番外編 公爵一家、街へ行く
冬が終わり、暖かな陽が降り注ぐある午後。エルベの街の人々はソワソワしていた。
今日、やっと前年に生まれたご領主様のお子様がこの街へやってくるのだ。
寒くなる前にお生まれになったので暖かくなる今日この日まで外に出されず、お屋敷の奥深くで大切に育てられていた。
寒さが和らいできた頃、風の穏やかな暖かな晴天の日を選んでおいでになるという話が何処からともなく囁かれ、あっという間に街中に拡がった。
そして今日、朝から街の出入り口の誰何が厳しく、角々に配置されている警備もなんだかものものしい。
これは今日来られるぞ、とピンときた人から人へ伝わり街中が浮足立っているのだった。
「お忍びってなんだろうね」
歓迎の垂れ幕こそないものの、全体的にお祝いムードが漂う広場で、学校帰りのフリッツが呟いた。
「奥様達は、お忍びのつもりじゃないだろ?」
いきなりやってきたフリッツに無理矢理ここまで引きずってこられて、仕方なく付き合っているカールが適当に返す。
「でも、昨日の夜『明日こっそり行って皆を驚かせるの』って奥様が張り切ってたけど。ソレってお忍びじゃないの?」
「・・・ああ。それは、お忍びというよりびっくりさせたかっただけでは? まあ、どっちにせよこんなに警戒したんじゃバレバレだけどな」
「先週から旦那様が騎士の人達と地図広げてなんか警護計画練ってた」
「相変わらずだねえ。今日、旦那様は?」
「昨日からお休みもぎとってたよ」
「あの人、奥様のためなら何でもするね」
「テオドール様のためにもしてるよ?」
「そりゃ、大事な奥様が産んでくれた子供だもんな。しかも」
奥様にそっくりだし、とうっかり口を滑らせそうになって慌てたカールが口を押さえ、周囲を窺う。
危ない危ない。まだ男児という以外、髪や目の色もどちらに似ているかも伏せられているんだよな。
奥様はその辺も含めて驚かせたいのだろうから、ここで俺が漏らしたら後で旦那様にどんな酷い目に遭わされることか。
「カールさん、危なかったね。まあ、もうすぐ解禁だけどね」
カールが何を言いたかったか察したフリッツがニヤリと笑う。その時、わあっと歓声が上がった。
広場の端に停まった馬車から、赤子を抱いた領主と奥方が降りてきたのだ。
珍しく灰色の髪を結い上げず緩く一つに編んだだけの奥様は、知らせていないのに広場に集まっている街の人々に目を丸くしている。
「かわいい!」「赤ちゃんだっ」
「おやまあ、これはまた奥方様によく似ていなさる。美人さんになるねえ」
「ヤダ、おばあちゃん。男の子だから、そりゃあ凛々しい貴公子になられるんだよ」
「立派な後継ぎができて、この街も安泰だな」
「次はご領主様似のお嬢様がいいね」
皆口々に感嘆し褒めそやし勝手な希望を話す。人垣の向こうに見える奥様は掛けられる言葉一つ一つに笑顔で礼を言い、照れて旦那様と顔を見合わせて赤くなっている。
「穏やかな幸せってああいうのを言うんだろうな」
「本当は穏やかじゃないけどね。昨日も奥様は廊下を全力で走ってヘンリックさんに怒られてた。あの人もいつものことなんだから怒るの諦めたらいいのに」
「・・・奥様はあの長い廊下を、そんなにしょっちゅう全力疾走してんの?」
「うん。テオドール様がかわいい動きをしたとかおすわりしたとか玩具で遊んだとかで。それで、奥様の足音がしたら旦那様が部屋の外に出て両手広げて待ってんの」
そこに奥様が飛び込む、と。あの公爵夫妻らしいやり取りにカールは苦笑した。
「そういうのひっくるめて穏やかな光景っていうんだよ」
■■
乳母車の中で、息子のテオドールが目をキラキラさせて周りを眺めている。
「テオ、ここがエルベの街の広場よ。私の大好きな場所なの」
そう言って嬉しそうにあの赤い壁の家は本屋、その隣の青い壁の家は粉屋で・・・と生後半年の赤子に一生懸命案内している妻のエミーリアがたまらなく可愛い。
ぐーっ・・・
突然、エミーリアのお腹から小さな音がして彼女の顔が赤くなる。
そういえばエミーリアは息子の初めてのお出掛けに緊張してしまい、朝も昼もほとんど食べていなかった。そんな様子にとても心配したけれど、元気が出てきたようでホッとした。
「なんだか僕もお腹が空いてきた。久しぶりの街だし、エミィ、何か食べようよ」
「いいわね! 私もお腹が空いてきたみたい」
「あー」
初めての馬車や何故か広場で待ち構えていた街の人々の怒涛の挨拶を全く怖がらなかったテオが、母親の楽しそうな雰囲気を察したのか手を伸ばして抱っこをせがんだ。
「君は、随分重くなったから母上に抱っこさせたくないんだけどね。エミィ、そこに座って」
側のベンチに彼女を座らせ、そのひざに息子を乗せる。僕が抱っこしてもいいのだけど、こういう時は十中八九、泣く。
そりゃあ、僕よりエミーリアに抱っこされる方がいいよね。柔らかくって温かくっていい匂いがして。だけど彼女は僕の妻なんだからね! 独占しないでよね!
「あっ、奥方様が若君様を抱っこしてる!」
「絵になるわぁ、素敵!」
「あら、さっきのご領主様とのペアも捨てがたいわ」
「やはりここは、御三方セットが」
「いいえ、その場合もどちらが若君様を抱っこするかが問題なのよ!」
聞こえてきた会話にエミーリアが首を傾げ、僕は苦笑いをした。
彼女達は『公爵夫妻を愛でる会』とかいう団体に属しているのだろう。最近、派閥がいくつかできて時折揉めているらしい。どの派閥に属しているかは髪につけている物の色でわかるようになっていると聞く。そっと見遣ればそれぞれ、銀色、薄い青、両方と綺麗に分かれていた。これに次から息子が加わるのだろうが、どうやって色分けするのか興味深い。
楽しそうに言い合う会員達はそのままにして、そろそろ満足したかなと妻のひざから息子を抱き上げた。
「エミィ、お店を覗きに行こう。テオはご機嫌だからこのまま僕が抱いていくよ」
久しぶりの街だから、僕が買ってくるより自分で歩きたいだろうと空いている方の手を差し出せば、顔を輝かせたエミーリアがぴょんと立ち上がって手を重ねてきた。
「私、さっきから気になっているお店があるの!」
そのままぐいぐいと手を引っ張られて、僕は首が座って興味津々で周囲を眺める息子を抱いたままついていく。
「あら、フリッツとカールも来ていたのね。何を食べているの?」
途中でエミーリアが二人を見つけて立ち止まる。男二人でもぐもぐ口を動かして、カールは昼間っからビールまで飲んでいる。エミーリアはそれにも興味を持って近寄っていくから慌てて抱き寄せた。
「エミィ、それはお酒だから近寄っちゃ駄目だよ。カールはこんな時間から何してるの」
「いやあ、つい勧められるままにですね・・・」
「テオドール様が初めて街に来てくれたお祝いだよ!」
側で串にかぶりついていたフリッツが得意気に言って周囲をくるりと手で指し示す。つられて首を巡らせば確かになんだか皆お祭りムードだ。『テオドール様にかんぱーい』だの『エルベバンザイ』だのと随分浮かれている。
「よかったわね、皆が喜んでくれて」
エミーリアが僕の腕の中の息子の頬をつついて笑う。
なんて優しさに満ちた柔らかな笑顔だろう。
うっかり見惚れていたら街の人達に取り囲まれた。
「ご領主様、これ美味しいですよ!」
「奥方様はこちらがお好みじゃないかと」
「こっちも試してみてください!」
周りから次々差し出される料理やお菓子の数々に、エミーリアの目が輝く。
「嬉しい、遠慮なく頂くわね! ・・・とっても美味しい! これは今までの物より味が優しくなってるのね。あ、こちらは果物が増えている気がするわ」
感想を述べながらぱくぱく食べている彼女に、僕に抱っこされている息子が手を伸ばす。最近離乳食を始めたから自分も食べたくなったのかもしれない。
「テオはもう少し大きくなってからだね」
目をキラキラさせている息子の表情が妻にそっくりでたまらなく可愛い。思わず引き寄せて頬ずりするとぎゅっと前髪を掴まれた。
本当に君は僕の髪を引っ張るのが好きだな・・・。
「リーン。はい、あーん」
突然エミーリアに声を掛けられて、反射的に口を開けた。すかさずぽいっと放り込まれたものを味わう。程よくハーブと塩気のきいた揚げ物。
美味しい。何よりエミーリアが僕の口に差し入れてくれたという事実がとんでもない効果を発揮して、天上の味わいになっている。この世にこれ以上、美味しいものはない。
「エミィ、もう少し食べさせて?」
甘えて口を開ければ、僕が息子を抱っこしているからか何の気負いもなく食べさせてくれた。
出来ることならこのまま永遠に食べさせてもらいたい。幸せに浸っていたら、息子にぺちぺちと頬を叩かれた。
「君が大きくなったら三人で食べようね」
僕と同じ色の瞳を見つめてささやけば、彼はこくりと頷いたように首を動かして、ことんと寝てしまった。
よし、乳母車に寝かせて後はエミィと二人で久しぶりのデートだ!・・・と思ったのだが。
うぎゃーっ
なんで離しただけで起きて泣いちゃうの?!
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
この番外編をテオが歩いたり喋ったりするまで続けるか、そろそろ終わりにすべきか・・・。