俺の成すべきこと
文化祭準備に戻った俺たちは、それぞれの役割を黙々とこなしていた。教室は笑い声や話し声で賑やかで、女子たちはカラフルな装飾を手に取り、壁や天井を飾り付けている。男子は机や椅子を動かし、必要な物資を運ぶ作業に忙しそうだ。
その喧騒の中、俺は宝条と穂状と軽い雑談をしながら作業を進めていたが、ふと背後から聞こえてくる小さな声に耳が引かれた。
「ねぇ、聞いた? 真吾さんって名前、最近いろんなところで噂になってるらしいよ」
「うん、聞いた。ネット掲示板でめっちゃ悪い噂流してる人なんでしょ? アイドルの情報とか暴露してるって」
「それで騒ぎ起こしてるのがいくつもあるんだって。怖いよね……」
「しかも、この辺りにも影響あるらしいよ」
俺は手を止め、その会話に意識を向けた。 「真吾」――昨夜、あの男が最後に口にした名前が聞こえた瞬間、胸の奥がざわつく。不安がじわじわと広がり、手のひらに汗が滲んでくる。
「翠星、どうかしたの?」
宝条が俺の表情の変化に気づいたのか、眉をひそめて問いかけてきた。
「いや、なんでもないよ」
俺はぎこちない苦笑いを浮かべながらそう答えたが、内心では穏やかではいられなかった。あの男と「真吾」という名前。どう繋がるのかは分からないが、これは偶然ではないだろう。
※
文化祭準備の最終確認を終えた後、俺は学校近くの小さな公園に向かった。どうしてここに来たのか、自分でもよく分からない。ただ、モヤモヤした気持ちを整理したくて、足が勝手に動いていたのかもしれない。
「いちごミルク……いちごミルク……」
自販機を眺めながら呟く。しかし、いくら探してもお目当てのいちごミルクは見当たらない。
「うげっ! ないじゃん……」
仕方なく、適当に缶コーヒーを買うことにした。金属的な音を立てながら出てきた缶を手に取り、自販機のそばにあるベンチに腰を下ろす。開けた缶から漂うほろ苦い香りを嗅ぎながら、俺はぼんやりと空を見上げた。
その時だった。視界の端に、人影が映り込んだ。
「よ、久しぶりだな、スミスミのマネージャー」
その声が耳に届いた瞬間、心臓が跳ねるように高鳴った。振り向くと、そこにはアカネの元マネージャー――真吾が立っていた。薄汚れたパーカーを羽織り、目はどこか虚ろでありながら、異様な熱を帯びている。
「お前のせいで俺はあの事件以来、事務所に解雇されたわ」
真吾は冷たい笑みを浮かべながらそう言った。その言葉に、俺の中にわずかばかりの罪悪感が芽生えた。だが、それはすぐに消し飛ぶ。思い出すのは、あいつがやった数々の悪事だ。
「当たり前だろ。あんな野蛮な行為してたらそりゃ解雇もされるだろ」
俺は言葉を投げつけるように返す。そして一歩、真吾に詰め寄った。
「それより、お前だよな? カスミさんの悪い噂流してるのは」
その問いかけに、真吾は一瞬驚いたように目を見開いた。しかし、次の瞬間には不敵な笑みを浮かべ、肩をすくめる。
「それで? だからなんなんだよ……あぁ、そうだよ、俺だよ俺。んで? どうしたいんだよ?」
その挑発的な言葉に、俺の体温が急上昇するのが分かった。缶コーヒーを持つ手が震える。だが、ここで感情を爆発させるわけにはいかない。
「二度とカスミさんのデタラメな噂を流すな。それができないなら……」
俺は声を荒げないように努めながらも、言葉を続けた。しかし、真吾はさらに笑みを深くし、俺を見下すような視線を送ってきた。
「それができないなら? どうするんだよ。お前みたいな学生が俺に何をできる?」
真吾の声には余裕があった。俺の言葉なんて全く相手にしていない、そんな態度だ。
「俺はな、もう何も失うものなんてねぇんだよ。だから、カスミが何をしていようが、徹底的に暴いてやる。……その時、お前はどうするつもりなんだろうな?」
俺の胸の奥で、言いようのない怒りが膨れ上がる。この男が何を考え、何を目的としているのか――今ここで問い詰めても、恐らくはぐらかされるだけだろう。
だが、俺は引き下がるつもりはなかった。
俺は深く息を吐き、缶コーヒーを握りしめたまま、真吾を真っ直ぐに見据えた。こいつが何を企んでいようと、ここで引き下がるわけにはいかない。
「……お前がどれだけ失うものがないって言ったところで、そんな生き方じゃ何も得られねぇよ」
俺の言葉に、真吾の顔が一瞬歪んだ。だが、すぐに乾いた笑い声を漏らす。
「ははっ……随分と説教臭いこと言うじゃねぇか。ガキのくせに、大人ぶってんじゃねぇよ」
「ガキかどうかはどうでもいい。ただ、俺はお前がやろうとしていることを止める」
俺は冷静な口調を心掛けながらも、確かな意志を持って言い切った。すると、真吾の目がギラリと光る。
「へぇ、どうやって? 俺のやることを止められるのか? だいたい、お前は”カスミ”のためにそんなに必死になってるけど、彼女はお前のことなんて特別に思ってねぇかもしれないぜ? それとも何か? ヒーロー気取りかよ?」
真吾は嘲笑を浮かべながら言葉を並べる。だが、俺は動じなかった。
「俺がカスミさんをどう思ってるか、お前には関係ない。ただ、あんたのやり方が間違ってるってだけだ」
「間違ってる? ハッ、そんなの俺の勝手だろ? それに、噂ってのは信じる奴がいるから広がるんだぜ? つまり、カスミちゃんが信じられてねぇってことなんじゃねぇの?」
真吾の言葉に、俺の拳が無意識に強く握られる。だが、ここで手を出したら負けだ。感情に流されるな。俺はもう一度深呼吸をして、冷静さを取り戻す。
「……お前がどう言おうと関係ない。だけど、カスミさんはちゃんと前に進んでる。そんなくだらない噂に負けるような人じゃない。俺は、それを知ってる」
俺の言葉に、真吾はしばらく沈黙した。そして、つまらなさそうに肩をすくめる。
「ふーん……ま、いいさ。どんなにお前が吠えようが、俺は俺のやり方で進むだけだ」
そう言い残し、真吾は踵を返す。だが、去り際に俺の方をちらりと見て、不敵な笑みを浮かべた。
「まぁ、せいぜい頑張れよ。文化祭、楽しめるといいな」
その言葉を最後に、真吾は公園を後にした。俺はその背中を見送ったまま、しばらくその場を動けなかった。
「……くそっ」
缶コーヒーを飲み干し、缶を軽く握る。悔しさが胸の中で渦巻いていた。あの男が諦めるとは思えない。きっと、また何か仕掛けてくる。
カスミさん……今、どうしてるだろう。
嫌な予感が拭えないまま、俺は携帯を取り出し、カスミさんの連絡先を見つめた。
※
その夜、俺はベッドに横になりながら、文化祭の準備のこと、そして真吾のことを考えていた。
あいつの動きをどうにかしないと……。
そう思いながらも、どう動けばいいのか分からない。俺は天井を見つめながら、深く息をついた。
すると、不意にスマホが震えた。画面を見ると、カスミさんからのメッセージだった。
『ちょっと話せますか?』
短い言葉だったが、その文面にはどこか緊張感が滲んでいる。
俺はすぐに返信を打ち込んだ。
『もちろん。どうしました?』
すると、すぐに返事が来た。
『直接会って話したい』
俺の胸の奥がざわつく。どうやら、カスミさんの方でも何か動きがあったらしい。
俺はスマホを握りしめながら、覚悟を決めた。
『分かりました。どこで会います?』
カスミさんの返事を待ちながら、俺は再び、文化祭前の静かな夜に息を潜めた――。




