【08】 闇を追うもの 8
ルーシェは燐光を放つ碧い炎の前で目を閉じた。微かに唇が開く。
板切れに腕を乗せて重心をかけ、後方で眺めていた獣人の銀色の耳がぴくりと動いた。
「レクゥ……ト・イ………」
小さな呟きだった。おそらく馭者と傭兵風の男には聞こえてはいないだろう。
目を開けたルーシェは両手を打ち合わせる。ぱんっという乾いた音は高く響いた。碧い炎はそれを合図とするかのように、渦を巻いて一斉に燃え上がる。旋風を起こし螺旋を描いて天に腕を伸ばした。空へと舞い上がる碧い炎にルーシェの髪が煽られて広がる。そして風がやむと同時に、碧い炎はそのままかき消えていった。
森の木々から斜めに射し込む眩しい朝の陽。その木漏れ日の下を馬車はひた駆しる。
馭者台に座るのは上半身裸の獣人。雨上がりの湿り気を含む風に、銀色の髪をなびかせて馬を繰っていた。後ろの幌の間からはサムが顔を出している。獣人の頭の上の、髪色と同じ銀色の毛で覆われた耳がぴくぴくと動く。その様子を興味深く眺めていた。
馭者台の端には拾ってきた木の枝が立てられている。枝にはシャツとローブを干していた。ルーシェの持っていた小瓶の液体を振りかけ、近くの泉で不死者の血を洗い流したものだ。それらが風を受けてはためいている。
泉の水は地中深くから涌いている。それにくわえて森の大きな樹々に守られているために、大雨の影響は最小限にとどまっていた。
フードの男とルーシェは泉の清らかな水を使って、顔や身体、衣服についてしまった不死者の黒い血や体液を落とした。ルーシェは小瓶の液体を浸した布で汚れを拭い、そのあとに泉の水で清めたが、フードの男は上着を脱いで小瓶の液体を振りかけると、そのまま泉に浸していた。
馭者は幌の中で足を伸ばして横になっていた。自分の腕を枕にしてだらしなく口を開けながら大きないびきをかいている。傭兵風の男といえば、すっかりと息を潜めていた。
デリラとカレン、セチアは馭者台を気にしながらも、ルーシェと馭者と傭兵風の男にちらちらと視線を彷徨わせていた。
彼女たちはルーシェが掛けたローブに施した魔法で眠らされていた。何が起こったかは知るはずもないが、何かが起こったということには勘づいているようだった。獣人の男がフードを被っていないことも、その何かを裏付けているように思えた。
「ねえ、おにいちゃん。そのおみみ、ほんとうのおみみ?」
とうとう興味を抑えきれなくなったサムが獣人に訊く。
「ん~、これか? カッコいいだろう?」
獣人はちらっとだけサムを振り返ると、にかっと笑う。昨夜まではフードに隠されていた青い瞳は優しい色をしていた。サムは安心したのか「うん!」と笑顔を見せる。
デリラはサムを幌の中に戻そうと不安そうに腰を上げる。だが、ルーシェは「大丈夫」と頷いてみせた。デリラは一瞬だけ戸惑い、また腰を下ろした。
「おにいちゃん、おなまえは?」
サムは心を許したらしく、親しげに話しかける。
「いいか、坊主。覚えておけよ。人に名前を訊くときは、まず自分から名乗るもんだぜ」
「じぶんから……えっとね、ぼくはサム」
「そうか、サムか。いい名前だな。俺はアルジェントだ」
「アル……ジェント……。アルってよんでもいい?」
「いいぞ。好きに呼べ」
サムとアルジェントとの楽しそうな声に、カレンとセチアはそわそわと様子を窺う。そのうちに溢れる好奇心を押さえきれなくなったのだろう。どちらからともなくサムの隣から馭者台に顔を出すと、アルジェントのぴくぴくと動く耳を興味深そうに眺めていた。
太陽が南天にかかる前に森を抜けることができた。道には雨水が溜まっていたが、それほど深い場所はなかった。泥濘んだ土にも、なんとか車輪を盗られることもなくすんだ。
走り通しの馬の休憩のために近くの村へと寄る。
村へ入る前に、アルジェントは乾いたシャツとローブを身につけた。そして再びフードを被る。
「どうしてかくすの? かっこいいのに」
不思議そうに尋ねるサム。
「カッコいいからだ。皆に見せるのはもったいないだろう? サムは特別だ」
アルジェントは人差し指を唇の前に立てる。目を輝かせたサムはにっこりと笑った。
村の入り口からすぐの広場に馬車を止める。
この辺りの村は、森を抜けてくる「客」を相手に商売をしている。馬に餌と水をやり休憩させている間に、自分たちの軽食と水を仕入れにデリラ、カレン、セチアが食堂へと向かった。ほかの者は幌の中で待機をしている。帝国兵を相手にして大立ち回りを演じた一行(とは云っても主にアルジェントなのだが)。極力目立たないようにと考えてのことだった。
村で栽培している緑の葉物野菜と焼いた肉を黒いパンで挟み、甘辛いソースで味をつけたものをそれぞれが食べ終わると、口を手の甲で拭った馭者はルーシェとアルジェントに告げた。
「俺はしばらくは帝国領で商売はできねぇ。これから帝国の息のかかってない国までとんずらするつもりだ。ユーザリーまでは女子どもと……用心棒代わりにヤツは乗せていってやってもいいが」そこで親指で傭兵風の男を指す。「悪いがあんたたちはここで降りてくれ」
ユーザリーまでは街道を馬車で二日ほど。帝国領を抜ける街道へと入る分岐点となる比較的大きな宿場街だ。
「はぁ!? ちょっと待てよ。ユーザ……」
「……わかった」
ルーシェは言葉を遮り、馭者に向かって身を乗り出そうとするアルジェントを制した。
「迷惑をかけたね」
淡々と謝罪の言葉を口にするルーシェに馭者は気まずそうに視線を逸らす。
「まあ……あんたが悪いわけじゃねえけどよ」そう言って、アルジェントに恨みがましい目を向けた。「お尋ね者を乗っけるなんて、俺も運が悪いや」
その言葉にアルジェントは肩を竦める。
「アル。いっしょにいかないの?」
デリラと一緒に黙って聴いていたサムが尋ねた。
「あの……わたしたちはカイナスまでですが、せめてそこまでは……」
おずおずと意見をするデリラに馭者が首を振った。
「駄目だ。もし万が一でも帝国の奴らに見つかったら、俺たちまで巻き添えを食っちまう。なにしろ帝国は魔法使いを囲っていやがるからな。この二人の人相はとっくに帝国中にばらまかれているだろうよ」
「……ちぇっ。まあ、しょうがねえか。サム。ここでお別れだ」
アルジェントの手はいつの間にか隣に寄ってきていたサムの頭にぽんと置かれた。
「アル……」
「おおっと泣くなよ。男はすぐには泣かないのがカッコいいんだぞ」
眉毛を下げたサムは唇にぎゅっと力をいれて「……うん」と頷く。
「ウェル……本当に大丈夫なの?」
「大丈夫」
気遣うデリラにルーシェは口角をわずかに上げた。