【03】 闇を追うもの 3
馬車を降りるとき、密かに自らにかけた防水魔法。ルーシェはどこも濡れてはいなかったが、渡されたタオルで適当にローブと髪を拭いた。
ルーシェの着ている焦げ茶色のローブはかなり年期が入っている。ほつれたり、向こう側が透けて見えるほどに生地が薄くなっていたり、落ちない汚れのために光沢が出てしまっている箇所もある。なにもタオルで拭く真似をしなくても、充分に雨に濡れているようにみえた。しかし用心に越したことはない。
魔法を使うことができる者はそう多くはない。使えると知られて、よけいな面倒に巻き込まれたくはなかった。
このレンガ造りの古い教会に住んでいるのは、司祭と子どもたちだった。
年かさの子どもたちは普段から教会の仕事を手伝っているのだろう。慣れた様子で、てきぱきと動いて雨の中から訪れたふいの来客の世話をしてくれた。
沸かしてくれた湯に足を浸すと、雨のなかで冷えた身体が暖まってくる。
若い母親に世話を焼かれる子どもを羨ましそうに眺めている幼い子どもたち。その子どもたちをルーシェはなんともなしに見ていた。
幼いころの記憶など、遠い遠い昔のことだった。
夕食には黒いパン、芋と少しの干し肉が入ったスープが並べられた。
一夜の宿を借りるだけでもありがたいことだったのに、と馭者がいたく感謝していた。
見るからに裕福ではなさそうな、この教会のせめてものもてなしなのだろう。
黒いパンは硬かったが味はよかった。母親は子どものためにパンをスープに浸してやり、柔らかくしてから食べさせていた。干し肉からの出汁と、塩味がほどよかった。
フードを目深に被った男は食事の間もそれを外さなかったが、司祭は咎めることもなかった。
いろいろな者が懺悔や祈りに訪れる教会で長年司祭として働いていれば、それぞれの事情に踏み込む線引きは自然と身に付くものだ。
傭兵風の男は美味そうにも不味そうにもとれる表情で、黙々とパンとスープを口に運んでいた。
子どもたちは別の部屋で食事をとっている。
身寄りのない子どもたちを引き取って育てていると、訊かれてもいないのに白髪の司祭が説明した。
夕食後に、巡礼者のための小さなひと部屋を割り振られたのは母子とルーシェ。
馭者と傭兵風の男、フードを目深に被った男は食堂の床に寝ることとなった。
夕方に霧のように弱くなった雨は、夜にはまたもとの勢いを取り戻していた。ざあざあとした重い雨音は獣の哀し気な咆哮のように聞こえている。
「今夜は窓からランプの灯りを漏らさないでくださいね」
ルーシェたちを部屋に案内した女性司祭。部屋のカーテンを確認しながらの言葉に、若い母親は身を震わせて子どもの手をぎゅっと握った。
「くれぐれも気を付けてください」と言い残すと、女性司祭は暗い廊下をもどっていった。
子どもが先に寝入るのを見届けてから、ルーシェは母親に尋ねた。
「なんで灯りを漏らしたらダメなの?」
母親は驚きを隠さずにルーシェを振り返った。
「あなた……話せたのね」
どうやら、今までにひと言も言葉を発しなかったルーシェを、口がきけない者だと思っていたらしかった。
「あなた、この地方の人じゃない?」
ルーシェは黙って肯く。
「そう……」
母親は目を伏せて、自分の腕をきゅっと抱いて話し始めた。
「この地方にはね、古くからの言い伝えがあって。春の終わり……夏の初めの雨の夜……特に今日みたいな雨音のする夜は、人が消えるって言われているのよ。昔、この季節に旅の途中で行き倒れた者の魂が、淋しいからって人を攫うって。窓から漏れる灯りをたよりに寄ってくるんですって」
母親は恐ろしそうに腕をさすった。
「へえ……」
なんの感情も含まずに返答したルーシェ。
「あなたは……怖くないの?」
興味を引かれたらしく母親は訊き返す。
「別に…。怖くないわ。たぶん天候の悪いときに、無用に外を出歩かせないために作られた話だと思うから」
まじまじとルーシェを見てから、母親はぷっとふきだした。
ルーシェは白過ぎる肌と夜の紺色の瞳を持つ。長い黒髪は見ようによっては深い紫色にも見える。ぽってりとした唇だけは、ほんのりとした赤みを帯びていた。
そんな愛らしい少女の外見からは似合わないほどのふてぶてしい雰囲気を醸し出して答えたルーシェに、母親はあっけにとられながらも可笑しさが込み上げてきたのだ。
「そうよね。わたしも小さいころから聞いている言い伝えだけど。そんなもの見たことはないの。あなたを見てたら、怖い気持ちがちょっとだけ薄れたわ」
そして自分はデリラ、息子はサム。そうルーシェに名乗った。
「わたしは『ウェル』」
「ウェル。短い旅だけどよろしくね」
デリラは屈託なく微笑んだ。