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幼少期編2

ほぼ一日をかけて、春とルーンは家の掃除を終えた。埃っぽかった部屋はすっかり綺麗になり、新しい生活を迎える準備が整った。


春は掃除道具を片付けながら、ふとルーンの動きを振り返って考えていた。


(正直、彼女の身体能力をちょっとなめてたな……)


掃除の最中、ルーンが棚を動かそうとするたびに、春はその力に驚かされた。埃まみれの大きな木製の家具を一人で軽々と動かし、手際よく重いものを運んでいく姿は、普通の少女とは程遠いものだった。


(奴隷の頃、主に肉体労働をしていたって言ってたけど……納得だな。)


春自身、この一年間の採掘場での仕事を通じて体力にはある程度自信がついていた。しかし、それでもルーンの力は自分の比ではなかった。


(今の僕だって筋肉はついた方だと思ってたけど……彼女の腕力はざっくり僕の5倍くらいはありそうだ。)


たとえば、重い棚を動かそうとした時、自分が全力で押してもわずかしか動かなかったものを、ルーンは軽々と一人で持ち上げていた。その様子に春は思わず口を開けてしまったほどだった。


(しかも、この状態のルーンでこれなら……彼女が本調子になったら一体どれだけの力を発揮するんだろう……。)


一方で、春は彼女が力を抑えようとしている様子にも気づいていた。細かい作業では爪や指先を慎重に扱い、物を壊さないように何度も確認しながら動いていた。


「ルーン、ありがとう。君のおかげで掃除がすごく早く終わったよ。」


春が笑顔で声をかけると、ルーンは少し照れたように俯いた。

「……いえ、ご主人様の指示があったからです……。」


彼女の控えめな態度に、春は胸が痛むと同時に、その純粋さに安心感を覚えた。


(力加減に不慣れな部分もあるけど、彼女がこれだけの力を持っているのは間違いない。それを活かしながら、少しずつ自信を持てるようになってくれるといいな。)


春は新しい家を見渡しながら、これからの生活に期待と責任感を抱き、ルーンとの新しい日々を心に描いていた。


埃を払うために春はルーンにお風呂に入ることを提案した。


「埃まみれになったし、お風呂に入ろうか。掃除を頑張ったし、さっぱりしたいだろう?」


ルーンは一瞬戸惑ったように目を伏せたが、静かに頷いた。

「……はい、ご主人様。」


新しい家のお風呂は、湧き水を利用した簡易的な構造で、外で薪を使って温める方式だった。


「薪で温めるタイプか……街にあった大衆浴場とは違うな。」


春はふと、街の大衆浴場のことを思い出した。そこでは、魔法陣が備え付けられた湯沸かしシステムが使われており、魔法陣と魔石を利用して水を温める仕組みになっていた。


### **魔法陣と魔石の仕組み**

魔法陣は、魔法素質を持たない者でも使用できる便利な仕組みだった。魔石をエネルギー源として利用することで、魔法陣に魔力を供給し、切れるまで使えるようになっていた。魔石には大小様々な種類があり、エネルギー量や持続時間が異なる。


しかし――

「魔石って意外と高いんだよな。」


魔石の価格は薪に比べて割高であり、大衆浴場のような商業施設では効率的だが、一般家庭ではあまり使われないことが多い。特に、薪は手軽に手に入りやすく、コストが抑えられるため、一般的な家庭では今でも薪を使った湯沸かしが主流だった。


### **珍しい家庭用の風呂**

そもそも、この世界では家庭に風呂があること自体が珍しかった。多くの家庭は大衆浴場を利用しており、家に風呂を設けるのは裕福な家庭や特別な事情がある場合に限られる。


(やっぱり親方夫婦がこだわって建てた家なんだな。こんな便利な風呂までついてるなんて。)


春はそう思いながら、水を満たした浴槽を外から薪で温める準備を進めた。火をつけてしばらく待つ間、彼はルーンに向き直った。


「少し時間がかかるから、その間に準備しておいてね。」


「……はい。」


ルーンは静かに頷き、言われた通りに準備を始めた。新しい家での初めてのお風呂は、二人にとってリラックスできる時間になりそうだった――。


「ご主人様。」


「なんだい?」


春は、初めてと言えるほど珍しくルーンから声をかけられ、少し驚きながらも嬉しさを感じて振り返った。


「薪割は、得意なので……やらせてもらえないでしょうか。」


その言葉に、春は一瞬驚いたが、すぐに笑顔を浮かべた。

(せっかく自分から言ってくれたのを無下にするのもよくないし……やっと彼女が自分の意志を見せてくれたんだ。)


彼は軽く頷いて答えた。

「じゃあ、よろしく頼むよ。」


ルーンは真剣な表情で頷き、「お任せください……」と言いながら薪の前に立った。


次の瞬間、ルーンは鋭い爪を使い、驚くほどの速さで薪を次々と割り始めた。彼女の動きは正確で無駄がなく、一本一本を適切な大きさに裁断していく。


「す、すごい……」


春は思わず声を漏らした。あまりにも速い手際に見惚れてしまい、ルーンの力強さと器用さを改めて実感した。


薪が割れる音が心地よく響く中、ルーンは黙々と作業を続けていた。その姿はどこか誇らしげにも見える。


すべての薪を割り終えた後、ルーンは春の方を見て小さく頭を下げた。

「ご主人様、終わりました。」


春は感心したように頷きながら笑顔で答えた。

「ありがとう、ルーン。本当に助かったよ。君のおかげで、すぐにお風呂が準備できる。」


ルーンは少し照れたように俯いたが、その表情にはどこか満足感が漂っていた。


春は改めて彼女を見つめながら思った。

(これが彼女の力……やっぱりすごいな。それに、自分からやりたいことを言ってくれたのが何より嬉しい。)


「それじゃあ、湯が沸くのを待つ間に少し休もうか。今日は掃除も頑張ったし、疲れただろう?」


ルーンは控えめに頷き、春と一緒に湯が沸くのを待ちながら、初めて見せた自分の意志が少しだけ誇らしく感じているようだった――。


お湯が沸くまで、二人はリビングで待つことにした。春は椅子に腰掛け、ルーンにも「座っていいんだよ」と促した。彼女は最初、どうしていいか分からない様子で立っていたが、春の言葉に静かに頷いて椅子に腰掛けた。


その仕草を見て、春は少し苦笑いした。

(まだ慣れてないんだな……でも、ちゃんと座ってくれるようになったのは進歩かな。)


椅子に座り、少し緊張した様子でじっとしているルーンを、春はぼんやりと眺めていた。


異世界に来てもう一年が経ち、生活には慣れたつもりだったが、改めて彼女を見ていると、不思議な感覚に囚われた。


(見た目は普通の可愛い少女なんだけどな……。)


服からわずかに見える黒い鱗や、床に当たらない程度に揺れる尻尾。その異形の特徴を目にするたび、ここが自分の元いた世界ではないという実感が改めて湧いてくる。


そんな春の視線に気づいたのか、ルーンが戸惑い気味に口を開いた。


「……ご主人様……どうかなさいましたか?」


その声には、自分が何か至らぬことをしてしまったのではないかという焦燥感が滲んでいた。春ははっとして、慌てて手を振った。


「あっ……ごめんね。ちょっと見過ぎちゃってた。」


ルーンはしばらく黙っていたが、静かに首を横に振った。

「……いえ……何か至らぬことがあったら、仰ってください……。」


その言葉に、春は胸が締め付けられるような気持ちになった。彼女の「至らぬこと」という言葉に、これまでの彼女の過酷な環境が滲み出ている気がしてならなかった。


春はできるだけ優しい声で言葉を返した。

「いや、何もないよ。本当に。ただ……君を見てたら、改めて異世界に来たんだなって実感してたんだ。」


ルーンは少し不思議そうな表情を浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。


春は微笑みながら続けた。

「なんていうか……僕にとって君の存在って、すごく特別なんだよ。いい意味でね。」


ルーンは少し困惑したように目を伏せたが、わずかに頬が赤くなったように見えた。その反応を見て、春は少し照れ臭そうに頭を掻きながら、湯の沸く時間を待つ二人だけの静かな時間を楽しんだ――。


春はお湯が無事に沸いたのを確認し、振り返ってルーンに声をかけた。

「さ、背中を流してあげるからおいで。」


親方の奥さんに彼女をお風呂に入れてもらった初日を思い出しながら、今度は自分がその役割を果たす番だと気合を入れての提案だった。


「あっ……え……わかりました……」


ルーンは少し戸惑った様子を見せたが、すぐに頷き、春の言葉に従った。しかし、風呂場に向かう途中、春は彼女の肩がわずかに震えているのに気付いた。


(そういえば……彼女は僕の言うことを拒否したことがないんだ……)


春は立ち止まり、彼女の様子を改めて見た。


(少女とはいえ、彼女は女性なんだ。男性である僕が洗ってあげるなんて嫌に決まってるよな……。)


春はすぐにルーンに向き直り、申し訳なさそうに言った。

「ごめん、ルーン……ちょっと僕の考えが足りなかった。君が僕の言うことを否定しないことまで考慮に入れてなかった。本当にごめん。」


そう言って深々と頭を下げた。


ルーンは驚いたように目を見開き、慌てた声で返した。

「ご、ご主人様……やめてください……私は言われたことはやりますので……」


春はその言葉に胸が締め付けられるような気持ちになり、顔を上げてルーンの瞳をまっすぐに見つめた。


「違うんだ、ルーン……嫌だったら断ってもいいんだよ。」


その言葉に、ルーンは戸惑いながら小さく呟いた。

「……断る……ですか……」


彼女の声には、拒否や否定といった概念がそもそも選択肢にないような響きがあった。それが、彼女が今までどれほど抑圧されてきたのかを如実に示していた。


春は静かに深呼吸をして、優しい声で続けた。

「そう。君が『嫌だ』とか『無理だ』って思ったことは、ちゃんと伝えていいんだよ。僕は君の意思を大事にしたいんだ。」


ルーンはしばらく黙り込み、言葉を探すように視線をさまよわせた。


「……ご主人様の言うことを拒否するのは……許されるのですか……?」


その問いに、春は強く頷いた。

「もちろんだよ。僕は君のことを命令で縛りたいなんて思ってない。君がどう思うかを、これからはもっと聞いていきたいんだ。」


ルーンは困惑したような表情のままだったが、やがて小さく頷いた。

「……わかりました……ご主人様……。」


その反応に春は少し安心し、微笑んだ。

「ありがとう。それじゃあ、今日はお風呂は自分で入れるよね?」


ルーンは再び頷き、静かに風呂場へ向かっていった。春はその後ろ姿を見送りながら、彼女が少しずつでも「自分の意思」を取り戻せるように支え続けることを、心に誓った。


春はルーンが静かに風呂場へ向かうのを見送りながら、ふと考え込んだ。


(……彼女の「嫌だ」という言葉を聞けないのは、やっぱりそれまでの環境が原因なんだろうな。少しずつ、安心して自分の気持ちを伝えられるようになってくれればいいけど……。)


彼女が風呂場に入っていく後ろ姿を見つめながら、春はあることを思い出した。


(そういえば……昨日、親方の奥さんが言ってたっけ。「あの子、体が随分痩せてるから、ちゃんと栄養を取らせてやりなさいよ」って……。)


その言葉に従う形で、今日も掃除を頑張った彼女にたっぷり食事を食べてもらおうと思っていたが、彼女の痩せた体のことが頭から離れなかった。


少し躊躇しながら、春は風呂場に向かって声をかけた。

「ルーン、やっぱり……僕が背中を流してあげてもいいかな?」


その言葉に、風呂場の中から一瞬の沈黙が返ってきた。


「……ご主人様……それは……ご命令ですか……?」


彼女の声には、再び不安と戸惑いが滲んでいた。それを聞いて、春はできるだけ穏やかな声で返した。


「ううん、命令じゃない。けど、ルーンが頑張ってるのを間近で見てて、少し気になったんだ。君の体をきちんとケアしたいっていうか……それに、背中を流すくらいなら力になれるかなって。」


ルーンは再び黙り込んだが、やがて小さく返事をした。

「……ご主人様が……そう仰るなら……。」


春は風呂場に入る許可を得て、彼女のそばにしゃがみ込んだ。そして、彼女の背中に手を伸ばし、そっと湯をかけながら言葉をかけた。

「驚かないでね。優しくやるから。」


彼女の反応を見ながらタオルを手に取った春は、改めてルーンの背中を見た。そして目にしたのは、鱗と人肌が入り混じった滑らかな表面だった。その中に隠れている、いくつもの小さな傷跡や痣。


春は無意識のうちに手を止めた。


(……こんな痩せた体に、どうしてこんな傷が……。)


奴隷としての生活の厳しさが、彼女の体に刻み込まれている。その証を目の当たりにして、春の胸に重い痛みが広がった。


「ルーン……その傷……」


彼が問いかけると、ルーンは少し体を強ばらせ、短く答えた。

「……商品になる前に……叩かれたり……それから、運ばれる途中で……。」


その言葉は平坦で感情を押し殺しているようだった。春は拳を握りしめ、どう返事をしていいのか分からないまま、そっとタオルを動かした。


「……ごめんね。」


ルーンは小さく首を振った。

「……ご主人様が謝ることではありません……。」


春は胸の奥に押し寄せる感情を飲み込みながら、できるだけ穏やかな手つきで彼女の背中を流した。


(僕が彼女を守ってやらなきゃ。もう誰にも、こんな傷をつけさせるわけにはいかない。)


そう心に誓いながら、春は静かに作業を続けた。ルーンの背中に流れる湯が、少しでも彼女の心の負担を和らげることを願いながら――。


春はルーンの背中を布で丁寧に洗っていった。そのまま手を進め、彼女の黒い尻尾に目をやる。尻尾は人間でいう尾骨の部分から滑らかに生えており、鱗の艶やかさが光を受けて美しく反射していた。


春は布を手に取り、背中からそのまま尻尾の付け根に沿って洗おうと手を動かした。


だが、尻尾の付け根に触れた瞬間、ルーンの身体が小さく震えた。


春はすぐに手を止めて、優しい声で尋ねた。

「ごめん、嫌だったかい?」


ルーンは一瞬黙り込んだが、やがて小さな声で答えた。

「いえ……その……自分で尻尾を扱う分には平気なのですが……他の人に触られるのが慣れていなくて……。」


その言葉を聞き、春は彼女が本当に嫌がっているのか、それとも奴隷としての過去の経験から否定することができないだけなのか、判断がつかなかった。


(もしかしたら、彼女自身もどちらか分かっていないのかもしれない……。)


春は悩みながらも、無理に触れることはやめるべきだと判断した。


「そっか……じゃあ、僕はこれで出ていくね。あとはゆっくり湯船に浸かって。」


春はそう言って布を置き、立ち上がった。


ルーンは小さく頷きながら、静かに「ありがとうございます、ご主人様……」とだけ呟いた。


風呂場を出た春は、扉を閉めた後、深く息を吐いた。

(彼女が嫌がることはしたくないけど、彼女自身が何を感じているのか、まだ分からない部分が多いな……。)


ルーンの過去を思い、彼女が安心して暮らせるようになるには、まだ時間が必要だと改めて感じた春だった。


(焦らず少しずつ……だな。)


春はそう自分に言い聞かせながら、彼女が湯船で少しでも疲れを癒してくれることを願った。




風呂場で湯船に浸かりながら、ルーンは一人静かに思いにふけっていた。湯の温かさが体を包み込む中、彼女の心にはさまざまな感情が巡っていた。


(断る……否定……そんなこと、ずっと忘れていた……。)


かつての生活を思い返す。奴隷として扱われていた日々では、何かを拒むことなど考えられず、従わなければ罰や痛みが待っているだけだった。自分の意思を示すことがどれほど無意味か、身をもって教え込まれてきた。


(……それが……今のご主人様の願いなら……少しでも努力しないと……。)


彼女はそう思いながら、春の言葉を反芻していた。「嫌だったら断っていい」「君の意思を大事にしたい」という言葉。これまで耳にしたことのないその言葉は、彼女にとって未知の感覚を呼び起こしていた。


ふと、先ほど春に尻尾を触られた時の感触がよみがえる。


(……この身体の、人間以外の部分……。)


黒く滑らかな鱗に覆われた尻尾。それは彼女が半龍族であることを象徴する特徴であり、人間たちの中で暮らす彼女にとっては、目立たないように隠さなければならない存在でもあった。


(……気持ち悪がられたりして、あまり触られることはなかった……。)


人によっては「自分にも鱗が生えてくる」と怖がる者もいた。そうしたことは彼女にとって日常であり、それを気にしないよう努めてきた。


(でも……ご主人様に触られた時は……嫌、ってわけじゃなかった……。)


彼女はその感覚を思い返しながら、ゆっくりと湯の中で尻尾を揺らした。


(……ただ、緊張してしまっただけ……。)


触れられること自体に慣れていないのもあるが、それ以上に「春」という存在に対して、どこか特別な感情が芽生えているのを感じた。


(……ご主人様は、どうしてこんな私に優しくしてくれるんだろう……。)


ルーンは湯に身を沈めながら、春の顔を思い浮かべた。その中で、彼に応えられるよう、自分も変わらなければならないという思いがゆっくりと彼女の中で膨らんでいった。


(少しずつでいい……ご主人様が望むなら……私も頑張らないと……。)


そう心に決めながら、ルーンは再び湯の温かさに身を委ねた。少しずつ、自分の意思を取り戻すための小さな一歩を踏み出す覚悟を胸に――。



風呂場から戻った春は、椅子に腰掛けてぼんやりと今後のことを考え始めた。


(住む場所は確保できたけど……正直、金銭面は何も解決してないんだよな……。)


新しい家での生活が始まる期待と同時に、彼の胸には現実的な不安が重くのしかかっていた。


(今の賃金じゃ、僕一人でもギリギリの生活なのに、ルーンもいるとなると……余裕なんて全然ないぞ。)


春は深く息を吐き、テーブルに肘をついて考え込んだ。

(せっかく自由になれた彼女を、不自由な生活にさせたんじゃ意味がないし……何か考えないといけないな。)


思考が堂々巡りになりかけた頃、風呂場の方から扉が開き、湯気をまとったルーンが現れた。


「……ご主人様、お風呂……ありがとうございました。」


彼女は控えめに頭を下げて、申し訳なさそうに言った。その姿を見て、春は慌てて言葉を返した。

「もっとゆっくり使っててもいいのに。」


ルーンは少し俯きながら、小さく首を横に振った。

「……いえ、大丈夫です……お気遣い、ありがとうございます……。」


その言葉に、春はほんの少しだけ彼女の態度が柔らかくなったような気がして、心が軽くなった気がした。


(少しずつ……彼女も慣れてきてるのかもしれないな。)


春は再び深呼吸をして、気持ちを切り替えた。


(とりあえず、金銭面のことは明日親方に相談してみよう。何か手がかりが見つかるかもしれない……。)


そう決心しながら、春はルーンに向き直り、優しい声で話しかけた。

「今日はいろいろ疲れただろう。そろそろ休もうか。」


ルーンは一瞬春を見上げ、控えめに頷いた。

「……はい、ご主人様。」


新しい家での初めての夜。春は不安と希望が交錯する中で、少しずつルーンとの新しい生活を形にしていこうと心に決めていた――。






翌朝、目を覚ました春がふと視線を横に向けると、いつものようにルーンがベッドの横で立っていた。彼女は軽く頭を下げ、静かに挨拶をした。


「……おはようございます、ご主人様。」


春は柔らかく微笑みながら返事をした。

「おはよう、ルーン。いつも早起きだね。」


ルーンは少し申し訳なさそうに視線を落としながら答えた。

「……すみません……この習慣は、まだ治せそうにありません。」


その言葉に、春は小さく首を振って優しい声で言った。

「謝らなくていいよ。無理に変えなくても大丈夫だから。」


ルーンは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに小さく頷いた。その控えめな反応に春は微笑み、布団を整えながら話を続けた。


「さ、今日も朝ごはんの準備をしようか。それと、お弁当の作り方も教えるよ。」


「……はい、わかりました。」


ルーンの声には少しずつ柔らかさが感じられるようになっていた。それを嬉しく思いながら、春は台所に向かい、朝の準備に取り掛かった。


二人は並んで作業を始めた。春が手順を説明しながら材料を切り、ルーンが慎重にそれを真似する。まだ慣れていない彼女は何度か手を止めてしまうが、春はそれを急かすことなく優しく見守った。


(少しずつ、彼女にもこういう日常が馴染んでくれればいいな。)


春はそんなことを考えながら、目の前の小さな成長を嬉しく思っていた。


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