カメラを止めるな!
ズガァン!
モップの閂を吹っ飛ばして、おれたちがいる理科準備室へ魔物は現れた。
人間離れ、いやもはやこの世のどんな生物離れさえしてる魔物へ、おれと伊誘波は声を合わせて言った
「さあ。鬼ごっこはこれで終わりだ」
「ここから始まるのは缶蹴り。せいぜい油断しないことね。たとえ鬼でも、一瞬の隙が命取りになる」
「――」
魔物が腕に力を貯める前に、おれたちは手元の顕微鏡やら天秤などを投げつける。
部屋にあった当たったら痛そうなものを手当たり次第に集めた。
約五キログラムの塊が、勢いよく衝突する。
「……」
だが、魔物にとってはそんなものはヘでもなかった。
のそりのそりと、机に乗りながらおれたちへ近づいてくる。
それは獲物を追い詰めたことを確信し、あとは無駄な体力を消費しない移動方法を選んだようだった。
実際、おれたちと魔物には雲泥の力の差がある。
身体能力は及ばず、有効な攻撃方法もない。
本来ならば、逃げの一手しかないはずだった。
「下帯!」
初めて、あんた以外で、おれを呼んでくれた伊誘波。
それに言葉で答える代わりに、おれはポケットの中のスイッチを押す。
シュッ、と伸縮ベルトの鉤が宙を飛んで、魔物の腕へ絡まった。
足止めかと思った魔物は、腕を強く引っ張って外そうとする。
グギギギギ――ガタッ
「だから、油断しないほうがいいって言ったのに」
「!」
伸縮ベルトのもう一方は、ガラス戸の棚に巻きついていた。
魔物の強大な力によって普通ならば動かせもしない棚が、大きく前方へ倒れていく。
パリィン、と魔物の体にぶつかったガラスが割れる。
そしてその直後、棚の中にあった薬品が魔物へかかった。
「硫酸、塩酸、メタノール、その他含めてよく分からない危険な液体たちをくらえ!」
ジュウウウウ
薬品を浴びた魔物の肉体は、溶けていくような化学反応を見せる。
重い棚に挟まれることで、魔物の身動きも止まると、おれと伊誘波は窓から外へ逃げる。
「これは、ついでよ」
外から青白い火を灯したアルコールランプを魔物へ放った。
爆発音が、閉じた窓越しに響いてきた。
黒煙が充満する理科準備室を、おれたちはガラスを通して様子を確認する。
「どう?」
「さすがに、ここまでしたら――」
言葉の途中で、おれは絶句した。
もはやそれ以上なにかを伝える前に、おれと伊誘波の足は翻って、理科準備室か遠ざかろうとする。
再度聞こえるガラスが砕ける音。
わずかな時間だけ、空が曇りになっておれたちの影が巨大な影に飲み込まれる。
晴れたと思った時には、地面が揺れて、おれたちの前に魔物が存在していた。
「……」
場に、沈黙が訪れる。
おれと伊誘波は、なにを言おうにも息が詰まって呼吸すらままならなかった。
対して、魔物は焼けただれた皮膚の間に詰まった充血した眼球でこちらを見据える。無限の視線による睨みは、それだけでおれたち射竦めるには充分だった。を
――次はない。ここで必ず殺す。
喋らない魔物だが、そう言っている気がした。
大地に手を押しこむ。タックルの前段階だ。
「ふっ。どうやらここで終わりみたいね」
諦め、力ない笑いをする伊誘波。
「まだだ。まだおれたちは生きている」
「下帯⁉」
伊誘波の前に、おれは立った。
「馬鹿。逃げなさい! もしかしてわたしが先に死ねば、あんたは見逃されるかもしれない」
「死なせるかよ!」
だって、おれはおまえの――
思考を中断するように、魔物は突撃してくる。
やつとおれたちの距離はほぼない、今度こそは、避けきれなかった。
死を前に、おれは無意識に口走る。
「伊誘波のパンツをまだ見ちゃいんだから!」
「こんな死に方いやー!」
おれたちの叫びに、別の声が混じっているのが聞こえた。
「カメラを使え!」
謎の声。
それはどこかで聞いたことがあって、懐かしい感じがした。
余韻にひたることなく、おれはその指示に従う。
首に掲げたカメラを構え、対象を撮る。
魔物のタックルは速い――だけど、おれの撮影はもっと速かった。
フラッシュの光が魔物の姿を捉え、レンズにファインダーの光景が反射され、フィルムに映し出される。
意味のない行為、かに思われたが、
「――」
「な、なにが起こっている⁉」
撮影が終わった途端、魔物から、黒い靄のようなものが出始める。靄が濃くなるたびに、その球体のような身体が小さくなっていく。
そしてタックルが当たる寸前には、粒ほどの大きさから目に見えなくなるまでになった。
魔物の姿が消えてから、数秒経つ。
なにも変化はなく、ただ七月の暑い日差しだけがおれたちふたりを照らしていた。
「……ど、どういうこと?」
「わ、分からない」
まるでさっきまでの非日常が、夢の出来事なのかと思えるほど、おれたちの周囲には日常しかない。
けれど、前にある魔物の腕がめりこんで形成されたクレーターと後ろの理科準備室から漂う灰の匂いが、今までのことが現実だと教えてくれる。
おれと伊誘波。
ふたりは、言葉もないまま、ただ顔を合わせ続けた。
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