【02】 闇を追うもの 2
リヒトは生きているといったが……。
泥で汚れた男の顔には赤みがなく、蒼白い。生気というようなものがまったく感じられなかった。
ルーシェはおそるおそる男の手に触れてみた。
「ひゃっ」
触れた指を慌てて離す。
氷のように冷たい。
季節は春の初め。
草花はその季節の訪れを待っていたかのように芽吹きはじめていたが、川を流れてきた雪溶けの水は肌を刺すように冷たかった。
その水が流れる川の縁に倒れているのだ。
雪融け水の冷気が身体から体温を奪っているのかもしれなかった。
すぐにリヒトは長老と村の男たちを連れてもどってきた。
行き倒れの男は村の男たちの手によって、村内へと運ばれた。
長老が煎じた薬草水を男の口に少量ずつ含ませると、意識はないながらも喉を上下にさせて飲み込んだ。
二日を経たころに男は目を覚ました。
集落の者が順番に男を看病していたが、目を覚ましたときに傍にいたのはルーシェだった。
「ここは……?」
かすれた声でルーシェに問う。
ちょうど匙で薬草水を口元に運ぼうとしていたルーシェは、男のその瞳の色に一瞬で吸い込まれた。
村では見たこともない、時折り訪れる商人にも見たことはない、陽が沈む前の山の端に残る美しい夕焼けの色だった。
「……プリビア」
瞳の色に気を取られて、愛想もなく答える。
男は「そうか」とだけ呟いて、再び瞼を閉じた。
そのあとに唇を動かしたが、なにを言ったのかはルーシェには聞き取れなかった。
目が覚めた男の回復は早かった。次の日には起き上がると、汚れが残っていた身体を自分で拭き、髪と髭を洗った。
旅の汚れと泥と髭を落とした男は、顔色は栄養不足のように青白かったが、幼いルーシェからみても美しかった。
彫りが深い細面の輪郭。切れ長の二重の目、高く整った鼻梁。形の良い薄い唇。長い黒髪は光の加減によっては深い紫色にもみえた。
村の男たちにはない、どことなく神秘的な雰囲気を漂わせていた。
村の年ごろの娘たちはこぞって世話を焼きたがり、困惑した長老が順番を決めるほど。
幼いルーシェはただそんな光景を眺めているだけだったが、ただひとつ、不思議だと思ったことがある。
再び瞼を開けた男の瞳は美しい夕焼けの色ではなく、これから夜が訪れるというときの、深い紺色に変わっていたことだった。
男は自らをウェーリタースと名乗った。
行き着くあてがない旅をしているというウェーリタースを、長老は村に迎え入れたいと言った。彼は明らかに戸惑う様子をみせた。しかし、熱心な長老の勧誘に折れて、のちに頷いた。命を助けてもらった恩を感じて、断ることができなかったのかもしれない。
ウェーリタースは「ウェリ」と呼ばれて村の者に親しまれた。気さくな性格で誰とでも打ち解けた。
大陸中を放浪していたらしく、様々な知識を持っていた上に、魔法を使うこともできた。
魔法を使うことができるか、否かは血の要素が大きい。
残念ながらプリビアの祖には魔法を使える者はいなかった。
その血を取り入れない限りは、これからも魔法を使える者たちは、この里には生まれることはないだろう。
ウェーリタースはルーシェから見た限り、誰かれなく平等に接していた。ルーシェにも気軽に話しかけてくれた。
知識も惜しみなく分け与え、いざというとき――山道で狼や猪や熊を追い払ったり、襲われた時には傷の手当てをしたり、必要なときには魔法を使い村人たちを守った。
そんな生活が数年続いた。
そのうちに当然のように、ウェーリタースの嫁取が問題となる。
その気はないというウェーリタースに、村長は懇願した。
その血を村に混ぜてほしいと。
ウェーリタースはやはり断り切れなかった。
やがて、頬が赤くて豊よかなカーサという娘を選んだ。
村の娘たちはカーサを羨ましがり、男たちはウェーリタースがひとりを選んだことで安堵していた。
それから数年が経ち、ルーシェが十七歳になったとき、村に帝国の騎士を名乗る男が訪ねてきた。
プリビア村はイグザルト王国という小国にあるが、イグザルト王国はラキーダ帝国の属国であった。
騎士は人を探していると言った。
夕焼けの瞳をした美しい男を探していると。
△▽△▽△
「じきに日が暮れる。今日はもう駄目だ。皆、降りてくれ。教会に宿を借りることになった」
ルーシェは、はっと目を開けた。
少しうとうと眠ってしまったらしかった。
なんだか懐かしい夢を見ていたような気もする。
いつの間にか、荷台の乗降口にローブを被った馭者が立っている。そして、そう乗客たちに告げた。
若い母親は子どもを抱き上げて馬車を降りる。次に傭兵風の男。フードを目深に被った男は動きそうになかったので、ルーシェが先に降りた。
いつのまにか霧のような雨にかわっている。あれほどうるさかった雷鳴は、どこか遠くのほうでとぎれとぎれに聞こえていた。
ルーシェは気づかれないように、自分の周囲に雨を弾く膜を薄く張った。
フードの男が最後に馬車を降りた。
「皆さん、大変でしたね」
教会に入ると白い髪を短く刈った初老の司祭が出迎えた。
司祭と同じ黒い僧衣を纏った者たちが大きなタオルをルーシェたちに配った。