パンツを覗かれたら死ぬ
ここからプロローグの続きです
消火栓による大量の水流も利かなかった影は、おれたちへ飛びかかってこようとした。
「まずいまずい!」
「こっちよ!」
ビキビキと筋が湧くまで腕を曲げて力を貯めてから、床を掌底で殴って、一気に最大速度でこちらまで迫ってきた。
色も相まって砲弾みたいなタックルを、おれたちは蛇口の下に身を潜めることで躱す。
「この内に」
廊下の奥まで飛んでいった影。
あいつが戻ってくる前に、おれと伊誘波は近くの階段で降りていく。
「ここ何階まであるんだっけ?」
「屋上抜いて五階だ」
今は三階だから、あとふたつ下りれば玄関口から脱出できる。
「だからこのまま一気に」
「だめ。あいつもう来てる」
「早過ぎる。まだ半分の十三段しか降りてないのに」
「え? ここって十二段じゃないの?」
「いつのまにか知らない怪談にも取りこまれてる⁉」
どうなっているのか今すぐにも確認したい。
けれど踊り場で反転している間に、もう影は階段の上に立っていた。
このままだと二階にも降りられずに追いつかれる。
伊誘波もそれを理解してか、諦めの声が出る。
「うっ、もう駄目」
「まだだ。これに乗れ伊誘波」
手すりにかかる布。
なんの目的なのを察した伊誘波は跨ってくれた。
スルルル
布はおれたちふたりの重さがかかることで手すりを滑っていった。影はその巨大な図体によって狭い階段の行き来にわずかに遅れが生じる。
やつを突き放して、おれたちは一階まで降りていった。
「よし」
「上手くいったみたいね。でも、こんな布どこにあったの」
言いながら、伊誘波はギョッとする。
今、おれの下半身にはブリーフしかなかった。
「え! まさかこれ」
「ベルト外れてたからな。脱ぐのに手間はかからなかった」
「露出狂! 死んじゃえ!」
おれたちが跨っていた布は、おれの制服のズボンだった。
「まあ助かったからよし。玄関から脱出するぞ」
「待って。今、出るのはまずい」
「なんで?」
玄関口に向かっている最中なのに、急にやめろと言い出す伊誘波。
「出てどうするの? この近くに人なんていないし、もし教師なんかがいたとしても大人ひとり程度で撃退できる相手じゃないでしょ」
「言われてみればそうだ。でもだからといって、どうすれば?」
「うーん」
悩む伊誘波。
わけもわからない化け物に追われながら、名案を思いつけなんて無理がある。現に、おれだって考えているが、迷案かパンツのことしか浮かばないのだから。
ビクッ、と予兆もなく肩を竦める伊誘波。
「くる! あいつが、すぐにここまで来る」
さっきからそうだが、どうやら伊誘波は影が近くに来ると目に入らずとも分かるようだ。
「駄目だ。なにも思いつかない」
一度、玄関から出て助けを呼ぶことも考えるという賭けを考えるが、それすらも間に合わなかった。
おれたちの後方で、影は壁からその無数の眼を覗かせていた。
シュゥウウウ
「伊誘波!」
振り返った彼女は、取りつけてあった消火器を使用した。
白い粉が煙幕となって、建物内の視界を遮る。
「今よ! こっち!」
伊誘波に手首を引っ掴まれたおれは、慌てるように移動する。
ピシャン
広がった粉末が消え去った時には、廊下におれたちの姿はなかった。
「……」
どうやら目標を見失ったようで、ゆっくりと腕を進める影。
視覚的には明らかにかなりの重量があるはずなのに、影の足音――いや手音は、ほとんど音がしない。わずかに、ふっふっ、と耳を澄まさなければ聞こえないほど空気が当たるような軽い音がするだけだ。
ふと、影は止まった。
「理科室」という札が貼られた教室の前だ。影はその大量の目玉による幅広い視界から、そこの出入り口のドアに男子制服のズボンが挟まっているのを発見した。
ぶち破られる準備室のドア。鍵なんてあってもないようなものだった。
部屋に入る影。獲物を探す。
――しかし、中には誰もいなかった。
その多くの眼が、狙った相手を見逃すことなんてありえない。
影は、隠れられそうな場所を破壊していく。
ズガンドガンベキィンボバン!
影の腕力の前では、どんな物質だろうが形状であろうがただの豆腐だった。
「やべーな。あいつ」
「そうね。でも、上手く引っかかってくれたみたい」
理科準備室に、おれと伊誘波はいた。
実験用の机の下で座って身を隠しながら、隣から聞こえる騒音に耳を傾ける。
音がやむと、影は別の教室へおれたちを探しにいった。
「はぁあああ。助かった」
ふたりして、大きな安堵の息を吐いた。
同時にまったく同じ行動をとったことで、おれたちは顔を見合わせる。
「最悪。変態と似たことをしてしまったわ」
「じゃあおまえも変態だ。今日から一緒に、パンチラ写真を撮りにいこう。初めの内は難しいだろうから、おれのアシスタントだ」
「違うわよ! 勝手に話を進めないで!」
影に気づかれないように静かにだが、すごい剣幕の伊誘波だった。
彼女は机からはみ出ないくらいまで、おれから離れる。
……まあいいよ。元々、女子といる時の距離ってそんなものだ。下手をすると、同じ空間にすらいたくないと逃げていく人もいる。
そんな感じに自分で自分を慰めていると、
「あんた、ひとりでここから逃げなさいよ」
そんなことを、伊誘波は言い出した。
「はあ? どういうことだ。おれに囮になれってことか?」
「違うわよ。あいつが狙っているのは、わたしだけ。わたしを置いていけば、あんたは助かる」
「一緒に逃げたっていいだろ? さっきまでそうだったじゃないか」
「さっきまではね。でも、もう無理よ。あいつはいずれここを見つけるし、出ていっても、あの目の追跡を避けることはできない」
それは確かだった。
窓から逃げても、ガラス越しにあいつはこちらを見つけてくるだろう。外部や警備へ連絡をとろうにも、学園内ではスマホの電波は繋がらない。
「でも、狙うといってもパンチラだろ? なにも命まで失わないんだから」
「死ぬわよ」
「えっ?」
「わたしは、あいつにパンツを覗かれた死ぬ」
「ふざけているのか?」
「大真面目よ。あんたも、これまでの状況を目にして、本当は分かってるんでしょ?」
見透かしたように、そう言う伊誘波。
彼女の言う通りだった。
理解も納得もしているわけではないが、魔物の尋常でない膂力や闇に侵される伊誘波を実際に見て、少なくともこれは命がけの出来事なんだと感じてはいた。
おれの沈黙から、どれほどの考えか察する伊誘波。
まるで中でなにかが起きているかのように、彼女は頭を抑える。
「わたしね、ここ一年間――もっと正確に言うのなら入学前の三月あたりから今日まで、ずっと同じ悪夢を見続けていたの」
「……」
「暗闇の中で、いくつもの得体の知れない声が聞こえてくるの。どれもこれも、耳に入ってくるだけで鳥肌が立つほど気色悪い。時間が経つにつれて声は大きくなれ、そしてわたしの身体にヒビが入りはじめた」
「……」
「人形の足と首を持って、折っていく感じ。パキパキ、パキパキ、とここあたり(・・・・・)の皮が散っていくの。ヒビの穴は、深くそして広がっていったわ」
伊誘波は、丹田の下を指した。
「でも、しょせんは夢だろ?」
「……そんなのは、体験したことないから言えることよ。毎朝、起きると吐き気に襲われて嘔吐する。股のあたりが言いようのない不愉快さに包まれる日々。症状は、どんどんひどくなっていく」
伊誘波は顔色を真っ青にして、震える体を自分で抱きしめる。
心の底から影に恐怖していた。
「いつの日か、あいつ――魔物に殺されると予感していたわ」
「魔物っていうのか? あの影は」
「そう。夢で自分たちから名乗っていたわ。魔物が、おまえを壊すぞって……寝ていない時にも襲ってきそうで、ずっと周囲を警戒してた。そのせいで、感覚も鋭くなっていった」
「じゃあなんで、今日はひとりに?」
「もういいかなって……疲れちゃったの。このまま苦しむくらいなら、いっそあそこから飛び降りて死んじゃおうかなって。そう思っていたら、あんたが呑気にやってきて。わたしがこんなつらいめにあってるのに、こいつみたいな犯罪者が元気でいて、だからせめて同じくらい嫌な思いを味わえって」
「……ひどいな」
「残念だけど、気持ちは変わってないわ。でも、本当に死ぬのはわたしひとりで充分。あのタイミングだとあんたのパンチラが原因って勘違いするかもしれないけど、あれがなくてもいずれはこうなっていたって確信はある。だから、関係ないあんたは逃げなさい」
おれを嫌悪しながらも、伊誘波はおれを逃がそうとしている。
強い拒絶は、おれのためにやってくれている気がした。見捨てやすく、また置いていっても決して後悔しないようにという配慮だ。
その一方で、彼女は自分のことについてはもう諦めきっていた。
もう自分が命を失うという確定事項を前提として、ここまで話している。
……入学式で初めて見た時から、伊誘波 黄泉へおれは憧れていた。
代表として教壇に胸を張って立ち、勇ましくスピーチを読み上げる。そこには、おれにとって究極の美があった。
下がる時まで、凛として美少女。
そんな彼女が、今ではおれの隣で憔悴の末に絶望している。
「なあ伊誘波。最後にひとついいか」
「お別れの言葉? いいわよ。聞いてあげる」
息を吸うと、おれは力強く叫ぶ。
あの魔物に聞こえるくらいだ。おそらく優れた視覚ほどではないないにせよ、やつに聴覚はあるのだからこの声を聞けばやってくる。
それでいい。むしろ、おれを襲ってこい。
だって。おれは、おれが憧れた彼女を――
「パンツとは、たちこめる霧に包まれたひとつの星だ」
――絶対にあの影から助けると、心に誓った。
「ふぇっ?」
すっとんきょうな顔になる伊誘波。そういう顔もまたかわいらしかった。
「いいか。パンツとはな」
「いやなんでパンツ? そりゃあんたといえばパンツだけど。というか言ってて思ったけど、あんたほんと極悪変質者ね」
「そう。おれこそがパンツ。名前を英訳すると、パンツ パンツになる。まさしくパンツの申し子。チャイルドパンツ」
それだとオムツだ。もちろん、ありよりのありだが、今はそういう時じゃない。
おれは腕を伸ばして、伊誘波の肩を掴んだ。
ガシッと握って、両目を合わせる。
「な、なに。もしかしてパンチラ以上のことをするつもり? それはいやよ。絶対にいや。初めては、ぜんぶ好きな人にあげたい。まあ、そんなことも無理なんだろうけど……」
「それだ!」
「はっ?」
「それなんだよ。おれが言いたいことは!」
戸惑う伊誘波へ、おれは早口で言っていく。
「世の中さ。嫌なこといっぱいあるよ。テストとか家の手伝いとかめんどくさい学校行事とか。やらないと怒られるし後悔することもあるけど、でもいざ頑張ってみても、よく分からずに結局は中途半端な成果で終わる。正直、たまに死にたくなる時だってある」
「……」
「けどさ、それだけじゃないんだよ人生。苦痛が過ぎる時間を待つだけが、人生じゃない。どれだけの絶望に包まれようが、ひとつの希望を追いかけるのが生きるってことなんだ」
希望は人それぞれで、なんだっていい。いくつでもいい。
でも必ず、この人生という霧の中で、輝く星はどこかにあるはずだ。そしてその星を求めるかぎり、人は生きるのを諦められない。
「――生きよう。伊誘波。最期まで希望を追いかけ続けよう」
「……あんたさ」
「なんだ? 頑張る気になったか?」
「……変態なだけじゃなく、すごい青臭いのね」
「うぐっ」
心底、呆れ果てながら言う伊誘波。冷ややかなその罵倒は、ボディブローのように効いた。
実際に指摘されてみると、すごく恥ずかしいこと喋っていた気がした。
耳まで真っ赤にして恥ずかしがるおれ。その手を伊誘波は、振りほどいた。
「パンツパンツパンツ。一生分、その言葉を聞かされた気がしたわ。恥ずかしい説教含めて、あんた、やっぱり馬鹿よ」
「ううぅ」
「……でも少なくとも、死に際に出会う人間が、こんな変態になるのは嫌になったわ」
「そ、そんな責めなくても。おれだっておれなりに」
えっ?
伊誘波は立ち上がると、部屋の出入り口へ体を回す。
まるで、あいつを待つかのように。
「わたしにだって、生きたいって思う希望のひとつやふたつくらいある――ここで、あいつの意識を奪って、その内に逃げるわよ」
「ああ! 協力する!」
おれは、彼女の言葉に強く同意した。
打倒魔物に意識を結束したおれたちは、あいつを倒すための準備をする。おそらくやつが来るまでの時間はほぼない。
だけど、おれたちができる中で最大限の効果を発揮する対策は、意外にも短時間で用意を済ませられた。