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懺悔の刻

作者: 明須久

 雨音に混じって、誰かが扉を叩いた気がした。

 ――馬鹿な、こんな時間に誰も訪ねてくるはずはない。

 何かの聞き間違いかと思ったが、今度ははっきりと扉を叩く音と人の声が聞こえた。

「開けてください! お願いします! 助けてください!」

 神父は作業の手を止めると、顔を上げた。

 軋んだ音を立てて教会の扉が開く。

 ずぶ濡れになった青年が、年老いた神父の前に姿を現した。神父は、驚いたように目の前の青年を見つめた。

「こんな夜更けにどうなさったね」

 青年は転がり込むように教会の中へ入ると、自分の肩を抱くようにして震えた。

「こんなに濡れて……。とりあえずこれを飲んで、体を温めなさい」

 震える手で差し出されたカップを受け取ると、青年は中の液体を飲み干した。

 喉が焼けるような味がして、青年は咳き込む。どうやら中身は酒だったらしい。

「はは、どうかね、少しは落ち着いたかね?」

 にこりと笑う神父。

「あ、ありがとうございます。助かりました……」

 アルコールの効果か、体が温まってくるのを感じた青年は、神父に感謝を述べた。

 少し落ち着きを取り戻した彼は、今までのいきさつを神父に話し始めた。


 ――降りしきる雨の夜、青年は走っていた。

 すぐ近くで雷鳴のとどろきが聞こえる。

 この何もない丘陵地帯では、いつ雷に打たれてもおかしくない。それでも青年は、構わず街道を走り続けた。

 たとえ落雷に遭って死ぬのだとしても、あの屋敷にいれば、いずれは殺されていた命だ。

 この地方の領主は、人を人とも思わない。過酷な労働条件下で、もう何人の使用人仲間が命を落としたのか知れなかった。

 7つ目か、8つ目の丘を越えたあたりだろうか。青年とは反対側から街道を走ってくる人影が見えた。

 フードを被っていたので、遠目からは様子が分からなかったが、近づくにつれ、どうやら女性であるということが分かった。

 いよいよすれ違う瞬間に、青年はちらりと女へ目をやった。顔はフードに隠されていて、よく見えない。

 そのときふいに、女が青年のほうを向いた。闇の中に浮かび上がった女の顔と、一瞬だけ目が合い、青年はどきりとした。フードの隙間からのぞいた女の顔が、まるで追ってくる何かから必死に逃れようとするかのような形相をしていたのだ。

 青年は直感的に悟った。彼女も何処かから逃げ出してきたのだ。おそらく自分の表情も、彼女と同じように恐怖に引きつっているはずだった。

 ――今のご時世、使用人が逃げ出すことはそう珍しい事ではない。

 彼女が向かおうとしている先には、かつて自分が働いていた屋敷以外には何もなかった。彼女はきっとあの屋敷の門を叩くだろう。あの忌まわしい屋敷の門を。

 だが、彼はあえてそのことを彼女に伝えようとはしなかった。自分が抜けた穴を彼女が埋めることで、自由が得られるような気がしたのだ。

 ……やがて道の先に、一軒の教会が見えてきた。


「……私は、彼女を見殺しにしたようなものです」

 そこまで話し終えると、懺悔をするように青年はうなだれた。

 しかし、自分が生きることで精一杯だった青年のことを、誰が責められよう。

「確かに、あなたのしたことは正しい行いではなかったのかもしれない。だが、神はお赦しになられるだろう……。我々の神は……」

 神父は静かにそう言うと、教会の扉にかんぬきをかけた。

 稲妻が走り、教会の中が照らし出される。

 その時初めて、青年は礼拝堂の中におびただしい数の人間がいることに気がついた。

 皆一様に黒い覆面を頭から被り、何かの祭具のような物を手にしていた。

「いやはや、あなたは運が悪い。いや、我々にとっては幸運だったが」

 そう言いながら神父は、手にしていた黒い布を頭からすっぽりと被った。

 布に開けられた二つの穴から、冷たい目が青年を見下ろしていた。

 ――稲光が再びあたりを照らす。

 礼拝堂の中央に、巨大な十字架が、逆さまに設置されていた。

 おそらく手足を拘束するためであろう、四方に取り付けられた革のベルトが、赤黒く汚れている。

 青年はとっさに走りだそうとしたが、立ち上がることができなかった。

 先程飲まされたものの味を思い出し、吐き気がこみ上げてくる。あんな味の酒など――飲んだことがない。

「本当に運が良かった。薬を飲ませる前に、生贄に逃げられたと思っていたからね。まさか、新しい生贄が転がり込んできてくれるとはね」

 これぞ神のお導きだよ。そう続けた神父の口調はどこまでも平坦で、一切の感情の色さえ窺うことができなかった。


 青年は理解した。あの時すれ違った女は、この教会から逃げてきたのだ。

 彼女が青年の仕事の穴を埋めるのだとすれば、青年もまた、彼女の抜けた穴埋めをする羽目になったのだった。

 もはや青年は、指先ひとつ満足に動かすことはできない。巨大な逆十字のベルトが逆さ吊りになった青年の足を、腕を固定していく。

 なぜ、あの時彼女に声をかけていなかったのだろうか。

 彼女を見殺しにしようとしたから、自らもまた、見殺しにされたのだ。

 おお、神よ! 私にお赦しを!

 稲光が照らし出す礼拝堂の中心で、青年は最後の祈りを神に捧げた。

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