偽りの憩いの間2
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夏特有の熱い西日が指す中、男はベランダに尻もちを突いたまま座り込んで、自称"天使アイリス"と名乗る異形の乙女と向き合っていた。
本来ならベランダから見える夕焼けの景色は、自分の最も好きな風景であった。しかし今は景色などは既にどうでもよくなっていた。
「天使……、アイリス?オレの魂を……"次なる世界へと掬い上げ"?に来た?」
見たこともない美しい乙女が羽を生やして宙に浮き、自分を見下ろしている状況に驚いてしまい、彼女の放った言葉を復唱するしかできなかった。
アイリスはそれを聞くと鷹揚に頷き、両手の指を胸の前で組み合わせた。
「その通りですわ。ワタクシは正しく且つ偉大な天の代理人たる大天使様達からの特命を受け、この牢世界"煉獄"に降りたのです。ああっ、何とこの上ないことかしら。」
彼女は話し終わると、全く理解が進まない男をよそに、組み合わせた両手の指に力を入れて目を瞑り、深く頭を垂れたかと思うと宙に浮いたまま祈りを捧げ始めた。
たっぷり5分はかけただろう。その間ずっと何か祈りの言葉を呟き、一人瞑想の世界に籠もっていた。
彼女は祈りに満足したのか、目を開くと一度羽を軽く伸ばしてから背中に折り畳み始めた。羽が小さくなるにつれて徐々に下へ降り、ベランダの中に戻りながら羽を仕舞い終えると遂にはベランダの上に降り立った。
「さぁ、早く共に行きましょう。次なる世界へ!」
アイリスは優雅に右手をこちらに差し出してきた。男が床から立ち上がって手を握るのを待っているようだった。
思わず男は仰け反り、握ることを拒否する。
「天使が目の前に現れたということは、オレは死ぬのか?今ここで?」
宙に浮かぶことができて白くて大きい羽を持っているのは天使に違いない。オマケに超美人だ。天使のお迎えが来るときは死ぬ時だと決まっている。彼女の長い祈りのおかげか、ようやく少しずつ頭が回り始めた。
「いいえ、違いますわ。貴方は既に死んでいるのです。覚えていないのですね。全く、哀れな!まぁ、だからこそ、この牢世界゛煉獄゛に堕ちたのですけどね。」
アイリスは喋りながら両手を腰に当てて、『全くしょうがないわね』と言いたげに頭を数回横に振った。どうやら芝居じみた素振りが好きなようだ。
「そんなことを言われても、死んだことなんて知らないぞ?そもそも自分の部屋のベランダに二本足で立っているし!」
男は地面から素早く立ち上がり、幽霊ではないことを示した。
アイリスは軽く俯くと、小さく深くため息を吐いた。
「貴方は今、牢世界である煉獄に捕らわれています。」
「牢世界?煉獄?………地獄とは違うのか?」
突然に知らない言葉が出てきたので、男は思わず問い返した。
「違いますわ。ここは死とあの世の狭間。死を受け入れられない孤独な魂に、長大な時をかけて死への救済と前世の懲罰が行われる場所。偽りの憩いの間。死後の世界への探求と理解がないために、死後の道筋を見失った迷える魂が隠れ込む試練。前世のモラトリアムな思い出に埋もれるのを特上とする、弱々しく脆弱な魂が堕ちる極小な世界。簡単に言えば、あの世への一歩手前と言った場所ですわ。」
一息に出てきた説明に理解が着いていけなかった。受け身に話を聞いても混乱してくるだけだ。頭をほぐすために、男の方から質問してみることにした。
「確認したいんだけど先ず最初に、俺は既に死んでいる…と?」
「そおですわね。」
「でも、自分の死が理解できないために、あの世へ行けずにこの煉獄に入った?」
「正確には"入った"ではなく、"堕ちた'ですわ。」
「ここでの出来事は本当のことではないのか?」
「有り得ませんわ。」
「なら何故こんなにもリアルなんだ?ホラっ!肌に感じる風まで本物じゃないか?」
「それは貴方の魂が、最も見たい聞きたい感じたいと思っている記憶を『本物だと判別して見ている』からです!貴方は肉体を失い拠り所を無くした魂の存在です。残念ながら生前にあった知性のほとんどは、魂の深層に封印されています。でも、ちょっとした気付きがあれば、偽物と判るはずです。」
「ちょっとした気付き?」
男は顔をしかめながらアイリスに問いかける。彼女は、両腕を組み直してスクッと男の正面に立ち直した。
「そう、気付きです。お尋ねしますが、昨日は何をされていたか覚えてらっしゃいますか?」
アイリスは男の目を見ながら質問をした。
「昨日?昨日は確か夕方に目が覚めて発泡酒を飲みながら、テレビの野球中継を見ていたよ。」
「ならば、一昨日はどうかしら?」
「一昨日?一昨日は確か夕方に目が覚めて発泡酒を飲みながら、テレビの野球中継を見ていたよ。」
「ならば、3日前はどうかしら?」
「3日前?3日前は確か夕方に目が覚めて発泡酒を飲みながら………、あれ?………テレビの野球中継を見ていた………よ?。」
男は自分の受け答えにおかしな点があることに気付いた。
(同じ記憶しかない!)
アイリスはその様子を見てとると、続け様に話しかけた。
「気付きましたか?10日前だろうと100日前だろうと、それこそ10000日前だろうと同じ答えになりますわ。ここ煉獄では、魂の好む日常を繰り返し経験しています。億に兆を掛けた数を経験する内に己の死を理解してもらい、あの世に旅立つことになるのです。」
アイリスの言葉に男はパニックになった。彼女の言う通り、夕方テレビを見ながら発泡酒を飲んでいたこと以外は、何も思い出せなかった。家族は?仕事は?恋人は?あれ……オレの名前は?自分が何なのか分からなくなった男は、みるみる顔色が悪くなってきた。
アイリスは少し眉間に皺を寄せて憐れむように小さく微笑んだ。
「混乱されているのですね?哀れな。いいでしょう。よくよく考えれば、貴方の記憶はこの後に連れて行く"次なる世界"にも関係のあることです。手間ですが少し記憶と知性の一部を思い出してもらいましょう……。それっ!」
アイリスは顔面蒼白で立ち尽くしている男に瞬時に近づくと、左手の人差し指で彼の額を強く突き刺した。男は額に指が根元まで抉ってきた感触とともに、頭の中を激しい痛みが貫き視界が真っ暗になった。
次々と蘇る数々の記憶。
小さいころの実家の風景、親から褒められたこと、叱られたこと。夕方遅くまで外で走り回った少年時代。思春期に起こしたバカな失敗と純真だった熱い思い。大学に入ってたくさん勉強したこと、小さなすれ違いで大失恋したこと。社会人になって大人である故の責任感と独り者である故の自由さを覚えたこと。彼女との他愛もないデート。ブラックな環境の中、一生懸命働いたこと。疲弊していく同僚たちの顔の青白さ。無茶振りと威圧することしか知らない上司達。
そして、あの夜のこと。
傷ついた少年を守るために身を投げ出し、身体を刺された。そして自動車に撥ねられて、最後は雪降る中で自分の生命が消えていってしまった。
(ああ、そうなんだ。どうやら俺は死んでいるみたいだな。)
「どうですか?貴方の死を納得されましたか?」
不意に掛けられた声に、ビクッと反応した。
掘り出された情報の余りの多さに男は呆けてしまっていたが、美しい乙女に顔を覗き込まれ正気に戻った。
「あぁ、ありがとう。やっと思い出せたよ……。」
何とか返事は言えた。
自分は死んでしまった。正しくは殺されたのだが。
(自分なりに人生を頑張ってきた割には、呆気ない最後だったんだなァ。何か少しでも未来に残したかった………。)
そう思うと急に悲しくなってきた。
天使の乙女、アイリスは男の気持ちを知ってか知らずか、慰める口調で話しかけてきた。
「まぁ、大半の魂は死後の世界はおろか、貴方のように突然死を理解できずにいますからね。おかげで牢世界もとい煉獄は無限無数に存在していますわ。」
話しながらアイリスは軽く浮かんで、ベランダの手摺りに軽やかに腰掛けた。そして両足をブラブラ振りながら、呆然とする男の様子を見守っていた。
男は自分が死に、目の前にある全てが偽物だと分かってしまった。ショックの余りに足元に力が入らなくなった。よろめきながらフラフラと天使の隣に近づくと、手摺りに寄りかかって彼女の顔を見上げた。
「俺は、どうしたらいい?」
腹に力が入らず、囁くように呻いた。本当に小さな声だったが、アイリスの耳には届いていた。
アイリスは手摺りから飛び出して、勢いよくベランダヘ降り立った。男は首だけ動かして彼女の動きを追いかける。
彼女はベランダの手摺りに寄りかかってマトモに立つこともできない男の正面に立った。
人差し指を突き出した片手をバッと天に掲げ高らかに声を発した
「我が名は、天使アイリス!貴方の魂をこの"煉獄"から"次世界へと掬い上げ"に参りました!!」
そして掲げた手をゆっくり落とし、掌を広げて男の前に真っすぐ差し出した。
「私の手を取りなさい!貴方の使命は"次なる世界"にあります。」
自信に満ち溢れた聖なる乙女の姿は目に眩しかった。自尊心も理性も尽く無くした男には差し出された手を取るしか考えられなくなった。ヨロヨロと手摺りから離れると、這うように歩いていった。バランスを崩して跪いてしまうが、何とか聖乙女の手を掴むことができた。
アイリスはその様子を見て満足げに頷くと、優しく男に微笑みかける。美しいその笑みは正しく天使の救いであった。
男はしばらく見とれていたが、急にアイリスは能面のような無表情にすうっと切り替わった。
そして荘厳な天使の口調から一転、事務口調な早口で語りかけた。
「ハイッ、こちらからの提案をご了承をいただけたと判断できました。仮名:平田ジュリアスさん、先ずは手順に従って頂いてインフォームドコンセントを受けてもらいましょうか。」
…………………。
「えっ?いんふぉーむ何?」
急に素っ気ない態度になったな?と戸惑う男の疑問を無視して、天使は掴まれた手を引き上げ、男を無理矢理立たせた。華奢な体格からあり得ない程の強引な腕力だった。
そして掴まれてない方の手でスナップを鳴らした。
パチン!
次の瞬間、ガラリと空間が変わっていった。
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