【歪んだ世界の女神様】寿町のリリス
(1)白猫との出会い
寿町、そこは簡易宿泊所が建ち並ぶ場末の街だ。僕は今、その寿町にある簡易宿泊所の二階の一室にいる。広さは標準的な三畳間、薄い壁の向こうから、テレビの音、咳払い、そしてときおり怒鳴り声が交互に響いてくる。窓の外に隣の建物の壁が迫り、天気は晴れか曇りかさえ分からない。
でも、何時になく寒く薄暗い。だから、今日は曇りか雨だろう。十二月に入り世間一般では師走、年の終わりなのに、ここには季節感がない。大体、僕の着ている服自体、冬には不釣り合いな、上はグレーのフード付きパーカーに、下は黒のショートパンツと黒タイツだ。この黒タイツは、ストッキングのように薄手で、およそ男には似つかわしくない。僕はストッキングが大好きだった。何時から好きになったのかも、どうして好きになったのかも判らない。ただ、着る服には、この嗜好が現れてしまう。これまで脱ぐと、本当に希望がなくなってしまいそうだった。
そして、三日分の宿代7,500円を払って、僕の財布の中には500円硬貨1枚だけが残っている。もう、これで全部だ。所持金も、希望も。
「炊き出しは明後日だよ」
隣の部屋のオジサンが言ってた。有益な情報だ。
500円。
コンビニのお弁当なら、買えて一つ。だけど炊き出しまで二日間、これじゃ足りない。どこかで工事現場のバイトでも探せばいいんだろうけど、もう履歴書もないし、なにより今のこの空腹の体じゃ動けそうもない。三日前から、ほとんど何も食べてない。
それでも、不思議と恐怖は湧かなかった。空腹には慣れ、死というものにも、次第に「仕方ないか」と思えるようになっていた。
ただ、少しだけ、ほんの少しだけ、腹の虫が、いまを生きろと騒ぐ。「うるさいな」と思いつつ、僕はポケットに残った500円硬貨を指先でつまんでみる。他のより少し大きい硬貨一枚。それでも、今の僕にはこの部屋より重い。
思い出すのは、駅前で見かけたスーパーの見切り品コーナー。閉店間際、半額のパンや惣菜が並ぶところ。500円あれば、明日までの命くらいはなんとかなるかもしれない。
そう思って立ち上がると、足元がふらついた。情けない。だが、立った。
この街で倒れても、誰も助けてくれないことくらいは、もう知ってる。今だけを生きるために、僕は寿町の通りに出た。錆びた自販機、壊れた自転車、煙草の吸い殻。すべてが灰色に見えるこの町で、僕は唯一の色を探して歩き出した。
名もない通りを抜け、公園の片隅に腰を下ろす。ベンチは冷たかった。
空腹のせいか、体がじんじんと痺れている。鳩が足元をつついて通り過ぎていく。人間よりも、鳩のほうがまだ目を合わせてくる。
少しして、誰かが隣に腰を下ろした。見るまでもなく分かった。古びたジャンパー、油の染みついた帽子、鼻をつくような臭い。典型的な「こっち側」の老人だった。寿町では、そういう人間が普通だ。
「……寒いな」
突然、声をかけられた。返事はしなかった。する気もなかった。無視していれば、そのうちどこかへ行くだろう。だが、彼は去らなかった。しばらくの沈黙のあと、ぼそりとまた言った。
「おまえ、最近来たな。見ない顔だ」
何故判るのだろうと思ったが、考えてみれば当然だ。この町には、いつもそこにいる人間しかいない。目新しい顔はすぐに目立つ。
「別に、なんでもない」
そう返すと、老人はくしゃっと笑った。歯がほとんどなかった。
「ここに来るやつは、みんな“なんでもない”って言うよ。でも、本当はみんな、なんかある」
その言葉が、妙に胸に引っかかった。確かに僕も、「なんでもない」なんて強がってみせてるだけだ。何かが壊れて、ここに流れ着いた。それだけは確かだった。
ふと、彼の視線を感じた。僕の顔ではなく下半身に。一瞬、背筋がぞわりとした。まさか……。
「おじさん、男が好きなの?」
我ながら、とんでもない問いだった。ただ僕は確信していた。僕の下半身は黒のショートパンツに薄手の黒タイツだ。そして、言葉を続けた。
「こんなとこで、他のベンチも空いているのに隣に座って……」
老人は笑わなかった。代わりに、ただ一言つぶやいた。
「この街じゃ、人肌恋しいのはみんな一緒さ。男同士でも触れ合いたいもんさ」
それだけ言うと、彼はすっと立ち上がり、ヨタヨタと公園の出口へ歩いていった。背中が、すこしだけ寂しげだった。
残された僕は、ただ黙って座っていた。この街に来て、はじめて誰かと話した。それだけのことなのに、変に心がざわついていた。ここにも、たしかに「居場所」はなかった。けれど、それはたぶん、僕だけじゃない。
ぼんやりとベンチに座っていると、足元に何かが擦り寄る気配がした。見ると、この街には似つかわしくない白猫が、こちらを見上げていた。サファイアブルーの瞳、ふっくらとしたしっぽ。ただ、よく見るとやせ細った体に、ところどころ白い毛が薄汚れている。どこでどうやって生きてきたのか。
「……おまえも、流れ着いた口か」
猫は当然、答えない。ただ喉を鳴らして、僕の足に頭をこすりつけてくる。しばらく前に見た老人の「人肌恋しい」って言葉が、ふと頭をよぎった。猫だって、寒いのだろう。腹も空いてるはずだ。この街で満ち足りてるものなんて、空気くらいしかない。
ポケットを探る。500円硬貨がまだそこにある。そして、もう一つ、昨日拾ったままの包装されたクッキーがある。
“これじゃ食えないだろ”
そう思いながらも包装を開け、そのクッキーを猫の前に置いた。猫は鼻先でくんくんと嗅いだが、興味を失ったのか、くるりと身を翻し、ベンチの下に丸くなって寝そべった。
人間と同じだ。与えられたものに満足しないくせに、なぜかそばに居続ける。拒絶でもない。愛情でもない。ただ、生きることのために近くにいる。
猫の体温が、じかに伝わってくるような気がした。僕はベンチに浅く腰掛けなおし、両肘を膝にのせて俯いた。
遠くで誰かがゲラゲラと笑っている。煙草の煙が、風に流れてこちらまで届く。空腹も、寒さも、ここでは特別なものじゃない。誰もが何かを失って、ただ息をしているだけ。
それでも、今、僕の隣には一匹の猫がいる。この猫には名前もないし、僕にも、もうほとんど何もない。
「そうだ、この猫に名前を付けてやろう」
白猫だから白、いや、それじゃ、あまりにも安直的だ。この街に不釣り合いな白猫。どことなく気品があって愛らしい。そうだ、リリスにしよう。
僕は、付けたばかりの猫の名前を呼んだ。
「リリス」
だが、猫は何の反応もなく眠り続ける。僕も、釣られて少しだけ眠くなった。目を閉じれば、しばらくこのままでいられる気がした。やることもなくも、約束もなく、ただ静かに横たわる時間。それはもしかすると、「居場所」と呼べるものに近いのかもしれなかった。
そして公園を出て、再び寿町の路地を歩いた。猫はついてこなかった。それが少し寂しかった。足取りは重い。それでも、僕はまた「帰る場所」に向かって歩いていた。この街で「帰る場所」と言えるものが、まだ残っていることに、ちょっとした驚きさえ感じながら。
(2)黒ストッキング
簡易宿泊所の階段を上る。鉄の手すりは冷たい。薄い合板のドアを開けると、部屋の中は朝出たときのままだった。
薄暗くて、埃っぽい。窓の外はすぐ隣の建物のせいで、相変わらず天気はわからない。家具なんてものはなく、布団と灰皿がひとつ。壁にはハンガーが二つ。そして、テレビ。これだけは、この部屋に最初から備え付けられていた。
スイッチを入れると、画面が光った。ザザ……というノイズのあと、バラエティ番組が始まった。
誰かが笑っていた。明るい音楽、陽気な声、大袈裟なリアクション。テレビの中の人間たちは、まるで別の星に住んでいるように見えた。僕は布団に座り、背中を壁にもたれさせた。
何も考えないように、ただテレビの音に身を委ねた。
ここには誰もいない。誰かの匂いもしないし、会話もない。ただ、画面の中の人間たちが「楽しい」と言い続けている。
そうか、これは「生きている音」なんだ。今この瞬間、電波の向こうでは誰かが照明の下で笑っている。それを見ている僕は、まだ生きている。
誰にも見られていない人生。
誰にも聞かれていない声。
でも、画面の光がこの部屋を照らす限り、かろうじてここに僕はいる。
ふと、さっきの猫の目が脳裏に浮かんだ。あの目は、僕のことをちゃんと見ていたような気がする。人間にはできなかったことを、猫がしてくれた。そんな風に考える自分が、少し滑稽だった。
その夜は、何も食べずに布団の中に潜りこんだ。腹が鳴っていたが、鳴き止むのを待つだけだった。何も考えず、何も感じず、ただ時間が過ぎるのを待つことだけに集中した。テレビは、途中で勝手に切れた。
翌朝、目を覚ますと、体が鉛のように重かった。布団の中は湿気と汗の臭いに満ちていた。夢は見なかった。ただ、長い暗闇をくぐり抜けた気がする。
腹は相変わらず空っぽだった。口の中が乾いている。喉も痛い。けれど、もう空腹すら、どこか遠くの話のように思えた。
ふらつく足取りで共同台所に向かった。誰もいない。朝六時前。この時間帯だけが、ここでは一番安全と言われている。
台所の流しの横に、放置されたままのレジ袋があった。中をのぞくと、袋入りの食パンが入っていた。封は開いていて、賞味期限は二日前。
「……まあ、いいか」
気にも留めず、手でちぎって口に押し込んだ。喉が詰まりそうだったが、水で流し込んだ。うまいとも、まずいとも思わなかった。ただ「入った」、それだけで満足だった。
ふと、流しの横に据え付けられた金属製の古い鏡に目が止まった。そこに映っていたのは、もう、自分ではなかった。
眼の下には深いクマ。髪はバサバサに乱れ、油を吸いこんで色がくすんでいる。パーカーも袖口が汚れ、薄手の黒タイツには一部に穴が開いていた。
鼻を近づけるまでもなく、自分が臭い。ずっと自分の皮膚の中にいたのに、その事実をようやく突きつけられた。
“ああ、もう完全に、浮浪者だ”
僕はその姿から目を逸らし、パンの袋をもう一度探った。残り一枚。あと一回分の命。冷蔵庫には何もなかった。冷たさだけが、今の現実を照らしていた。
そして、ふと思った。
”ここから先、どうすればいいんだ?”
答えはなかった。
けれど、どこかで何かを始めなければならない気がした。それが「生きる」ということなのかもしれなかった。
朝の寿町は、妙に明るかった。
雲ひとつない快晴。
光が地面を照らし、いつも薄汚れている路地までもが少しだけ白く見える。だが、それがかえって街の傷みや、人々の影を濃くしていた。
僕は腹に残ったパンの残り香だけを頼りに、あてもなく歩いていた。空腹は少しだけ和らいだ。けれど、それで何かが良くなるわけではなかった。
この街に明るさは似合わない。
だから、眩しさの中で、僕はより一層、自分が奇異な生き物になったような気がした。
そんなときだった。僕の歩く先に、ありえない風景が目に入った。
こんな場所には絶対に似つかわしくないような、清潔で整った雰囲気の女性。
紺スーツで、丈の短いスカートに黒ストッキング。スレンダーなシルエットは、都会的で洗練されていた。肩までの髪が光を受けて揺れ、まるでこの街の景色と切り離されて存在していた。
僕はそのまま歩いた。段々大きくなる彼女の姿。この街の中に現れた“異物”が、どんなものか通り過ぎる際、横目で見た。もちろん、話しかけるつもりもなかったが、その顔をどこかで見たような気がした。
“どこだっただろう?”
そして、彼女はすぐ僕の存在に気づいた。こちらを見るなり、眉をひそめ、鋭く吐き捨てた。
「……うわ、ストッキング履いてる。気持ち悪い!」
次の瞬間、彼女のヒールの先が僕のすねを思いっきり蹴った。一瞬、何が起きたか分からなかった。僕は、道路脇のゴミ集積場のゴミの中に倒れた。
「変態は、ゴミ捨て場に捨てるのが正解」
彼女は、僕を股間を踏みつけながら言った。心の奥に何かがパリッと音を立てて割れた。僕は何も言えなかった。謝る言葉も、反論も、怒りすらも湧かなかった。ただ、うなだれてた。
彼女はそれ以上何も言わず、スマホを耳に当てて、通りの向こうへ歩いていった。その背中を見つめながら、僕はただその場でフリーズしていた。もう存在すら許されないのだと。大好きなストッキングを履いた女性の脚からの拒絶が教えてくれた。
街の明るさが、今はやけに眩しかった。まるで、自分の醜さを世界中に晒しているようだ。
僕は路地の影に身を隠すように、ゆっくりとその場を離れた。顔を上げることができなかった。人間として扱われるには、なにか足りないものが、自分にはあるのだろう。
その「何か」がもう思い出せないことの方が、よっぽど怖かった。
心の中に、ぽっかりと穴が空いていた。それは怒りでも、悲しみでもなかった。ただ、もう「何も期待しない」っていう感情だった。
”ああ、もうこれは、生きてるんじゃない。ゴミが腐るのを、ただ待ってるだけだ”
それでも、腹は減る。パン一枚では、やはり足りなかった。僕は唯一の資産である500円硬貨を取り出した。コンビニまで歩き、230円のカップ麺を買った。レジの店員は、こちらを一瞥しただけで言葉を発さなかった。
店の外で、カップ麺をすすった。味なんて分からなかった。ただ、熱があった。それだけで、ほっとした。温かいものを口にしたのは、何日ぶりだったろう。それは「生きている」という感覚を、ほんのわずかだけ思い出させた。
“こんな生活が、これからも続くのか? いや、もう限界だ!”
そのとき、初めて頭に浮かんだ言葉があった。
「生活保護……申請しよう」
もはや僕には、抵抗感もプライドも恥もない。そんなものは、さっきの女の脚で踏み潰されていた。
僕は空になったカップをゴミ箱に捨てた。「自分が本当のゴミになる前に」そうすることが、なぜか大事なことのように思えた。
そして、寿町の福祉事務所の方向に足を向けた。それでも足取りは重かった。ただ、いまは確かに「歩く理由」があった。この街で、もう一度「人間」に戻るために。
しかし、窓口での対応は散々なものだった。応対した職員はあからさまに不機嫌な顔をし、僕が21歳と年齢を告げると冷たく言い放った。
「就労可能と判断される年齢ですよ。身体上および精神上の問題はありませんよね」
結果は門前払いだった。一瞬だけの希望。怒りもなかった。悔しさも湧かなかった。宝くじも買って抽選結果が出るまでがワクワクするだけで、結果が出れば空しいだけだ。
夕方、三畳の部屋に帰る。そして、残っていた一枚のパンを食べた。最後の晩餐だ。食べ終わると布団にくるまり、目を閉じた。テレビは砂嵐のような音を立てていたが、スイッチを切る気にもならなかった。
(3)不思議な夜
夜が来た。
明かりを消した部屋の天井は、黒く広がっていた。まるで、自分の中の空洞と重なるようだった。
「もう、いいんじゃないか」
その言葉が、ふと頭の奥に浮かんだ。もう、十分じゃないか。ここまで、よくやったよ。誰も期待してない。誰も見てない。誰にも迷惑かけない。そんなふうに、理屈がひとつずつ、整然と並んでいった。
手元にあるのは、100円ライター。
ガスはまだ残っていて火は付く。
上の階の非常階段には、いつでも登れる。
建物は五階建てだ。
ふと、窓から身を乗り出し、建物の隙間から強引に横を見れば、誰もいない夜の路地。
“明日が怖いなら、もう明日なんて作らなければいい”
心の中で、何かが「ふっ」と止まった。でもそのとき、不意に思い出した。
“僕が名前をつけたあの猫、リリスだ”
あの日、朝の公園で足元にすり寄ってきた、あの小さな命。あのぬくもり。誰にも必要とされていないと思っていたけれど、あの猫は、ほんの少しだけ、近づいてきた。それだけのことが、なぜか心に残っていた。
もし、死ぬのなら——
その前に、もう一度だけ、猫に会いたい。ただそれだけの理由で、僕は布団から出た。
何かを決めたわけではない。明確に、生きようと思ったわけでもない。でも、「もう少しだけ、時間を延ばしてみよう」と思った。それは、人間としての最後の本能だったのかもしれない。そうして僕は、まだ静かな午前三時の街に向かって、歩き出した。
外は、冷えきっていた。
季節は師走だから仕方ない。夜の風が冷たい冬を纏っていた。路地の灯りはまばらで、街全体が寝息を立てているようだった。
公園に着いた。ベンチのそばの植え込みの影で、あの猫は丸くなっている。こっちに気づいたが、鳴きもせず、ただじっとこちらを見ていた。
「……また、いたね、リリス」
声を出すと、猫はゆっくりと近づいてきた。柔らかい体が、僕の足に触れる。その温かさは、まるで人肌のようだった。
僕は公園の端の芝生に座り、ゆっくりと体を横たえた。猫が胸のあたりに乗ってきた。息づかいが、すぐ近くにあった。
手を伸ばして、その背をそっと撫でる。骨ばった指先に、猫の毛並みが優しく絡まる。静かだった。何も聞こえなかった。ただ、猫と、自分の呼吸の音だけ。
僕は目を閉じた。
冷たい地面。でも猫のぬくもりが、それを少し和らげてくれた。こうしていると、まるで誰かと抱き合って眠っているような気がした。
意識が、少しずつ薄れていく。
まるで深い霧の中に沈んでいくように。
静かに、穏やかに、音のない世界へ。
誰にも見つからなくてもいいと思った。この街では、ホームレスの死はニュースにもならない。ベンチで、植え込みで、トイレの脇で......。
そうやって静かに、誰にも気づかれず、いくつもの命が終わっていく。
でも、僕には猫のリリスがいた。そのことが、なぜかほんの少しだけ救いだった。
「……ありがとう」
小さくそうつぶやいて、僕は目を閉じた。遠くで、空が薄っすら白み始めていた。新しい朝が、もうすぐこの街に降りてくる。だけど、僕はもう、それを見なくてもいいと思った。やさしい、終わりだった。静かで、重たく、心地よいほどの沈黙。
けれど、その沈黙の中に、わずかな“気配”があった。誰かが、すぐそばに立っていた。まぶたは開かない。体も動かない。ただ、その存在だけは、はっきりと感じられた。
僕は手を伸ばした。しかし、僕の意識は深い霧の中に落ちていった。
そして、ふと気付くと僕は三畳間の部屋にいた。暖房が効き外の公園とは大違いだ。ゆっくり瞼を開ける。目の前には、白い下着を身に着けた女性の顔があった。彼女は僕にニコリと笑う。頭の下には彼女のフトモモがあり、どうやら膝枕をされているらしい。そっと彼女のフトモモに触れる。ストッキングを履いてるようで、生足とは違ったサラサラ感が伝わる。ストッキングの生地の下から伝わる彼女の温かな体温の感触。
優しくなでてみた。ひと時のやすらぎ。
“まるで地の底に降臨した女神のようだ”
僕は女神に話しかけた。
「どうして、僕の部屋にいるの? どうして膝枕してくれてるの?」
その女神は、笑みを絶やさず僕の頭に手をおき、静かに言った。
「キミが優し過ぎるから。こんな街でも繋がりってあるんだよ。……せめて、あと一日だけでも生きて」
心の中で幸福感が満たされていく。そして僕の意識は、再び深い霧の中へ落ちていった。落ちる間際、僕は「名前は?」と聞いた。
「リリス…」
あとは、もう聞き取れなかった。
(4)明かされる過去
翌日、僕は布団の上で目を覚ました。傍らに猫が寝ている。確か、公園に行き猫と一緒に、芝生の上で寝たはずであった。
猫が、僕を部屋に連れてきてくれたのか?
無意識のうちに、自分の足で猫を部屋に連れ帰ったのか?
猫も目を覚まし「ニャア」と鳴き近寄って来る。そして、僕の顔に鼻をくっつけてきた。
そうか、お前が昨日の女神、いやリリスだったのか。
頭の中は妙にすっきりしていた。僕は残金の100円でコインシャワーに向かい、もう100円で着ていた服を脱ぎコイン洗濯機に投げ入れた。久々に頭と体を洗う。そして、洗濯機から上がった服を、部屋のハンガーに干し、エアコンの風を向けた。
服は小一時間で乾き身に着けると、何やら一階下の受付で怒鳴り声が聞こえた。
恐る恐る一階に行ってみると、受付に別世界の人間がいる。
貫禄のある恰幅のいい男と、僕を蹴り飛ばしたあの女だった。二人は受付にいたオーナーを怒鳴りつけていた。
「いい加減、ここ売れよ。この建物、もう六十年も経ってるんだぜ」
と恰幅のいい男が言い
「地震が来たら危ないわよ。いまのうちに、お金貰っといた方が得でしょ」
と女が言う。
確かに、簡易宿泊所の建物は、どこも相当年期が入っている。そこで奴らは、この辺一帯を買収し再開発するつもりだった。寿町の簡易宿泊所、公園、猫の居場所も。すべて高層ビルの土台にするつもりらしい。
しかも、僕を蹴り飛ばしたあの女、道であった時は記憶に蓋をしていたため、思い出せなかったが、彼女は僕の人生を壊した女だった。
唇の右下にある目立つほくろ。
紺スーツで丈の短いスカートに黒ストッキング。
会話のやり取りの口調。
すべてが合致した。
心の安定を保つため、思い出さないようロックされていた悪夢が再び蘇る。
僕は、この街に来る前、都内でデーター入力の派遣の仕事をしていた。それは、通勤ラッシュの電車の中での出来事だった。混み合った車内、僕はあの女の横に立っていた。電車が渋谷駅のプラットフォームに入ったところで、あの女が声を上げた。
「この人、触ってきました……」
声が上がった瞬間、世界が変わった。周囲の視線が刃物のように突き刺さった。ホームに連れていかれ、警察官に引き渡される。
「僕はやっていない」
何度も、取り囲んでいる警察官に説明した。しかし、警察官は頑として聞き入れない。その場で手錠を嵌められ、ホームから警察署へ向かう。そして、警察署に連行されると、取り調べが始まり、警察官から罵詈雑言が浴びせられた。
「その格好で女の隣に立ってたのか?」
「証拠がなくても、被害者がそう言ってんだよ」
「お前しか犯人はいないんだ。何言っても無駄だ。世間はそう見る」
確かに、僕は薄手の黒タイツを履いている。ストッキングが好きだ。だからと言って痴漢するわけではない。
幸いなことに、女のスカートには犯人の体液がかけられていた。一週間後、DNA鑑定の結果、僕は有罪率99.9%の痴漢事件において、犯人ではないと判り釈放された。警察署から出る際、担当していた警察官がぼやいた。
「被害者の勘違いとはな。もう一回、彼女を聴取しないと」
だから、あの女は、ストッキングのような黒タイツを履いてるだけで、蹴飛ばしてきたのか。完全な逆恨みだ。しかも、僕の顔すら覚えていない。そのせいで、僕は無断欠勤になり派遣の仕事は解雇。PTSDも発症してしまった。以降、電車に乗ることは恐怖で仕事探しも失敗。挙句、家賃滞納でアパートから追い出された。僕は擁護施設出身だ。行くあてもなく、もう、この街に来るしかなかった。
(5)未来へのチケット
僕の頭の中で、過去の出来事が溢れ出す。昨夜聞いたリリスの言葉「せめて、あと一日だけ生きて」という意味が、ようやく判った。人生を壊した女が、今度はこの街までも壊そうとしている。
それでも過去は変えられない。ただ、リリスの住処だけは、ずっと守ってやりたかった。奴らは合法の名のもとに何でもする輩だ。僕は決心した。
”どうせ死ぬのなら、この命、未来へのチケット代わりに使おう”
オーナーとの会話が終わり、恰幅のいい男とその女が外に出る。外には、黒塗りのベンツが停まっていた。初老の運転手が、後部座席のドアを二人のために、うやうやしく開けた。そして、二人が乗り込み運転手がドアを閉めた瞬間、僕は飛び出した。
可哀そうだけど運転手を突き飛ばすと、キーの刺さった運転席に乗り込み、アクセルを踏む。エンジンが急回転し、ベンツは唸りを上げて寿町の路地を飛び出した。
「誰だッ! お前は、俺が誰だか判ってんのか」
後部座席から男の怒号する。僕は予め共同台所から持ってきた包丁を見せ
「黙ってろ!」
と怒鳴り返した。
そして近くのインターチェンジから高速に入ると、東京湾岸道路に入った。向かうは横浜ベイブリッチ。そこが人生の終幕には相応しい。
本牧ジャンクションを過ぎると、眼下に横浜港が広がる。
追い越し車線を走行し、時速は百十キロを超えた。そして橋の中央部辺りで、後続車がいないことを確認すると左に急ハンドルを切る。橋の防護柵は設計基準以上の衝撃で破損し、ベンツは横浜港の空へ飛び出す。
車体が宙を舞う。
港の海と空が反転し、ベンツは弧を描いて落ちていく。
時間がふっと止まったようだった。
音は、もう聞こえない。
重力も消え穏やかな浮遊感の中、ふと、リリスの顔が目に浮かんだ。優しい笑顔、温かなぬくもり。僕にとっての女神であり、その居場所は、なんとか守りきった。そう思った瞬間、初めて胸の奥に静かな満足感が沸き上がった。
「ありがとう、リリス。僕の分まで幸せに...」
一方、寿町の公園では、白猫がベンチの下で悲しそうに「ニャア」と鳴いた。その瞳は遠くを見つめていた。
(6)5年後
五年後、再開発計画が立ち消えになってからも、寿町は相変わらず灰色の街だった。街の住人はそのまま住み続け、新しいビルが建つこともない。残るのは古い建物ばかり。まさに“場末の街”という言葉がよく似合う。
けれど、時間は止まってくれない。変わらない住人たちは年を取り、やがて一人、また一人とこの世を去った。そして、新たに不法滞在の外国人が増えていった。建物もメンテナンスされなくなり、多くはゴミ屋敷状態となっていった。
彼が最後に泊まった簡易宿泊所も例外ではなかった。そんなある日、その建物をじっと見上げるひとりの女がいた。
白いスーツにミニスカート、裾から伸びるスレンダーな脚にはベージュのストッキング。あまりにもこの街には不釣り合いだった。
彼女は、すっかりスラム化したその宿に目をつけ、オーナーに建物の売却を持ちかけた。
聞けば彼女は、曙町で複数の店舗を経営しているという。曙町――言わずと知れた快楽街だ。横浜の街は、町名を聞けばその空気がわかる。オーナーも、詮索はしなかった。
彼女の素性など、オーナーにとってはどうでもよかった。ふっかけ気味の金額に、彼女が素直に応じた。それだけで十分だった。
こうして建物は売却され、やがて新たな使命を得ることになる。
彼女は、宿泊所を二階を除いて簡易ホテルへと生まれ変わらせた。古びた三畳間には明るい照明が灯り、畳はカーペットに張り替えられ、ベッドが置かれた。トイレとシャワーは相変わらず共用だが、近くに銭湯もあり、湯船に浸かりたい客はそちらを利用すればいい。
宿泊費の設定も絶妙だった。近年増えたインバウンド客で、ホテルは連日賑わいを見せている。
そのホテルの名前は「HOTEL LILITH」。
名前の由来は、彼女自身の名前。そしてもうひとつ――このホテルには“顔”と呼ばれる、1匹のグレーの雄猫がいる。建物の改装中、裏手で痩せた体を寄せて鳴いていたところを彼女が保護したという。
彼女と猫は、ホテルにしなかった二階に住んでいる。その二階には、彼がかつて泊まっていた部屋が、今もそのまま残る。
昼下がり、客の出入りが落ち着いた時間。
二階では、ホテルオーナーであるリリスの膝の上で、猫が丸くなって眠っている。
猫は、リリスのフトモモの上で眠るのが何より好きなのだという。
まるで五年前の、ストッキング好きの青年と白猫リリスが反転したようにも思えるが、その真偽は、誰にもわからない。
(7)ホテルリリスのフェチな猫
寿町の片隅にある小さな簡易ホテル「ホテル・リリス」。
私は、このホテルにニ泊する予定だ。石川町(元町・中華街)駅から徒歩圏内だが、地元の人間ですら滅多に足を踏み入れない界隈。でも、宿泊費は破格だった。他のホテルの半値以下。
その理由は、ホテルへ向かう途中で察しがついた。街の入り口から、路上に座るお爺さん。歩いている人も、身なりのくたびれた高齢者が多い。国籍の分からない外国人もちらほら。開いている商店を覗けば、昼間からお酒を飲んでいる。
――カオスな空気が、ありありと漂っていた。
そんな街の状況を遠目に眺めながら、ようやくホテルに着く。ホテルの小さなカウンターで、チェックイン手続きを済ませると、カウンターの中から、ひょいと灰色の猫が飛び出してきた。ふわふわの毛。くりくりした目。じっと私を見つめたまま動かない。
応対してくれた女性オーナーが笑った。
「うちの“支配人”よ。雄猫なの。あなた気に入られたみたいだから、幸運が訪れるかも」
私は冗談だと思って微笑んだけれど、その猫は私のあとを静かについてきた。女性専用フロアは3階。エレベーターはなく階段を上がるのだが、慣れた様子でついてきたのには驚いた。
そして、部屋に入ると、まるで自分の部屋にいるかのように、いつの間にかベッドの上で丸くなる。猫は好きだったので、これはむしろ歓迎だった。ホテルの印象も、ぐっと良くなった。
その日はシャワーを浴びて、途中のコンビニで買った弁当を食べて寝た。
翌日は、元町、中華街、横浜港と定番の観光地を巡って撮影したが、どうにも“ありきたり”な写真しか撮れない。
構図も、光の向きや質も手応えがまったくない。思わずつぶやく。
「……うーん、上手くいかないな」
夜、ホテルの部屋で、撮った写真を不満げに見返していると、あの猫が私の部屋の扉を爪でカリカリする。入れてという合図だ。
扉を開けてやると足元にすり寄ってきた。
「……なに、励ましてるつもり?」
返事の代わりに、猫は私のフトモモに乗ってきた。その日はベージュのストッキングを履いていて、ストッキングが伝線するかもと恐れたが、猫は爪も立てず、逆に肉球の感触が心地よい。そして彼は、喉を鳴らして満足そうに目を閉じた。
二日目
翌朝、女性オーナーに猫が部屋に訪れたことを話した。オーナーからは、「それは本格的に気に入らたわね」との返事が帰ってきた。
ただ、私が続けて猫の名前を聞くと、寂しそうにこういった。
「その猫ね、野良だったから名前がないのよ。猫が自分の名前をしゃべるわけもないし」
「……まあ、そうですよね」
私はおかしなことを言う人だな、と思った。そして、引き続き昼間は昨日と同じ場所で、色々試しながら写真を撮影した。
三日目の朝。
結局、私は上手く写真が撮れず、ホテルでの宿泊をもう一泊延長した。
延泊手続きを済ませた後は、新しいSDカードをカメラに差し込み、二日間うまくいかなかった観光地を諦め、この街でシャッターを切ることにした。
猫と並んで歩くホテルの女性オーナー。
あくびをする売店の女。
昼間から広場で将棋を指すお爺さんたち。
彼女たち、彼らの姿が、少しだけ新鮮に映った。
撮影を終え夕方部屋に戻ると、また灰色の猫が私の部屋を訪れた。黒ストッキングを履いた私の膝にちょこんと乗ってくる。余程、このフトモモが気に入ったらしい。しかも、頬まで擦り付けてくる。
”でもなんか、この猫、私がストッキングを履いてるときだけ擦り寄ってこない?”
まさかフェチ猫? そう考えたら、つい笑ってしまった。猫はそのまま、私の太ももの上で丸くなった。
翌日はチェックアウト。
別れ際、猫はフロントカウンターの上で「ニャー」と短く鳴いた。
数ヶ月後。
私は、ある写真コンクールで金賞を取った。
タイトルは、『猫と女主人』
ひょっとしたら、あの灰色の猫が幸運を運んできてくれたのかもしれない。
完