魔物と背中合わせ
「えー、このように近代動物行動学を確立したのがローレンツです。ここで初めて名前を知るような人でも知っている、ひとつ有名な話が彼にはあります」
教壇に突っ立っている教師が、生徒のみんなへ話しかけている。
「インプリンティング。いわば、刷りこみですね」
授業を受けながら、おれは目だけを動かして周囲を見渡す。
「ローレンツは、カモの卵を孵化して、ガチョウに育てさせようとした。本来は種族の違う二匹ですが、ガチョウの目の前でカモを孵化させたところ、そのカモの雛は実際には血の繋がってないカモを親と認識して後ろを追いかけるようになりました」
右には棚橋、前には内藤。左には岡田。
どいつも二年生になってからのクラスメートだが、そこそこ親しい関係だ。
横目で、伊誘波の近くも覗く。
女子がいて、その娘には嫌われているが、それでも顔や名前は覚えている間柄だ。
「つまり刷りこみというのは、生まれて初めて見るものを親と認識する本能としての行動なのです。とはいっても、様々な学者からこの話を否定する声もあって――」
駄目だ。
疲れたように、机に突っ伏すおれ。
今のおれは、この前まで仲間かもしくは知人だと思っていたクラスメートたちがみんな、魔物に見えてしまっている。
そのせいで、ここ数日はほぼ伊誘波とその周辺を見続けることになった。
いやよく考えれば、以前と変わらないなこの生活。
ツンツン
「ん? どうした仁?」
前、前、と口パクで教えてくれる仁。
もうなんか男でもいいかな。疲れた頭で、おれはカメラを起動させようとした。
「授業中に盗撮とは。さすが脳味噌の代わりにパンツが詰まっていることで有名な下帯くんですね」
「げえっ」
「頭部を切り開いて、標本のものでも入れておきましょうか。プラスチックでも、綿やリネンよりは脳として機能するでしょうから」
さっきまで教壇にいたはずの教師が、おれの机の脇に立っていた。
「いやこれでも、話は聞いていましたよ?」
「では問題です。栗本慎一郎が書いたローレンツの研究を参照した本は、なんてタイトルでしょう?」
「パンツをはいたサル!」
「正解ですが、授業ではまったく扱ったことがないため、やっぱり話を聞いていなかったことが分かります」
「よくも騙したぁあああ!」
「とりあえず、いつも通り廊下に立ってなさい」
「えぇ~⁉ いつも通りなら、課題か廊下か選ばせてくださいよぉ~。今回は課題、頑張りますから~」
懇願し倒すことで、課題を掴みとったおれ。
そりゃいつもなら放課後を余計な時間に取られないため、廊下一択だが、今回に関しては伊誘波からひと時も目を離さないために課題を選ぶしかなかった。
……あとで、教えてもらおうっと。
そんな感じに授業をやり過ごすことで、休み時間に入った。
「大丈夫? あんた」
伊誘波がおれの席まで来てくれて、声をかけてくれた。
どよめくクラス。
「しぇぇえええ! 伊誘波さんが、なんか仲良さげに下帯といる!」
「穢れて……しまった……」
「冥界のノストラダムスよ。あなたの予言は少し遅れて、二〇二〇年の今年に当たりました」
「伊誘波さん。もしかして脅されない? なんだったら警察に連絡しようか?」
ここ最近では毎日の流れなので、反応は無視して伊誘波と話す。
「平気平気。ふぁ~」
「あくびまでして。それに、目の下クマだらけよ」
「大丈夫大丈夫。まだ三日間程度だし寝てないの」
「あんな負傷した後なのに……」
ゴリ――いや、魔物イッタンモメンとの対決から三日が経った。
その間、おれはほぼ休むことなく魔物からの襲撃を警戒し続けた。
憑依。
対魔巫女である依緒の話では、その術によって、魔物は人間の体内に潜むことができるらしい。
憑依が成功すれば魔物は学園内に貼られた結界に反応がすることもなく、ましてや誰の目にもあの珍妙な肉体を晒すことなく、この学園における人の集団に紛れこめるそうだ。
ゴリのように監視カメラに映っていたのは運が良かったほうで、学園の外でやられたらほぼ完全に憑依した魔物を発見する手段はなかった。
ようするに、今のおれは伊誘波の周辺どころか、あの魔物の身体能力も判断に含めると学園にいる全ての 人間に注意を払わなければならないのだ。
パンチラで鍛えた五感を研ぎ澄ませることで察知は可能だが、それでもここまで長時間となると体のほうに先にガタがきはじめていた。
「……では、今日のところは私が代わろう」
「南元さん」
外から教室へ帰ってきた依緒も、おれの席まで来た。
「やだ! 伊誘波さんだけじゃなく、南元さんまで!」
「嘘でしょ。あの依緒様が」
「地獄よ。この世は地獄と化したわ。核戦争が起こるのよ」
阿鼻叫喚になる教室。
女子たちの悲鳴が、こだまする。
「……そういえば、あまり学校では絆と話さないようにしていたな。お姉ちゃん」
「うん。その判断は正解だったわ」
「代わってくれるって。嬉しいけど、依緒も忙しかったじゃないか?」
「だいたい準備は済ませた。結界も強化して、使い魔程度じゃ侵入すら不可能になって生半可な憑依だったら見破れる」
「白昼堂々とそんな単語使っていいものなの?」
「音だけではほとんどの人は分からないだろうし、気づいてもゲームかなにかのものだと勘違いしてくれるだろう」
その言葉はどうやら当たっているようで、クラスの一部の連中では「結界? 南元氏のジョブは陰陽師でつか?」「コポォ。神職萌え」「拙者、伊誘波タンは猫耳がいいでござる」「陰陽師で猫耳。これはFFでマターリ決定ですな」とおれたちがオンラインゲーム仲間だという認識になっていた。
懐かしいなFF。中学では、究極のパンチラ目指してキャラエディットに明け暮れていた。
「分かった。おれと依緒じゃ経験も実力も違うだろうし、任せた」
席から立ち上がって、教室から出ていこうとするおれ、
「授業はちゃんと受けろ。お姉ちゃんとの約束だ」
「はいはい。だから目を覚ますために顔洗いにいってきますよ」
「はいは一回!」
「ハァイ」
「アメリカ人の挨拶じゃないんだから」
しょうもない会話をしてから、おれは廊下を移動した。
トイレに入って、水道から出た水を顔に浴びせる。
シャバッシャバッ……キュ
蛇口を閉めてから、おれは濡れたまま鏡を見た。
「依緒……」
どうやら幼馴染の彼女は、対魔巫女だったらしい。
とはいっても、そんな名称はおれも彼女本人に言われるまで知らなかったのだが。
実は魔物は今回の四体が初めてというわけでなく、古代から現世に至るまでたびたびこの世界に出現していたらしい。
そんな人間にあだなす魔物を退治しているのが、依緒――対魔巫女というわけだ。
これまでおれが露知らずといった場所で、依緒はあんな化け物たちと渡り合っていた。
その事実にわずかな寂しさを感じるが、こと今のような緊急事態ではそれよりも頼もしさを覚える。
「せめておれは、足を引っ張らないようにしないとな」
おれが倒しきれなかった魔物を、依緒は圧倒していた。
ゴリに関しても、彼女の応急処置がなければ死んでいたらしい。正しい対処のおかげで、数日の睡眠で済むそうだが。
強力な助っ人だが、決して任せっきりにならないように、スッキリした頭でおれは自分にできることを考えることにした。
次の授業の時間もそろそろなので、おれは約束を破らないよう教室へ戻る。
「んっ? 先生?」
「うぇっ。し、下帯くん」
「どうしたんですか? 先生の授業は、もう終わりましたけど」
さっきおれを怒った生物教師が、隠れるようにして教室を覗きこんでいた。
驚いた後、手元のファイルからプリントを出してきた。
「君にね、課題を渡しにきたんだよ」
「取りにこいって言われたんですけど、気遣って持ってきてくれたんですね。ありがとうございます」
表彰式のように、課題を受け取るおれだった。
それで用は済んだはずなのに、教室をチラチラと眺める生物教師。おれは、彼女に質問を投げかけた。
「伊誘波のほう見て、なんかあるんですか? 先生」
「あー。バレちゃったか」
「人の視線なんてすぐに分かりますよ。どれだけパンツ覗いてると思うんです?」
「君やっぱり反省してないよね……だいたい学生というのはだね」
うげっ。やぶ蛇で説教が始まってしまった。
なんとか話題を反らそうとしようとしたところで、
「写真部でーす」
カシュ、と横でシャッターを切る生徒が現れた。
フラッシュがキツかったのか、慌てて顔を隠しながらよろめいてしまう生物教師。
「写真部? いきなりなにを?」
「学校の日常写真コンテストに出す作品を撮ってる最中なんです」
「なるほどそういうことね。分かりました。しかし部活動に熱心なのはいいですが、写真を撮る時はちゃんと写る人の許可を取るようにしなさい」
「はい」
「よろしい」
第一写真部の部員が素直に頷くと、生物教師は教室から立ち去っていった。
おれのほうも一応、部活動に入ってるちゃ入ってるんだけどな。
言ったとしてもまたお説教のネタにされるだけなので、黙ったまま自分の席へ戻ることにした。
もうすぐ授業のため、伊誘波も依緒も各々の机で準備をしている。
ひとりになったおれは気の抜けたように。椅子へ体重を預ける。
「絆。さっきの話が聞こえちゃってたんだけど、三日も寝てないで平気なの?」
「ああ仁か」
女子がいなくなっても、男の子はまだいた。
「よかったら授業中、寝ててもいいよ? ぼくがノート全部取っておくから」
「気遣いありがとう。でも、断らせてもらうよ」
いつも優しい仁からの申し出を、拒否する。
依緒とおれじゃ基礎体力が違うだろうから、まだまだ疲れてなんちゃいないけど、彼女も人間だ。負担を減らすに越したことはないし、ミスもあるかもしれない。
なのでおれはひっそりと、伊誘波周辺の監視を続ける。
「あっ、でもノートは後で見せてくれ。いつも取ってないし」
恰好つけたわりに、最後にいつも情けないことを言ってしまうおれだった。