第九二話 大淫婦バビロン
ベータスの乳首から盛大に母乳が噴き出した。これにはガムチチもびっくり仰天となった。
「おいおい、男なのに母乳を吹き出すなんて、お前の心はメスになったのか?」
「しっ、知らないよ……。ばか……」
ベータスはぐったりとしている。母乳は血液だ。濾過されて白く見えるだけである。彼は貧血状態に陥っていた。
ギメチカはそれを見て目を丸くしている。
「男なのに母乳……。まるでケッホル神の言い伝えそのものですね」
「ケッホルってなんだよ?」
「ケッホルはゴスミテ王国で信仰されている神です。同性愛を禁じ、錬金術でぷにあなとぷにこけしを普及させ、性転換魔法で正しい性別に換えるのです」
ガムチチが尋ねると、ギメチカは説明してくれた。ぷにこけしは女が使う魔法具らしい。口にくわえると性欲を吸い取ってくれるすぐれものだそうだ。それも男が使用するぷにあなと同様に回収するという。
「ハァクイ様曰く、性転換魔法は六六六年前に魔女が生み出したそうです。自分が追手から逃げ出すために。その一方で自分の性別に違和感を覚えている人もいたので、その人たちのために魔法を教えたそうです」
それでも男同士の交わりはなくならない。国王などは信頼のおける家臣と衆道の契りを交わすことがある。だがいのちの精を無駄にしてはならない。
「それで生み出されたのが―――」
ギメチカは最後まで言えなかった。なぜならベータスは両腕を縛られて、吊るされているのだから。
ガムチチたちは慌てて上を向いた。そこにはアラクネが逆さでぶら下がっている。
「ふふん。男の母乳の臭いがしたから来てみたけど、なかなか可愛い子じゃない」
そのアラクネの眼は紅くなっていた。ガムチチは叫ぶ。
「なんだお前は!?」
「なんだお前はってか? そうですアタシがアラクネのヒノエゥマです」
アラクネのヒノエゥマは茶化したように笑う。まるで手練手管のやり手女の様だ。
「いい男がいたら食べる。それがモンスター娘の悲しい性なんですよ。ああ、そこの鬼畜眼鏡っぽい人は遠慮します。あなたの中身は女でしょう?」
なんとヒノエゥマはギメチカが女だと見抜いたようだ。ヒノエゥマは捕らえたベータスを吊り上げると、長い紫色の舌をぺろりと出す。そしてベータスの母乳をなめとった。舐められるたびにベータスは甘い声を出す。かなりとろけ切った顔になっていた。
「……やはり、ベータスとゲディスは別人だ。ゲディスならあんな馬鹿面にはならない」
「経験不足ということもあります。一概に批難はできませんよ」
ガムチチの言葉にギメチカが答える。問題はヒノエゥマだ。先ほどカエルの魔獣と戦ったばかりで疲労している。とはいえ連戦は珍しくない。すぐに気持ちを切り替えた。
「お前がガモチホの死神か?」
「死神なんて野暮な呼び方はやめてほしいわ。アタシは自由に男を食べて楽しんでいるのよ。もっともハッスルした後、頭からがっぷりと食べちゃうけどね」
どうやらこいつは性欲と食欲を同時に満たしているようだ。
「つい最近はゲグリソの若い子と神父を食べたばかりだけど、この子もおいしそうだわ。デザートとしていただこうかしら?」
ヒノエゥマは舌なめずりした。そして牙で作られた首飾りを地面に落とす。それを見たベータスは目を開き驚愕している。どうやらこの女はベータスの友人を食べたようだ。
「ああっ!! なんてことを!! クモソレのおっさんになんて言えばいいんだ!!」
ベータスはこの世にいない友人の死を嘆いた。逆に神父のワヨルイについては言及しない。どうでもいいからだ。
「アマゾオの男なら狩りで死んでも文句は言わないぞ。例外はあるがね」
ガムチチはつぶやいた。アマゾオでは文明は衰退しており魔獣が多く徘徊しているので、死は隣り合わせである。それ故に長生きすることより、どう生きて死ぬかが主題となる。結婚前に死ぬということは、神がその結婚を祝福せず、残ったものを守るために片方を森に喰わせたという考えが強い。
ベータスは宗教に疎いのか、アマゾオの考えを理解していない様子である。
「おっ、お前の眼が紅いぞ!! お前、数多くの男を食い殺したのか!!」
「あはははは、さっきから言っているでしょう? 頭のめぐりが悪いお子様ね。多くの男を食べてきたせいか、アタシの力がものすごく増しているのよ。このままだと神にもなれるのではないかしら?」
ヒノエゥマは自分に酔いしれている。だがベータスは慌てていた。
「ガムチチ!! ギメチカ!! こいつを今すぐ殺すんだ!! こいつは大魔獣よりも厄介な大淫婦バビロンという魔族に生まれ変わってしまうぞ!!」
大淫婦バビロン? 初めて聞く名前だ。だがベータスが焦っている。モンスター娘を殺すことを厭う彼にしては珍しい。それほど危険な存在であることは理解できた。
「あはははは!! 大淫婦バビロン!! それはいいね!! 私もエロガスキーやドスケベデスのような大魔王に昇華できるわけね!!」
「できるものか!! バビロンは無法の象徴だ!! 秩序もなく男を延々と喰らう存在!! 大魔王とは比べ物にならないんだ!!」
ベータスが叫ぶ。ギメチカが前に出て鞭を振るった。だがヒノエゥマは両手を突き出す。手には糸が張り巡らされていた。
ぺちぺちと鞭で叩くも、糸はびくともしない。逆に鞭がボロボロに欠けていた。
「……厄介ですね。あの糸はとても固い。下手すれば腕の一本は切断してもおかしくないですね」
ギメチカは冷静に判断する。ヒノエゥマは手から糸を出した。それは矢のような勢いで木の幹に突き刺さる。
普通のアラクネに比べればかなりの強さだ。
「ハイホー、ヘイヘーイ。オケツ、フリフーリ!!」
ヒノエゥマはお尻を振り出した。これは邪気収集の儀だ。彼女の身体に邪気が集まる。すると森全体に糸が張り巡らされた。
蛇の魔獣が騒ぎを聞きつけたのか、襲い掛かろうとしたが、糸の結界によってばらばらにされた。相当鋭い糸の様だ。
ガムチチは恐れずに飛び掛かろうとしたが、足元が動かない。いつの間にか地面にも見えない糸が張り巡らされていたようだ。ギメチカの足も固定されている。
「あはははは、アタシの糸の結界は誰も逃げられない。このままこの子を食べるのを黙ってみているといいわ」
そう言ってくんくんとヒノエゥマはベータスの臭いをかぐ。すると彼女は顔をしかめた。
「……なによこれ。この子の中に新しい命が宿っている……?」
ヒノエゥマは突如ベータスを解放した。そして糸も解除する。
「……なぜ、解放した?」
「……アタシは男を食べたいのよ。無関係な人間の命まで取るつもりはないわ」
そう言ってヒノエゥマは姿を消した。ベータスは地面にぐったりと倒れている。
ガムチチは苦虫を潰した顔になった。自分たちは勝ったのではない、相手の気まぐれで生かされたのだ。自分は黄金魂という力を持っているのに、それを生かせずにヒノエゥマを討ち取ることができなかったのである。
やはりベータスは違う。ゲディスと顔の作りは同じでも魂からして似ていない。しかしベータスに責任転嫁するのもおかしい。自分がゲディスとべったりで、おんぶでだっこの状態ではなかったかと、反省した。
「自分一人でも戦う力……。難しいものだな」
ギメチカはベータスを介抱している間、ガムチチはつぶやいた。
☆
「なんだこれは?」
ガムチチは驚いた。ガモチホの森の奥に進むと、濃い霧が出てきたのだ。霧と森の木で方向感覚が狂う。さすがのガムチチもこのような出来事は初めてだ。
「こいつはドスケベデスさんの結界だな。おーいドスケベデスさん、俺だよ俺!!」
ベータスは新たな衣装を着ていた。虎柄のビキニだけ履いている。股間は膨らんでおり、引き締まった尻が見えた。バニーボーイの衣装は恥ずかしがったが、これは平気なようである。身体の線が露骨に出る衣装は嫌いなのだろうか? あとお腹に白と黒のまだら模様の腹巻をつけていた。お腹を冷やさないようにとギメチカが勧めたものだ。
ベータスが叫ぶと、小さなつむじ風が起きる。すると霧が集まり人の形を作った。それは水で出来た女性の姿である。滝のように足元まで垂れた長髪に、垂れ目で優しげな表情を浮かべた美女であった。
「まあまあ、ベータスちゃん。ずいぶん遅かったのね、おかえりなさい。後ろの方たちはあなたのお友達かしら?」
女はぺこりと頭を下げて挨拶した。ガムチチたちも釣られて挨拶する。
彼女はドスケベデスといい、この地を支配する大魔王だという。種族はウンディーネといい、水の身体を持つという。ガモチホの森を囲む霧は彼女の身体であり、地下に流れる水脈も彼女の一部だという。
つまり本気になればドスケベデスはガムチチたちをこの場で殺すことは可能なのだ。
「ドスケベデスって、古代語でなんていうんだ?」
「母親のお腹を意味する言葉ですわ」
ガムチチが尋ねると、ドスケベデスは答えた。母親のお腹。この森全体を囲む霧が彼女自身なら自分たちは母親の腹に眠る胎児ということになる。不思議なことだがなんとなく心休まる気分になってきた。
ドスケベデスに案内されると、ぽっかりと穴が開いた場所にたどり着いた。それは穴というより崖であった。まるで世界の裏側に通じていそうな大きな穴である。こちらもミルクのように濃い霧に覆われていた。
その真ん中に一つの島が浮いていた。レンガ造りの家で井戸も見える。林と畑も見えた。
「あれが俺と師匠の家だよ。あの霧はドスケベデスさんの霧で家を支えてもらっているんだ」
「あんたとこいつの関係は何だ?」
ガムチチが訊ねた。
「私は千年前に魔女ストカロ様から生み出されたのです。この穴は元はアマゾオ王国の城があった場所。当時の魔王によって崩壊したのです。普通は魔石鉱山になるそうですが、当時の法皇であったゲグリソ様が封印したのですよ」
そうドスケベデスが説明した。
ヒノエゥマのモデルは丙午の女です。
丙午の女は夫を亡くすと、別の男を食べたがるそうです。
大淫婦バビロンは聖書にも載っている揶揄ですね。




