83.彼の男、その正体(前編)
「こっちですか。」
「ええ、そうよ。このまま行けば竜の尾に辿り着くわ。」
クストディオの動きを遮らないように細心の注意を払いながら、馬にしがみついていたルシアは声を張り上げる。
クストディオの馬術に誰も追い付けず森を駆けている馬は二人の乗るこの一頭のみ。
だから、ルシアを止めることが出来る者はここには居なかった。
私の脳裏には駐屯所で見せてもらった地図が展開されていた。
それに従って馬を操っているクストディオに指示を出していた。
ここはアルクスの最北端ファウケースの北に広がる森である。
この森を北西に進めば、イストリアとの国境に着く。
しかし、その国境は竜の尾の先端に近い部分にあたる街の名前にもなった峡谷だった。
それを私はしっかりと記憶している。
だが、それでもルシアが向かっているのはその国境だった。
何故なら、ルシアは知っているからである。
今、追うべき相手なら何処へ向かうかも。
その行き先も読んだから知っている。
これはアルクス側もイストリア側も知らぬことなのだが、実はこの二国の間に伸びる竜の尾という峡谷は一ヶ所だけ行き来が出来る場所が存在する。
とは言っても、橋がかかっている訳でもなく、かなりの身体能力を問われる、行き来出来る場所と言って良いのか分からないものではあるが。
けれど、今までアルクスとイストリアは竜の尾の切れ目である南東まで大回りしないと人間は行き来が出来ないというのが常識だった。
竜の尾という大峡谷はそれこそ竜人族にしか越えられないと。
そう、だからこそそれは地図に書かれていない穴のようなものだった。
だから、あれは虚を突かれたのだ。
作中でアルクスが西方諸国を裏切り、スラングに呑まれた際、スラング兵が予想外の場所から現れたことに、イストリアとアルクスの南東の国境に居た王子たちは慌てて馬を走らせた。
誰も竜の尾が越えられるものと思っていなかった。
だからこそ、アルクス戦争は想像よりずっと激化した。
以前、テレサがここをアルクスで二番目に危険な場所だと称したけど、作中で一番凄惨な被害を上げた街の名はファウケース。
まさにこの最北の街だった。
ルシアが追う男がどうやって見つけたかは分からない。
単なる偶然のことだったのかもしれない。
しかし、その男がルシアの思い描く人物で、ここが小説に類似しているのだったのなら!
ルシアの追う男は必ずそこへ向かう。
ただ問題は...。
「...その場所の正確な位置が分からないことね。」
作中で書かれていたのはアルクスとイストリアの間にある国境線代わりになっている峡谷でそれが森の中だということだけ。
後はその後の話の流れから森の中でも北側だろうというルシアの予測だけだった。
追っている男が向かっているとしたら、彼奴は正確な位置を知っているだろう。
制限時間は男がイストリアに渡るまで。
何としてもイストリアには侵入させてはいけない。
あの男はスラングの毒だ。
ルシアがスラングの影を懸念しながら、ついぞ決定打を見つけることが出来なかったその存在。
その男が介入していることに気付けたのは偏にあのダガーナイフだった。
ルシアがあれに見覚えがあると感じたのは実際に見ていたからである。
小説の挿絵という形で。
そう、あれは作中に登場したある男が愛用していた武器だ。
その上、私は見てしまった。
ペンダントの中に同じく挿絵で見た男を。
小説内で絶対の敵国スラングの兵として登場するあの男の姿を。
「ルシアは犯人が誰か分かっているのか。」
意思を持って進む方向を指示するルシアにクストディオは問いかける。
クストディオ......何も知らないのに馬を走らせてくれてほんとにありがとう。
私は苦笑いを浮かべて返答した。
「...十中八九。まさか、ここで遭遇することになるとはね。あれは強敵だわ。クストディオ、森の中で騎士団長を見つけたら迷わず武器を投擲しなさい。ノックスは放置で構わないわ。」
「良いのか?」
今、行方を晦ませているのは二人。
いくら騎士団長が確定だったとしてノックスを放置して良いのかとクストディオは言外に告げていた。
「ええ、良いのよ。」
ルシアも直前まで迷っていた。
怪しいと疑った三人のうち、誰がスラングと繋がっているのかと。
もしくは三人ともが黒なのかと。
私だって悩んだ。
しかし、テレサが違うことは駐屯所に留まっていたことで証明され、ノックスは怪しかったが、あれはテレサの言う通り。
「ノックスは無関係。どちらかと言えば私たちと同じよ。」
彼は私たちと同じく独自に調べていたに違いない。
何故なら。
「何故なら、私の追っている男は人と組むことを好まない。例え、それが忠実なる己れの部下だったとしても。だからこそ、男本人が居たのよ騎士団に。」
|春先にイストリア国境付近に現れたスラング兵。
同じく春から可笑しくなったという騎士団長。
てっきりスラングと裏で繋がったからだと思っていた。
けれど、それが別人になったのだとしたらどうだろう。
変装が得意な男が入れ替わっていたのだとしたらどうだろう。
そして、ルシアが追っている男は作中のままだとしたら、彼奴は暗殺の技と変装を得意とする男である。
あの男なら一年という長い間、その人物の親しい人たちさえ騙すなんて驚異的な芸当もやってのける。
そう、ルシアは確信していた。
だから、ルシアは作中での男の動きからこの森に来た。
変装が得意なのも本当なはずなのだ。
そして、単独行動を好み、人に仕事を任せないのも。
ピューイ。
そんなルシアを後押しするように駆ける馬の上空を一羽の鷹が飛ぶ。
少し速度を緩めたクストディオが腕を横に伸ばせば、その鷹は舞い降りてきた。
「ルシア、読んで。」
「ええ。...!」
クストディオの腕に止まった鷹の足から紙を抜き取ると同時にクストディオは鷹を空へと飛ばし、手綱を持ち直す。
私は構わず、紙を開くとそこにはニキティウスの字で報告が。
「...どうやら当たりみたいよ。ノックスが向かった先は北の森、ここよ。」
ノックスが敵ではないのなら、行方を晦ませたのは犯人を追いかけたことに他ならない。
男は巧妙に行き先を隠した。
しかし、ノックスは目撃証言がある。
ノックスが男を追いかけたのなら、彼の向かった先に男は居る。
「!」
クストディオは急に手綱を引いた。
その勢いに驚いて馬が立ち上がる。
私が振り落とされないように支えながらも立て直したクストディオは投げナイフを一撃、二撃と投擲する。
先程、急に手綱を引いたのは一本目を投げたからだった。
「なっ!!」
しかし、ナイフが投げ込まれた方からカン、カンと音が響いて、三本のナイフが地面に転がった。
クストディオの投擲術はそう簡単に防げるものではない。
ノーチェでさえ、虚を突かれれば苦戦する。
それが撃ち落とされた!!
「あれ~、こんなところまで追いかけてくるなんて。一体、何処から情報が漏れたのやら。俺はそんなしくじりはしていないと思うんだけどなぁ?」
ニキティウスとはまた違う、もっとねっとりと絡みつくような間の伸びた声が響いた。
そして、現れた人物にルシアは頬を引きつらせる。
「ええ、貴方は完璧だったわ。ただ、わたくしが色々と知っていただけよ。ねぇ、スラングの毒蜘蛛さん。」
ルシアのその呼びかけに既に騎士団長の変装を解き、挿絵そのままの顔の男はニヤリと背筋が凍る笑みを浮かべたのだった。




