94.主人公の歩き始め
「お嬢、どうぞ。」
「ありがとう、イオン。」
ルシアは己れの従者である茶髪にアメトリンの瞳を持った青年から紅茶を受け取った。
中身は王子共々お気に入りのカモミールティーである。
「礼ならクストディオに。淹れたのはあいつですから。」
「ありがとう、クスト。お茶、淹れるの随分上手くなったわね。」
「いえ。」
イオンの後ろで本の整理をしていた黒髪に緋色の瞳をした青年が言葉少なに返事した。
その向こう側で赤髪に金色の瞳をした青年が騎士の恰好ながらに書類整理を手伝わされていた。
先程から護衛が主な仕事なんですけど、とぼやいているが、そんなノックスの思いはこの場に居る誰も聞いちゃいない。
現在、私が居るのは第一王子宮にある執務室。
しかし、その部屋の主と彼に仕える仲間たちは誰一人としてここに居なかった。
ここに居るのはルシア、イオン、クストディオ、ノックスの四人のみだ。
...まあ、信頼されているということだろうけど、重要書類もあるだろうに良いんだろうか。
ルシアは王子の為に用意されている椅子に陣取って、カップを口に運びながら窓の外の空を見上げた。
庭で寝転べば、良い昼寝が出来そうなほどの春麗らかな陽気である。
ルシアはもう明けてしまった数ヶ月前の冬のうちに14歳となっていた。
本当に早いものである。
婚姻を挙げて、4年。
お忍びで他国へ出るような突飛な状況に陥ったのはあのアルクスの一回のみで、その後はお世辞にも平和とは言いたくない日々ではあったが、今までのルシアの歩んできた王宮遍歴と比べてみれば、比較的平和にここまで過ごしてきた。
イオンに関してはつい一月前に手元に戻ってきたのだが、早くもクストディオやノックスと良い同僚関係を築いているようである。
そのイオンが未だぼぅー、と外を見つめるルシアの眼前で手をひらひらさせた。
「なあに、イオン。」
「いやー、今日は随分と大人しいと思いまして。いつもなら、殿下が言い出す前について行ってるでしょ。」
「......。」
不機嫌そうに返すルシアに気にした様子もなくイオンは失礼はことをボロボロと溢す。
それ自体はいつものことでそんな軽口も許しているルシアだが、毎回そのやり取りを楽しむようにイオンに言い返していた。
しかし、今日のルシアはそれに言い返すこともなく、まるで図星を、痛いところを突かれたかのように押し黙った。
この中で一番の新参者のノックスも今ではすっかりルシアの性格を踏まえており、その異常さに目を丸くした。
飴玉のような色合いの瞳が今にも落ちそうである。
ルシアの正面に居たイオンは片眉を押し上げて、ルシアを覗き込んだ。
「...そうね、その通りよ。けれど、私はカリストが何故呼び出されたか分かっているの。十中八九ね。」
だからといって、私が動かないことなんて滅多にないのだけど。
勿論、私は調子を崩しているのでも、気鬱になっているのでもなかった。
今、この部屋の主は国王によって謁見の間に居る。
彼の仲間たちもまた、主に従って謁見の間に向かったのだった。
そう、数日前に届いたイストリアとスラング開戦という知らせを受けて。
戦場となっているイストリアの国境へ向かえ、という王命を受ける為に。
主人公は先日18歳になったばかりの不遇な第一王子。
ついにルシアの知る前世の小説のスタート。
つまりオープニングがまさに今、目と鼻の先で繰り広げられているのだった。
常ならば、止められてでも参加したであろうそれにルシアは何も言わなかった。
イオンの言う通りあまりの大人しさに王子から付いてくるかと、提案されるほど。
王子もその仲間たちもルシアの仲間たちだって、そんなルシアに不安そうな顔をするがルシアは頑なと言っても良いほどに王子の提案を断った。
その結果、ルシアたちだけがこの執務室に残っているのである。
...本来なら、作中のオープニングだと喜々として参加するんでしょうけど。
私は怖かったのかもしれない。
本当にここが小説の、誰かの作った物の中だということを目の当たりにするのが。
どうせ、すぐに自覚することにはなるんだろうけど。
私にとっては既にここは現実の世界なのだ。
私が今まで接してきた人たちは登場人物だったとしても、私にとって彼らは個人なのである。
「......大丈夫よ、私はね。」
ルシアはもう一口、お茶を飲み干しながら、王子の帰りを待ったのだった。
物語が、本番が、今から始まる——。




