転移 出会い
世間がハロウィンで浮かれ、街中がカボチャのランタンとコスチュームに彩られる夜。四季春は、ひとり街外れの廃ビルに向かっていた。
その場所は「幽霊が出る」と噂される心霊スポットだった。特別オカルトに興味があるわけではない。ただ、日常の退屈さから逃れたくて、ふらりと足を運んだだけだった。
建物は薄暗く、窓ガラスはほとんど割れ、風が吹き抜ける音が耳に冷たい。埃の匂いが鼻をつく中、春は注意深く奥へと進んでいく。心のどこかで「何も起きないだろう」と思いつつも、不安と期待が入り混じった感覚が胸をざわつかせた。
やがて、広いフロアの中央に奇妙なものを見つけた。
それは、床一面に描かれた魔法陣のような模様だった。赤黒いインクのようなもので描かれており、周囲に無数の線と文字が絡み合っている。その中心が微かに光を放ち、明滅していた。
「なんだこれ……」
春はその場に立ち止まり、じっと魔法陣を見つめた。その光が脈打つように強まったかと思うと――。
バチッ!
耳をつんざくような音が響き、光が裂け目を生み出す。それはまるで空間そのものが引き裂かれるようだった。思わず目を覆う春。その瞬間、強烈な吸引力に引き寄せられ、彼の体は宙に浮いた。
「うわっ! なっ――!」
声をあげたのも束の間、次の瞬間、全身がふわりと無重力のように浮き上がる感覚に包まれた。視界は真っ白に染まり、周囲の光景が完全に消え去る。
上下の感覚が失われ、どちらに動いているのかも分からない。身体が冷たい何かに侵食されていくような感覚がじわじわと広がり、皮膚の内側から蝕まれていくようだった。
(……なんだ、これは……!)
心の中で叫ぼうとしても、声すら出ない。まるで意識そのものが何かに囚われたかのような、抗いがたい力が全身を締めつけてくる。
その時、不意に耳元ではない、頭の奥から響くような声が聞こえた。
「……貴方の呪いは……私が引き受け……浄化します……。」
その声は柔らかで穏やかだったが、どこか異様な力を秘めていた。それが誰の声なのか、どこから聞こえてくるのか、全く分からない。ただ、その響きが脳に直接届き、全身を包み込む。
身体の力が抜けていき、意識が遠のいていくのを感じる。視界は完全に闇に閉ざされ、思考も霞んでいく。
(……浄化……?)
その言葉を最後に、あなたの意識は完全に途絶えた――。
目を覚ますと、目の前には見たことのない青空が広がっていた。地球のそれとは微妙に違う。太陽の位置も、色も、空気の匂いさえも異なっていた。春は草むらの中に横たわりながら、頭を押さえて起き上がる。
「ここ、どこだ……?」
周囲を見渡すと、遠くには岩山が連なり、鬱蒼とした森が広がっていた。人影は見当たらず、言葉では表せない孤独感が胸を締め付ける。
それでも動かなければ始まらない。ポケットに残っていたスマートフォンや腕時計を確かめながら、春は近くの道を歩き始めた。すると、街にたどり着いた。ここで彼の異世界生活が始まる。
春は足を速めながら、目の前に広がる街を見上げた。石造りの門が重厚な雰囲気を漂わせ、活気に満ちた人々の声が絶えず聞こえる。街道から続くその賑やかな様子に、胸が少しだけ軽くなるのを感じた。
「ま、街がある!」
胸の高鳴りを抑えきれず、小声で呟いた。転生してからというもの、見知らぬ場所で過ごす時間が恐ろしく長く感じられていた。何かしらの文明があることに、心底ほっとしたのだ。
街に足を踏み入れると、そこは見たこともない異質な世界だった。路地には露店が並び、焼きたてのパンや煮込み料理の香りが漂う。しかし、よく見ると、火元は小さな魔法陣から供給されているようだった。まるでキャンプのバーナーのように簡素に使われている魔法に、春は驚きと違和感を抱いた。
「なんだあれ……?火を……出してる?」
さらに道を進むと、大きな異形の生物が荷台を引っ張っているのが目に入る。馬にも似ているが、角が生え、体は鱗で覆われている。馬車の御者がその生物に言葉をかけると、軽く頭を振って歩き始めた。
「完全に異世界だよな……」
周囲のざわめきに耳を澄ませると、人々の話す言葉がすんなりと頭に入ってくる。何故かはわからないが、この世界の言葉を理解できることに気づいた。
「……分かるだけありがたいけどさ……こんな状況で冷静でいられるの、むしろ俺おかしいのか?」
春はため息をつきながら、腰ポケットに手を突っ込む。スマートフォンが手に触れる感触はあるものの、完全に無用の長物となってしまったそれを握る手には力が入らない。
「でも、とりあえずこの街で何か情報を集めないとな……」
自分がいる世界の状況、そしてこれからどうするべきかを探るため、春は雑踏の中へと足を踏み出した。
春は市場の賑わいの中で足を止め、露店の果物売りに声をかけた。見るからに熟れた赤い果実――地球で見ればリンゴに似たものが山積みにされている。
「すみません、果実って珍しい物ですか?」
果物売りの男は、気さくな笑みを浮かべて答えた。
「いや、ここらへんじゃよく取れる物だよ。お兄さん、旅行者かい?珍しいね。10トロンだよ!」
春は内心でメモを取るように考えを巡らせる。
(よくある果物が10トロンか……これが円換算で100円前後だとしたら、この世界の物価はそこまで高くないのかもな。でも、この『トロン』ってお金を持ってないのが問題だよな……)
「ありがとうございます。ちょっと他の露店も寄ってから、また買わせてもらいますね。」
そう言って足早にその場を離れた。男は特に気にする様子もなく、「おう、いつでも来な!」と手を振った。
(お金がないなんて言えるわけがないよな……)
市場の雑踏に紛れながら、春は財布を手で確かめる。中には地球の硬貨がいくつかあるが、この世界で通用するとは思えない。
「取り敢えずこの世界のお金が必要だな……どうやって手に入れるかだ。」
春は歩きながら、ふと考えた。自分が持っているもの――スマホや腕時計がこの世界で珍しい品と見なされる可能性があるなら、それを売れば資金を作れるかもしれない。
「でも……スマホとか売っちゃったら、もう完全に帰れなくなる気がするんだよな……」
帰れる保証もない状況で、迷いが頭をよぎる。しかし、今は生き延びることが最優先だと腹を括り、どこかにそれを買い取ってくれる場所がないか探し始めた。
市場を歩き回る春の胸には、不安と少しの希望が入り混じった感情が渦巻いていた。
春は市場を練り歩きながら、雑多な品物を並べた一軒の露店を見つけた。そこには陶器や金属の道具、何かの骨で作られた装飾品など、実用的なものから装飾的なものまでが所狭しと並べられている。
「ここなら……何でも扱ってそうだな。」
軽く息を整え、意を決して店主に声をかけた。
「すみません、ここって買取もしてたりしますか?その……旅行者なんですけど、路銀が足りなくなりそうで……」
店主は頭に布を巻いた中年の男性で、商売慣れした様子で春をじっと見た。その視線は値踏みするようなもので、少し気後れしそうになったが、春は何とか笑顔を作った。
「買取か……まあ、物によるな。どんなもんを持ってる?」
春はポケットから腕時計を取り出し、店主に見せた。それは地球ではごく普通のデジタル時計だったが、この世界ではどう映るのか分からない。
「これなんですけど、見たことありますか?」
店主は興味深げに時計を手に取り、目を細めた。ひっくり返して裏側を見たり、ボタンを押して液晶に数字が浮かび上がるのを確認したりする。
「ほう……こんな細かい作りのものは初めてだな。これはどこの工房の品だ?いや、見たことがないな……面白い。」
店主は顎に手を当てて考え込む。
「正直、用途がよく分からんが……何かの計器か?貴族や商人あたりが興味を持ちそうだな。」
「えっと……これは時間を測るものなんです。ほら、ここに数字が出てるでしょう?」
「ほう!時間を測るだと?」店主の目が輝いた。「そんな便利なものがあるのか……よし、10トロンでどうだ?」
(え……リンゴ一つ分?安すぎないか?)
春は一瞬迷ったが、冷静を装って言葉を返した。
「これ、かなり貴重なものなんですよ。もう少し何とかなりませんか?」
店主は少し驚いた表情を見せた後、ニヤリと笑った。
「交渉する気か。いいだろう、20トロンってところだ。」
「うーん……30トロンなら。」
「よし、分かった!30トロンだ。お兄さん、やるな!」
春は少しホッとしながら時計を手放し、小さな革袋に詰められた30トロンを手に入れた。これで少しは何とかなる。
「ありがとう。助かりました!」
「おう、また何か珍しいものがあったら持ってきな。」
礼を言い、路銀を得た安堵と、まだ先の見えない不安を胸に抱えながら――。
(とは言っても、30トロン……300円程度か。安い。けど、あれ以上値段を吊り上げるのは無理そうだったし、無駄に怪しまれても困るよな。どうしたもんか……)
革袋を手にした春は市場を歩きながら考え込んでいた。手元にある物を売り払うだけでは、いつまでも生活の不安が拭えない。何か根本的な解決策を見つける必要がある。
そんな時、露店の端で椅子に腰掛けていた中年の男性が声をかけてきた。
「どうした兄ちゃん?もしかして食い扶持を探してるのか?まぁ、自分の物をあんまり売りたくない気持ちもわかるけどな。」
春は一瞬驚きながらも、その言葉に反応した。
「そうですね……正直、手持ちが少なくて不安です。何か短期的な仕事とかないですかね?」
男は軽く顎に手を当てながら、にやりと笑った。
「お、そういうことなら、いい話があるぜ。近くで採掘の仕事が募集されてる。しかも泊まり込みだ。力仕事だけど、兄ちゃん結構丈夫そうに見えるし、どうだ?」
「採掘……ですか?」
「そうだ。山肌を削って鉱石を掘るんだが、最近人手不足でな。日払いで金は出るし、食事も宿もつく。路銀が足りないってんなら、悪くない話だろ?」
(採掘か……肉体労働かもしれないけど、金が手に入るならやってみるしかないか。)
「わかりました。ぜひその仕事をやらせてもらいたいです!」
春の即答に、男は満足げに頷いた。
「決まりだな!じゃあ、この紙を持って、街の東門を出たところの集積場に行ってみな。そこの親方に声をかければ話が通じるはずだ。」
手渡されたのは、薄汚れた紙片に採掘場の場所が簡単に記されたものだった。
「ありがとうございます!早速行ってみます!」
「気をつけてな。採掘場にはたまに妙な奴も出るらしいが、まあ、若い兄ちゃんにはなんてことないさ!」
背後で笑い声を聞きながら、春は足早に市場を抜け、東門へと向かった。採掘場がどんな場所かは分からないが、今の状況を少しでも改善するために動かなければならない。それだけは確かだった。
それから、採掘場での生活が始まってから一年ほどの月日が流れた。
最初の頃は何もかもが辛かった。硬い岩肌にツルハシを振り下ろす度に腕が痺れ、埃っぽい空気が肺にこびりつく。慣れない環境に、何度も体力と気力をすり減らされた。
しかし、人間は不思議なもので、過酷な状況にも徐々に適応していく。春もまた、肉体労働に慣れ、採掘場の労働者たちとの関係を築いていった。
(こんな仕事、最初は地獄みたいだったけど、慣れるもんだな……)
採掘場で働き始めて半月ほど経ったある日、街に降りた春はかつて腕時計を売った商人とばったり出くわした。
「あれ?旅行者じゃなかったのか?」
その問いに一瞬戸惑いながらも、春はさらりと答えた。
「この街が気に入ったんだよ。」
嘘と本当を混ぜたような言葉だったが、商人は納得したように頷き、「まあ、この街も悪くないだろうさ」と笑った。
そして今日は採掘場が休日。久しぶりに街へ買い物に来ていた。
休日の街はいつも以上に賑やかで、人々の声があちこちから聞こえる。露店の並ぶ通りを歩きながら、春は革袋の中の硬貨を数えた。
(食材を少し買っておくか。それから……新しいツルハシの柄も見ておいたほうがいいかもな。)
買い物のリストを頭の中で組み立てながら、春は露店を物色し始めた。そんな時、賑やかな喧騒の中で、妙に耳に残る声が聞こえてきた。
「珍しい半龍族だよ!ほら見てくれ、この黒い鱗と尻尾!」
思わず足を止めて、声のする方に目を向けると――奴隷市場の中心に、人目を引くように繋がれた少女の姿があった。
春の目に映ったのは、痩せこけた体、ぼさぼさの黒髪、そして黒い鱗と長い尻尾。彼女は怯えた目で周囲を見渡しながら、身を縮めるようにしていた。
「……なんだ、あれは……?」
その場の喧騒の中で、春はただ彼女を見つめていた。胸の奥に、何かが引っかかるような感覚を覚えながら――。
(年に一回程度、奴隷を売りに来ると聞いていたが……本当にやっているんだな……。)
春は奴隷市場のざわめきを目にしながら、心の中で自問を繰り返していた。
(この世界の生活には慣れてきたつもりだけど、こういう場面を目の当たりにすると、やっぱり地球で育った自分の倫理観が強く残っているのを感じるな……。)
視線は自然と、一人の少女に向かう。黒い鱗が肩や手首を覆い、長い尻尾が地面に届くほど垂れている。怯えた瞳の中には、ただの恐怖だけでなく、どこか反抗的な光も宿っているように見えた。
(人間じゃない……それにしても小さい子だ。こんな子を奴隷にするなんて……。)
考えがまとまらないまま、気づけば足が動いていた。奴隷商人の前まで歩み寄り、思い切って声をかける。
「……すみません。この子は……?」
商人は顔を上げ、春を値踏みするようにじっと見た後、にやりと笑った。
「お、見る目があるな。半龍族だ。珍しいだろ?黒い鱗に長い尻尾。まだ子供だが、鍛えればいい働きをするだろうよ。値段は……50000トロンだ。」
「……!」
提示された額に、春は内心で息を呑んだ。採掘場での一年間で貯めた金額は40000トロン程度。50000トロンには到底届かない。
(……全財産を出しても足りない。それに、残りはどうやって生活する……?)
ふと、ポケットに入れていたスマートフォンに触れる。異世界に来た時からずっと持ち歩いていたそれは、もう充電が切れて動かない状態だった。それでも、元の世界に帰れる可能性があるかもしれないという僅かな希望に縋り、手放すことなく持ち続けていた。
(……これしかないか。戻れる保証なんてどこにもないんだし……。)
覚悟を決めた春は宿舎に戻り、全財産を持って市場へと急いだ。そして、再び奴隷商人の前に立つと、スマートフォンを取り出して差し出した。
「これで足りない分を埋め合わせできませんか?」
商人は眉をひそめながら、それを受け取り、あれこれと角度を変えて観察した。
「これは……なんだ?」
「採掘場で見つかった古代の遺物だそうです。詳細は分かりませんが、珍しい品だと思います。」
商人はしばらくの間、画面をじっと見つめていた。そして、満足げな表情を浮かべる。
「なるほど。動いていないが、もし動くなら学者や貴族たちが高値をつけるだろうな……。よし、それで足りない分を埋めてやる。」
春は内心で安堵しつつ、冷静を装って感謝を述べた。
「ありがとうございます。それで、この子は……?」
商人は満足げに笑い、鎖の鍵を取り出した。
「あんたに売るよ。この子をちゃんと面倒見てやりな。」
鍵を渡され、春は少女の方を見た。彼女の瞳にはまだ怯えの色が残っていたが、ほんの少し、不安と期待が入り混じった光が浮かんでいるように見えた。
「……もう大丈夫だ。一緒に行こう。」
春は手を差し出す。少女の手が彼の方へと動くのを、一瞬だけためらうのを感じた。しかし、次の瞬間、小さな手がそっと春の手を握った。その感触が、不思議と温かく感じられた。
(これで良かったんだ……。)
春は自分にそう言い聞かせ、少女を優しく引き寄せながら市場を後にした。肩の荷が重いことを感じながらも、どこか安堵感と決意を抱えたその姿は、また新たな物語の始まりを示唆していた。
採掘場の宿舎に戻った春は、木製の椅子に腰を下ろし、深くため息をついた。小さな家には最低限の家具と寝床があるだけで、贅沢とは無縁の空間だ。その中で、さっきの自分の行動を思い返しながら頭を抱えた。
「……なんで、あんなことしちまったんだよ……」
目の前には、黒い鱗を持つ少女が縮こまって座っている。怯えた様子は変わらないが、奴隷市場にいたときよりは少しだけ落ち着いているようにも見える。
春は彼女に目を向けながら、再び自問した。
(50000トロンなんて大金を使い果たして……それに、スマホまで手放して……俺、これからどうやって生活するんだよ。)
もちろん、彼女を見捨てることはできなかった。それだけは確かだ。しかし、それと同時に、衝動的な行動がこれから自分にどんな影響を及ぼすのか、想像するだけで不安になった。
「……なぁ、名前とか、あるか?」
少女に話しかけたが、返事はなかった。ただ彼女は怯えた目で春を見つめるだけだった。その視線は、警戒と不信感そのものだ。
「そっか……まぁ、無理に話さなくてもいい。」
春は肩を落とし、少しだけ頭を冷やそうと立ち上がり、簡素な棚からパンのようなものを取り出した。それを少女の前にそっと置く。
「腹、減ってるだろう?好きに食べていいから。」
しかし、彼女はそれすらも警戒しているのか、一歩も動こうとしない。春は軽く頭をかきながら、椅子に腰を下ろした。
(……時間が必要なんだろうな。俺だって、いきなりこんな奴が救いの手を差し伸べてきたら怪しむだろうし……)
春は深く息を吐き、目を閉じた。自分がこれからどうするべきなのか――考えがまとまらないまま、静かな時間だけが流れていった。
部屋の中には、ただお互いの息遣いだけが響いていた。
その時、木製の扉が軽くノックされた。
春は少し驚きながらも、「どうぞ」と答える。
扉が開き、入ってきたのは採掘場の主任の奥さんだった。彼女は優しい笑みを浮かべながら、片手に籠を抱えている。採掘場で働き始めたばかりの頃から、何かと世話を焼いてくれる存在だった。
「春ちゃん、次の採掘の場所なんだけどね――」
話しながら室内を見渡した彼女の視線が、部屋の隅で縮こまっている半龍族の少女に止まる。
「……ん?」
春は、彼女の視線の先を見て状況を察し、内心で少し焦った。
「春ちゃんが奴隷を買うなんて意外ね。しかも、半龍じゃないか。よくそんなお金あったわね。」
主任の奥さんは驚いた様子で、しかしどこか感心したようにも見える。
春は苦笑いを浮かべながら頭を掻いた。
「いや、まぁ……その……貯金を全部はたいて、足りない分は、ちょっと珍しい品物で埋め合わせて……。」
「珍しい品物?」彼女は首をかしげたが、それ以上は追及しなかった。
「まぁ、春ちゃんらしいと言えばらしいわね。」奥さんはそう言ってから、少女の方に視線を戻した。「でも、半龍族を買うなんて珍しいわね。この子、まだ若いじゃない。」
春は視線を落としながら答える。
「……市場で見かけて、放っておけなくて……。」
奥さんは少し眉を寄せながらも、それ以上は何も言わず、柔らかな笑みを浮かべた。
「春ちゃん、あなたが責任を持って面倒を見てあげるなら、それでいいと思うわ。」
彼女は籠を差し出し、中身をテーブルに置いた。パンや干し肉、果物が詰まっている。
「これ、家に余ってたものよ。あの子にも食べさせてあげて。」
「ありがとうございます。助かります。」
奥さんは少女にもう一度優しい目を向けた後、笑顔で手を振りながら部屋を出て行った。その後ろ姿を見送りながら、春は改めて自分がしたことの重みを感じていた。
(俺がこの子の面倒を見る……か。簡単に言うけど、大丈夫なのか、俺。)
テーブルに置かれた食料を見て、春は少女の方を向く。
「これ、さっきのパンと一緒に食べていいから。安心して。」
少女は相変わらず警戒した様子だったが、少しだけ手を伸ばし、慎重にパンを手に取った。その小さな仕草に、春は微かに胸を撫で下ろした。
(時間がかかるかもしれないけど……少しずつでも、信頼を築いていければいいな。)
静かな部屋の中、春は自分の決意をもう一度心に刻みながら、少女の食べる姿をそっと見守った。
「ゆっくり食べながらで良いから聞いてくれるかい?」
春は優しく声をかけた。黒い鱗の少女は警戒を解かないまま、わずかに顔を上げると、無言で小さく頷いた。
春は微笑みながら、自分の胸を指差す。
「僕の名前は四季。四季 春って言うんだ。春でいいよ。」
彼女の目が一瞬だけ動き、春を見た。その瞳にはまだ警戒心が残っていたが、少しずつ心を開き始めているようにも見える。
「君の名前は?」
しばらくの沈黙の後、彼女は小さな声で答えた。
「……ルーン……ルーン・ボーラス……」
その声は震えていて、どこか自信のない響きがあった。それでも自分の名前を名乗る姿に、春は心の中で安堵した。
「ルーン・ボーラス、か。いい名前だね。」
春の言葉に、ルーンはほんの一瞬だけ目を見開いたが、すぐに視線を逸らし、再び縮こまった。
(まだ時間がかかりそうだけど……少しずつでいい。これが第一歩だ。)
春はそう自分に言い聞かせながら、そっと椅子に腰を下ろし、ルーンの様子を見守った。
「……ご主人様……ご命令ください……」
ルーンの小さな声が部屋に響いた。その言葉には、諦めと従順がにじみ出ていた。
(ご主人様……か……)
春はその言葉に一瞬戸惑った。確かに彼女を買った形にはなっているが、そんな言葉で呼ばれる覚悟も、それに応える理由も持ち合わせていない。
「ごめん……特に目的があって君を買ったわけじゃないんだ。君が望むなら、これから自由になってもいい。」
その言葉を聞いて、ルーンは顔を伏せたまま、小さな声で答えた。
「……故郷はもう無い……です……行く当ても無いので……」
その一言が、春の胸に刺さった。先ほどの主任の奥さん――女将の言葉が脳裏に蘇る。
(行く当てがないから奴隷になってるんだ……僕が責任を取らないと……)
彼女を救ったつもりでいたが、その先のことを何も考えていなかった。自分の軽率さに気づき、春は拳を握りしめた。その時、扉が再びノックされ、返事も待たずに開いた。
「ほら、これ。私が昔来てた服だけどあげるわ。尻尾の部分は切らないとダメね。」
入ってきたのは女将だった。手には布が包まれた束を抱えている。春は驚き、すぐに立ち上がった。
「女将さん……ありがとうございます。でも、そんな――」
彼女は手をひらひら振って春を制した。
「いいのよ。どうせ使わないものだし。それに、春ちゃんのことだから後先考えずに行動したんでしょ?」
彼女は微笑みながらルーンを見た。その目は優しさに満ちている。
「この子を悪いようにする子でもないしね……だから、まずはお風呂に入れなさい。」
「えっ、お風呂……?」
「当たり前でしょ。この子、ちゃんと清潔にしてあげなきゃ。ほら、こっちにおいで。」
女将はルーンに向かって手を差し出した。ルーンは戸惑いながらも、その手をそっと取った。その光景を見ながら、春は心の中で深く感謝すると同時に、自分の責任の重さを改めて感じていた。
(この子を救った以上、僕がしっかりしないといけないんだな……)
女将のリードでルーンが風呂場へと向かう姿を見送りながら、春は静かに決意を固めた。