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幼少期編7

満身創痍の身体を、小さなルーンの身体に支えられながら家のリビングに戻った春は、椅子に腰掛けると、大きく息を吐いた。


「はぁ……分かってはいたけど……思ってた以上に実力差があったな……掠らせるくらいはできると思ってたんだけど……。」


春は自嘲気味に笑いながら、自分の無力さを痛感していた。


ルーンはそんな春をじっと見つめ、静かに口を開いた。

「……落胆しないでください、ご主人様。」


その声はとても穏やかで、しかしどこか優しさが滲んでいた。

「そもそもに種族が違いますので、当然です。それに、ご主人様の場合は傭兵としての経験がまだ二か月程度です。猶更、そう感じてしまうのは仕方のないことだと思います。」


「そっかぁ……。」


春は納得しつつも、小さな少女――いや、半龍族の少女に全く歯が立たなかったことに対して、少なからず自信を失っていた。


---


「……じゃあ、約束通り、仕事に着いて来てもいいよ。」


ルーンはその言葉に、一瞬驚いたような表情を見せた後、静かに微笑んで深く頭を下げた。

「……ご主人様……我儘を聞いていただいて、本当にありがとうございます。」


その言葉には、彼女の本心からの感謝が込められていた。


---


春はルーンの目を見つめながら、少し真剣な顔で続けた。

「でも、絶対に無理をしてはいけない。自分が危ないと思ったら、僕を見捨ててもいいからすぐに逃げるんだよ?」


ルーンの瞳が微かに揺れた。彼女の中で葛藤があるのは明らかだったが、最終的には小さく頷いた。


「……分かりました、ご主人様。でも、私はできる限り……ご主人様をお守りするために力を尽くします。」


その言葉に、春は微笑みを浮かべて頷いた。


「ありがとう、ルーン。これからよろしくね。」


その日から、春とルーンの絆は、これまでよりもさらに深いものへと変わり始めていた。






翌朝、支度を終えた春とルーンは採掘場へ向かった。久しぶりに採掘場の空気を吸い込みながら、春は小さな緊張感を覚えていた。いつもと違うのは、今日はルーンが一緒にいることだ。


採掘場に到着すると、親方が待ち構えていた。彼は春を見るなり、にやりと笑った。


「よぉ、ハル。左腕はもう大丈夫そうだな?」


「ええ、治癒の巻物のおかげで、後遺症もなく動きますよ。」


春は軽く腕を振り、確かめるように笑って見せた。親方は満足そうに頷く。


「そりゃよかった……ん?」


親方の視線がルーンに向けられた。今日は奥から静かに付いてきていた彼女に気づいたのだ。


「今日はルーンちゃんも一緒か?どうした?」


その問いにルーンは一歩前に出ると、いつものように丁寧に頭を下げた。


「ご主人様にお供させていただきたく、一緒に参りました。」


そのしっかりとした態度に親方の眉がぴくりと動いた。そして彼は、春をぐいっと自分の方に引き寄せ、声を潜める。


「おい、ハル。どういうことだ、ルーンちゃんを連れてくるなんて……。」


春は少し困ったように目をそらしながら、小声で答えた。


「昨日、実力を見せつけられまして……正直、完敗でした。」


「……半龍だってのは知ってたが、そこまでとはな。」


親方は驚きで目を見開き、ルーンの方をちらりと見た。彼女の表情には少しの迷いもなく、ただ静かな決意が漂っていた。


「でも、絶対に無理はさせません。僕がしっかり責任を持ちます。どうか同行を許してもらえませんか?」


親方はしばらく考え込むように腕を組んだ。そして、ため息をつきながら言った。


「……正直反対したいが、ルーンちゃんがここまで自分の意志を出してるんだ。無下にはできねえな。」


その言葉に安堵したのも束の間、親方は鋭い目つきで春を睨みつけた。


「ただし、ハル。何かあったらただじゃおかねえぞ。しっかり守れよ!」


その厳しい声に、春は背筋を伸ばして深く頷く。


「はい。肝に銘じます!」


隣に立つルーンも、静かに親方に一礼する。背筋を伸ばした彼女の姿は、これまで以上に強い意志を感じさせた。


「よし、行ってこい。今日も浅い階層での警備だが、気を抜くなよ!」


親方の言葉を背に、春とルーンは採掘場の奥へと進んでいった。


低階層の警備持ち場に到着した春とルーン。周囲を確認しつつ、春はルーンに説明を始めた。


「ルーン、ここに出てくる異形は、大体20~100センチくらいの昆虫型だ。小さい異形は甲殻の上から叩き切れるけど、大きいサイズになると刃が弾かれる可能性があるんだ。だから僕の場合は短剣で関節部を狙うようにしてる。とりあえず、大きいサイズが来たら最初は僕が――」


言い終わる前に、通路の奥からカサカサという音が響き、視界の端に異形が現れた。それは100センチに近い大きさの昆虫型の異形だった。


「ルーン、ここは僕が――」


春が言い終わる前に、ルーンがすでに異形の前に移動していた。その動きはまるで瞬間移動のように素早かった。


そして、彼女の鋭い爪が一閃。異形の硬い甲殻をあっさりと切り裂き、異形は真っ二つになった。裁断された異形の残骸はさらさらと砂のように崩れ、消滅していく。


ルーンはその場でくるりと振り返り、静かに一礼した。「ご主人様、これでよろしかったですか?」


春は一瞬、呆然とその光景を見つめていた。(分かってはいたけど……実力差がありすぎる……。)


「う、うん。ありがとう、ルーン。でも、今度からは二人でやろうね。一緒にやるのが目的だから。」


ルーンは一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに頷いた。「……わかりました。以後はそう致します、ご主人様。」


そのやり取りを終えた春は、ルーンの能力の高さに改めて感嘆しつつも、共に行動する方法を模索する必要性を強く感じた。


それから一日の仕事を終えるまで、ほとんど春は何もしていなかった。いや、正確には何もできなかった。異形が現れるたびに、ルーンが目にも留まらぬ速さで排除してしまうのだ。中には姿が完全に確認できないほどの速さで倒されることもあった。


春自身、80センチを超える異形が出てきた際には少し身構えて戦うほどだった。それが、ルーンの手にかかれば一瞬で片付けられる。その光景を目の当たりにし、自然と自信が揺らいでいくのを感じていた。


そんな一日が終わり、二人が親方の元へ報告に戻ると、親方が話しかけてきた。

「お疲れさん、二人とも。遠目で見てたが……ルーンちゃん、流石に凄いな。」


春は苦笑いを浮かべながら答えた。

「そうですよね……僕も昨日、模擬戦をした身なんですが、ひしひしと感じています。ついでに自信もなくなりそうです……。」


親方は大きな声で笑い飛ばした。

「ま、種族の違いはどうしようもないもんだ。覆すくらいになるには、何十年という努力が必要だろうな。お前、まだ二か月そこらだろ?落胆すんなよ。」


親方の言葉に少し救われた気持ちで、春は頷いた。


「ありがとうございます……確かに、そうですね。」


親方の視線がルーンに向く。

「ルーンちゃんも、今日はお疲れさん。」


ルーンは小さくお辞儀をしながら、控えめに言葉を返した。


「……ありがとうございます。」


その姿に親方は満足そうに頷き、「じゃあ、今日はゆっくり休んでくれ」と二人を送り出した。

春とルーンは並んで採掘場を後にし、帰路についた。


家に帰ると、ルーンは迷うことなく家事を始めた。


「ルーン、今日は一緒に働いたんだから、少し休んでもいいよ?」

春が声をかけると、ルーンは手を止めずに答えた。


「いえ……大丈夫です。思ったよりは疲労感はありませんでした。」


「そっかぁ……」

疲労感がないという言葉に、春は心のどこかでさらに自信を失いそうになりながらも、一緒に家事を手伝った。


ふと、春は彼女の服装に目を留める。

「そういえば、ルーン、服は白黒のワンピースが多いね。確か親方の奥さんにもらったんだよね?他に欲しい服とかはないの?」


「……あ……いえ……最初に着せてもらったこの服が……あの……ご主人様が似合うと言ってくださったので……」

ルーンの声は少し控えめだったが、その理由には明らかに照れくささが滲んでいた。


「あぁ、そんなこと言ったなぁ。でも、好きな服を着てもいいと思うよ?」

春は軽く笑いながら提案したが、ルーンは少し考え込むような仕草を見せた後、首を振った。


「……いえ……とりあえずはこの服で大丈夫です。ありがとうございます。」


彼女の控えめな態度に、春は微笑みながらも胸の中で少し気になっていた。「いつか、彼女自身が心から『欲しい』と言えるものを見つけてくれたらいいな」と思いながら、手伝いを続けた。


二人は食事と風呂を終え、寝る準備を進めていた。


「じゃ、今日はお疲れさま、ルーン。」

春が柔らかい声で言うと、ルーンはいつも通り丁寧に返した。

「はい、お疲れさまでした、ご主人様。」


その言葉を聞いた春はそっと彼女に近づき、優しく頭を撫でた。

「正直……君を危険な目に合わせるのは嫌なんだ。僕より遥かに強いと分かっていてもね。でも、君が僕に着いて来たいっていう気持ちも大事にしたいんだ。これからも、無理のない範囲でよろしく頼むね。」


ルーンは少し顔を俯かせながら、静かに答えた。

「……はい、ご主人様。精一杯、頑張らせていただきます……。」


その控えめな声に、春はどこか切ないものを感じながらも、彼女の決意を尊重しようと心を新たにしたのだった。




春がルーンの頭を撫でていると、不意に手が硬い何かに当たった。

「ひゃっ……」

突然聞いたことのないルーンの小さな声に驚き、春は反射的に手を離してしまった。


「ご、ごめん!」

春が慌てて謝ると、ルーンも顔を赤くしながら俯き、静かに答えた。

「い、いえ……私の方こそ、すみませんでした……。その……生えてきたばかりの角に当たったみたいで……。」


「角……?」

春は目を丸くして問い返す。


「……はい、半龍は思春期にかけて少しずつ角が生えてくるのです。私の場合、まだまだ髪の毛に隠れていて目立たないのですが……将来的には隠さないといけないかもしれません……。」

彼女の声には、自分の半龍族の特徴への不安がにじんでいた。


春はその言葉に優しく微笑んだ。

「そうなんだね。でも、無理に隠さなくてもいいよ。僕は全然嫌じゃないし、むしろ君らしくて素敵だと思うよ。」


その言葉に、ルーンは驚いたように春を見上げた。自分の特徴を否定されることが多かったこれまでの経験が、彼女の心に影を落としていたのだろう。だが、春の言葉はその影をそっと温めた。


「……ありがとうございます、ご主人様。」

ルーンの頬がほんのりと赤く染まり、瞳には暖かい光が宿っていた。


「うん、じゃあ今日はもう寝ようか。おやすみ、ルーン。」

春が静かにそう言うと、ルーンも深くお辞儀をして答えた。


「はい、おやすみなさいませ……ご主人様。」


その夜、二人は心の距離が少しだけ近づいた気がして、それぞれのベッドに入り目を閉じた。







それからの数週間、春とルーンの日々は穏やかながらも少しずつ変化していった。


春は、毎日ルーンを採掘場に連れて行くことに迷いを感じていた。自分が彼女に頼りすぎていること、自身の成長が停滞してしまうこと、そして何より彼女を危険に晒すことへの抵抗が大きかった。


ある日、ルーンに提案する形で留守番を頼むことにした。

「ルーン、3日に一度は家の管理を任せたいんだ。僕が行っている間に出来ない家事をやってもらえると助かる。」


ルーンは一瞬躊躇したが、春の真剣な表情を見て、小さく頷いた。

「……わかりました、ご主人様。家のことはお任せください。」


そうして、ルーンが留守番をする日が徐々に増えていった。


一方で、春は彼女の異形討伐の動きを頭に焼き付け、自分でも再現できる部分を少しずつ取り入れた。剣の構え方や動きの流れ、そして異形に対する冷静な対応。彼女の動きと比較すればまだまだ拙いものだったが、それでも春の実力は確実に成長していった。








そんな日々が続き、彼女と出会ってから半年が経とうとしていた。春はふと振り返り、彼女との生活が自分にとってどれほど大切なものになっているのかを改めて感じていた。



その日、ルーンは家で留守番をしていた。春は一人で採掘場に向かい、日々の警備に当たっていたが、親方の険しい表情が気にかかっていた。


「どうしたんですか?」

春が声をかけると、親方は眉間にしわを寄せながら頭を掻いた。


「ん? あぁ、ハルか……いやな、お前が大怪我した時から、出来るだけ異形が強くない低階層で採掘計画を立ててたんだが……」

親方は一旦言葉を切り、溜息をついた。

「前にも言った通り、低階層にも強い異形が少しずつ増え始めてるんだよ。このままじゃ採算が合わなくなっちまう。」


春は視線を落とし、自分の左腕を見つめた。治癒の巻物で完全に治ったとはいえ、その出来事が親方や採掘場全体に負担をかけていることを痛感していた。


「すみません……僕が不甲斐ないばかりに……」

申し訳なさそうに言う春に、親方は首を横に振った。


「いや、ハルのせいじゃないぞ。お前が怪我した場所だって、本来なら狼型の異形なんて出るはずのない場所だったんだ……」

親方は苦々しい顔で地図を指さしながら続けた。

「異形の出現場所が変わってきてる。強い異形が出る範囲が広がってるんだろうな……。だが、どうしたもんかね……」


春は何も言えず、ただ親方の悩む姿を見つめていた。その日の仕事を終えて帰路につく途中も、親方の言葉が頭の中を巡っていた。


(異形が強くなり、範囲も広がる……。僕がもっと強ければ、少しは親方の負担も減らせるのに……)


家の近くまで戻ると、窓から漏れる灯りに少しだけ心が軽くなった。そこには、今日も待っていてくれるルーンの姿があるのだと思うと、春は少し足を速めて家の扉を開けた。


「お帰りなさいませ、ご主人様。」

ルーンはいつものように、扉を開ける春を出迎えた。


「ただいま、ルーン。」


二人はそのまま席につき、食事の準備を整えた。春は深い溜息をつきながら、静かに口を開いた。


「…最近、採掘場の低階層の方にまで強い異形が増え始めたんだ。」


ルーンは手を止め、じっと春を見つめた。


「また……僕が大怪我した時のような、狼型の異形と戦うことになるかもしれない。」

春の声には、どこか不安が滲んでいたが、言葉の端々に決意も感じられた。


「もちろん、あの頃とは違う。僕もあれから実力がついてきた。今度は、ただで負けるつもりはないよ。」


ルーンは顔を俯かせながら、搾り出すように言葉を紡いだ。

「……ご主人様、それでも危険すぎます。」


春は、わずかに微笑みを浮かべてルーンの言葉を受け止めた。

「…でも、生活のためにも仕方がないんだ。心配してくれるのは嬉しいけど、僕だってもう同じ失敗はしないさ。今度はうまくやるよ。」


そう締めくくったものの、その言葉ではルーンの不安を払拭するには足りなかった。部屋には重い沈黙が流れ、二人はそれぞれの思いを抱えたまま食事を続けた。


春はルーンの不安そうな表情を見て、心の中で静かに誓った。

(絶対に、もう彼女を悲しませるようなことはしない。どんな危険が待っていようと、今度は守り抜くんだ。)


「……ご主人様、明日は私を一緒に連れていってください。」


ルーンの静かな言葉に、春はスプーンを置いて彼女を見つめた。


「ルーン……」


半年間、共に暮らしてきた中で、ルーンがこうして意見を言う時は、大抵彼女が譲らない気持ちを持っている時だった。そして春は、それを否定するよりも受け入れることが多かった。それが彼女の成長でもあり、春にとっても嬉しい変化だったからだ。


だが、今回ばかりは複雑な感情が胸に渦巻いていた。


「確かに、ルーンが一緒ならまた狼型の異形が出てきても、きっと簡単に対処できるだろう……」

春はそう呟くと、少し苦笑しながら首を振った。

「でも、それじゃダメなんだ。」


ルーンの顔に影が差す。

「……でも、ご主人様……」


春は優しく、しかし強い意志を込めた声で言葉を続けた。

「君が譲らない気持ちもわかるよ。それに、僕はその気持ちを尊重したい。だから、こうしよう。明日は一緒に来てくれていい。でも、近くで見守っていてくれ。絶対に危険な場所には踏み込まない。そして、万が一危険になったら、すぐに逃げるんだ。わかったかい?」


ルーンは一瞬驚いたような表情を見せたが、次の瞬間、しっかりと頷いた。

「! はい……ありがとうございます。」


その返事には、少しばかりの安心と、主人の意志を尊重する決意が感じられた。春は彼女の成長を改めて感じながら、静かに胸の中で言葉を誓った。


(絶対に彼女を危険な目に合わせたりはしない。僕自身も、もっと強くならないといけないんだ。)





翌朝、春とルーンは一緒に採掘場へと向かった。朝の冷たい空気の中、少し緊張感を纏いながらも、二人は足取りを揃えて進んだ。


採掘場に着くと、いつものように親方が出迎えてくれた。

「よう、今日はルーンちゃんも一緒か。よろしく頼むな。」


春は親方の言葉に頷きながら、少し硬い声で伝えた。

「親方、今日は少し奥まで行こうと思います。」


その言葉に、親方は一瞬眉をひそめた。

「そりゃぁ助かるけどな……ルーンちゃんも一緒だからって話なら、ちょっと納得しかねるぞ。」


春は慌てず、真剣な表情で応じた。

「大丈夫です。彼女にはそばで見ていてもらうだけです。僕自身ができる限りやりますから。」


親方は少し悩んだ様子だったが、春の覚悟を感じ取ったのか、大きく息を吐いて頷いた。

「そうか……まぁ、こっちも商売だからな。頼むぞ。」


親方は周囲の作業員たちに向き直り、大声で指示を飛ばした。

「おい!お前ら!今日は久しぶりに奥まで行くぞ!しっかり掘ってこいよ!」


作業員たちは一瞬ざわついたが、すぐに親方の号令に従い準備を始めた。春はその様子を見て、ルーンの方を振り返った。


「ルーン、僕が言った通り、絶対に無理はしないでね。」

「……はい、ご主人様。」


二人は互いに小さく頷き合いながら、今日の仕事へと向かう準備を整えた。



少しずつ様子を見ながら階層を深くしていった一行は、ある程度下った階層で一旦休憩を取ることにした。


春は壁にもたれながら、周囲を警戒しつつ考えを巡らせていた。

(この階層も半年前は普通に採掘していた場所のはずだ。それなのに……ここ最近は昆虫型の異形でもサイズが大きいものばかりだ。やっぱり出現する異形の強さが変わってきているんだな……。)


作業員たちも緊張感を漂わせながら、水分補給をしつつ装備の点検をしている。そんな中、春は視線を先へ向けた。


「……行こう。」


一行は再び警戒を強めながら、更に奥へと進んでいった。そして――


「……ここは……。」


春の足が止まった。そこは、半年前に狼型の異形と戦い、辛くも勝利したものの、負傷した場所だった。辺りの景色に見覚えがあり、地面には当時自分が流した血の痕跡がまだこびりついている。見ただけで背中に悪寒が走る。


その様子を察したのか、ルーンがそっと声をかけた。

「……ご主人様、大丈夫ですか?」


春は一瞬だけ息を整え、振り返って微笑もうとした。

「うん、少し緊張してるだけだよ。ありがとう。」


ルーンは黙って頷いたが、その表情には彼女なりの心配がにじんでいた。


春は剣を握る手に少し力を込めながら、先頭に立って警備を続けた。背後にはルーンの気配が、しっかりとついてきているのを感じながら――。





今日はこの場所までで採掘作業を行うことが決まった。春は作業員たちが安全に作業できるよう、いつも以上に神経を集中させて警備にあたっていた。


(……初めて前任の先輩と一緒に警備したときを思い出すな……。)


そんなことを考えていると、奥の方から影が見えた。緊張が一気に高まり、剣を握る手に汗が滲む。しかし姿を現したのは、大きな昆虫型の異形だった。


(……なんでホッとしているんだ……狼型が出てきても、自分でやるって決めただろう……!)


そう自分を叱咤しながら、剣を短剣に持ち替え、素早く間合いを詰めた。狙いを定めて甲殻の隙間を突くと、異形は一瞬で動きを止めて消滅した。


「……よし。」


短剣を引き抜きながら、春は一息ついた。

「とはいえ……出ないに越したことはないからな……。」


その声に、少し後ろで控えているルーンが応じた。

「……そうですね、ご主人様。」


彼女の静かな声には、確かな信頼と春を見守る思いが込められていた。春はその声にほんの少し安心しながらも、警戒を緩めることなく再び警備の態勢を整えた。


それから暫く時が経ちそろそろ、撤収作業が始まろうとしていた。

(今日は…なんとかなったか…しかし精神がすり減るな…)


そんなことを思っていた矢先、前方に気配を感じた。


前方に姿を現したのは、狼型の異形だった。

低く唸りながらこちらを睨みつけていた。その威圧感に、春は息を呑む。ルーンの鋭い声が響いた。


「ご主人様!」


その声よりも早く、春は剣を構え戦闘態勢に入っていた。手のひらに汗が滲むのを感じながらも、しっかりと柄を握りしめる。目の前の異形の鋭い爪と牙が、過去の痛みを脳裏に蘇らせる。


(……気圧されるな。あの時とは違うんだ……!)


左腕を噛まれ死を覚悟したあの日を思い出しそうになるが、春は必死に震えそうになる身体を抑え込み、深く息を吸った。


(……僕はもう逃げるつもりはない!)


異形は、低く吠えながらじりじりと間合いを詰めてくる。その動きに合わせ、春も一歩、また一歩と前に出た。視界の端で控えているルーンが心配そうにこちらを見ているのが分かったが、今は彼女に頼るつもりはなかった。


「大丈夫だよ、ルーン……ここは僕がやる!」


そう短く言い放ち、異形と正面から向き合った。


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