帰ってきた日常
カッカッカッ
黒板に触れるチョーク。二七度に設定されたクーラー。ノートへの書き込み。寒いわけでもないのに貧乏ゆすり。様々な音が教室内で重なって聞こえ、教師の口から出てくる興味もない歴史の話で眠気にトドメを刺される。
「ぐーぐー」
「こら! 起きろ下帯!」
「うわっ」
ピシィ、とおれの前で指示棒が机を叩く。
驚き、目をかきながら目覚めることにする。
「今日、三度目だぞ。いいかげんにしたらどうだ」
歴史教師である五里が、おれを叱りつける。
文化系なのに体育教師みたいにごつい肉体をしていることから、彼はゴリと渾名を付けられている。
ゴリへ、おれは平謝りする。
「あはは。すみません」
「寝不足か? 昨日は、いったいなにしていたんだ?」
「あたしたちのこと盗撮してきました!」
「なにっ! またか!」
バレー部エースの中村が、割りこんできた。
おいおい。確かに写真は撮ったけど、疲れているのはおまえたちとは別の要件でな。
上手くぼかして説明しようとするが、中村は畳みかけてきた。
「セクハラですよ! 先生、ぶん殴ってやってください!」
「いや、この学園はよほどのことじゃないかぎりは生徒の自主性に任せていてな。そういうのは、風紀委員会に言ってくれ。あと、自分がやったらパワハラになるんじゃ……」
「じゃあせめて説教してください! そのエロ猿によって、どれだけの乙女の純情が踏みにじられたことですか!」
「ウキキキ。オデ、ヒトノコトバ、ワカラナイ」
「それだけ喋れれば充分よ! ミサイルスパイク!」
どこに持っていたのか、中村はバレーボールをぶつけてきた。
男の子だけど、涙が出ちゃう。
「暴力は、やめなさい」
「あいつのほうが暴れてます」
「それもそうだが」
「そしてやつは猿です。獣ならば、暴力にはあたりません」
「本物の猿では、虐待にあたるからやめなさい」
バナナレシーブの構えをとると、さらに逆上する中村。
ゴリのほうが折れて、中村にバレーボールを引っ込ませてから、おれのほうへ来た。
「あのな。下帯」
「はい。なんでしょうか?」
「……あんまり女の子を困らせるんじゃないよ」
それだけ言うと、教壇へ戻っていく。
「あー! 相変わらずゴリ先生は下帯に甘い! 弱みでも握られているんですか⁉」
「そ、そんなわけないだろうが。いいから授業だ。期末テストが終わったとはいえ、みんな気を抜くなよ」
そして授業を再開する。
徳川、徳川、徳川。あの眠りへ人を誘う呪文に耐えていると、トントンと後ろから肩を指で叩かれる。
振り返ると、天使がいた。
「おつかれ」
おれの真後ろの席の彼は、守谷 仁。男なのに女の子みたいな顔立ちから、銀のエンジェルと通称されていた。五人集めれば、お守谷もちゃの缶詰がもらえる。
そんな五人どころか他に肩を並べるほどの顔立ちがいなさそうなほど美少年は、実はおれの友達だった。
今度は怒られないよう、ひそひそと話をする。
「ほんと昨日は疲れたよ。学校終わったあとも色々と行かなきゃだったし」
「いつもだったら何枚写真撮っても疲れてないのに、珍しいよね。これ、枕にする?」
仁は、飛んできたバレーボールを掲げる。
遠慮なく枕にさせてもらうと、遠くから殺意がこもった視線が飛んできた。
仁が笑顔で中村に手を振ると、彼女は弱ったようにもじもじして、授業に集中するフリをしながら仁のほうをチラ見してくる。
「やっぱり仁といると目の敵にされるな。おれ」
「?」
仁は理解していないが、おれはかなり女子たちからこのことで陰口を叩かれている。
曰く、変態が天使に近づくな、純白をピンク色に染めるな、そのカプは地雷などなど多数のクレームを戴いている。
「なんかよく分からないけど、絆はぼくの大事な友達だ。一緒にいると楽しいし、なによりも恩があるし」
「別に、あんなこと忘れちゃっていいんだけどね」
「よくないよ。絶対に忘れない」
「男のパンツはいらないぞ」
「知ってる」
クスクスと微笑を浮かべる仁。ほんとたまに、こいつが女の子だったらなって思う時がある。
「それで、昨日はどんなことしてきたの? あんまり危ない時は、ぼくに相談して」
「……なんで危ないことって分かった?」
「そりゃそんな傷だらけだったら、嫌でもそう思うよ」
「あー」
言われて見てみると、シャツから出ている肌の部分にかすり傷や切り傷が大量にあった。
ここまで負傷したのは、高校生になってからだと初めてかもしれない。
仁は心配の言葉をかけてくる。
「大丈夫? もし変な事態に巻き込まれていたとしたら」
その天使みたいな彼に対して、おれはガッツポーズで応える。
「心配ない――こいつは、名誉の負傷さ」
巻き込まれてはいる。けれど、あの時に残ったのは間違いなくおれ自身の意志だった。
キーンコーンカーンコーン
時間が進み、授業が終わって昼休みになった。
「購買行くか」
「そうだね」
「パン屋とパンツって途中まで響きは似てるのに、なんでそんなサービスは期待できないお店なんだろうな」
「パンダとパンツがまるっきり違うみたいなものじゃない?」
「あーそういうことか」
どういうことだよ⁉ という仁ファンの声が聞こえてきた。
「……」
教室から出る前に、ふと、おれは振り返る。
ガヤガヤと喧騒に包まれている教室では、ふたつの空席が目立つ。本来ならばいるはずのどちらもが、クラス内でのトップカーストに位置する。なので、クラスメートのみんなもどこか気にかけているフシがあった。
……どうしたんだろうな? 伊誘波。
昨日、魔物を倒した後、彼女はすぐに倒れた。慌てて保健室に連れていくと、母親が来て、家に連れ帰った。
それからのことは詳しく知らない。
彼女がなぜ、学校に来ないのか? そもそも昨日の出来事はなんなのか?
知りたいことは山ほどあった。
だが正直な話、そういうことよりもおれには気にかけていることがひとつあった。それは――
「あーあ。伊誘波のパンチラ見たかったな」
「……」
「ほ、絆」
「ん? どうした仁。おまえもついにパンチラ道に目覚めたか?」
「ち、違うよ。そういうのじゃなくて、前だよ前」
「前って……わおっ」
「……」
扉を潜った先には、意中の人である伊誘波がいた。
廊下に、仁王立ちでいる。気づいたクラスメートたちが、一斉に騒ぎだす。
「伊誘波さん来たの⁉」「今日は休みだったんじゃ?」「天国へ帰られたと思われた女神が、いざ再び地上に舞い降りられたぞ」「伊誘波様キターーーーー! これで勝つる!」
普通ならば恥ずかしくなるほどの歓迎だが、彼女にとってはこれが基本なため、無表情なまま受け流
す。
そして彼女の視線の先にいるおれは、破顔一笑する。
「よかった! 無事だったのか伊誘波!」
「ええっ⁉ さっきの話を聞かれてて気まずくならないの絆!」
「そうね。とりあえず、今日のところはわたしと一緒に『城』まで来てもらえないかしら?」
「伊誘波が変態仮面の下帯を昼に誘っただとぉおおお⁉」
おれの反応には仁が驚き、伊誘波には他のクラス全員と廊下にいる生徒たちが驚く。
というか、おれ自身も驚いた。
まさかこんな美少女と昼休みを過ごす機会が来るなんて。
「わ、分かった。じゃあ仁も一緒に」
「駄目よ。わたしが誘ったのはあんただけ。わたしと下帯、ふたりっきりで話すの」
「学園一の完璧美少女と学園一の変態が、ふたりっきりだとぉおおお⁉」
「マジかよ」
その答えは、嬉しくありつつも少し意外なものであった。
伊誘波は、止まっていた足を動かし始める。
「マジよ……それじゃあいきましょう。もう時間もないみたい」
「わ、悪いな仁。今日は一緒に飯食えないみたい」
仁以外の男子生徒からのブーイングを受けながら、おれと伊誘波は教室を離れていった。