68.さぁ、隣国へ
「では、行ってくるわね。カリスト、ちゃんと仕事の合間に休憩を取らなければ駄目よ?」
「ルシアこそ、くれぐれも無茶はするなよ」
ここは王宮から少し離れた王都の縁。
そこでアルクスへ旅立とうというルシアを王子が見送りに来てくれていた。
イストリアでは春告祭もまだという、本当につい先日やっと外へ出れるようになったくらいである。
王子もルシアも二人とも服装はお忍び用の質素なものだった。
周囲を行き来する者でこの二人が王子と王子妃だと気付く者は居ないだろう。
良くて、その馴染み切らない様子から裕福な商家の子供くらいか。
「カリスト、そんなに心配そうな顔しなくても僕も付いているし、第一、こんなに護衛を付けたのは君でしょ?そんなに危ない目に合うことなんて早々に起きないよ」
そう言って、先日のようにまたもや会話に割り込んできたのはクリストフォルスだった。
ルシアの肩に手をかけてちら、と後ろを見やりながら言う。
クリストフォルスの視線の先には今回、王子によってルシアの護衛として付けられたクストディオ、オズバルド、ニキティウスが居た。
そう、三人もの護衛である。
「それでも足りないと思わせるのがルシアだ」
「あら!」
さらっと言い放った王子にルシアは抗議の声を上げる。
そこまで言うか!?
私だって危険に近い分、より警戒はしてるっての!
「...兎も角、危険なことがあれば、すぐに逃げること。出来るだけ最短で帰還すること。分かったな?」
「――ええ、一月先の春告祭までには帰ってくるから」
ルシアの肩からクリストフォルスの手を退かして、そのままの流れるように王子はルシアの両手を掴んで軽く引き寄せて、そう言った。
それに先程の言葉でむっとしていたルシアは表情を少しだけ真剣なものへと変えて、見上げるようにして答える。
――そう、タイムリミットは春告祭だ。
あの毎年の恒例行事にはルシアも王子妃として参加しなければならないので、それまでには帰還しておかねばならない。
まぁ、何事もなければ、そんなにかからないはずなんだけどね。
つまりはこの猶予、余分を含めてのものである、本来は。
さて今回、ルシアが向かうのはアルクスの北方の地でそれなりの大きさがある街である。
そこでルシアはクリストフォルスの遠戚という身分で行くことになった。
さすがに隣国の王子妃が急に他国の一地方へ赴くことは出来ないからね。
「私が帰ってきたら、カモミールティーを淹れてくれるくらいの体力は残しておいてね」
「また、俺に淹れさせる気か」
「だって、私より上手なんだもの」
いつも通りルシアのリズムに乗せられる王子は呆れたような声を出す。
ルシアだって、これは大変遺憾なのである。
カモミールティーを最初に淹れていたのは私なのに!
王子は見事な主人公補正でいつの間にかルシア以上に淹れるのが上手くなっていた。
「では、行ってきます」
「ああ」
ルシアはクリストフォルスとクストディオと共に馬車へ乗り込んだ。
オズバルドやニキティウスも愛馬に騎乗しているのが見える。
さぁ、出立だ。
「ルシア」
「?なあに、カリスト」
ルシアは呼ばれて、逸らしていた目を外に居る王子へと向ける。
王子が馬車の車窓のすぐ傍まで近付いてきたのを見て、ルシアは反射的に軽く身を窓から外に乗り出した。
うわー、私が王子を見下ろすなんて新鮮だ。
それはそんな風に別のことをルシアが考えていた矢先だった。
「くれぐれも気を付けて。無事に君の帰還することを待っている」
「っ...!?」
普段は全く見せないほどの本当に珍しい極上スマイルを浮かべた王子はルシアの頬に触れたかどうかのキスを贈った。
ルシアはそれが擽ったくて、その笑顔と行動に面喰って、同時に思考停止させて、ただそのままの勢いでサッと馬車の中に身体を引っ込めた。
外では王子が声を出して心底、面白そうに笑っているのが見える。
か、からかわれた!!
「...行ってきますっ!!またね!!」
ふん、と何処かの漫画やゲームではそう効果音が付きそうな、そんなそっぽの向き方をしてルシアは王子に暫しの別れの挨拶を告げたのだった。
結局、馬車が出発しても外からは王子の笑い声がルシアの耳に届いていたのであった。
ーーーーー
「...ねえ、クリス様。そろそろ笑い止んでくれないと私、泣くわよ」
「あー、ごめんごめん。君たちのやり取りを僕が見たのはたった二月ほどの期間だったけど、とっても面白くて!」
「――クリス様!!」
既に出発した馬車の中、未だ笑い転げるクリストフォルスにルシアは拗ねる。
他人にそこまで笑われるようなやり取りをしていたつもりは毛頭ないんだけど!!
「...そんなに可笑しいかしら」
暫くして、クリストフォルスの笑いが落ち着いてきた頃にルシアは居住いを正して、そう聞き返した。
あまり拗ねてこれ以上、同乗しているクストディオを困らせるのも悪いからというのもある。
ただ、普通に何がそこまで彼を笑わせることなのか、純粋に疑問だったのだ。
「うん、とってもね!君は随分、懐かせるのが上手いみたいだ。調教師に向いているんじゃない?」
「...人は調教出来る生き物ではないわよ」
否、してはならないと戒めるべきだ。
人だけが特別と言いたい訳ではないけれど、少なくとも、言語というコミュニケーションが取れるのだから、と私は思う。
素っ気なく発されたルシアの言葉に不機嫌を悟ったのだろう、クリストフォルスはすぐに謝罪の言葉を口にして、違うんだよ、と言わんばかりに手をひらひらと横に振った。
「あー、ごめん。比喩だよ、そんなに不機嫌にならないで。ただ、僕は感心してるんだ。昔のカリストはもっと張り詰めた感じで刺々しかったから。それが4年前くらいから手紙の上でも分かるくらい柔らかくなった。王族としての威厳は損なわれてはいない分、ずっと彼の魅力になったんじゃないかな。――ほら、君のお陰だろう?」
先程までの無邪気な笑い声は何処へやら、ルシアを真っ直ぐ射貫くその瞳は大人びていて、本当に彼も王族なんだなぁ、とルシアはつくづく思ったのだった。
ただただ、ふわふわした普通の少年では、ない。
「私、のお陰かは分からないけれど。私からしたら、カリストはそう変わっていないわ」
この言葉は本心である。
初対面こそ生意気なガキと思ったが、王子は最初から優しい人だった。
そして、優秀で仕事が出来るのも変わっていない。
ルシアの視点からは出会った当初から王子はそう変わっていない。
「...へぇ、君はそう思うんだね。そりゃ、仲が良くて気が合う訳だよ。まるで、君たちは既に長い時を共にしてきた熟年の夫婦みたいだ」
クリストフォルスの言葉にルシアは首を傾げた。
仲が良い。
確かに長い付き合いで軽口で言い合えるくらいには仲良くなった自信はある。
「夫婦...確かに私はカリストの妃で夫婦というのは間違いではないけれど、カリストは私を妹のようにしか見えてないと思うわよ?......そうね、手がかかるって言葉だけじゃ足りないくらいに危険な目にばかり合って、目が離せない。とーっても世話の焼ける妹、くらい?」
「......うん」
「?あら、なあに。どうして、そんな呆れた目をするの?クストディオ、貴方もよ」
同乗者の二人が揃って半眼になったのでルシアは訳が分からないと眉を顰める。
しかし、二人ともルシアのその怪訝そうな視線にも目をくれず、ルシアにそれの解が返ってくることはなかった。
「ううん、何でもないよ。...これはカリストも苦労してそうだなぁ」
「...クリス様?今、何か言ったのかしら?」
「いいや、何も。――さて、気を取り直して。四日後にはアルクスへ入るよ。それで、僕たちの行く街にはアルクスの北方騎士団の駐屯所があってね、...」
後半が小声で聞き取れなかったから聞き返したものの、クリストフォルスは勝手に仕切り直して行き先についての話をし始めた。
完全に話を逸らされたと分かったが、その情報も大事なのは変わらない。
ルシアは少し納得のいかない顔をしながらも、それ以上、追及はしないでクリストフォルスの話を聞くのだった。




