非日常の訪れ
まるでこの世界の法則である重力を無視しているかのように、影の球は浮遊したまま風船のように膨らんでいく。数秒も経たない内におれの二倍以上まで大きくなると、今度はゴリゴリゴリと生理的に不快感をもよおす音を立てながら腕を生やす。
人間の腕だ。丸太のように太い。
六本の腕をコンクリートの地面まで延ばし、掌で着地する。
そこでおれは初めて、影の色が黒い獣毛のようなものによって成していることに気づく。
昆虫のように均等に腕の付け根が生えている影は、おれと伊誘波どちらのほうへ顔を向けているのか分からない。
ふいに、そいつは跳んだ。
一瞬で高速道路における車の最高速度まで加速すると、空中にいたままその太い腕を振るう。重く素早いその一撃は、空間そのものを裂く威力だった。
伊誘波の頭上を、影の手は過ぎ去った。
「平気か⁉ 伊誘波!」
「ひぃいいい!」
聞いたこともない悲鳴を喉から鳴らす伊誘波。
怯えた顔で、影を見上げる。
「早く逃げろ!」
「む、無理よ」
「どうして⁉」
「こ、腰が抜けちゃって」
どうやら影の一撃を避けられたのは、偶然によるものだったらしい。
ガッガッ、とコンクリートの壁から貫通した腕を引き抜こうとしている影の真下にいても、伊誘波は逃げずに見ていることしかできなかった。
残っている影の腕が、なにかを探す動作を始める。
幸運というのは続くものなのか、手は伊誘波に触れず、空を切るばかりだ。
伊誘波も落ち着いたことで回復してきたのか、じりじりと影から離れようとした。
その時だった――やつの全身の眼が、表に出た。
上から下まで、前から後ろまで、左から右まで、全方向を影は見つめる。伊誘波へ、真っ先に手を伸ばした。
掴まれた伊誘波は、その不気味な影の外見と捕まえられた恐怖で顔を青ざめさせる。
「やめてぇえええ。やだぁああああ離してぇえええええ」
胴体を余さず握る大きな手。その中にいる状態では、虫のように簡単に潰されることが否応なく想像されてしまう。
伊誘波は抵抗するが、指一本すら影は動じることはなかった。
彼女を浮かせたまま、影はもうひとつの手を近づける。親指とひとさし指をくっつけてじっと近づける様子は、まるで人形を弄ろうかとしているようであった。
影の指先は、伊誘波のスカートの端を掴んだ。
「ぎゃぁあああああああ!」
わずかにめくられた途端、伊誘波は金切り声をあげる。
それはさっきまでの嫌悪の感情によるものと違って、痛みを訴えているようだった。
めくられる部分が広がるたびに、なんと伊誘波の体が写真に映っていたあの闇に覆いつくされていく。
闇に侵食されるたびに、彼女は大きな苦しみを味わっていた。
声が枯れていき、ついには息も止まろうとしかけた。
「パンチラ真剣奥義・男槍掘り! くらえおらっ!」
ドスッ
槍投げの要領で放たれた透明バーが、影の眼球のひとつに刺さった。
その一投は不意打ちとなって、影の手から握力が失われて伊誘波は落下する。ぶつかった尻を抑えながら、彼女はおれに驚愕の目を向ける。
「あんた、なにしてるの⁉」
「助けた!」
「そ、それはいいけど、いったいなんで? こんな化け物相手になんで立ち向かったの? 普通は逃げるでしょ」
問われたおれは、世界の中心から端まで伝えるかのように大声で叫んだ。
「おまえのパンチラを、最初に見るのはおれだ! 他のやつには渡さん!」
「やっぱりあんた最低よ!」
「おれの人格について議論している暇はない!」
影に隙ができている内に、伊誘波の元へ走りこんでいたおれ。
まだ到着してないに関わらず、影は壁から腕を抜き終える。すかさず掲げてから、握り拳を作って伊誘波へ振り降ろしてきた。
「ファイトいっパンツゥウウウ」
「きゃっ」
背中と膝を抱える。
いわゆるお姫様抱っこで伊誘波を持ち上げると、そのまま右へ転がる。
ズガン!
大きなハンマーのような拳が、すぐ横で地面にぶつかる。コンクリートの破片と砂ぼこりがおれたちのところまで散ってくる。
「大丈夫か? 伊誘波」
無事を確認すると、いつのまにか彼女を蝕んでいたはずの闇はどこかへ消え失せていた。
顔を合わせた伊誘波は喚きだす。
「もう少しで自分まで危なかったのに。あんたほんとに馬鹿なの⁉ それとなによさっきの最低の掛け声!」
「馬鹿じゃない。パンツ好きの変態さ」
「いや! 離して!」
「悪いが難しい注文だ」
拳がまた振り上がるのを見て、おれは伊誘波を抱えたまま前へ走った。
砂ぼこりで周りなんて一切見えてないが、飛び出す前からこの位置に移動することは決めていた。
ボタンを押してロックが緩んだ扉を体当たりで開く。内へ入ると、足で扉を締め直しながら、ベルトを外す。
それらを終えると、おれは階段になってない場所から下へ飛び降りた。
「うそうそうそうそ」
慌てる伊誘波。ワイヤーによって落下の勢いは収まり、安全に一階半分下に降りられた。
その直後に、壊される屋上の扉。
鋼鉄製の錠は粉砕され、影は階段を使っておれたち目指して降りてくる。
「逃げるぞ」
「なんであんたみたいな外道と一緒に」
「旅は道連れ、世は情けってね」
「それ嫌がられる側が言うことじゃないでしょ」
腰が元に戻った伊誘波と、おれは一緒に影から離れていく。
こんな経緯で、いつもの日常を過ごしていたおれと彼女は、あいつこと非日常に追われることになったのだった。
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