【第16話 侵略開始】
テルミ王国は、初代テルミ王によって築かれた国である。
それ以前、この地には大小さまざまな小国が乱立し、水を奪い合い、麦を焼き払い、終わりのない争いが続いていた。人々は貧しく、明日の糧さえ保証されない日々を生きていたという。
そこへ現れたのが、後に初代テルミ王と呼ばれる男だった。
彼は自らを「神の子」と名乗った。苦しむ民を救うために降臨したのだと、堂々と宣言した。
荒唐無稽だと笑う者もいたが、彼は笑われることを意に介さなかった。剣を手に、次々と小国を打ち破り、しかし征服した地では略奪を禁じた。敗者の民を守り、水路を整え、土地を測り、争いの原因そのものを取り除いていった。
特に語り継がれているのは、水をめぐる逸話である。
テクスア山脈から流れ下る川は豊かだったが、流れは不安定で氾濫が起きる年もあった。
干ばつの年には奪い合いが起こった。初代王は川の流れを読み、大きな池を築き、分水路を設けた。
水は均等に配られ、麦は実り、飢えは消えた。
人々は毎年、目に見えて暮らしが良くなっていくのを実感した。
だからこそ、彼を神と呼んだのだ。
その治世は子孫へと受け継がれ、テルミ王国は安定と豊かさを保ち続けてきた。
北はテクスア山脈に守られ、南は温かな海に抱かれている。山脈が大陸からの寒風を遮り、海が湿り気をもたらすため、寒暖差は少ない。肥沃な大地が広がり、麦や野菜がよく育つ。
西には山脈から流れる大河があり、それが西の国との国境となっている。その先、オクス大陸はさらに南へと広がり、やがて灼熱の砂漠へと変わる。
そして北には、アクリオン聖国。
かつては交易もあったが、近年は小競り合いが絶えない相手だ。
その最前線に、竜騎士基地は置かれている。
タチミ街の北端、森林との境界に近い農村。その一角にカイルの生家はあった。
家の裏手からは、基地の塔が見える。飛竜が離陸するたび、空を裂く影が横切る。その光景を見て育った少年が、空に憧れぬはずがなかった。
夜明け前の空は、まだ群青色を保っていた。
カイルは宿舎を抜け出し、静かな道を歩いていた。露に濡れた草が足元でかすかに鳴る。人々は太陽とともに生きている。陽が昇れば働き、沈めば眠る。ロウソクはあるが、家で使うことは滅多にない。だからこそ、この時間は静まり返っていた。
やがて、見慣れた畑が見えてくる。赤く色づいたトマトが、朝露をまとって光っていた。
「おとうさん、おはよう」
屈み込んで実を摘んでいた父親が顔を上げる。
「おぉ、カイル。おかえり」
父はゆっくり立ち上がり、腰を伸ばした。よく鍛えられた体格。濃茶の短髪に白いものが混じりはじめている。首にはタオル。太ももにポケットのあるカーゴパンツ姿は、昔から変わらない。
「かあさんはいる?」
「いや、隣の街だ」
「ねぇさんの出産の手伝い?」
「そうだ。来月まで帰らんだろうな」
「初孫だもんな」
初孫という言葉に、父はにかっと笑った。その笑顔は、少年の頃から変わらない。
「納屋がな、雨漏りを始めてしまってな。今度の休みに屋根を直そうと思う。手伝ってくれんか」
「……手伝うのはいいけど」
カイルは言葉を濁した。
「どうも、いよいよ戦争が始まるかもしれないらしい」
父の手が止まる。
「いつもの小競り合いではないのか?」
「わからない。でも、もっと大きくなるかもしれない。俺も出ることになると思う」
朝の光が、ゆっくりと畑を照らしはじめる。
「そうか……」
父は短く息を吐いた。
「今の平和な日が続いてほしいもんだな」
その言葉に、カイルは何も返せなかった。
「じゃ、行ってくる」
背を向けると、父の視線が背中に残る気がした。
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基地の訓練場は、いつもよりざわついていた。
カイルの隣に、マックスが立つ。
「嫌な空気だな」
そのとき、伝令が駆け込んできた。
国境砦襲撃。
その言葉が広がる。誰もが一瞬、演習中止の号令を予想した。
だが告げられたのは、違う言葉だった。
「飛竜隊、出撃」
空気が凍る。次の瞬間、飛竜隊が走り出す。
巨大な翼が広がり、次々と空へ舞い上がる。羽ばたきは連続した雷鳴のように響き、地面を震わせる。
砂埃が巻き上がり、視界が白く霞む。日頃の訓練通りに、極めて早い行動だ。
走竜部隊は各班長が集まっていた。
カイルは焦りながら、その集まりに参加した。
「国境砦が襲撃を受けた場合は、出撃するのは1班と2班の30頭だ。準備でき次第に出発」
1班と2班の班長が走り出した。
「まだ、敵の規模が分からん。飛竜隊が情報を持ち帰り次第、追加出撃できるように各隊は準備。特別班は、地上から国境砦に向かい情報を持ち帰ってくれ。既に森林に入られていた場合は飛竜でも見落とす場合がある。戦闘はするな、情報を持ち帰れ。」
1班と2班の頑健な脚を持つ走竜に騎士たちがまたがり、北へ向かう。
カイルとマックスもその列に加わった。
国境砦から煙があがり、アクリオン聖国の国旗が下げられていた。
「だめだ、既に陥落している」
走竜隊は国境砦の手前、見晴らしの良い山腹に守備線が置かれた。
土嚢が積まれ、簡易柵が立てられる。
「特別班は、国境砦の奪還戦が始まっていることを、本隊に報告してくれ!」
カイルは、第一班の班長に敬礼して踵を返した。
--情報を持ち帰るんだ。
国境砦は山脈に向かって石塀が建てられているが、背後となるこちら側は木の杭による柵で区切られている。
そのため、こちら側にいるアクリオン兵の姿はよく見えるが、石塀の向こうは分からない。
見える範囲の情報を確認した。
歩兵は数えられないほどいる。100人くらいだろうか。走竜は約15頭。
本陣に向かって森の中を走っていたカイルは、気配に気づき、マックスに止まる指示を出した。
遠くで、爆ぜる音が重なった。続いて、飛竜の絶叫ともいえる咆哮が響く。
カイルは思わず息を止めた。
森林の中だ。空は見えない。枝葉が重なり、空の色すらわからない。だが、わかる。
始まった。
もう一度、咆哮が響く。今度はいくつもの咆哮が重なる。
空中戦が始まったようだ。
カイルは喉を鳴らす。唾がやけに重い。
音は上から降ってくる。
だが視界は、静まり返った森だけだ。鳥は飛び立っていない。動物の逃げる気配もない。ただ人間だけが、音の意味を知っている。
飛竜の咆哮が低くなった。怒りを含んだような、喉を裂く声。空が裂ける。
次の瞬間、金属の衝突音。甲高く、耳障りな音が森を貫いた。刃か、あるいは竜騎士の装備か。何かがぶつかり、砕けた音だ。
カイルの指先が震える。
まだ敵は見えない。地上戦も始まっていない。だが、もう戻れない。
カイルは歯を食いしばる。見えない戦いほど、想像は膨らむ。
今、空では竜と竜が絡み合い、騎士が鞍上で刃を振るっているのだろう。高度を奪い合い、風に翻弄されながら、墜ちれば即死の空で。
その「結果」だけが、音になって地上へ落ちてくる。
再び咆哮。
今度は近い。カイルは反射的に顔を上げた。見えないとわかっていても、見ようとしてしまう。
枝の隙間から、ほんの一瞬だけ影が走った気がした。巨大な何かが横切った。風圧が葉を揺らす。
次の瞬間、複数の羽音。
「くそ……近い!」
カイルの声が震えた。
空戦は移動する。風に乗り、戦術に従い、押し引きしながら位置を変える。
こちらへ来ているのか。それとも押し返しているのか。判断材料は音だけだ。
理不尽だ、とカイルは思う。
戦闘は、空中で始まっている。
本陣に情報を持ち帰る任務だが、砦が落とされていることは、飛竜隊の第一陣が本隊に報告しているはずだ。
自分が持ち帰る「地上から確認した情報」にどのくらいの価値があるのだろうか?
ドォォォォォン!
静寂の森に、異質な轟音が響いた。おそらく、飛竜が墜落した音だ。
目に見えないのに、近い場所で誰かが命を落とした。
敵だろうか、それとも味方だろうか?
飛竜隊の知り合いたちは、まだ新兵だ。前線にはいないはずだ。
これは、殺し合いなのだと、突然のように再認識する。
「いつか」ではなく「今」なのだと、気持ちが混乱する。
飛竜の咆哮。
断続的に響く声の群れは、やがてひとつの流れになった。戦場が移動している。
わずかに、遠ざかっている。
カイルは気づく。
音の反響が弱まっている。山脈側へ流れている。
押しているのか。それとも、誘われているのか。判断はできない。
だが、森の空気が少しだけ緩んだ。
そして――
静寂。
いや、完全な静寂ではない。まだ遠くで音はある。
だが、この上空からは消えた。
カイルは、ゆっくり息を吐いた。
戦争は、確かに始まった。
だが彼の剣は、まだ血を吸っていない。
それでももう、日常は終わった。
音だけで、世界は変わる。
カイルは槍を握り直し、見えない空を睨んだ。
次に落ちてくるのが、音だけで済む保証はないのだから。
【あとがき】
ついに、戦争がはじまりました。
カイル達にとっては、防衛戦です。
カイルは森の中で、空戦の音だけを追いかけていました。
次回は、空と地上の戦い方の差を描きます
第17話 主戦力の影




