注文の少ない料理店
その料理店は、草木が生い茂る場所にぽつんと立っていた。心地よい風が吹く、よく晴れた日のことだった。鳥のさえずりが、よく聞こえる。
私は何かに導かれるように、そこへ踏み入った。
建物の全体はツタに覆われ、屋根は緑で覆われている部分が多いくらいだ。煙突部分は全部がそうだった。ツタとツタの隙間から覗く色が、この建物の屋根が淡い朱色であることを辛うじて伝えていた。
そこそこ昔に建てられたような、古めかしい洋風の建物だった。
そこへ踏み入れた時、ここだけ世間から忘れられたような、時間が止まったかのような錯覚に陥ったのを覚えている。
レストランと思ったのは、玄関前に置かれた小さいブラックボードに、白いチョークでこう書かれてあったからだ。
『本日のメニュー ビーフシチュー』
石畳の階段を数段上り、真鍮製のライオンのドアノッカーで、扉で叩いた。
「すみません」
10秒待ったが、返事はない。
もう一度ドアノッカーで叩くが、扉のカラフルなステンドグラスからは人影も映らないどころか、物音すらしない。
やはり一般の人には公開されていないレストランなのだろうか。そもそもレストランじゃなく、ここはただの個人の邸宅なのかもしれない。ホームパーティーに向けた人の伝言だったのかな?
踵を返して数歩歩いた時だった。がちゃりと音がして、扉が開く音が聞こえた。
「大変お待たせしました。一名様のみのご来店でよろしいでしょうか?」
品のいい男性の声がして、すぐさま後ろを振り返る。
かっちりとした燕尾服を着た、貴族お抱えの執事かと思うくらいの、初老の男性だった。白髪混じりの髪は丁寧にまとめられていた。シンプルな眼鏡が似合っている。
「あ、はい。そうです」
戸惑いつつも、すぐに返事をした。
「かしこまりました。では、お入りくださいませ」
中へ入るように合図をされたので、そのまま入る。
静かに扉が閉まる音を聞きながら、私は目に入った室内に目を凝らした。
決して広くはないものの、そこはレストランと呼べる空間だった。丸いテーブルと2つの椅子がセットで点在しており、そのテーブルの上には白いレース状のクロスが。その上には、みずみずしい真紅の薔薇が活けられた銀色の花瓶がある。老舗の高級レストランにありそうな風景だ。
店内の雰囲気に見蕩れながら、その老紳士について行く。
「どうぞ、こちらにおかけください」
老紳士に椅子を引かれた場所は、出窓の付近の席だった。
赤いクッションの椅子に、ゆっくりと腰を下ろす。
「これからお水をお持ち致します。本日のメニューはビーフシチューです。完成に20分ほどお時間を頂きますが、よろしいでしょうか?」
「はい、大丈夫です」
私は笑って答える。
老紳士は、かしこまりましたと会釈をすると、厨房らしき方へ消えていった
20分か。
当てもなく適当にそこら辺をほっつき歩いていただけなので、何も急いでもいない。急ぐことなど、何もない。予定が入っているわけもないし、入れるつもりも一切なかった。
だから、20分という待ち時間はなんてことは無く、大変ちょうど良いと思った。
数分もしないうちに、老紳士がグラスと氷水の入ったピッチャーを運んできた。
ピッチャーには植物の繊細なデザインが施されていた。運ばれてきたトレイだって、よく見るステンレスのような鈍い銀とは違って、どことなくまばゆい。ここはもしかして、料理長の紹介制だったりする隠れ家的なレストランだったりして。この執事は何も疑わず、私をその常連客だと思って招いたのかもしれない。
かといって今更ここで出ていくのも億劫だし、単に自分の勘違いという可能性もあるので、何も言わずに、コップに氷水が注がれていくのを見ていた。
老紳士が会釈をしてまた裏へ戻ると、店内は再び静寂に包まれた。レストランにありがちな音楽もかかっていないので、無音の世界だ。
厨房の扉は密閉性が高いのか、単に固く閉められているだけなのか、何かを作っているような音も聞こえない。何なら人の話し声も、聞こえなかった。
もしかしたら、あのお爺さん一人で、接客も調理もしているのだろうか?さすがに、そんなわけないか。
外観含め、少々年季の入ったレストランだが、テーブルクロスや花瓶、絨毯やシャンデリアも、新品を新調したというよりかは、長年使い込んでは日々きちんと手入れされているものに感じた。
陽光が射し込む、傍らの出窓を見る。
最初は気にも留めなかったが、出窓のスペースには小さな植物のほか、木馬や陶器製の人形、ガラス細工などが置いてあった。
こういうのも、わざわざ外国から輸入していたりするのだろうか。あまり外国の文化や歴史に造詣がないから、この木馬がどこの国で作られたものなのか、まったく見当がつかない。隣の陶器の人形は、フランス人形だったりするのだろうか。ガラス細工は青々とした魚のほか、カブトムシなどの昆虫、カエルの親子、りんごやバナナといった果物まであった。モチーフはてんでバラバラだが、ガラスでここまで繊細なものが作れるのかとまじまじと見入ってしまうくらいには、写実的で細かい。グラデーションの部分はどうやって色付けしているのだろう? 手に取ってじっくり見たかったが、予期せず壊してしまいそうなので、やめておく。
静物から目を離し、窓の外を眺める。
そこそこバラが咲いている。時期的に満開という訳ではないのだろうが、控えめに咲いているのが逆によかった。
ピンクだったり、白だったり、黄色だったりと色はさまざまで、薔薇以外の花も少しあ 見えた気がした。ここの出窓を切り取って絵画にしたのならば、それはどんなに美しい名画になることだろう。
私は、陶酔していた。
出窓の置物も、外の薔薇も、今私がいるこの店内も、すべてが明るく色鮮やかで、ファンタジーな夢を見ている気分になった。
この一瞬をカメラで収めたいとも思ったが、カメラではこの空間を完璧に収めることなど出来ないだろうと悟った。
「お待たせしました」
20分はあっという間だった。
例のトレイによって運ばれてきたそれは、見る者全ての食欲をそそる、完璧なビーフシチューのセットだった。シチューの入ったお皿からは熱々とした湯気が立ち、小皿にはレタスとポテトサラダ、もう一つの小皿にはバターとフランスパンが数切れ入っていた。
丁寧な所作で、老紳士はテーブルにスプーンや紙ナプキンを置いた。手元に置かれた銀食器は、彼が動かす度に差し込む光に照らされ、きらりと光る。
「では、ごゆっくりとお召し上がりくださいませ」
老紳士は再び裏へ去って行った。
私は目の前のビーフシチューの芳醇な匂いに圧倒され、少し感動していた。
なんだ、この香り……。
すぐさま手が、勝手に動く。最初の一口目をスプーンで掬って、少しふうふうと息を吹きかけてから、口に運ぶ。
バターと赤ワインの風味が、舌から鼻腔、脳内へふわりと広がった。牛肉は柔らかく、ほろりと舌の上でソースと共に絡み合って溶けた。
じゃがいもや人参は味がきちんと染みていて、それでもそれぞれの野菜が持つうまみが、噛む度に甘さとして伝わった。
美味しい。
私は、こんなにも美味しいビーフシチューを食べたことがない。
美味しい。
ビーフシチューというものは、そんなにも美味な食べ物だったのか。
心の底から、料理でこんなに感動したことがあっただろうか。
その時、初めて生きていてよかったと思ってしまった。
夢中でビーフシチューを頬張った。
フランスパンをちぎってシチューに浸し、ポテトサラダもがつがつと頬張った。
気づけば涙が目の縁に溜まっていたので、自分でも驚いた。
ああ…美味しい。
無言でひたすら食べ続けていた私は、ゆっくり味わうことも考えず、10分足らずで平らげた。
余韻に浸っていると、老紳士がスイーツを運んできた。
「こちらは本日のスイーツ、プリン・ア・ラ・モードでございます」
長いスプーンとつやつやのプリンと鮮やかなフルーツが積まれたグラスが置かれていくのを見て、スイーツまでついているなんてと高揚した。
「すごく美味しそうです」
胸が高まり、頬が緩む。
「いい茶葉を仕入れましたので、お紅茶も好きなだけお飲みください」
紳士はティーカップとシュガーポットを並べながら、にこやかに言った。
傾けられたティーポットから、いい香りのする赤茶色の液体が注がれていく。
食べたビーフシチューの皿たちは、手際よく片付けられていた。
ティーカップを持ち上げると、いい香りはさらに濃くなり、私の鼻を刺激した。ひと口飲むと、その香りは口全体に広がった。何のフレーバーかは分からないが、とてもいい茶葉というのはすぐに分かった。
細長いスプーンを手に取り、プリンを掬って口に入れると、カラメルと卵の生地はわた菓子のように、ふわりと絡まって溶けた。
甘い、美味しい!
カラメルのほろ苦さがまた何とも言えない絶妙さで、生地の卵はなんと濃厚なのだろう、今まで食べてきたプリンとは桁違いだった。こんな美味しいスイーツを、私は知らない。
……
…
完食し、しばらくぼうっと惚けていたが、お会計はいくらだろうとふと疑問に思った。テーブルの上を見るが、伝票らしきものは置いていない。
この穏やかな気分のまま、しばらくここで余韻に浸っていたい気持ちだが、あまり長居をしすぎるのも良くない。
私は席を立った。
店内を、少し歩きながら見渡す。
老紳士が出入りしていた場所に、厨房へと続くであろう銀の扉を見つけたが、そこは固く閉ざされていた。密閉性の高そうな、思い切って扉である。
外観の構造的に二階建てなはずであることを思い出し、階段らしきものはどこにあるのかと見渡した。すると、私が先程まで座っていたテーブルよりも向こう側に、階段らしきものが見えた。近づいてみると、それは確かに二階へ続く階段だった。上もここと似たような空間が広がっているような感じだった。上ってみたい好奇心もあったが、客が勝手に移動しては、あの人を困らせるだろうと自分の理性が押しとどめた。
結局、私は元いた席に戻り、あの老紳士が伝票を置きに来るのを待つことにした。
しかし。
待っても、待っても、あの老紳士は一向に姿を現さない。
しびれを切らした私は、あの重厚そうなシルバーの扉をノックした。耳を扉の前でそばだてても、小さな物音すら聞こえてこない。レバーを握って押したり引いたりしてみたものの、びくともしない。鍵が掛かっているようだった。
もしや、私がいることを忘れているのだろうか。すみません、 と店内を歩き回りながら声をかけたが、出てこない。返事もない。
二階へと上がってみたものの、そこは下と同じテーブルと椅子が点在するだけで、他へ通じる部屋もない。いよいよ私は当惑した。
しかしひとつだけ探していない場所があると思いつき、玄関の方へ向かった。それは外のことであった。
扉を開けると、まばゆい陽光が私の顔覆った。目を細めながら、周りを見渡す。
老紳士は庭先の花に水やりをしていた。
私はどこか安堵した。私の視線に気づいたのか、老紳士が振り返った。
「お客様、気づかず申し訳ございません。もうお出かけですか?」
「ええ。ふと用事があるのを思い出したのです……」
「それは仕方がありませんね。ではお見送りしましょう」
「あの、お会計は?」
「うちはお代はいただかないレストランなのです。一日一名様限りの……お客様がそうでございます」
私は目を見開いて、老紳士の顔を見る。そんなレストランが存在していいの?という訴えで。
「ここは私の趣味のような場所なのです……そのため、お金はいただけないのです」
私の心情を読み取ってか、老紳士は少し恥ずかしそうに微笑した。
「ですがこんなにも美味しいものをいただいたのに……」
私はポケットの財布から、折りたたまれた少し破れかかっているお札を取り出した。五千円札だ。
「そのお気持ちだけで、私は大変嬉しゅうございます。そのお金は、お客様が日々の生活を素敵に営むためだけにお使いくださいませ」
にっこりとした笑顔で、私に頭を下げる。
私はこの老紳士の存在を通り抜け、レストランの存在自体がよく分からなくなった。夢でも見ているのかと思うほどに。そして彼の言葉は、究極の安らぎに近い感覚を私に与えた。
「分かりました……本当に美味しかったです。あんなに美味しいビーフシチューは生まれて初めてでした。プリンも紅茶も含めてです。ご馳走様でした」
そう笑顔で伝え、私は頭を深深と下げた。老紳士は身に余るお言葉ですと、最後まで謙虚で丁寧であった。
見送りは結構ですと断りを入れて(恐らく絶対にしてくる方だろうと思っての事だった)、私はレストランを後にした。
老紳士は、もう一度丁寧に頭を下げると、レストランの中へと戻り、静かに扉を閉めた。
私はそれを満足そうに、見ていた。
穏やかな風が頬に当たる、気持ちのいい午後であった。
周りに草木しかない木漏れ日の小道を歩いて、たびたびあの建物を振り返りながら、考える。
白昼夢でも見ているのかと思うくらい、ここに非現実的めいたものを感じていた。
どこかのおとぎ話のように、あの料理店が見えなくなった頃には、消えてなくなってしまうのではなか。幻だったのではないか。桃源郷伝説の場所ではなかったのかと。
そんな風に思えて仕方がなかった。
小道を抜けた頃には、料理店は見えなくなっていた。
そもそも看板もないのに、どうして私はこんな場所へ踏み入ったか、よく分からない。
明日またここに来て、あのお店の常連になろう。
明日が厳しいなら明後日、明明後日にでも。
今度はお金を払って、ちゃんと食べるんだ。
いつから経営しているのか?他に従業員はいるのか?あなたのお名前は?
今思えば、聞けばよかったことがたくさんある。
なんで私はそうしなかったのだろうと、もう見えないお店を振り返り、悔しく思った。
後日。
あの店に行こう。
朝から、まるで義務のようにずっとそう考えていた。
開店時間が分からないので、昨日と同じようなお昼に行くのがちょうどいい。
身支度をして、昨日ぶらついていた周辺の場所へたどり着く。
すると、生い茂る木の中に、ぽつんとあの小道があった。
良かった、夢じゃない。
小道を歩き始めるが自然と早歩きになり、気づけば走っていた。
息が上がる。
しかし。
小道が終わった場所の先には何も無かった。
本当に何も無い。
周りの木々は静かに佇んでいた。
道を間違えたか?
でも確かにここだった。
なるほど、やはりあそこは普通の料理店ではなかったか。
私は何も驚かなかった。
むしろそれが当然と考えた方が、腑に落ちる。
踵を返して、元来た小道を歩く。
今日もいい天気だった。
そよ風が身体を通り過ぎ、あの店があった場所へと吹き上げていた。
次はいつあの店に出会えるだろう。
私にもう少し生きてみようと、希望をくれたあの店は、あの時だったからこそ目の前に現れてくれたのか。
「ありがとう。とても美味しかった」
歩きながら振り返らずに、私はそう伝えた。
ただあのビーフシチューにはもう出会えないのだろうかと思うと、それは虚しく、寂しく感じるのであった。
こんな料理店があればいいなと思って書きました。
私も行ってみたいものです。