髪断
淀んだ空気が満ちている。日は十月半ば、時は朝八時をとうに過ぎているというのにその部屋は依然暗いままだった。僅かに開いたカーテンから差し込む光は時を正確に告げているのに、その部屋にいる女はテーブルの上のノートパソコンから目を離そうとしない。
女は冬には炬燵となるそのテーブルに足を突っ込むようにしてベッドを背にし、布団を背もたれ代わりにしてパソコンに向かっていた。パソコンの液晶からの光が女の顔をぼんやりと浮かび上がらせていた。
女の髪は肩よりも長く伸び濃い烏色である。しかし、髪は色ばかり美しく、毛先に行くほど艶を失い、肩より下はもはや地に落ちた烏の羽のように気味悪くまばらに広がっていた。体の線は細く、病弱ではないようだが体格は決して良くない。頭は丸くなだらかで、髪の割に幼げな顔は小さくまとまっている。そのためか首より下は起伏に乏しく、女が寝間着にしているTシャツはわずかな膨らみを見せるのみで、もともと男性用とは人が見れば分からない。胸より下へ顔を落とせば少年と見ても決して罪ではないと思われた。
女はまだ動かない。テーブルの上、パソコンの後ろにあるデジタル時計の表示は九時を回ろうとしていた。パソコンの無機質な光を見つめたまま、女はただ黙って右手のマウスを動かしていた。その耳には耳掛けヘッドホンが着けられ、より一層女を液晶へと引き込ませていた。
室内には定期的に鳴るマウスの音、そしてノートパソコンの静かなファンの音だけが響いている。女の部屋があるアパートは通りからは一本外れており、外を通る車も多くない。隣人たちが出勤する時間は既に過ぎていた。
九時も半分ほど過ぎた頃、ようやく女が顔を動かした。といっても、テーブルの上の時計を見るだけの些細な動きだった。女の手入れのされていない髪は音も立てず、Tシャツのプリント部分にひっついて動きもしない。
女は時計の表示を確認した後しばし思案し、ベッドの脇に置いてある手提げバッグの中を漁った。バッグは女が通学用に使っている物で、A4ノートが丁度入る程度の大きさ、形、色は灰色で大学生である女が使うには些か地味であるように思われた。女はバッグの中から飾り気のない、使い古されたメモ帳を取りだすと、最後の一頁を確認した。その頁には毎週の授業予定が書かれている。金曜日の文字の下には三つの授業の名前が書かれていた。その一番上の名前を見た女は、メモ帳をバッグの中へ戻すとおもむろに立ち上がり部屋を出て洗面所へと向かった。
*
教室に入った時には既に机は半分ほどが埋まっていた。決して人気でも面白くもない講義だったが、ただ必修であるということで学生は集まっていた。これが朝一番ではなく十時二十分から始まる二コマ目であるということもある。友人と共に座る学生たちは早々に教室の好みの席を占拠していた。
授業開始まであと五分というのに、女は教室の後ろに立って全体を見回していた。女の視線は空席でもなく人の顔でもなく、その頭の上を彷徨った。やがて一人の女学生を認めると何気ない歩調でその傍へ行き、しかしその後列の空席に座った。
「あ、おはよう雪」
偶然にも、女の座ったその隣には同じ専攻に所属する女学生が座っていた。更に隣に座る友達とのおしゃべりに忙しいと見えて、申し訳程度に女、雪に挨拶すると返事など気にせず再びおしゃべりに戻っていった。もっとも、雪の方にもまともに返事をする気はないように見えた。脇に置いたバッグからその授業のプリントとルーズリーフ、筆箱を取り出しながら、ちらと見るのは先ほどの女学生。雪の目の前に講義を聴く態勢が整うまでに三度は女学生の頭に視線をやっていた。そして無事整うと肩の前へ掛かる髪を払いながら女学生を見、黒板へと視線を移した。
当の女学生はといえば周りに友達もいないらしく、雪と同じようにプリントやノートを広げたまま手持ちぶさたにぼんやりと黒板、そしてその脇の時計を見比べていた。その様は後ろから見るとまさに雪とそっくりだった。講義が始まるまでの僅か一分の間であったが、それはそのままの形で続けられた。
やがて初老の男性講師が教室の前の扉を開けて入ってきた。女学生と雪はほぼ同時にペンを取った。隣に座る同専攻生はおしゃべりに夢中で講師の現れたことに気付いていない。教室はまだ人の声や鞄を漁る音で騒々しく、ただ雪と女学生の座る二つの席だけが静かに講義の始まるのを待っていた。
講義が始まると、雪は講師の板書を逃さず、しかしやる気のない崩れた文字で書き写しながら時計の針が進むのを待っていた。丁度その頃、女学生も同じようにぼんやりと時計を見ていた。雪は何気なく女学生へと目をやった。女学生の髪は雪のものと同じような長さ、しかしその色艶は比ぶるべくもなく。丁寧に櫛の入った髪は流れる墨のようであり、あるいは月のない夜に降る雨のようでもあった。対して雪の髪はパソコンの前にいた時と大差なく、櫛の通りはいい加減で、毛先は相変わらず乱れたまま、明るい電灯の真下ですら艶も見えず。雪は自分の髪を一撫ですると、顔をしかめて右手で髪を払った。その先が隣に座る同専攻生に僅かに触れ、今度はその学生が雪を睨んだ。
講義は滞りなく進み、定刻通りに終了した。十二時の十分前である。再びざわめきだした教室の中、手早く授業道具をバッグにしまった雪に通路から声を掛ける女学生が一人。雪はその人を確認するとふっと微笑んだ。
「おはよう雪、今日も相変わらずだね」
「美希、何が相変わらずって?」
「『毎日だるくてしょうがないわ、早く帰ってゲームしたいのよ』」
「毎日そんなじゃないわ。多分」
「そうかね?」
「そうよ」
あはは、と女学生。教室は多くが食事へと向かう流れが生まれ、通路や席に留まっていると邪魔になった。二人は寄り添うようにして教室を出た。流れに乗って歩く。
この美希という女学生、髪は柔らかな金色で、雪よりも長く扇のように広がっている。手入れが悪いのか先がばらばらに散っていて、人に忘れられた枯れ野原を連想させた。しかし不思議と嫌らしい感じはなく、むしろ包容力や優しさを感じさせる暖かな髪をしていた。また美希は背が平均並に高く、雪と並ぶとその差は頭一つ分あった。顔、体つき共に雪と比べると母と子ほども離れていた。
流れに逆らって動く雰囲気もなく、二人は食堂へと向かっていた。
「そうだ、雪、今度女だけで集まって飲み会するんだけどさ、もしよかったら」
「ええ、ごめんね」
「また『都合が悪いわ』?」
「分かっているのなら聞かないでよ」
「続きも言ってあげようか? 『また誘ってよ』」
「……そうね」
雪はため息をついた。美希はからからと笑った後、雪の肩を二度軽く叩いた。
「じゃあ、これからお昼一緒に、はどう?」
「それぐらいなら」
「よっしゃ、じゃあ行くか!」
美希に引っ張られるようにして雪は食堂へと向かった。手を振り払うのも面倒というような諦めがあったが、決して不快ではなかった。美希は雪にとって学内では唯一と言っていい親しい友人であった。
食堂は毎度のことながら混んでいた。入り口で食券を買うと長い列の最後尾に並んだ。食堂内は授業の終わった教室よりも遙かに騒がしく、立ったまま話をする気にもなれず雪は黙ったまま食券をいじっていた。それに合わせてか、美希もじっと列が進むのを待っていた。時折、既に食事を終えたらしい学生が美希に声を掛けていくが、傍に雪がいるのを認めるとすっと顔を曇らせて話を切り上げ去っていくのだった。
ようやく食事を受け取った時には、既に昼休みは半分近くが過ぎていた。
「次の授業大丈夫?」
「大丈夫。カレーだもの」
「いつもカレーだね」
「どこで食べても無難だし、食べやすいし。そういう美希こそ、うどんなんて頼んでいいの?」
「私は次休講になったからいいの」
「自主?」
「違うわ」
空いている席を見つけると二人は向かい合って座った。早々にカレーを口に運び始める雪に対して、美希は余裕の表情でゆっくりとうどんを啜り始めた。しばらく言葉無く食事を進めていたが、美希は不意に箸を置いた。雪もカレーを食べる手を一瞬休めた。
「ねえ、雪。正直なところさ」
「何?」
「ああ、食べながらでいいよ」
「そう、ならそうさせてもらうわ」
「雪さ、飲み会にも来ないし、体育祭とか文化祭にも不参加決め込んでるでしょ。教室でもいつも一人だし」
「今日は隣に同じ専攻の子がいたわ」
「偶然でしょ? 『同じ専攻の子』なんて言って、名前知らないんでしょう。もう二年の後期だよ、普通は有り得ないよ」
「興味ないもの」
「それもあると思うけど、多分それだけじゃないよ。そもそも関わり合う機会がないからだよ。嫌いな人だって、空気な人だって、何度も顔見てれば嫌でも覚えていくもんだよ。雪が人の名前を覚えられないのは、人と関わり合いたくないからだよ」
「だから何?」
カレーを食べ終えた雪は冷たい表情を浮かべたまま顔を上げた。美希はその顔から何の感情も読み取れなかった。どうでもいいと言っているように美希は見えた。それが美希の無意識に障り、少し声を荒げた。
「私はさ、雪が心配なんだよ。二年になって演習も増えて、人とコミュニケーションできないと困ることってあるでしょ? 単位取るのが大変になっちゃう授業もあるんじゃない?」
「だから、何よ? 私が人間嫌いなのは確かだわ。でも、美希だってゴキブリは嫌いでしょ? 同じ事よ。好きになれって言われてもなれないわ。だから私は部屋を掃除するの。それだけよ」
「ゴキブリって……」
「じゃあ、どうすればいいの?」
美希は黙って俯いてしまった。箸を持って所在なくうどんをかき混ぜていた。雪も何も言い出せず気まずそうにスプーンで空になった皿をカツカツと鳴らしていた。
ふいに美希が閃いたとばかりにぱっと顔を上げた。
「彼氏を作りましょう」
「は?」
「親しい男を作るのよ。人嫌いって言ったって、私とは普通に話せてるし、お姉さんとも仲いいんでしょ? 特別な誰かならきっと上手くやっていけるよ。その誰かから交流を広めていけば」
美希の言葉を聞き終わる前に雪は音を立ててイスを引いた。空の皿の載ったトレーを乱暴に掴むと、そのまま席を立った。半身だけ美希を振り返った横顔には、僅かな苛立ちが浮かんでいた。
「残念ね、私は特に男が嫌いなのよ」
そう言い残すと、雪は一人トレーを返して食堂を出て行った。
*
一日の授業を終え帰宅した雪は、居間に畳んであった自分の洗濯物を取り部屋の床に放ると、バッグを元のベッド脇へと置き、テーブルとベッドの間に身を滑り込ませるようにして座り込んだ。ノートパソコンを開き、起動ボタンを押す。そこまで行って、ようやく部屋の中にぼんやりとした光が生まれる。部屋のカーテンが閉まったままである。雪はカーテンへ目をやり、卓上の時計を確認すると、おもむろに立ち上がりめくれ上がったカーテンを下ろし僅かな間を無くした。部屋は居間の窓から入ってくる弱い光を除けば、四時にしてほとんど夜と同じ闇に包まれたが、雪は構わず電灯を点けた。
再び座る前に、雪はバッグから携帯電話を取り出した。真っ白な機種で、何かキャラクターの付いたストラップが一つ、申し訳程度に下がっていた。右手だけで開くとメールボタンを押し、新規作成の宛名まで入力してしばし沈黙。その間にパソコンは起動を全て終え、セキュリティソフトの更新が終了したことを告げるポップがツールバーに引っ込んでいくのが見えた。
雪は短く謝罪の文を書くとそのままの勢いで送信ボタンを押した。宛名は美希となっていた。マナーモードのサイレントになっていたものを解除し、待ち受け画面に戻ると電池の表示が残り二本になっていた。前回充電したのはいつだったかと雪は考えたが、思いつかなかったと見えて構わず音を立てて携帯を閉じるとベッドに置いた。
パソコンでいつもの通りネットを巡回していると、先ほどメールを送ってから二十分ほどして携帯が着信を告げた。メールの着信音であった。雪は手を止め左手で携帯を開く。
『ごめん、何て言えばいいか分からなかったよ。とにかく変なこと言ってごめんね。仲直り仲直り』
簡素な文面だった。不適当な小文字はもちろん、絵文字や顔文字も使われていない。おおよそ美希が雪へ送ってくるメールはこのようになっていて、雪も嫌がらず読む。
雪の返信。
『仲直り』
そして携帯はベッドへ放られた。枕に当たって裏返しになって止まった。雪はテーブルから抜け出すと台所へ行き、米を研ぐ。姉の部屋には電気が点いているが物音はほとんどしない。僅かに漏れてくるのはパソコンのファンの音のみ。しかし雪はそれだけで少し安堵していた。洗濯も済んでいた。近頃は家に帰ってまず風呂場を覗くことも、包丁の有無を確認することもなくなった。それを考えれば、雪は当番制にせず毎日米研ぎをするのも全く苦にはならないのだった。
ご飯が炊ける六時丁度、炊飯終了のアラームがこの家の夕飯の合図だった。しかしもちろんご飯だけで食事が出来るわけではない。簡単な調理で食べられるもの、焼き魚やパックのハンバーグ、ウインナー等の主菜を用意し、味噌汁を温め、野菜とそれ以外の適当な副菜をもう一品ほどテーブルに並べる。これがこの家の夕飯の標準であったが、それを準備するのはほぼ毎日雪であった。
だいたい一番時間が掛かるのは主菜で、それ以外のものが用意できるとテレビの電源を入れる。それを合図にしているように、雪の姉は部屋から顔を出す。雪の姉、雅は服装こそラフなTシャツという雪と大差ない格好でありながら、髪は艶のある黒髪、肩の上まで伸びて櫛の通りも良いと見える。大人びた端正な顔立ちに、妹と比べると母子と見られても致し方ない体格をしている。ただ一つ不自然なのは左手首にはめられた白い布製リストバンド。
食事中はあまり会話をしないのがこの家の習わしだった。生まれた家でそういう風に育ってきたからと雪は考えている。テレビから流れるニュース番組に時折突っ込みを入れる程度の会話。取り立てて言うならば、教育関連の話題には食いつきやすい。しかしそれも日による。この日は姉も雪も口を開かず黙々と食事を続けていた。
先に食べ終わるのはいつも雪であり、一人食器を流しに戻すと食事を続ける姉をそのままに部屋に戻る。やはりそこに言葉はなく、しかしそれを気にしている様子は雅にはない。自分一人不必要な心配をしているのではないかと雪は感じていた。
金曜の夜は他の日に比べて長いとはいえ、ゲームを趣味とする雪にとってそれは大した違いではなかった。十一時過ぎ、逃れられぬ眠気が襲ってくる前に雪はシャワーを浴びる。雪はシャワーの音があまり好きでなかった。特に自分が浴びているものではないシャワーの音、絶え間なく続くノイズのような気味の悪さをもって雪に届く。髪を洗うのもそこそこに、雪は風呂場を出る。
*
土曜の朝といえば普段の寝不足のつけを払うように好きなだけ眠っている、眠っていていいはずだったが、雪は目が覚めた。十時にセットされた目覚ましが鳴っている。止め、スヌーズを解除すると開けきらぬ目をこすりながら洗面所へ向かう。見苦しくない程度を目安に身だしなみを整えると、着替えを済ませ、通学用バッグに必要なものを用意する。普段と違うのは、財布が普段持ち歩く折りたたみのものと別に、主に買い物時に持って行く小銭入れも入れていることである。すぐにでも外出できる準備を整えてから、雪はようやくパソコンを立ち上げる。
そうして十一時を過ぎた頃、外から聞こえてきた車の音を合図に雪はパソコンを落とす。手早くバッグや鍵、時計などを用意して訪問者を待つ。雪の部屋は外の駐車場に面していて、カーテンが閉まっていても音は聞こえてくる。その訪問者は呼び鈴を鳴らす。雪は動かない。雅が出て行って鍵とチェーンを開ける音がする。開けなければいいのにと毎週雪は思う。しかし逃げるだけの自分と辛い役を負っている姉では言えるはずもなかった。
訪問者は男だった。大荷物を置く騒々しい音が狭い家に響く。男がトイレに入った。その隙を突いて、雪は急いで家を出る。見つからぬよう、声を聞かぬよう、姿を目に入れぬよう。自転車に乗って雪は飛び出していく。近頃はそれでも、雪に気負いの風は見えなくなった。そう見せまい、思うまいと雪は思っているのかもしれない、雪自身、本当のところはどうなのか、分からなかった。
雪は県立の図書館へと向かった。自転車でおよそ二十分ほどの道程だった。毎週の授業で提出する小レポートの調べ物をする必要がある。後期になってその授業を受け、家を出る理由が出来たのは幸か不幸か。雪は外出することをあまり好まなかったが、あの男のいる家にいるのも容易に耐えられることではなかった。それに、図書館の静かな空気と雑然と並べられた情報の束も嫌いではなかった。
主に利用するのは二階の調査支援室、そこのパソコンでまず使えそうな資料を検索、そして利用できるものを探していく。もともと、雪は物を調べるのは嫌いな質ではなかった。調べるというより、どんなことだろうと知ること経験することは無駄ではないという価値観を持っているため、一人で本を探して読むという雪の趣味に合ったことは、授業のためとはいえそれほど苦にはならないのだった。とはいえ、この経験は無駄ではないという価値観を持てたのもそう昔のことではないのだった。
必要な資料を集めると四階の自習室へ向かい、空いている席に座りレポートを作成する。この自習室内では主に学生が多く目に付く。普段は机の空きがないほど混んでいる。その中には当然何をやるでもなくぼうっとしている者や携帯をいじっている者などもいるが、大半は何らかの勉強をしに来ている者たちだった。彼らに混じってレポートを作成するのは雪にとってはどこか居心地が悪く、さっさと済ませると席を立った。バッグの中には他の授業の予習が出来る準備もしてあったが、雪はとにかく早くそこを離れたかった。今期になるまで図書館の自習室などを使ったことがなかった雪にとって、その勉強をするべき部屋という空気が重苦しく感じられるのである。
雪はもともと勉強をしない、できない人間ではなかった。でなければ大学など受かるはずがない。しかし、いつからか、雪は努力して勉強するという気持ちを何処かに置いてきてしまった。その決定的なきっかけを、雪はおおよそ予想を付けているが、そのきっかけ以前のことを思い出そうとするとぼんやりと霞む記憶のせいで、果たして自分がどんな人間だったのか思い出せずにいるのだった。
自習室を出たのは午後二時、そろそろ昼食をとろうかと思うと、雪の目に図書館の軽食堂が入ってきた。雪は一人で食事の店に入る習慣がない。入ったことがない。そのため都合が付けば極力家で食べているし、でなければ抜く。その程度は一人で外食するのに比べればなんということはないのだった。学食ですら、友人なしではまず間違いなく使わない。しかしこの食堂は学食と同じく最初に食券を買ってすぐに受け取れるシステムになっているようだった。立て看板にはカレーの表示。幾分気を楽にした雪は思い切ってそこで食べていくことにした。
軽食堂はもともとあまり使う人間が少ない上に時間がずれていて、雪の他には一組のカップルらしき若い男女が話をしているだけだった。カレーはすぐに受け取れた。窓近くの外を見られる席に座った。カレーは、当然期待などしていなかったが、それでも少し残念な気のしてしまう出来だった。しかし食べてみれば、えてしてこういうものは美味いものである。雪はその味に古い記憶を思い出していた。給食のカレーに似ていた。余計な具や味付けのされていない素朴なカレーが、雪をしてもう行くことのない田舎の小学校を微かに思い起こさせた。
雪の後ろではカップル相手に食堂のおばさんが自分の息子夫婦の話をしている。おばさんの息子は遠く京都やそちらの方まで行って、そちらの人と結婚したのだという話である。雪は窓の外、灰色の空を眺めた。自分にそんな日は来ないことを、雪は懐かしい味のカレーをかき混ぜながらぼんやりと思うのだった。
図書館を出、適当に電気店、ゲーム屋を回って家に帰ってきた。家の駐車スペースにイレギュラーな一台が止まっている。居間には無駄に大きな荷物がある。雪は極力雅の部屋を見ないように自分の部屋に入った。すえたような嫌な匂いがした。雪は窓を少し開け、扉をきっちりと閉めた。パソコンの前に座りヘッドホンを掛け、適当な音楽を流す。それでも雅と男の会話は聞こえてくる。雪はただ、時間が流れるのを待つしかなかった。
男は雅の用意した夕飯を食べて出て行った。部屋に押し入ってこなかったことに雪は安堵した。男が来た日、雪はいつも通り食事をとれない。男と食事を共にすることは絶対にしてはならぬことだと心に決めていた。たとえ不慣れな一人での外食になろうとも、夕食が菓子パン二つになろうとも、あの男と一緒に食事をするのに比べれば遙かに良いことだと思っていた。雪は部屋を出、洗濯を始めた。午後七時過ぎ、雪の休日はこの時からようやく始まるのである。
*
日曜の夕飯過ぎ、雪の母親が突然訪ねてきた。雪のアパートの鍵を持っているのは四人。雪と雅、例の男、そしてこの母親であった。普段食事に無頓着な雪たち姉妹のために、母親は雪たちのアパートを訪れる時は何らかの食料を買ってくる。しかし一緒に食事をしたり、食事を作ったりといったことは月一、二度である。それも夕方夕飯前に来て、夕飯を食べると忙しく帰って行く。帰る先は雪の田舎ではない。手土産が他でもなく食事であるということが、精一杯の母親らしさであった。
母親は普通、雪か雅に連絡をしてからやってくる。多く夕飯を一緒に食べることが主目的であるから、夕飯前に来ることがほとんどである。しかしこの日は違っていた。夕飯はとうに済み、雪が居間でゲームをやっている時に突然やってきた。特に用事も聞いていなかった。妙な予感がした。
「なんだ、ゲームやってるの」
「うん、まあいつものことでしょ。で、どうしたの?」
「いや、ちょっとね」
歯切れが悪い。雪の母親は伝えにくいことはなかなか言い出せない性質であった。雪や雅もそれを受け継いでいた。妹だけは姉たちと比べれば幾分ましであったが、育ってきた家が同じ以上同じような癖を持っている。迂闊にものを喋ることが命取りであることを痛いほど体に刻みつけて生きてきた母と子であった。それは皮肉にも、本来良好であるはずの母子間、姉妹間にも影響を及ぼしているのだった。
母親は雅の部屋に入っていった。雪はゲームのイヤホンをしたままなのでよく聞き取れないが、どうやら就職か卒業後の話をしているようである。雅は今年四年で、一時期大学へ行けなかった時期があり今年度の卒業が危ぶまれたが、なんとか卒業は出来そうだと雪は見ていた。しかし、特に就職活動をしている様子はない。
母親は一緒に食事をする時、特にその事を気にしている様子だった。特に口うるさくああしろこうしろと言うことはしない。ただ色々な仕事や大学での就職情報等について話をしている。端から見ても、母親は心からただ娘の将来が心配なのだということが感じ取れた。そしてまた、そんな話をする母親の顔はどこか悲しそうに、申し訳なさそうに雪には見えるのだった。
母親は雅の部屋から出て来ると、ぽつりと言った。
「今日さ」
「うん」
「仕事休み取って野上へ行って来たんさ」
野上というのは雪たちの田舎の名前であり、実家のことを指す。母親の仕事は派遣社員で、工場で携帯電話を作っていると聞いていた。そして夜勤であった。
「お父が貯金整理したら名前書くって言うからさ、そうですかって今日行って全部やってきた」
「へぇ」
「だから、お母さんたちは今月中には離婚するかも知れないんで」
「ふぅん。良かったじゃん」
「良かったって……」
「いや、やっとだなぁって思って」
「まあ何も変わらないけどさ、なんかあった時に来られなくなるかも知れないし」
「別にもう子供じゃないし……大したことはないでしょ」
「うん……そう」
母親はそのまま帰って行った。雪はゲームを止め、部屋に戻った。
*
金曜二コマ目の授業、開始前に雪に近づくのは金髪の女。
「こないだはごめんね」
「だから、仲直り」
「あはは、そうだね、仲直り」
雪は一つ席を奧にずらし、そこに美希が座る。常に机の端に座りたがる雪にしては珍しい配慮だった。美希が小さく頭を下げた。
「それにしてもさ、そう、別に付き合いたいとかじゃなくていいよ。なんというか……」
「なによ」
「そう……誰か興味がある人はいないの? 目に付くとなんだか気になるとか、いつも同じ授業を受けてるなと分かる人とか」
「ああそれなら」
「いるの?」
「ここの三列前、左端」
「よっしゃ、待ってて」
美希は立ち上がって雪の言った席へと向かった。雪は目を逸らし、授業の準備を進めた。少しして美希が戻ってきた。席に座るやいなや、
「女やんけ!」
「ええ、そうね」
雪が示したのは長く艶のある黒髪の綺麗な女学生だった。
「光源氏より驚いたわ!」
「源氏? ああ、若紫」
「あー、せっかく名前でも聞いてきてやろうと思ったのに……」
「そんなところだろうと思ってた。残念ね」
「でも名前は聞いてきた」
「え?」
雪は思わず美希を見たが、美希はつまらなそうに両肘を突いて黒板を見ているだけだった。その横顔を見て、雪はすぐに顔を戻した。美希に先ほどの雪を気にしている様子はない。雪はそれに安堵した。
「話しかけちゃったからね。名前はレインさんだって。名前なに、って聞いたら名前だけ教えてくれたよ。素直な人だね」
「レイン……」
「で、隣に座ってたのが確か社会科だったから、社会科だと思うよ。知り合いっぽい雰囲気だった」
「社会科のレインさん、か」
「社会科は結構知ってるつもりだったんだけどなぁ。雪と一緒で行事とか参加しない人なのかも」
中年講師が教室に入ってきて、授業が始まった。雪は普段以上に授業を聞き流しながら、前に座るレインという名の女性を、その艶やかな髪をぼんやりと眺めていた。
授業が終わると一緒に昼食を食べようと誘う美希を待たせ、一人掲示板へと向かった。授業や実習に関する諸処の連絡の他、学生呼び出しの掲示もされている。その中に社会科の学籍番号で『玲音』という名前が載っていた。
「レイン……玲音、さん」
無意識のうちに雪はその名前を呟いていた。呼び出しの内容は成績変更があるというものだった。玲音に何か問題や過失があったということではないだろう。それが何となく嬉しくて、雪はうっすらと笑みを浮かべていた。しかし、美希の声に振り返った時には、それは溶けるように表情の影に隠れているのである。
*
美希と共にやってきた食堂で雪が頼んだのは、いつも通りカレーであった。美希も雪と同じカレーを頼んでいた。
「今日は次の授業あるのね」
「ん? ああ、前のこと。別にうどんでも食べようと思えば速く食べられるよ。ただ、今日はカレーの気分だっただけ」
「どんな気分よ」
「いつもカレーの雪には分からない気分だよ」
「それもそうね」
二人とも次の授業の時間が迫っていることもあって無言でカレーを口に運んだ。体格は違う二人だったが、食べ終わったのはほぼ同時で、授業まではまだ少しだけ余裕があった。口を開くのは美希である。
「あの、レインさん、って言ったっけ」
「ええ、鈴みたいな字のレイと、音って書くみたい」
「あら、もう調べたの? もしかしてさっきってそれを確認しに?」
「ええ、まあね」
「呆れた。男ならまだしも、女の子なのに」
「いけない?」
「……どうだろ。人の嗜好に口を出すつもりはないけどさ。私も今までおせっかいをしたことはあるけど、女の子同士は経験ないから、どうすればいいのか分からない」
「だから、諦めればいいのに」
「うーん……」
美希は空になったコップを持って立ち上がった。雪は自分のコップをくるくると回して底の方に貯まった水が軽く渦を巻くのを見ていた。美希が水を入れて戻ってくると、渦を巻く水をそのまま口の中に入れた。
「何か理由とかあるの?」
「人を好きになるのに理由なんて?」
「そうだね、質問を変える。雪は男は嫌いだけど女の子なら気になる子はいる。イエス、ノー?」
「イエス」
「そう……それはいつから?」
今度は雪がコップを持って立ち上がった。言ってくれれば一緒に行ってきたのに、と呟く美希を放って、雪は一人コップに水を入れて戻ってきた。
「中学の頃」
「うん、中学って、もう六年ぐらいは昔だね」
「私の田舎って、田舎だから物心ついた頃から中学卒業するまで子供は一緒に育つんだよ」
「ん……? よく分からないけど、幼馴染みってやつ?」
「そう、都会生まれ都会育ちには分からない感覚かも知れないけど」
「へえへえ、別に都会って訳でもないけどさ。それで?」
「その中に、そうね、格好いい子がいたのよ」
「格好いい子、って、でも女の子でしょ?」
「ええ。でも、小さい頃から髪が長くてね、艶があって光るみたいに綺麗な黒髪で、その髪に負けないぐらいスラッとした体型、というか姿勢で、いつも威厳みたいなのがあって」
「何、その子小学校とかからそんななの?」
「そう、私の一番古い記憶から彼女はそんなだった。それに頭も良かったし、運動もできた。これといって表彰されたり記録を出したりってことはないんだけど、いつもテストでは彼女が一番で私は一度も彼女の前には立てなかった。あと性格も良くてね、優しくて、温かくて、強くて……眩しかった」
「何その完璧超人……というより、いくら何でも褒めすぎなんじゃない?」
「好きな人のことだもの、褒めてもしょうがないじゃない?」
「ああ、つまり、玲音さんが気になるのは、幼馴染みのその子と似てるから、ってことね」
「一言でいえばそういうことね。話したことがないから詳しい性格とかは分からないけど、見た目とか、雰囲気とか、あと何よりあの長い髪が、ね」
「はいはい、雪は紛れもなく恋する乙女ですよ」
美希は肩をすくめた。時計はそろそろ次の授業が忙しくなる頃を指していた。二人はトレーを戻し、急いで教室棟へ向かい、入り口でそれぞれの教室へと別れた。三コマ目の授業を受けながら、雪は遠く離れた黒髪の幼馴染みへと思いを馳せた。既に田舎と縁を切った雪が彼女と再び会う機会は限りなく少ない。現にこの年の夏祭りも秋祭りも雪は田舎に帰らなかった。年越しや正月もアパートで過ごすつもりだった。昨年参加した新年会という同窓会も、一昨年参加した忘年会も、今年は参加しないと決めていた。
最後に見た彼女の姿は何であったか。思い出されるのは一昨年の忘年会、お遊びで披露していたおろしたてのスーツに身を包んだ姿であった。
四コマの授業は国語教育演習の一つ、これは授業をどのように作っていくかを実際に授業作りをしながら学んでいく授業である。同じ教育演習でも先生により違いはあるが、この授業は数人で班を作り、班で視点を決めて授業を計画していくものだった。雪はその一つに属していた。目の前には『やまなし』のプリント、頭に浮かぶのは黒髪の少女の姿一つであった。
「……薄井さん?」
「はい?」
「薄井さんはどう? 何か意見ある?」
「えっと、私は……」
雪は考えておいた無難な返答を口にする。班員はそれをじっと聞いている。雪の発言が終わるとふっと空気が和らいだようになって、
「……なるほど、そういうのもあるよね」
班は再び『やまなし』へと戻っていく。雪の心は教室の中にも、ましてや青い幻灯の中になどないのである。
*
金曜日の最後の授業が終わると、雪はまっすぐに帰宅する。休みが他の学生よりも短い分、小さな時間を自分の好きなように使いたいという思いがあった。それが、雪を多く一人にし、それ故に困難にも直面することになるのだが、この日はその雪の性格が幸いした。
家に帰った雪はバッグから携帯を取り出し、マナーモードを解除して、いつも通りベッドの上へ放った。その時、丁度携帯が着信を告げた。メールではない。慌てて開くと、懐かしい名前がそこには表示されていた。
「もしもし、雪ちゃん?」
「うん、久しぶり、どうしたの?」
雪の携帯に電話が掛かってくることは非常にまれであり、ましてや既に交流もほとんど無い幼馴染みとなれば、一年に一度掛かってくるか来ないかというほどである。よって、雪にはこの電話が何であるか、薄々と感じられていた。
「うん……落ち着いて聞いてね」
「落ち着いて、ね。それで?」
幼馴染みはゆっくりと、はっきりと、自分の中で噛み締めるようにそれを口にした。
雪は一言、
「そう」
*
「五月待つ、か」
ぽつりと呟くと、雪は隣に座る棺の女の母親に向かって、すっと頭を下げる。
「おばさん、一つ、お願いがあります」
母親は雪ちゃんのお願いならどんなことでも、と悲しげに微笑んだ。雪も微笑んで返し、伝えた。
「霧ちゃんの髪を一束、いただけませんか」
*
大学の構内を美希と並んで歩く雪は、一人の女とすれ違った時、ふとある香りを感じて振り返った。その女は闇のような髪を流して去っていく。雪は胸元に手を差し込んだ。
「花の香りがするわ」
「香り? もう十一月も末だよ。香る花なんてどこにも咲いて無いじゃない」
「花橘の香りがね、するのよ。とてもとても懐かしい香り」
試してきた自然主義的な書き方の総括であり、同時に近代小説的な話の最後。
これ以降、小説を読むのをやめ、軽蔑すらするようになる。その一方で、ADVからの影響は増し、更に柳田國男の本からの発想が如実に現れるようになる。