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At Park

作者: 山本ハナ

あぶら蝉の不協和音の大合唱が、頭の中でグアングアン鳴り響く暑い日、私はわざわざ新宿まで出て、哲一と食後のお茶を飲んでいた。出不精の私にしては珍しいことだ。夏休みが始まり、内向的な私はすっかり外出の機会が減った。熱心ではないバイトと、たまにこうして哲一とお茶を飲むためぐらいしかしか、私は外に出ない。かといって家にこもってもくもくとやるような趣味を持っているわけでもない。しかし確実に時は流れていく。大学生の夏休みというこの贅沢な時間が、掌の砂のようにさらさらと無為に流れていってしまうのを感じる。哲一と私は付き合って間もなく一年になる。哲一は私には初めてできた彼氏である。動機は単純。恋愛の経験が一つくらいないと、彼には振り向いてもらえないと思ったからだ。哲一にとって私が何人目になるのかなんて知らない。もしかしたら聞いたことはあるのかも知れない。私は興味のないことは覚えられないタイプなのだ。今日は賑やかな通りに面したチープなカフェでお昼を兼ねてデートだ。別に食事が安価なこととか哲一がおごってくれないこととか、お金がないことが不満なわけじゃない。哲一は本当に何にでも生真面目で、それは恋愛にもだ。夏休みが始まってから毎週水曜日と土曜日には、必ずデートに誘ってくれる。これは私が月曜日と木曜日がバイトで、バイトの次の日には必ず家でまったりしていたい気分で、しかも日曜日は家の前のレンタルビデオ屋が半額になるという、私のスケジュールと、特殊な精神事情と、私の住んでいる地域特異性に精通しているからこそである。彼は勉強に対してもお金の使い方に対してもとにかくきちんとしていて、その生真面目さは時々私をうんざりさせる。語尾のトーンを時々変えて哲一の話に聞き入っているふりをしながら、私は別のことを考えていた。窓ガラスの向こうでは土曜の午後、人々が波になって歩いている。買い物帰りで大きな袋を抱えて笑っているカップル。映画の帰りか、パンフレットをそれぞれ持ちながら、楽しそうに語っているカップル。瞼の裏側のもう一人の私は街を彼と一緒に闊歩している。陰気にカフェでグダグダ座ってなんかいないで、何をしよう。彼と一緒にプリクラ?彼と一緒に買い物?きっと楽しいに違いない。瞼の裏側のもう一人の私とはもう十年来の付き合いだ。気がつくと哲一の話が彼の研究テーマ、ミドリコケラムシにおける特殊なDNAの置換の方法について、に移っていた。私と哲一との間には会話らしきものが成立しない。2,3言当たり障りのない話、どこどこの地方では気温が40度を超えたとかそんなこと、を済ませてしまうと無言になってしまう。しばし空白の時間が流れたのち、哲一が一方的に自分の研究の話を展開する。哲一は自分の研究にすごい情熱を傾けている。「276個中○○酵素を持っているのが176個で持っていないのが100個なんだよ。100だよ、100。なんでこんなきれいな数字なんだろう?すごくない!」くだらない。100だろうと99だろうと私の生活に何の違いも生み出さない。どうでもいいことだ。だいたい世界に数百匹しかいないその虫の特種な生態を調べることに何の意味があるのだろう。彼だったら、大学の勉強は将来何の役にもたたないって早々と悟って、試験だけ軽くパスして、もっと中身のあることをしているだろう。そうに違いない。でも中身のあることって何だろう?彼はサークル活動に打ち込むタイプでもない。半年ずつ三つのサークルに入った話をこの前会った時聞いた。彼はスポーツならばだいたい半年くらいでサークル内の試合では優勝するくらいになってしまうらしい。そうすると自分のそのスポーツに対する限界が見えてしまう。だから辞めるのだそうだ。そして新たなスポーツに挑戦する。彼は物事の核心だけをさらっとすくってさらに上を目指しているようにみえる。さらに上とは?一方私は大学の勉強に何の面白みも見いだせないでいた。だって大学の授業は本当にどうでもいいようなことを扱っているとしか思えない。枝葉のことだ。大きな世界に結びつく気配が全く感じられない。講義の度にだから何?と問いたくなる。だからと言って他に打ち込む何かも見つけられない。サークルには入っていない。入学当初、新歓には参加したが、これといったもはには出会わなかったように思う。その時、窓の外をぼんやりと眺めていた私の視線に見慣れたツンツンに立てた茶髪が飛び込んだ。「あっ。」その瞬間哲一を後ろに残して私はカフェを飛び出した。

「まって竜。この不良大学生が。」

「あっ、ユキ姉じゃん。珍しいじゃん。新宿で茶?ガチで走ってきちゃって、どうしたん?」今風のしゃべり方。今時のカッコ。私には縁のない世界。私の顔は良く言えば古風だ。今時のカッコなんて逆立ちしたって似合わない。毎日ジーンズ登校だ。またそれが許される環境でもあった。私は二浪してなお二流の農業大学に通っていた。二年生である。竜とは二歳差。同じ大学の四年生の哲一とはタメだ。私達二人の周りを同じように髪の毛を立てた若者が歩いていく。でも竜の頭は微妙に違う。竜の方が微妙に格好いい。竜はいつも周囲に合わせるのが上手だ。その中でさりげなく個性を出すことも。竜は有名私立の法学部に通っている。最近の言動、格好から察するに彼はちょっと悪びれた大学生を気取っているらしい。でも私は知っている。彼が毎日欠かさずに、日経新聞の記事を切り抜いていることを。しかしそんな真面目な一面はおくびにも出さない。なぜなら彼は今不良大学生なのだから。それにしても彼はいったい何にそんなに興味があるのだろう?彼の携帯がバイブ音を出した。「何?今からカラオケ?行く行くどこ?駅前のカラ館?オッケ。」彼はとっても社交的だ。いつも連絡のつく、いつでも気軽に遊びにいける仲間がいる。私とは真逆に・・・。竜はスポーツができる。勉強もできる。いつも仲間の輪の中心にいて、でも外側にいる子にも気配りを怠らない。小さい頃からみんなのヒーローだ。でもそれだけじゃない。彼はいつも先を見ている。高校生の時、彼は部活に奔走して、大学受験をおざなりにしているように見えた。誰の目にも勉強しているようには見えなかった。でも蓋を開けてみると、結果は違った。無名の公立高校から有名大学へ。彼は予備校の録画授業を復習し、想像するにコツコツと、それは寝る間も惜しんで勉強していたのだ。「だっていい企業に就職したいじゃん。」彼はあっけらかんと言う。彼に努力という言葉は似合わないと私は思う。でもそこが格好いい。竜は私が中学に上がるまで私の隣に住んでいた。内気な私とガキ大将の竜。性格は全く違ったが、親同士が親しくしていたこともあり、子供のころは日が暮れるまで一緒に遊んだ。今も家族ぐるみでの付き合いは続いている。早い話が、幼馴染だ。そして私の初恋の人だった。その恋は今も・・・。

 「聞いたよ。またデートの途中で用事があるとかって出ていったって?哲さんはよっぽどの用事だったんだろうって言ってくれてたけど、そのうちユキちゃんふられるよ。何が問題なの?私でよかったら相談にのるよ。ちゃんと相手のことも考えた方がいいと思うよ。」

珍しく私は友人の家に遊びにきている。二人で、私が手土産に持ってきた羊羹をつまむ。ななこは私の研究室の友達だ。研究熱心でない、そしてなんとなく人の輪から外れてしまう、という共通点を持った二人は必然のように友達になった。私は大学にはななこのほかに友達らしい友達はいない。ななこは私と哲一のことを本気で心配してくれる。なんで人のことにこんなに真剣になれるのだろう?ななこのメールは友情が画面いっぱいにあふれている。『これ以上の友達はいない』とか『出会えて本当に良かった』とか。そして文章がやたらと長い。私もななこの意見に賛成だし、ななこがいなかったらどうなってただろうと思うとぞっとするけれど、ななこのメールへの返信はちょっと私には重たい作業だ。

「わかった。今度からちゃんとする。」

「よし。わかったならよしっと」

ななこは視線をテレビのテニスの試合に移した。

「よし、チャンボ!おしい!あと一球!!」

チャンボとはチャンスボールの略らしい。ななこはテニスサークルに入っている。飲み会ばかりの軽いサークルではなく、とことん倒れるまで走る部活のようなサークルだ。彼女の生きがいはテニスだ。中高大とテニスを続けてきた。夏の暑さの中、めまいに襲われ吐いてしまっても、練習をやめなかった。練習はつらい。走るのは苦しい。楽しいことよりもつらいことの方が多い。でもそのつらいことをやり遂げた感覚というのがとても心地よいのだそうだ。私にはわからない感覚だ。私は何もかも中途半端だ。中学では管弦楽をやっていた。当時私は同じフレーズが続く曲になると間違いを頻発した。いつも曲を弾いているその真っ最中に集中力を失ってしまうのだ。さっき先生がいった冗談とか、今日の夕飯のこととか本当にどうでもいいことを考えてしまうのだ。そして最悪なことにはいったい自分が何小節目を弾いていたのか忘れる。私にとって音楽とはどうでもいいものなんだ、生き死にに関係するわけじゃないし。屁理屈をつけてすぐやめた。また私はこの大学に入るまで二浪している。実は高校在学中にもう少し上のレベルの私立ならば受かっていた。でもまだ私は本気を出していない、もっと頑張ればもっと上にいけるはずだ。そう思った。そして浪人した。事実私は高校生の時、昼休みも世界史の年号を必死で暗記する友人達をどこか醒めた目で見ていた。数字の羅列を意味もなく覚えるなんて、理解もできない公式を覚えるなんてとてもくだらないことに思えた。思えば何かしら理由をつけて私は努力することを避けてきた。浪人した私は今度こそ一生懸命になるつもりだった。でもできなかった。半年ぐらいするとどうにも気持が醒めてしまうのだ。今やってることが馬鹿らしくなる。しまいにはどうでもよくなる。受験を一週間後に控えて私の緊張感はゼロだった。そして二日前、インフルエンザにかかった。一週間の入院。その後も動けないほどの高熱。しかし無事に試験日迎えていたとしてもやはり結果はさんさんたるものだっただろう。それほど私の無気力ぶりはひどかった。なんで私は何事にも打ち込めないんだろう?

「もっと真剣に考えないとだめだよ」

「え?」

ななこがこちらを向いている。テレビの画面はCMに切り替わっていた。

「あっ。うん。」

「なんか煮え切らないな。もしかして他に好きな人でもいるの?」

他に好きな人―ズバリだ。瞼の裏側のもう一人の幻の自分は竜の恋人である。それは私の理想の姿。なりたかった姿。そうなるはずだった自分の幻。明るくて社交的でいつも周囲には友達の笑い声が絶えない。何か打ち込める素敵なものを持っていて毎日が輝いている。そして、そして隣にはいつも竜がいる。そうなるはずだったのに、何を間違えてこんな自分になってしまったんだろう?

 しんと静まり返った夜中、ふと目が覚めた。夢をみていた。また何度も夢に見た昔の想い出だ。やはり蝉がジージーと騒いでいる夏休みの、夕暮れ時、私が小学生低学年の頃だ。一日の締めは決まってかくれんぼ。しかし近所に越してきたばかりの、しかも目立たない存在だった私は、まだみんなにきちんと認識されていなかった。私は大きなトウネズミオチの木後ろに隠れた。

「ゆうちゃんみーっけ。」

「竜ちゃんみーっけ。」

鬼になった子の声が遠くから聞こえる。何分待ったのだろう。夢の中でその時間は一瞬のこともあるし、何十時間にも感じられることもある。トウネズミオチの花がびっくりするほど白かった。

「これで全員かな。そろそろ暗くなってきたね。帰ろうか?」

!そんな!私はまだ見つけられていないのに。私は忘れられていたのだ。怖くて目をつむった。その時、声がした。落ち着いた明るい男の子の声だ。

「まだユキちゃんがいるよ。ほら。ユキちゃんみーっけ。」

目を開けると、そこに竜がいた。暗い部屋の中、そっとカーテンを開けると空のシミのようなか細い白い月がでていた。それから、私は毎日のように竜とばかり遊んだ。竜はいつもジョーダンを言って私を笑わせてくれた。竜は私に向ってジョーダンを言ってくれた。誰かのついでではなく、その他大勢にではなく、私に対して。幼い頃から引っ込み事案で目立たない性格だった私にとって、私を私と特定して、個人的に笑わせてくれる人は初めてだった。あれから何年が経っただろう?あんなにもけたたましかった蝉も夜は鳴かない。木々には神秘的な白い姿の蝉がじっと羽ばたく時を待っているのだろう。

 最高気温が38度を超えた。うだるような暑い午後。熱気でなにもかが歪んで見える。竜からメールがあった。新しい彼女に会って欲しいと。「ユキ姉は俺をよく知っているから、同性の目から見て彼女にふさわしい男かどうかはっきり言って欲しい」のだそうだ。そんなの建前だ。竜は知っていたのだ。私の気持ちを。これは警告だ。「これ以上近づくな。」

恥ずかしさでか暑さでか私は真っ赤な顔で電車に乗った。瞼の裏のもう一人の自分。これは消さなければならない存在なの?永遠に現実と重ならない理想はどうしたらいいの?

 待ち合わせ場所のスタバに彼はすでに到着していた。スタバの商品名ってなんでこんなにわかりにくいのだろう。カタカナがやたら長くて舌を噛みそうだ。

「悪い。彼女長引いちゃってさ。遅れるってさ。」

大きなクリアケースを椅子に置いている。中にはポケット六法と講義ノートが何冊も。「今日は勉強会の帰り。」

「勉強会?何の勉強会?」

「ゼミだよ。法律の。俺結構今のゼミがんばってるんだ。格差社会について扱っているんだけど、俺はお金がない人達も不利にならない世の中をつくる弁護士になりたいんだ。」彼は勉強していたのだ。

「夜はダブスク。けっこうきついけど。俺の夢だからね。」

彼は夢に向かって勉強していたのだ。努力していたのだ。私の中で今までもやもやとしていた疑問が、固まって固体となり、ガラガラと音をたてて粉砕した。視界が急に広くなった気分だ。私はどうやら間違っていたようだ。

「学校の講義も、ゼミも結構ためになると思うんだ。全然関係ないと思ってたことがふとした瞬間につながったりするんだ。正直、学期が終わって、勉強して損したなって授業もあるけどね。今は何が重要かもわからない段階だから。何もかも始まりにすぎないからね。何でも手を出してみないと。」

”始まりにすぎない“か。私は大学なんてくだらない、と始めから切り捨ててしまっていた。“夢”なんて持てなかった。そして持てない環境に不満だった。しかし、私はそのくだらない、と思ったものの本質がわかった上でそう判断したのか。否。私はわからないものの中を見ようともせずに堀の外側を一周しただけだったのだ。そういえばこの前哲一が喜びに顔を真っ赤にして報告してくれた。

「この○○酵素と炭素の数が一つだけ違う酵素が人体にも発見されたんだ。もしかしたら僕たちとこの小さな微生物は地球の歴史のどこかでつながってたのかもしれないな。」

私は右から左へ聞き流したが、案外、それはすごいことなのかもしれない。今はくだらなく思える事柄も、どこかで大きな何かとつながる小さな始まりの一歩なのかもしれない。小さなことにも意味があるのだ。私の人生は小さなことの積み重ねを無視して、一足飛びに大きなものばかりを探していた。手の届く範囲からわからないなりにもがいてみるのもいいかもしれない。

 「ごめんね。待たせちゃって。私が今日の進行係だったから抜け出せなくて。あっ。ゼミの勉強会。竜とは別のだけどね。」

長身のほっそりとした美人がやはり大きなクリアケースを片手に入ってきた。

「私があおいです。竜とは付き合って三週間になります。」

意志の強そうな大きな黒い眼に、きれいに上でまとめた黒い髪を飾る銀蝶の髪留めが映えている。細くて長い手足。ベーシックな黒のパンツに流行の花柄のキャミを合わせている。かなり上手と見た。

「私検事になろうと思ってるの。竜と闘う検事にね。」

初対面の相手にそんなにはっきり言うんだ。自分の“夢”を。でも彼女の口調に私はすがすがしさを感じた。

「今日飯田さんに会ったよ。またドタキャンしたって?私が事後処理しといたから。」

竜に対しても乾いた口調で話す。彼女は完璧だ。容姿といい、性格といい、言動といい。竜の彼女にふさわしいのは彼女しかいない。すがすがしい程、はっきり見せつけられた性格の違いであり、能力の違いだった。彼女は闊達で行動力があり、決断力がある。夢に向かって邁進しており、しかも美人だ。全部私が持っていないものである。これを変えることはできないだろう。私がどんなに手足を振り回しても、彼女のリーチには届かない。生まれ持った手足の長さが違うのだ。そうだ、思えば、哲一にもななこにもいつも焦りを感じてきた。なんでも真面目にがんばる哲一。テニスに友情に打ち込むななこ。自分にはないものを持っている二人。でも自分は自分なのだ。いつも中途半端になってしまい、努力が続かない。でも、そんな自分でも、そんな性格を抱えながら一歩一歩前進していくしかないのだ。自分は自分。他人とは違う存在なのだ。どんなにあがいても他人と全く同じものを手に入れることはできない。

 「っとまあ実は憎み合っている二人でした。」

竜はいつも話を茶化して、自分の真剣さをごまかそうとする。二人は共通して取っている授業での問題点を語り始めた。お互い夢を目指し、切磋琢磨する二人には若者らしい輝きがあり、パリッ、とした背筋の伸びるような雰囲気が漂っていた。。私と哲一の間に会話がない理由はこれだったのか。私に話す内容がないから、自分に話す程の中身がなかったからなのか。今まで私は一方的に哲一の話がつまらないから、と決めつけていた。私は本質をぶつけてくる哲一の話にも応えてなかった。                

「その話はもうたくとう。」

もうたくさんというべきところを毛沢東というのは、小さい頃からの竜の十八番のおやじギャグだ。寒いダジャレなのに彼が言うと、笑える。でも今は、泣けてくる。私はがたんと音をたてて席を立ち、逃げるように店を後にした。

 私は夕暮れの街を駆けた。涙が口に入ってしょっぱい。夕立が後ろから追いかけてくる音がする。もう一人の自分が前を駆けている。ぼんやりした輪郭がどんどん明確な姿になっていく。長い手足、大きな目。あおいにそっくりだ。どんどん二人の間は離れていく。追いつかなくっちゃ。このままじゃ本当の私が消えてしまう。いや、あれはあおい。私は、ここにいる。竜と一緒にいるのは、あおい。大きな雨粒がざあざあ降ってきた。走りつづけた体は、汗と、雨と、そして涙で全身ぐちょぐちょだ。でも私を私として見てくれたのは竜。竜に見てもらえなければ、私は存在している意味があるの?私は存在しているの?いつしかとっぷり日も暮れて、夕闇の中、私は住宅街の中の小さな公園にたどり着いた。肩で息をしながら目を閉じる。かくれんぼをしている幼い時の情景が浮かんだ。白いトウネズミオチの花を見上げながら自分の名が呼ばれるのを今か今かと待つ。目を閉じた。

「ユキちゃんみーっけ。」

目を開けるとそこには哲一が立っていた。そうだ私には哲一がいる。ななこがいる。私を見てくれるのは竜じゃない。いつまでもなれない理想にしがみついていてはだめだ。今の自分を大切にしよう。瞼の裏側のもう一人の自分はもういなくなっていた。涼しい風が吹き込んできた。熱気の壁の隙間を抜けるような秋の風だ。夏の終わりの風だった。


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