第一話「拉致監禁」
(もしかして私、拉致された?)
何も見えない。目の前は真っ暗だ。背後からは風が吹きつけている。ということはつまり、今私はバイクの後ろに目隠しをされて座らされているのか。いやしかし、それにしてはお尻は痛くないし、エンジン音もしない。というよりも、風の音が強すぎて何も聞こえない。
(視覚情報だけでも手に入れられれば………………)
と思ったら、目が開いた。どうやら目隠しをされていたわけではなかったようだ。目に見えたのは、やけに赤く光る月のような衛星と、キラキラと煌く無数の星たちだった。
その光景を見て、私はそっと目を閉じた。
(うん。これ、落ちてる………………)
私、黒義院冷は、上空をパラシュート無しで自由落下していた。
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世界有数の大企業にして、今やその財力と権力で政界へさえ進出し、もはや国全体を支配していた黒義院グループ。私はそんな黒義院家の長女、黒義院冷としてこの世に生を受けた。 才色兼備で幼いころから芸術、音楽、武芸すべての分野で華々しい業績を残す黒義院冷、そんな私の朝は早かった。
朝起きて初めにすることは、軽いストレッチだ。朝のストレッチで確実に目を覚ます。もちろんこの大きなベッドから出ることはまだしない。ストレッチを五分ほど行った後、私は二回、上品に手を叩いた。
すると、完全防音で外に音が漏れるはずなどないにもかかわらず、ノックの後に男が私の部屋へと入ってくる。彼は私の執事だ。代々黒義院家に仕えているらしい。そんな彼の名は、確か名字が速水だったような…下の名前は憶えていない。私はいつも彼のことを【セバス】と呼んでいるし、彼もその名前を気に入ってくれている。執事には余計な自我は必要ない、主人の気持ちを汲み取って迅速に行動する、それが執事に必要なスキルだ。その点でセバスは私にとって最高の執事だった。
「冷お嬢様。本日の朝食は和食でございます」
「さすがセバスね。ちょうど今日は和食を食べたいと、ストレッチをしながら考えていたところよ」
軽く最後の伸びをしながら私は言った。
「それでは、本日の予定を読み上げさせていただきます。まず、朝食の後は愛犬のトンキー様と庭園のお散歩。その後、学校までこのセバスがお送りいたします。学校が終わった後、いつもの待ち合わせ場所でお迎えに上がります。その後は――」
淡々といつも通り、セバスが今日のスケジュールを読み上げていく。私はそれを聞きながら、今日の朝食を味わっていた。
「以上が、本日のスケジュールになります」
「よーし。今日も頑張るわよ」
朝食を手早く済ませ、勢いよくベッドから降りようとしたその時、セバスが私を止めた。
「お待ちくださいお嬢様。わたくしとしたことが、本日一番重要なことを伝え忘れておりました」
「ん? 何かあったかしら?」
私は首を傾け、わざとらしく聞き返す。
「お誕生日おめでとうございます。お嬢様。例年通り、お父様からお祝いの品を預かっております」
そういうとセバスは私に真っ白い手のひらサイズの箱を渡した。中を開けてみると、銀色のチェーンの先に、少し青みがかった真紅色の宝石がついたネックレスが入っていた。
「これは………レッドダイヤかしら」
「恐れ入りますお嬢様。私は宝石には疎く………しかし、今回も特注品だと伺っております。お父様曰く今回の品は去年よりも特別なものだとか」
「……いつもそれね。お父様が忙しいのはわかるけど、たまには宝石ではなく私に会いに来たらどうなのかしら」
そう言いながら、私はネックレスを首にはめた。ネックレスについたレッドダイヤモンドのような宝石は、光が反射しているのではなく、本当にその宝石の中から輝きがあふれているようだった。確かに去年よりも特別な品だということがわかる。
「これだけ?」
「はい。お祝いの品は以上です」
「そう………」
私は無表情のままネックレスを付けたことを確認すると、プレゼントの入っていた箱をセバスへと投げ渡し部屋を後にする。
階段を下り、屋敷の広い玄関で待機する愛犬のもとへと向かうと、舌を出しながらメイドにリードを付けられたラブラドールレトリバーのトンキーの姿が見えた。
彼は私の顔を見つけると、興奮した状態でメイドを引きずりながらこちらにやってくる。
「それじゃあ、行きましょう」
私の肩にのしかかるようにして体重をかける彼の頭を撫でると、私は一日をスタートさせた。
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「はあ。今日もつかれた」
深いため息をついた私は、あっという間に終わった一日を振り返りつつ、この世界で『最上級』のベッドに包み込まれた。
「っていうか、この部屋、やっぱり広すぎない?」
思わずそんな感想がこぼれる。
枕に首をのせつつ、ベッド以外は何もない、広大な部屋を眺めた。大理石の上に敷かれた絨毯の上に、私の体にはどう見ても大きすぎる天蓋付きのベッド、そしてその上に寝そべる小さなわたし。
生まれた時から私は、この世界の『支配者』になるべき存在として周りから扱われてきた。そのことに不満はないし、私には周りの期待に応えるだけの力があった。
欲しいものは何でも揃えてもらえたし、満たされているはずなのに。外の嵐の音さえも遮る、この静寂が包み込む部屋の中で、いつも寝る前に感じるこの満たされない気持ちはなんだ。私に足りないものがあるというのか。
「お父様の跡を継げば、この気持ちも晴れるのかな」
いっそのこと世界征服でもしてしまえば、この満たされることのない、胸に空いた穴が埋まるだろうか………
今日もいつも通り、絶対にありえないであろう空想に思いを馳せながら、私は眠りにつこうとしていた。
『待ってるね。私の英雄さん。世界の頂上で――』
突然、目をつむっていると頭の中に声が響いた。なんとも甘美で今まで聞いたことのない声だ。
(この部屋は防音のはず………ということは今のは幻聴? 最近疲れてるな、私。今度セバスにスケジュールをもっと緩くするように言わないと)
と思った次の瞬間、目を閉じていても感じるほどの光量で、首につけていたネックレスの宝石が強く輝きだした。
「えっ、ちょっとなに? まぶしすぎる」
すかさずネックレスを遠くに投げようとつかんだ瞬間、私の体全体がその光に包まれて………
気が付くと私は寝間着の状態で、空中へと投げ出されていた。
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そして現在に至る。
どんなに頭をフル回転させて、遠い過去の記憶から直近の記憶まで探ってみても、パラシュート無しの自由落下という状況を打開できる策は浮かんでこなかった。
「ああ、きっとこれは夢だ。うん。夢。たまに見る起きる直前まで落ち続けるあの夢の延長版ね。きっと…」
何とか今の状況を夢だと思おうとしてみるが、全身が感じる猛烈な下からの風が否応なしに現実へと引き戻してくる。
「へっへへへ、あははは………」
思い返せば寂しい人生だった。黒義院家の長女として生まれ、特権階級の力を余すことなく利用できる私の周りに群がるのは、いつも私ではなく黒義院家の力欲しさに集まってくる者ばかりだった。真に友達といえる人はいなかったし、いつも話相手はセバスか愛犬のトンキーだった。それでも地位と名誉と財産さえあればいいと思ってた。でも…………
(なんか虚しいな、私の人生これで終わるのか…………)
地面が近づいてくるその恐怖にとうとう耐え切れなくなった私は目をつむることにした。注射する時も針が刺さるその瞬間を見なければ痛くないっていうし、きっとこれもいたくないはず。
しかし、目をつむったとしても私の有能すぎる脳はその想像力を止めない。脳が予想する自らの悲惨な結末に耐え切れずに、私はとうとう涙をこぼしてしまった。
はしたないからという理由で表には出してなかったけど、もっとチヤホヤされたかった、もっと褒めてほしかった。お父様とももっと一緒に遊びたかった。『黒義院の人間なのだからできて当たり前』のように扱われるのは嫌だった。そして、同年代の子とも仲良くなりたかった…………
「ありがとう。愛犬のトンキー」
人生で一番、私を損得勘定なしに癒してくれた愛犬トンキーに感謝の気持ちを伝え、私の体は、地面へと強烈なタッチダウンを決めた。
「いてっ」
「おい。大丈夫か」
目を開けるとそこには鈍く紺青色に光る糸で作られた大きなネットのようなものが、私を地面すれすれのところで包み込んでくれていた。
「空から少女が降ってくるのは初めてだ。けがはないか」
「へ?あなたは誰?ここはどこ?」
言語化能力に支障をきたしていた私の脳が反射的に脳内の思考を口に漏れ出させる。そのことに気が付いた私は、すぐさま自分が黒義院家の人間であることを思い出した。
「いっいえ、失礼しました。助けてくれてありがとうございます」
私は威厳をこめた声で、精一杯、感謝の気持ちを伝える。
「いや、気にするな」
どうやら私を助けてくれたのは目の前にいる男らしい。見た目は、白髪に鋭い目をしているが、その青い瞳の中にはかすかな優しさと疲労を感じる。黒い革のレインコートのようなものに身を包み剣呑な雰囲気を漂わせている。40代くらいだろうか。
(まあ、お父様に比べればそんなに怖くはないわね)
「で、もう降ろしてもいいか?」
男がそう言うと、やっと私は自分がネットに包み込まれていたのではなく、絡めとられていたことに気が付いた。
「あ、お願します」
男にネットから解放してもらうと、私はすぐに自分の現状を把握すべく周囲の観察を始めた。
この男以外に周りに人は見えない。といっても夜のせいか周りが薄暗くてよく見えない。ただ、ここがどこか森の中であるということは草木の揺れる音で把握することができた。
周囲の観察が終わると、早速目の前の男を観察する。足には頑丈そうなブーツを履き、体は黒いレインコートのようなもののせいでその全容が見えない。腰には何やら小さなナイフを携えている。そして何より特徴的なのは、この男のすぐ肩の上あたりに浮いている物体だ。一体こいつはなんだ……先ほどのネットはこいつが作り出していた、というよりもこいつ自身だったようだが………
その物体は見たことのない形状をしており、遠目から見れば球状に見えるかもしれないが、よく見てみると中心に光る眼のようなものがあり、そこから三角形が規則的に突き出ているようにも見える。その規則性から人工物であることは推測できるが、それ以上は何もわからない。
「すいません。質問をしてもいいですか」
私は命の恩人に失礼のないよう、丁寧に、それでいてしっかりと伝わる声量で言った。
「質問したいのはこちらも同じだ。お前は【転拡者】だろ。【虚機友導】は一緒にいないようだが、ドラゴンの背中にでも乗って飛ばされたのか?まあ、それこそあり得ない話だが……」
男は周りをきょろきょろと見まわしながら言った。
転拡者?虚機友導?急に出てきた知らない単語に私は一瞬困惑する。しかし、男にあって私にないものから推測するならば、男の近くを漂っているあの物体が虚機友導だと推測できる。しかし、ドラゴンとは一体何のことなのか。
ここは正直に、私がここがどこで、どうして空から降ることになってしまったのかわからないことを伝えるべきか悩む。相手は自分より年上の男、しかし私を救ってくれた命の恩人であることは事実。
(嘘をつくのは後々面倒なことになるか……)
「えーっと、実は………」
私が本当のことを伝えようとしたその瞬間。森の中からギラギラと光る巨大な瞳が急速に接近してきた。
「ひっ」
あまりの恐ろしさに、今まで出したことのない黒義院の人間としてあるまじき、情けない声が口から漏れた。
「クソっ、やはり気づかれたか。少女は俺の後ろに下がっていろ」
男はまるで想定していたかのように、驚くことなく静かに響く声で、私に命令をした。それを聞いた私はすぐに男の後ろに隠れた。
「黎煌」
男がそう言い放つと、浮遊していた物体から青黒い光の線が一瞬瞳の方向に向かっていったように見えた。
しかし、それでも巨大な目は急速に近づいてくる。あまりの恐怖に耐え切れなくなった私は、男の後ろでコートをギュッと握りながら目をつむった。
そして………
「爆ぜろ」
男が低い声でそう言い放った次の瞬間、瞳が近づいてきていた方向で爆音が響き、強烈な爆風が私のもとに届いた。