【06】 闇を追うもの 6
獣人――。
ラキーダ帝国が大陸を支配する以前から産み出されていた、魔法の子どもたちの総称である。
胎に命が宿った胎児のときに、獣人化の魔法をかけられることによって『獣人』と成る。
目的は主に従者として使役するためだ。彼らは人間よりも強靭な肉体を持ち、敏捷性も上回る。従者として、護衛として、労働力としてのその存在を望まれていた。
しかし、力をつけたラキーダ帝国の台頭により、『獣人』は潜在的な能力を危ぶまれた。
大地の女神スフィアを一神教として奉るラキーダ帝国。表向きは、魔法そのものが魔族由来のものであるがゆえに、女神スフィアの教えに背くとして獣人の誕生を禁忌とした。そして、魔族の呪いによって産み出された忌むべき存在と喧伝していった。
『獣人は呪いの子』
長い年月によって、いつしかそれが真実とされるようになる。
胎の子を獣人化するには、相応の魔力と知識が必要だった。
現在の帝国では、水準以上の魔力と魔法の知識を持つ者たちを登録し、管理していた。
魔法を使えるか使えないかは血で決まる。
祖先に魔族由来の血が混じっていなければ、魔法の知識はあっても使えない。
強大な魔力を持つ純粋な魔族とされるものはもう、古代を謳う詩の中にしか存在を確認することはできなくなった。
魔族はいつしか人間たちと混じり合い、血も薄くなった。しかしときどき、『先祖返り』と呼ばれる強力な魔力を宿す者が現れる。彼らを帝国は管理するのだ。
水準以下の魔法を使う者たちは、在野でそれらを売りながら生活をしているものが多い。
魔族由来のものとされていても、水準以下の使い手だとしても、魔法は貴重なものであることにはかわりない。生活を豊かで便利にするためには必要なものだった。
馬車が止まった振動でルーシェは瞼を開けた。
うっすらと光っている灯石を頼りに車内を見回せば、デリラもカレンもセチアもお互いの肩にもたれるようにして眠っていた。サムはデリラの腕の中でもぞもぞと動いた。
傭兵風の男もフードの男も相変わらずで、起きているのか眠っているのかわからない。
耳を欹てると足音が近づいてきた。
幌の入り口の布が捲られる。疲れた顔をした馭者がランプをかざしてにゅっと顔を出す。
「なあ。俺も馬も限界だ。ちょっと休む」
ルーシェが見張りに立とうとすると、フードの男が先に動いた。どうやら起きていたらしい。
「俺が立つ」
ルーシェに向けて肯くと、馬車を降りて馭者の後ろについていった。
橙色の暗いゆらめきが薄い幌から透けて見える。獣避けの火が焚かれていた。
森の道のすぐ横に、木を円形に切り倒した土地があった。馬の休息用として造られた場所だ。そこに馬車は停められていた。狭い土地には小屋もなにもない。
中心には焚き火用の石が組まれている。組まれた石の真ん中には、小石を使って魔法陣が描かれていた。魔法陣の上に火種石を置くことで炎が上がる。
馭者は火の傍の石に座り、馬の手綱は後ろの大木の太い枝に繋いでいた。
フードの男は炎を挟んで馭者の正面に座り、真っ暗な森の道を見据えている。今のところは追ってくる気配はなかった。フードの中の耳も余計な音は拾わない。
夜の森は危険なことを騎士たちも、もちろん彼らも承知している。こんな雨上がりでぬかるんだ道などは特に。しかし、帝国に捕まることは、それ以上に厄介なことだった。
幌の中でルーシェは、しばらくして再び瞼を開けた。
……空気が変わった。
デリラたちはまだ気がつかずに眠っている。傭兵風の男はぶるっと身震いをすると組んでいた腕を解く。「ちっ。出たか……」と、鬱陶しそうに渋い声で呟いた。
「……あんたも気づいたか。でも期待しないでくれよ。俺は自分のことで精一杯だ」
ルーシェを横目に見ると腰の剣に手をかける。
「……だろうね」
ルーシェは立ち上がり外套を脱ぐと、デリラたちに被せて馬車を降りた。
馭者はすうっと頬を撫でる冷気に身震いをして目が覚めた。少しは眠れたようだと腕を伸ばそうとすると……。
「動くな!」
ルーシェの鋭い声が飛んだ。その声に驚き、動かしかけた腕は止まる。しかし、目が覚めたばかりの頭はまだ十分に働いてはおらず、目の前でなにが起きているのかを理解できていなかった。
ルーシェとフードの男は焚火の前で背中合わせに立っていた。
組まれた石の中では昏い橙色の炎が衰えもせずに、その舌をゆらゆらと辺りに伸ばしている。
雨雲が晴れた、空の星々の光さえも吸い込んでしまう真っ暗な森の夜。
昏い炎にうっそりと照らされて形を成したモノたちは、かつては人間であった腐りかけの異形だった。
馭者はやっと事態を理解した。
理解するや否や、たちまち額から冷たい汗が頬を伝って首まで流れ落ちる。ルーシェに動くなと言われるまでもなく、恐怖で凍りついたように指先さえも動かせなかった。かろうじて、眼球だけを動かして炎の向こう側を確認すると、暗い眼窩から垂れ下がり、零れ落ちそうな濁った眼玉と視線が合ったような気がした。衝撃と恐怖で思わず叫びそうになるが、なんとか喉を鳴らしただけでとどまった。
不死者――。
馭者の頭の中に浮かんだのは、出発前に聞いた司祭の言葉だった。
『先日、村長が訪ねてこられまして……。村人が森の中で、おかしな者たちを見たというのです。その……死体のようなものが動いていると』
この地方に伝わるのは、初夏の季節に降る雨の夜に現れる幽鬼。それは旅の途中に行き倒れた者の魂が彷徨い、人を拐うというものだった。死体が動くということではない。死体が徘徊するのであれば、それは魔物だ。
『私たちはまだ調査の途中で……。浄化の儀式を行ってはおりません。くれぐれもお気をつけて……』
気を付けろといわれても。死体のほうから出張ってこられたらどうすりゃいいんだよ……。
「こちらに注意をひきつける。あんたは……大丈夫なのか?」
フードの男は音もなく、すらりと鞘から剣を抜く。
銀色の両刃の刀身が昏く紅い炎を映すと、闇の中で鈍く光った。
「ああ」
ルーシェは短く答える。腰に下げた茶色の皮の小袋に手を入れ、銀のナイフを取り出した。