番外編 公爵夫人のお出かけ 前編
「これでついに邸内全部を歩いたことになるわね。」
私は頷きつつ目の前の繁みを覗き込んだ。
体調が随分良くなったので毎日散歩をしているものの、その範囲は公爵邸内に限定されていた。
せっかくだからとリーンとも今までに行ったことがない所を歩いていたら、邸内の庭のほとんど行き尽くすことになってしまった。
「もう。全部歩いたから今度は塀の外に行きたいってリーンに言わなくちゃ。貴方も外に行きたいわよねえ。」
膨らみ始めたお腹を撫でて、赤ちゃんに同意を求めながら、私はなんの気無しに繁みを掻き分けた。
ここは庭園と森の境で塀に沿って低木が植えられて繁っている。普段はあまり人が来ない場所の1つだ。
特に何かがあると思って見たわけではなかったのに、その何かが私の目の前に現れていた。
「あらあらあら?こんな所に扉があるなんてリーンも誰も言ってなかったわよね?」
石造りの頑丈な塀の一角に大人が屈んでやっと通れるくらいの木製の扉があった。
随分と古びていて鉄枠の部分は錆び、木の部分は腐食が進んでいるように見える。
「木が生い茂り過ぎて隠れちゃって忘れ去られたのかしらね。うーん、随分傷んでるようだけど、まさか開いたりしないわよね?」
とん、と押してみれば、がふぁっと何とも言えない音を立てて木の部分が崩れ去った。
うわあお。と心の中だけで驚きの声を上げた私は素早く周囲を見回した。
庭の散歩に護衛は要らないと言ってスヴェン達はお留守番してもらってるし、ロッテは腰痛でお休み、ミアは忘れ物を取りに行ったところだ。
偶然にも私一人。そう、ここに居るのは私だけ!あ、赤ちゃんも居たわ。訂正、ここに居るのは私と赤ちゃんだけ!
私は逸る気持ちを抑えて、先ずはこれが何処に繋がっているのか確認することにした。
赤ちゃんの安全が第一だもの。
ひょいっと屈んで、開いた場所から首を出す。きょろきょろと周囲を探れば、そこはよく知るエルベの街の路地裏だった。
ああ、こんな所に出られちゃうんだ。うーん、ちょっとだけなら、出てもいいかな?
今日はリーンもお城だし、ミアが戻って来るまでに帰れば大丈夫じゃないかしら。
私は思い切って残りの扉の鉄枠を外し、引っかかった帽子を脱いで手に持ち、お腹を庇いつつ、そこをくぐり抜けた。
「何ヶ月ぶりかしら。えーっと3ヶ月か4ヶ月くらいかな?久しぶり!」
人々や荷車の行き交う音に話し声、あちこちから漂う美味しそうな匂い!街はいつも通り活気に満ちていた。
塀一枚隔てただけでこんなに空気から何から違うとは!私は大きく息を吸ってその空気を体内に取り込んだ。
赤ちゃんもどうぞ!
そして次の瞬間、私の頭の中からミアが戻るまでという時間制限は消え去っていた。
「ここからなら広場も近いわ、行ってみましょ。途中にぬいぐるみ店もあるから様子を見ていきましょうか。」
公爵邸の防犯のため、出てきた穴はそのへんに置かれていた木箱をずらして塞いでおく。
それからワクワクしながらつばの広い帽子を被り直し、私は歩き出した。
■■
からんっと入り口のベルが鳴る。
「いらっしゃいませ・・・えっ?!」
私を見たぬいぐるみ店主のヴォルフと、丁度店の掃除を手伝っていたカールが、目を丸くして棒立ちになった。
「お、おおおお奥様?!なんでこんな所に?!」
「あらやだ、人を幽霊みたいに。お久しぶり、ヴォルフ、カール。」
にこっと笑って二人と挨拶を交わし、最近の店の様子を聞き、新作を見せてもらう。
二人とも私が何故ここにいるのか、ものすごく聞きたそうだけど、それは内緒にする。
そういえば、赤ちゃんのために作っているぬいぐるみのリボンを買いたいのよね。でも、今はお金を持っていないし、生まれてから似合いそうな色を探しに来よう、と心の中で決めた。
「じゃあ、私はまだ行きたい所があるから、またね。カール、来月も帳簿を屋敷に持って来るの忘れないでね。」
一人で黙って出てきたことがバレないうちにと短時間で切り上げ、私は店を後にした。
「なあ、カール。ミアはいないし、スヴェンやデニスも見なかったな。・・・身重の奥様が街へ来るなんて、旦那様なら心配して付き添われそうだが、奥様はまさかお一人で来られたのだろうか?」
「だよな。あの旦那様がよく奥様を街に出したよなあ。・・・待て、旦那様は奥様が街に居るってご存知なんだよな?あの方なら一人でこっそり出てきそうだぞ。」
その台詞で二人は顔を見合わせ、瞬時に青ざめた。
「カール、奥様を追いかけて見守れ!俺は母ちゃんに店番頼んでから、お屋敷に確認してくる!」
「おう!」
店内が俄に慌ただしくなった。
「あ、フリッツ。」
「え?ええっ?奥様?!なんでここにいるんです?!」
「あー、奥方様だ!お久しぶりです!赤ちゃん元気ですかー?」
「えーっと、お散歩の途中よ。ええ、赤ちゃんは元気よ、ほらここにいるの。」
「うちもこないだ弟が生まれたんだ。」
「まあ、それはおめでとう!」
下校時刻なのを忘れ、うっかり街の学校近くを通ってしまった。更に公爵家で働きながらここの学校に通っているフリッツにばったり出会って驚かれ、彼の友人達に取り囲まれた。
皆口々に挨拶をしてくれ、自分のことを話し始めた。
「皆、ちょっと待ってくれよ。奥様、スヴェンさんとデニスさん、ミアさんは?」
弾丸のように喋る友人達を押し退けて、フリッツが不審げな声で聞いてきた。これは私が無断でここに居るとバレてるかも。
私はフリッツから目を逸らし、上を見ながら小さな声で告げた。
「・・・多分、同じ空の下にはいると思うわ。皆、私がここにいるって、内緒にしといてね!」
それから私は両手を合わせて彼等にお願いし、その場からさっさと逃げた。
よーし、もう誰にも私だってバレないように帽子をもっと深く被っておこうっと。
私はぎゅっと限界まで帽子を引き下げ、目立つ灰色の髪を隠す。それから広場に向かって歩き出した。
広場は相変わらず賑わっていて屋台も複数並んでいる。
遠くから店を眺めながら、私はお金を持ってくればよかったと後悔していた。
喉が渇いても飲み物が買えず、欲しい物があっても何も買えない。
ダメといわれれば欲しくなる心理か、私はやたらと屋台で売っているものが食べたくなってきた。
ああ、新しい味が出てる。季節限定物もあるわ。私が来られなかった間に色々変わってる。
でも、お金がないのよ!ツケで買うにしても正体をバラさないといけないから、今はやりたくない。
「赤ちゃん、困ったわねえ。次からは散歩でもお財布を持って行かなくちゃね。」
空いていたベンチに座り、お腹を撫でながら呟くと、赤ちゃんも同意してくれたのか中から蹴り返してくれる。
最近こうやって赤ちゃんと会話が出来るようでとても楽しい。
それをリーンに言ったら、とても羨ましがりつつ赤ちゃんに嫉妬もしていた。
「喉も乾いたし、もう少し休んだら屋敷に帰ろうかしら。そろそろフリッツが帰ってるだろうし、外に出たことがバレて探されている気がするわ。」
きっと怒られるんだろうなあ。
それを想像して首を竦めたところで、広場がざわめいた。
何かあったの?
お腹を押さえて帽子の陰から周囲を探った私は、座っていたベンチから飛び上がった。
リーンがいる?!
城からそのまま来たらしく、登城用の制服のままで、近くにはヘンリックもいる。
なんで?嘘でしょ、流石にここで彼等に見つかりたくない。
今日は夜まで仕事って・・・いや、そういえば帰りにエルベの街に寄って来るかもって言ってたような。
もう、どうして会っちゃうのよ。
とりあえず、目が合わないようにしなくちゃと、私は帽子のつばを両手で持って横を向き顔を隠そうと試みた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
題名を『公爵夫妻の逃亡中』にしようか迷いました・・・。