688.戯れともう一つの誓いをここに(前編)
「――もう、良いわ。馬鹿らしい。知らない。もう寝るわ、お休み」
何とも投げやりな声でルシアはぞんざいにそう言い放った。
つんとそっぽを向いて、瞼も閉じて、頑として王子の方を見ようとしない辺り、すっかり拗ねてしまった態度である。
言葉では謝ると言いながら、反省の色が清々しいほどに一欠片として見受けられない王子に機嫌を損ねたのだ。
なまじ、ルシアの普通の人よりはある語彙力で言葉を重ねたところで暖簾に腕押し、糠に釘であることを早々に見抜いたからこその無駄なことはしないで徹底的に跳ね除ける方向へと舵を切ったということだった。
これを、ルシアはほぼ感覚のみでやっている。
そこにいつもの熟慮もなければ、冷静沈着な判断力も介在していない。
そんな調子だからか。
ああ、これは参ったな、と言わんばかりの全く困っていないような苦笑を王子は浮かべるのだ。
本気で怒って言っている訳ではないのを容易に見抜かれているのである。
相手の考えていることが探るまでもなく、何となくで分かるのはそれこそお互い様だということだった。
ルシアはその王子の気配を感じ取って、さらに意固地になった。
本気ではないとはいえ、怒ったり拗ねたりと機嫌が悪い時に親身になって、宥めてくれるなら未だしも、話半分にも見える態度で接されたら、ムッとするものだ。
別に王子に本気で真摯な態度での謝罪を求めている訳ではないが、気持ちの問題だ。
まぁ、皆まで言わずとも分かるだろう。
しかし、口では勝てないし、効果がない。
早々にそう見切りを付けたルシアは実力行使に出る。
王子の手に包まれた己れの手を救出して、本当に足元でしわくちゃになって丸まっていた掛布を取って、寝台に潜ろうとしたのだ。
この一連の流れの速さたるや、クストディオたち密偵組が感嘆するほどのものである。
それだけルシアは拗ねており、時に人は予想も付かないほどの実力を発揮するものである。
火事場の馬鹿力、というにはあまりにも使いどころが勿体ない気もするけれど。
得てして、そういうものなので。
「――知らない!」
だが、王子がそれで何もしないで居る人間と言われれば、答えは――否である。
勿論、何を言ったところでさらに意固地になることは分かっているのだろう。
王子はルシアにそのまま言葉を募ることはなかった。
その代わり、仕方がないな、とばかりの様子でルシアに続いて、掛布に手をかけ、寝台の中に潜り、寝転んだのだ。
その苦笑交じりな気配も配慮も分かっているからこそのそれである。
言わば、大人の対応といったところ。
そんなことをされてしまえば、ルシアとしては立つ瀬がない。
あまりにも対比する自分の態度が子供っぽく見えて、ルシアはそれを誤魔化すようにつん、と言葉を重ねるしかなかったのであった。
ルシアは王子に背を向けて、ぎゅっと丸まった。
巻き込むようにして、掛布を被る。
王子には掛布を分けてやらないとばかりの勢いだった。
それに王子はまた苦笑を一つ、溢したのを耳が拾う。
今度は意地でも反応してやるものかと眉をぴくりと歪ませながらも、ルシアは瞼を閉じて、微動だにしない。
このまま寝てやる、という意志がその背中から伝わってくるようだった。
ふて寝と言われようが関係ないと言わんばかりだ。
「済まない、ルシア。もう、笑ったりしないから――なぁ、どうしたら許してくれる?」
このままでもきっと、ルシアは明日の朝にはいつも通りに戻って、王子に朝の挨拶をし、普段通りに接して、会話を弾ませたことだろう。
大抵のことは引き摺らないようにルシアは出来ている。
良くも悪くも、図太いので。
王子もそれを知っているはずで、このまま放置して寝ても良かったのだ。
実際にそうして、熱りを冷ませる方法だってある。
しかし、王子はその手段を取らなかった。
ふわりと頑なな閉じた貝となったルシアの腹部に王子の腕が回る。
それは背後から抱き込むような形であった。
そうして、ルシアの耳元に唇を寄せて、囁く。
囁かれたそれはまた、多分に甘かった。
とろりとした低い声に潜む甘さ。
それは何処か、乞うようにも聞こえて、ルシアはこれに弱かった。
彼にしては珍しく、王子は無意識にこれを行使しているらしく、滅多なことでは発動されなかったが、その分、その一回一回の威力が凄まじく、ルシアがこれに逆らえたことは過去に一度もない。
もし、自覚ありで使われるようになったらと思うと恐ろしい。
頻度を上げたとして、効力が落ちないようにタイミングを計る頭脳があるから余計に。
だから、ルシアはこれを王子に伝えるつもりは今のところ、ない。
何度か、反論に口から零れ落ちそうになったものの、何とか死守している事柄である。
ルシアはそれはもう、苦虫を嚙み潰したような心地で、ぐるりと寝台の中で身体を捩って、振り向いた。
ルシアは至近距離にある王子の顔に普段は何とも思わないのに頬が赤くなりそうになるのを平常心だとして抑え込んで、代償に睨み上げるように恨めしそうに見つめた。
暫く、そうしていたのは逸らすタイミングを失ったからだ。
王子が穏やかな色を紺青に乗せていて、据わりの悪そうにはしていなかったからでもあると思う。
ルシアは振り向いたは良いものの、何と言うか、迷った。
それは振り向いた時点で怒りは消沈していたからだ。
元々、拗ねていただけで怒っていた訳ではないので、許すも何もなかったのである。
でも、引っ込みは付かなくなっていた。
まさか、振り返って顔を合わせ直したその時にはもう、苦い顔ながらその反面で仕方がない、なんて思ってしまっているのが表情に出ていたとは露とも知らない。
王子が穏やかなまま、何も言わずに居るのもそういうことであった。
そんな状況で王子を見つめながら、逡巡していたルシアがふいに視線を逸らしたのは視界の端でルシアが振り向く時に回していた腕を緩めたりと身動ぎした時にはだけてしまったのだろう王子の襟元に赤を見たからだ。
それはルシアが自分で付けた歯形だった。
半ば、誘導されていたとはいえ、れっきとしてそれを付けたのはルシアである。
小さな歯型と出ているかいないかというところの少量の血が身を包む白い布地を僅かに染め上げていたのであった。
こ、今度こそ...!




