伯爵令息が男爵令嬢を婚約破棄って、それはないよね?
***武 頼庵(藤谷 K介)さまご主催の『月 (と) のお話し企画』参加作品です。
「男爵令嬢アニーミア、ただ今をもって君との婚約を破棄する!」
王立貴族学園の卒業プロムパーティの席上だった。
婚約者のギャニミード伯爵令息は宴もたけなわのワルツが終わった途端に、私の手をまるで汚いもののように投げ離したのだ。
「と、突然、何でしょうか? このプロムもギャニミード様のほうからエスコートに来てくださったのでは……?」
「はっ、この痴れ者め。我々の婚約は学内に知れ渡っているから、今日の今日まで我慢してきたのだ。それも公認の婚約者がいれば私の素行が乱れないだろうという、父伯爵の浅知恵のせいでな」
学園一の長身でイケメン、とはいっても容姿端麗な王子様たちはすでに卒業済みだからではあるけれど、伯爵令息は整った口元を歪めている。
このひと本気だわと実感したら急に、教授陣の憐れむような視線と、クラスメートたちの「お可哀想なアニーミア様」というひそひそ声が届いてきた。
公の場で婚約破棄って、伯爵の息子と男爵の娘という下層貴族がするもの?
王太子でもあるまいし、皆の前で大々的に発表する意味もない。
そういえばギャニミードは3年前、サルム王太子殿下が聖女ユリア様を婚約破棄された夜会に出席していた。
「堂々としてカッコよかった」とこの男は言っていたような。
「卒業してしまえばこっちのもの、伯爵領を継ぐ前に海外に遊学して、エキゾチックな美姫を我が物にしてやる」
「はぁ」
私は額に、レースの手袋に包まれた右手の甲を押し当てて当惑した。
あ、ダメだ、貧血が来る。
悔しいのは、これほどに浅はかなギャニミード様であっても、愚かさも含めて愛おしいと思ってしまっていたことだ……。
気が付いたら自宅のベッドに寝かされていた。
もぞもぞと上体を起こして辺りを見回す。
しばしの間、ぼうっとした私の頭は、プロムでのできごとはただの悪夢だったんだと想おうとしていた。
でも、サイドテーブルにあった大好きな苺の盛り合わせと「心配いらないのでゆっくり眠りなさい」という母のメッセージカードが、逆に全て現実だったとつきつけてくる。
ドレッシングガウンを羽織って、苺の載った銀のボンボニエールを手にバルコニーに出た。
私の気分とは裏腹に、外は爽やかな初夏の夜。
真ん丸のお月様が少し傾いて「大丈夫か?」というように照らしている。
「お月様、私、フラれちゃった。それも衆人環視での婚約破棄。カッコ悪いよね」
月の左下にまるで泣きぼくろのような木星が見える。
「泣いてもいいかな? 破棄されたことより、あんな人好きだった自分が情けない……」
バルコニーにもたれかかって、手すりにうつ伏せたら、嗚咽が漏れてしまう。
「バカだよね、私。あんな人と結婚して伯爵夫人になって、お屋敷を切り盛りして支えていきたいだなんて思ってた」
うぐっ。
「キレイな女の人探しに行くんだって。私は美人じゃないものね。貴族とは名ばかりの男爵令嬢だし。婚約当初は優しかったのになぁ」
えぐっ、ひっく。
「男の人ってすぐ目移りするよね。17歳って若さで魅了しておけないなら、オバサンになったらすぐ捨てられちゃう……」
ずぴっ、ずぴ。
「劇に出てくるジュリエットって人のセリフで、『形の変わる移り気な月に賭けて愛を誓うのはやめて』ってのがあるんだよね。男の気持ちは……当てにならないんだ……」
ぐすん、ぐすん。
「お月様も、男、だよね……」
ぐずぐずぐずぐず。
もう顔を上げて月を見る余裕はなかった。今日の月は明るいけれど、太陽と違って涙を乾かすほどじゃないから。
月光は、包んでくれても温めてくれはしない……。
「バカだな」
異様なところから声がした。
お月様の方角から、でも距離的にはもっともっと近く。
「月が移り気だって? 失礼なこと言うじゃないか」
涙でぐしゃぐしゃになっているだろう顔を恐る恐る上げると、どこから現れたのか、手すりの端に腰掛けている男がいた。
長い左脚をぶらぶらさせて、その上に交叉させるように右膝を立てている。
服は真っ黒で、どこがどうなっているのかよく見えないのに、髪は銀色に輝き、細い面立ちは日に焼けた水夫のように浅黒い。
コバルトブルーの瞳は射るように鋭かった。
「あなたは、誰? どこから、来たの?」
「それも失礼発言だぞ? さっきまでオレに聞いてほしくて話してたくせに」
「話し? 私はお月様と。え? あなた、お月様?」
「いい加減な男に婚約破棄されたんだろ? よかったじゃないか、結婚しなくて」
「そ、そういう問題じゃないよ」
私はぐーでごしごしと両眼を擦った。涙も拭きたかったけれど、目の前の男が幻かどうかも確かめたかったから。
「恥かかされたのが気に入らないだけだろ? フラれたんじゃないぜ。お前はアイツのことを好きだと思い込んでいた。それが間違ってたとわかっただけ」
「そ、そうなのかな?」
「オレはプロム会場も見てたからな。ギャニミードか? 婚約破棄をする自分にかなり酔ってた」
「ま、まあそうかな、とは思ったけど」
「ならいいだろ。もう泣くな」
「う、うん、ありがと」
「いや、礼には及ばん。泣き止んだらお前の間違った考えを正したいだけだから」
「私、まだ間違ってる? あのひとを好きだと思ってたこと以外にも、間違ってるの?」
「さっき失礼なこと言ってただろう?」
「え? もしかして、お月様は男じゃないとか? あなた女?」
「はあ?」
立てた膝に置いていた手で頭を抱え、右目だけ細めて訝しそうに見つめてくる。そんな質問どこから出てくるんだと言いたそうに。
「根本的に間違ってるだろ、お前も、そのジュリエットって女も」
「え? ジュリエットは間違ってないよ、シェイクスピアって有名な人が書いた戯曲だもの」
「有名な人が書いたらみんな正しいのか?」
「たくさんの人が読んで共感できるから有名になるんでしょ? 正しい確率のほうが高いと思うわ」
「バカ」
「あなた、初対面のくせにお前とかバカとか、ちょっと酷いんじゃない?!」
「カンベンしろよ、オレたち初対面じゃないだろ」
「お、お月様だとしたらいつも見てるけど……?」
「困った女だな。その作者、シェイクスピアか? そいつも女か?」
「違うよ、ちゃんとした男の人」
「ちゃんとしたって、どういうのがちゃんとした男なんだよ」
「ギャニミードとかあなたみたくいい加減じゃない人」
「オレもいい加減なのか。ヤツと一緒にするなよ。それでわかったのか? ジュリエットとお前が間違ってるとこ」
「わかんない」
「あのな、月はいつも真ん丸だ。律儀に地球をグルグル回ってる。どこがいい加減で移り気なんだよ?」
「月は満ち欠けするから月なんじゃない! 月がいつも満月だったら飽きちゃうわよ!」
「飽きるだと? それじゃギャニミード以上に移り気じゃないか」
「お月様のことでしょ? 恋愛の話じゃないわ」
「月は形が変わるから当てにならんと言ったのはお前だろ。はっきりしろよ。満ち欠けするほうがいいのか、まん丸いほうがいいのか」
「満ち欠けしてほしい。それぞれの形に素敵な趣があるもの」
「じゃ、これからも移り気な男に恋をして、傷つくたびに泣いてろ」
「どうしてあなたが怒るの?」
「怒ってるんじゃない、悲しいんだ。じゃあな」
男はバルコニーに差し掛かっている梢に飛び移って言った。
「お前はフラれたんだ。そしてオレもフラれた。これでおあいこだ」
バルコニーから手を伸ばせば届きそうな木がバサバサという音を立てていたかと思うと、しんと静まり返った。
「今のは何だったの?」
涙は止まったのにどうしようもない淋しさが胸に広がっていた。
苺をいくつか抓んではみたものの、少しも美味しいと感じなかった。