に加え、敵は待ち伏せによる高度の優位を完全に確保している。
一瞬にして、のどかな空中散歩の空気は、死の香りが漂う戦場へと変貌した。
グレンは即座に手綱を強く握り直し、大声で叫んだ。
「俺が正面から散らして注意を引き受ける。お前たちは一対一に持ち込め、互いに死角を援護しろ!」
部下の返答を待つ余裕などない。グレンは愛竜の脇腹を強く蹴った。
「行くぞ、アズール!」
その言葉に応えるように、蒼い翼が空気を爆発させるように打ち下ろされた。
グレンの駆る飛竜は、物理法則を無視したような加速で、一直線に敵の編隊へと突っ込んでいった。
敵の5頭は、獲物を逃さぬ楔陣形で突進してくる。
正面からぶつかれば、物量の差で押し潰されるのは明白だ。
グレンは衝突の直前、愛竜の尾をわずかに操作した。速度を乗せたまま、限界に近い角度で急上昇を敢行する。
「来い!」
挑発に乗った敵の3頭が、吸い寄せられるようにグレンを追って機首を上げた。
急上昇による荷重がグレンの全身を圧迫するが、彼は歯を食いしばって空の一点を見つめる。
追随してきた敵の隊形が、急激な高度変化に追従できずに乱れた。
一方、残る2頭の敵飛竜は、経験の浅い王国側の若い騎士二人へと牙を剥いた。
空は、一気に乱戦へとその姿を変える。
巨大な翼が空気を切り裂くたびに凄まじい風が起こり、鋭利な爪が日光を弾いて光る。
飛竜戦の極意は、古来より変わらない。
「背後を取った者が勝つ」
理屈は単純だが、高速で立体的に動き回る巨体を制御しながらの機動は、あまりにも苛烈を極めた。
グレンは、敵の1頭と激しい旋回戦に突入していた。
互いに高度を一定に保ちながら、目に見えない巨大な円を描くように追いかけ合う。
相手の尾の動き、羽ばたきの周期、そして乗り手の視線の先。
そのすべてを読み、一瞬の隙を突く。飛竜の翼は揚力を失えばただの肉塊だ。
わずかな失速、一瞬の判断ミスが、そのまま数百メートルの墜落と死を意味する。
その時だった。
グレンの視界の端、太陽の光に紛れて、上空から巨大な影が急降下してきた。
もう1頭。陽光を背負い、死角から一直線に突っ込んでくる。
「あっ、隊長 危ない!」
離れた場所で戦っていた若い部下の悲鳴のような声が、風に乗って微かに届く。
敵の鋭い爪はすでにグレンを捉えていた。空気を切り裂く音が、死神の足音のように迫る。
通常の左右への回避運動では間に合わない。
若い隊員は、王国のエースがここで墜ちることを予感した。
だが、グレンは、迷わなかった。
彼は手綱を極限まで引き絞ると同時に、愛竜の耳元で独特の口笛を鳴らした。
次の瞬間、信じがたい光景が広がった。
飛竜が、その巨大な羽根を完全に折りたたんだのだ。
空中において揚力を自ら捨てるという、狂気とも言える挙動。
グレンの体は一瞬、無重力に放り出されたが、彼はそのまま飛竜を前転させるように回転させた。
視界が天地逆転し、荒れ狂う雲と地面が高速で入れ替わる。
その直後、敵の爪がグレンの鼻先数センチを、猛烈な勢いでかすめていった。
回避成功。だが、グレンの攻撃はここからだった。
回転の遠心力と落下の勢いをそのまま利用し、しなやかな尾を鞭のようにしならせた。
バスンッ!
肉と肉がぶつかり合う、鈍く重い打撃音が大気を震わせた。
渾身の尾撃が、降下してきた敵飛竜の無防備な背中を真上から叩きつける。
「すげぇ……」
誰かの呆然とした呟きが、激しい風の中に消えていく。
急降下の勢いを殺せなかった敵は、グレンの一撃によってバランスを完全に喪失した。
そのまま錐揉み状態で落下し、麓の山裾へと無様に叩きつけられた。一拍置いて、巨大な土煙が森を飲み込むように舞い上がる。
1頭撃墜。
その光景は、敵の戦意を明確に挫いた。
仲間の無残な姿を見た残りの2頭が、救援あるいは動揺からか降下していく。
空には、二対三の構図が残された。
数の優位は、今や王国側に移ったのだ。だが、グレンに安堵の表情はない。
生き残った敵もまた、国を代表する熟練の騎士たちだ。捨て身の反撃が最も恐ろしいことを、彼は知っていた。
「油断するな、まだ終わっていない!」
グレンが叫ぶと同時に、一騎の味方が敵に背後を取られかけた。
敵は急旋回を見せ、味方の喉元へと鋭い爪を伸ばす。
そこへ、グレンが横から強引に割り込んだ。
「散開しろ! 平面で追うな、高度差を使え!」
グレンの鋭い命令が飛ぶ。
王国の三頭は、教本通りの連携を見せた。縦の空間へと立体的に展開する。
上層、中層、下層。三次元的に敵を包囲し、逃げ場を奪っていく。
焦りを見せた敵の1頭が、包囲を抜けようと無理に高度を上げた。
グレンはその隙を見逃さなかった。
「今だ!」
下方で待ち構えていた若い騎士が、愛竜の勢いを乗せて突き上げるように槍を繰り出す。
刃自体は急所を逸れたが、その一撃は敵の飛行バランスを崩すには十分すぎる衝撃を与えた。
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一方その頃、地上は文字通りの地獄と化していた。
吹き荒れる土煙と火炎の中で、カイルは必死の形相で手桶の水をひっくり返した。
「消えろ、消えろ!」
燃え移った荷車の帆布が、じゅじゅっと嫌な音を立てて鎮火する。
しかし、息をつく暇もない。すぐ隣でまた別の炎が、蛇のように鎌首をもたげる。
それは飛竜が上空から投下した火炎壺の残り火だった。
「次だ、あっちの竜車にも燃え移るぞ!」
誰かの怒鳴り声に反応し、カイルが走り出そうとした、その時だった。
心臓の鼓動を止めるような、不気味で低い振動が、地面を伝わって足裏から腹の奥へと響いてきた。
反射的に、カイルは天を仰いだ。
そこには、先ほどまでの飛竜とは別の、さらなる影が空を覆っていた。
太陽を塗りつぶすほどの、巨大な翼。
それは、他の飛竜よりも一回り大きく見えた。
重厚な漆黒の鱗をまとっていた。
その黒い影は、まるで死神が鎌を振るう前触れのように、ゆっくりと、優雅にさえ見える動作で滑空してきていた。
「……嘘だろ、まだ残っていたのかよ」
カイルの喉が、極度の緊張でカラカラに乾く。
次の瞬間、耳を劈くような爆音が轟いた。
カイルの数メートル先で地面が爆発したように弾ける。
投下された火炎壺が地面に叩きつけられ、粘着性の炎が周囲に飛び散る。
土が抉れ、熱風と砂利が同時にカイルを襲った。
「伏せろっ!」
叫ぶよりも早く、衝撃波がカイルの体を突き飛ばした。
地面に泥まみれになって倒れ込んだカイルの背中に、容赦なく熱い砂利が降り注ぐ。
視界が激しく揺れ、上下の感覚すら曖昧になる。
それは、戦いと呼ぶにはあまりにも一方的な、単なる蹂躙だった。
上空の飛竜は、安全な高度を保ったまま、ゆったりと旋回を繰り返している。
地上でもがく兵士たちの動きなど、彼らにとっては盤上の駒、あるいは巣を壊された蟻の行列を見下ろすようなものなのだろう。
飛竜は散発的に、しかし確実に致命的な攻撃を繰り出してきた。
火炎壺を落とし、馬ほどの岩を掴んで投げ落とす。高度数十メートルから加速した石塊は、それだけで鉄の兜を容易に粉砕する。
「散れ! 一箇所に固まるな、標的にされるぞ!」
走竜隊の隊長が声を枯らして叫ぶが、逃げ場はどこにもなかった。
彼らが陣を構えていたのは、森林の手前の開けた草原だ。
遮蔽物のないこの場所では、飛竜にとってこれ以上の狩り場はない。
ついに、飛竜が牙を剥いた。
旋回を止め、矢のような速度で急降下を開始する。
地上わずか数メートルの低空へと潜り込み、一直線に地上部隊を横切った。
その一瞬。
飛竜の脚部にある鋼のような爪が、一頭の走竜の背中を、まるで紙でも破るかのように容易く引き裂いた。
「ギャオォォォォンッ!」
断末魔の叫び。
鮮血が草原に円を描くように飛び散る。
背中を割られた走竜は、その巨体を制御できずに地面をごろごろと転がり、土煙の中に消えていった。
「なんだこれは、なんなんだ!」
カイルは恐怖を怒りで上書きし、愛竜マックスの背に飛び乗った。手綱を強く引く。
マックスは主人の意思を汲み取り、野生の直感で真横へと跳躍した。
その直後、カイルとマックスがいた場所に、巨大な岩石が、轟音と共に突き刺さった。
――ドバァァァァン!
内臓を揺さぶるような鈍い衝撃波。
岩は跳ね上がり、転がった。
岩の下敷きになった別の走竜の、骨が粉々に砕ける嫌な音が、喧騒を突き抜けてカイルの耳に届いた。
飛竜の強さは、あまりにも圧倒的で、あまりにも残酷だった。
ただ「空にいる」という、その一点の事実だけで、地上の生命とはこれほどの絶望的な格差が生まれるのか。
走竜は決して弱い生き物ではない。
その脚力は時速数十キロに達し、力強く地を駆ける。兵士の槍や剣を支え、共に戦場を駆ける頼もしい戦友だ。
だが、その強靭な脚も、空からの死を拒絶する術は持たない。
必死に掲げた槍も、数百メートルの高みを優雅に舞う翼には、決して届くことはないのだ。
カイルは奥歯が砕けるほど歯を食いしばる。
マックスの驚異的な反射神経と機動力がなければ、自分たちは最初の一撃で肉塊に変わっていただろう。
だが、今の自分たちにできることは、ただ逃げ回ることだけだ。
守るべき仲間を守ることも、憎き敵を討つことも、今の自分たちには許されていない。
――空には、勝てないのか。
飛竜が嘲笑うかのように、再びカイルの真上で大きく旋回を始めた。
カイルは顔を上げ、眩い空を見上げた。
太陽を背にしたその巨大な影は、もはや一つの生物ではない。
まるで、この世界の「空」そのものが意思を持ち、自分たちを抹殺しようとする巨大な敵へと変貌したかのようだった。
どれだけ速く草原を駆け抜けても。
どれだけ心身を鍛え上げ、剣技を磨いても。
あの、果てしなく高く、冷徹な高みには、指先一つ届きはしない。
「飛ぶしかないのか?」
「無理だ、マックスは飛べない」
「このままじゃ、ただのなぶり殺しだ」
「俺がこの鞍から下りれば、マックスだけなら飛べるのか?」
「……いや、それでどうなる? そんなことに何の意味があるんだ?」
カイルの頭の中で、矛盾する思考が激しく衝突し、混濁していく。
目の前で散っていく仲間たちの命と、自分たちの足元を濡らす血の匂い。
それらすべてを無慈悲に俯瞰する空の王。
カイルは、泥にまみれた拳を握りしめ、自分という存在の圧倒的な無力感を、ただ噛み締めるしかなかった。
【あとがき】
飛竜対飛竜の戦いと、飛竜対走竜の戦いを書きました。
次回は、絶望的な状況の中で、マックスは翼を広げて吠えます
第19話 全力疾走




