16.天才は何かと紙一重なんていいますけど
天才画家のアトリエを訪ねる。邸宅は二階建てで、一階がアトリエみたい。こじんまりとしていた。郵便受けには手紙の束が詰め込まれ、入りきらない分が玄関先に散らばっている。
呼び鈴を鳴らすと、ドアが開いた。
目の下に大きなクマを作った痩せた青年だ。もじゃもじゃの髪。髭も手入れされず伸ばしっぱなし。
「誰だあんた?」
一応、王妃なんだけど。護衛が「貴様! 無礼な!」と前に出そうになったのを止める。
「アリアさんはわかるかしら?」
「あ~……」
青年はボサボサの髪を掻く。天才や芸術家は変人も多いというし、イメージ通りだった。
って、返事らしい返事もしないで、黙っちゃったわこの人。
「わ、私はその義理の姉のキッテというの」
「キッテ……キッテキッテ……ああ、王妃の」
知ってたみたい。というか知ってるじゃない! なら話は早そうね。
「アリアから貴男を励ましてほしいって頼まれて」
「……とりあえず、立ち話もなんなんでどうぞ」
思いのほかすんなり中に通してもらえた。
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アトリエ内は広くて、二階部分が吹き抜けになっていた。
天窓から光が差し込むほか、庭側に大きな窓があった。
壁は薄いクリーム色。画材が作業用テーブルの上に……ぐしゃっとしている。
絵具は使いかけが置かれっぱなし。筆の先もカピカピだ。
部屋の隅に置かれたイーゼル。掛けられたキャンバスは真新しいままだった。
なのに――
床には足の踏み場もないくらいに、描きかけの下書きが散乱している。
彼の苦悩で出来た絨毯だ。踏まないように、空いている床を選んで歩く。
デッサン用の木炭のそばにはパン。たしか、線を消すのに使うんだっけ。
青年画家クイルは目をぎょろっとさせて立ち尽くす。ああ、私と同じで喋るのが苦手な人なのかも。
こういうときは、こちらから質問するのがいいわよね。
「私、絵のことはあまり知らないのだけど、そちらのパンで間違った線を消したりするんでしたっけ?」
「パンは食べ物だろ」
「え? そ、そうですけど」
「俺、間違った線なんて一本も引かないから」
一応、私も王族なんだけど。アリアにもこんな態度なのかしら。
クイルは肩を落とした。
「あ、ああ、ごめんなさい。絵の話になるとつい……」
「いいえ、気にしないで。私も軽率だったわ」
「王妃様なのにお高くとまらず、案外優しいんだな。アリアさんの言ってた通りだ」
どういう紹介のされ方をしているのかしら、私。一応褒められてはいるのよね。
気になるけど、今日の本題はそれじゃない。単刀直入に訊いてみよう。
「クイル。貴男は今、スランプだそうね」
「やっぱその話か」
「こうして訊くのも心苦しいけど、何に悩んでいるのか教えて欲しいの。私なら力になれるかもしれないわ」
ルリハたちでは聞き出すことができないから。
クイルはうなだれた。
「色……だ」
「色……ですか?」
「欲しい色が見つからない」
「絵具を買いに行けばいいのではありませんか?」
「外には出たくない。それに、色は作るものだから……」
部屋の中には絵具がたくさん。どれも
「画材は揃っているようですけど、手入れは……ちょっとおろそかにしすぎじゃないかしら?」
「わかってるさ。なんなら地下の倉庫に一生分の絵具が買ってある。どこにも行かなくたって、俺はこのアトリエでなんでも描ける
「なんでも……って」
「本当だ! あんたの顔だってもう把握できた。ちょっと待ってろ」
止める間もなく彼は木炭で紙に下書きをした。無駄な線は一本たりとも引かず、迷い無く、五分も掛からずに私の顔を素描する。
上手いとか下手とかいうレベルじゃない。紙の中に困り顔の私がいた。
「すごいわ! 貴男って天才なのね。本当にスランプなのかしら?」
「どん底だよ。俺は……完璧とはほど遠い。描けば描くほど以前の自分を越えられなくなる! 苦しいんだ! もう、これ以上の絵は生み出せないって……でも、俺にはこれしかなくて。絵を描くしかしてこなかった」
素描は木炭だけの単色。床一面に広がるデッサン画。中にはどことも知れない風景を描いたものもある。
青年は吐きだし続けた。
「色だ……せめて色が欲しい。この世で最も美しい色を見つけたい。見たい! 感じたい!! だけど、俺にはわからないんだ。何十何百何千何万と試しても、心を動かされる色が見つからないんだ! 生み出せないんだ!! なあ、王妃様! 俺はどうしたらいいんだよッ!?」
そんなこと言われても。素人の私に言えるわけもない。
察してくれたのかクイルはまた、落ち込んだ。
「ああ、すまない。つい……絵のことになると……本当に……」
苦しんでいることだけは、十分伝わりました。困った事にその苦しみを共有できる人がいないのね。天才を理解できるのは、きっと天才だけなのかも。
凡人なりに考えてみると――
「色が欲しいのでしたら、それこそ外に出るべきよ。アリアは観劇も好きなの。一緒に舞台を見に行けば良い刺激になるかもしれないわ」
「げ、劇場なんて無理だ! 人が多すぎる!」
王女権限で一公演を貸し切りにしたりもアリアならやりそうだけど。
それにしても、人が多すぎる? どういうことかしら。
「じゃあ静かな場所をお散歩してみるといいんじゃないかしら? この部屋、明るくて天井も高くて開放感があって素敵だけど、ずっと同じ色の壁ばかり見ていたら飽きてしまうでしょう? 窓だってずっと同じ構図なのだし」
もちろん窓の外の風景は、天気や時間で変わったりもするけれど。外に一歩踏み出す方が、よっぽど違うものが見られると思う。
青年はボサボサの髪を左右に振った。
「外には出たくない」
「どうして?」
「情報が洪水を起こして頭がおかしくなりそうだ。俺はここでしか生きられない。籠の中を好む鳥だっているんだよ! 人の顔だって覚えちまう……風景も……なんでも頭の中に絵として刻み込まれるんだ。俺は天才なんかじゃない。見て憶えたそのままを指でなぞってるにすぎない!」
控えめに言って天才だと思うのだけど。
「ええと、つまりなんでも記憶してしまうから、あまり外には出られない……と?」
クイルは頷いた。
「そうさ。だから忘れるために紙に描くんだ。けど……時々、頭の中で色んなものがまざって、そうなったらキャンバスに叩きつけてきた」
「今はそれができないのね?」
「ああ。色だ。記憶の中のそのままを塗るんじゃダメなんだ。頭の中身の劣化版にしかならない! もっと、もっと、もっと鮮やかで透き通っていて、深くて濃くて煌びやかで清純な、衝撃的な色が足りないんだ!」
ほとんど演説を聴いている気分。肩で息をする彼が落ち着くのを待ってから。
「そのこと、アリアさんには?」
「そういえば……言ってない。彼女はずっと、励ましの言葉をくれるから……聞くばっかりで。あんた……俺の話を聞いてくれたのか?」
「私も自分から話すのは苦手なの」
ずっと辛そうだったクイルの表情が少しだけ、安らいだ。
「そうか。なんだか気持ち良く喋れたよ。いい人だな王妃様って。少し、落ち着いた。あんたに頼るわけにもいかない。色は……自分で考えることにするよ」
力なく青年は笑う。
とりあえず、彼の捜し物が何かは解ったし、森の屋敷でルリハたちと相談ね。
っと、あら? 床に散らばる素描をなにげなく見回したところで。
王城や大聖堂といった王都の建物の素描の中に、森の屋敷が描かれた一枚が混ざり込んでいた。
どうしてあの屋敷の模写があるのかしら? 屋敷の外壁は傷んでいなかった。
屋敷の絵を手に取る。
「これは?」
「よく憶えてないが、たぶんガキの頃に森で迷子になった時に見つけたんだと思う」
クイルが子供の頃だから、十年以上前みたいね。彼の頭の中には、いったいどれだけの景色や物事が詰まっているのかしら。
私は床に散らばった素描を集めて束にしてテーブルに置いた。
「少しは掃除しないといけないわよ。それから手紙も溜まっているみたいだし」
「ああ、わかった。わかってるって」
「あとちゃんと食事は摂りなさい。というかどうやって暮らしてるわけ?」
「届けてもらってる。ほかも色々と、金で」
生きていく分のお金はちゃんとあるみたいね。
「じゃあ、私は行くわね」
「来てくれてありがとう」
意外に……なんて言ったら失礼だけど、クイル・グラスハートは素直だった。
さて、この情報を持ち帰って、ルリハたちと対策を考えますか。