33 イドなのか緯度なのか井戸なのか、わかんないよ
その時の恐怖を思い出したらしく、ストローハット教授は細かく震えながら「ママ~、ママ~」と呟いている。
が、おれたちの視線にハッと気づくと、照れたように少し頬を赤らめ、『おお、取り乱して、すみませんでした』と謝った。
さりげなく越冬隊のメンバーの様子を見ると、またかという呆れた顔つきだ。いつもこうなのだろう。
ストローハット教授は気を取り直して『正確には聞き取れていませんが、おそらく先ほどのように言われたと思います……』と話を続けた。
……わたしも日本語には詳しくないので、イドという言葉が何を指すのか、正確にはわかりません。
セダン准教授は、若い頃に観た古いSF映画にそういう怪物が出て来て、イドというのは無意識の欲望のことで、それが具現化した怪物なのだと言っていましたが、わたしには意味がわかりません。
ヤン研究員は、この基地の場所を決める際、四処博士が拘った惑星の緯度のことだろうと主張しましたが、これもわたしには不可解です。
わたしとアリエラさんは、四処博士が氷床に開けた穴を比喩的に井戸と呼んでいるのではないかと考え、たまたま氷が薄い場所を掘削し、内部海に潜んでいた大型生物を発見したのではないかと考えています。
ああ、すみません、また横道に逸れましたね。
イドのことはわかりませんが、十人目がいるというのは博士の幻覚だろうと、そこは学者グループの意見は一致しています。
ともかく、錯乱した状態の博士を放っておく訳には行きませんでした。
冒険家のみなさんの協力を仰ぎ、傷つけずに取り押さえようとしたのですが、逃げられてしまい、博士は通信室に入って内側からロックしてしまったのです。
実は、この建物を造る際、博士は防災だけでなく防犯も必要だと主張し、各扉には音声パスワードが設定されました。ええ、入口で円周率を聞かれたでしょう、ああいうものです。
通信室は博士しかわからない数字が設定されていて、そのためそこへ逃げたと思われます。
わたしたちは何とか博士を説得しようとしましたが、応答がありません。
それどころか、次々と博士の不正行為が見つかったのです。使える燃料のほとんどは彼のボーリング調査で消費されており、それはビーグル二世号の分も同様でした。つまり、わたしたちは最早、自力では地球に帰れないのです。
不正行為の発覚を恐れてでしょうが、ビーグル二世号の通信機はすでに壊されており、通信室以外のものも、相互通信機の受信機以外は使えなくなっていました。
もっとも、インカムが生き残っていたおかげで、あなたたちが到着してからの会話はすべて聞くことができたのです。残念ながら、こちらから呼び掛けることはできませんでしたが。
ああ、すみません、また話が前後しましたね。
事件から三週間経ちました。
あのまま通信室にいるのなら、おそらく博士はもう生きてはおりますまい。
しかし、コッソリ脱出し、基地内のどこかに隠れているかもしれず、あるいは悪い仲間に連絡を取って、すでにゴエイジャーから地球に帰還しているかもしれません。
ええ、そうなんです。
ゴエイジャーに到着してからわたしたちも知ったのですが、博士の財団の資金は、海賊ギルドから融資されたものらしいのです。ご自身でそう自慢されていました。彼いわく、お金にキレイもキタナイもない、要は使い方だ、と。
いずれにせよわたしたちとしては、博士が亡くなるか、あるいは通信室から居なくなることによって定時亜空間通信が途絶え、異常に気づいた惑星連合宇宙局が救助隊を送ってくれるのを、ただひたすら待つしかなかったのです。
そのため、なるべくエネルギーや食料を使わぬよう地下シェルターに籠り、交互に人工冬眠しながら、窮乏生活に耐えたのです。
そして、ついに、ついに、あなたがたが来られた……
『……ありがとう。本当にありがとうございます。これで地球に帰れます』
感極まって涙を流しているストローハット教授に、ちっとも状況は良くなっておらず、おれたちも燃料タンクをもらおうと思っていましたと告げるのは辛いが、これも救助隊の隊長であるおれの役目だろう。
『実は、こっちも……イテテテテッ』
『どうされました? ええと、中野隊長?』
『あ、いえ、なんでもありません』
ストローハット教授に作り笑いで答えながら、おれの太腿を思い切り抓っているシャロンを横目で睨んだ。
シャロンは涼しい顔で、『あたしはアリエラ姉さん、いえ、ダヴィード博士の従妹のシャロンですが、ちょっといいですか?』と話している。
『おお、どうぞ』
『通信室のパスワード、あたしならわかるかもしれませんわ』
『なるほど。円周率を答えていたのは、あなたでしたね。ですが、どうでしょうか。通信室のパスワードは、彼の論文を基に一般向け解説書として出版され、ベストセラーとなった「日本勃然」の最終的な印税の総額なのですが』
明らかにシャロンの笑顔が強張った。
おそらく、例によって論文や本そのものは丸暗記しているのだろうが、一般に公開されていない印税総額までは知る由もないだろう。
と、シャロンと反対側の隣りに座っているドクター三角が鼻で笑い、日本語で独り言ちた。
「ふん。そういうことか。まあ、ぼくは聞いて知っているが、タダじゃ、あっ!」
ガチャッという音と共にドクター三角の両手首がくっ付き、椅子から転げ落ちた体がビクビクと痙攣している。
「あ、あ、あ、わかった、わかった、協力するよ、電撃を、止めてくれ!」
何事が起きたのかと驚いている越冬隊のメンバーに、おれは『なんでもありません。拾い食いでもして、食中りしたんでしょう』と説明した。
ようやく電撃が止まり、手錠も分離したドクター三角は、「くそっ、あ、いや、協力します、協力しますって」と言いながら起き上がった。
それを見届けたシャロンは晴れ晴れとした顔で、『ひとまず通信室を開けて、中の状態を確認すべきだわ。さあ、みなさん行きましょう』と声を掛けた。
だから、それはおれの役目だからって、もう。




