681.それは...多分、大事な話(中編)
「......」
「......」
ぱしん、とルシアは一度だけ、目を瞬かせた。
それは写真を撮るように。
目の前の景色を記録する為、若しくはピントを合わせる為。
またはその景色を、光景を、現実なのかと確かめる為のもの――。
数分か、それとも一秒にも満たない時間だったのか。
少なくとも、そんなには時間は経っていない。
でも、ルシアにとっては酷く長い、長い時間だった。
心臓の跳ねる音も落ち着き始めて、本当に静けさが耳に痛くて。
ぱしん、とルシアは一度だけ、目を瞬かせた。
それ即ち、その一度以降はまるで、見えるそれに釘付けになるかのような様子で開いた目を閉じることも出来なくなっていたのである。
事実、ルシアは目の前に広がる光景――再び見上げることになった天井でも薄暗い部屋の様子でもなく、こちらを見下ろし覗き込む王子に目を奪われていた。
閉じれもしなければ、逸らせもしないでただ。
ギリギリ、焦点がぼやけない程度の距離で。
あと少しでも近付けば、鼻先が触れ合いそうな位置で。
「...何を、している」
最初に沈黙を打ち破ったのは王子であった。
その一言で急に止まっていた時間の全てが動き出したかのような感覚に襲われて、ルシアは数度、瞬きを繰り返した。
乾きそうになっていた目を潤す為のように。
そうして、言われた言葉を反芻する。
したところで何かが解るような内容ではなかったけれど。
「......何、って、それはこちらの台詞よ。急に引っ張らないで。吃驚、したわ」
ルシアはゆっくり、咳き込まないように注意して、言葉を紡いだ。
咳なんてしたものなら、何を言われるか分かったものではないからである。
絶対に眉を顰めさせて、次の瞬間には寝かし付けるように寝台の中へ引き摺り込まれる。
問答無用で掛布を上から押し付けられて、起き上がることすら許してくれないのだ。
だから、ルシアは結局、水を飲んで潤すことの出来なかった喉を最大限に労わりながら、王子に返答を返したのであった。
突然、水を飲もうとしただけなのに引き寄せられ寝転ばさせられ、遮られて。
何を、なんて唐突に聞かれ、必要以上の労力を持って返答を返す羽目になる。
その返答がやや刺々しいものになってしまったのは仕方がないことだろう。
睨む、まではしないけれど、恨めしいという感情を乗せて、見上げる。
紺青は変わらず、そこにあった。
でも、そこに宿っているはずの感情は読めない。
......時々、そういうことがあった。
そういう時に限って、別段、王子は隠そうとしてのことではなくて。
それでいて、とてもルシアが困ることを言う。
良くも、悪くも。
「――それはすまない。だが」
じっと見上げたままでいれば、王子ははぁ、と息を吐いて、それから謝罪を口にした。
けれど、ルシアが口を挟む隙すら与えずに王子は続けた言葉を途切れさせる。
じっとした、視線が落ちてくる。
知らず、ルシアはこくりと息を呑んだ。
時が動き出して、瞬きは出来るようになっても目を逸らすことは未だに出来そうになかった。
そうして、やっと一拍を置いた後に王子の低く心地良い声が降ってくる。
恐怖を与えぬ、強い言葉が落ちてくる。
「――君は、倒れたんだ。覚えていないのか?あの山を下り切ったところで気を失った。だから、安静にしておけ」
「......」
一つ、一つ言い聞かせるように。
言葉を区切って、はっきりとした発音で告げられるそれには重みがある。
やっと、ここで王子の感情がその紺青に乗る。
そうでなくとも、心配故に歪められた眉に分からない訳がなかった。
ルシアは黙って王子を見上げる。
そうして、やっと起きる前の、この寝室にこの寝台に寝るまでの経緯となるだろう光景を思い出したのである。
そう、確かにルシアは倒れたのだ。
あの深山の麓で、王子に寄り掛かるようにして――。
そこまで反芻したルシアはハッとして、視線を勢い良く逸らした。
あれだけ固定されていたそれを何の躊躇いもなく、振り切っていく。
本当は起き上がって、振り返りたかった。
でも、それには至近距離で覗き込む王子を押し退けなければならなかったから、ルシアはそのままの態勢で下を向き、己れの腰に回されたままの王子の腕を取る。
「腕の怪我は......!?」
ルシアは叫ぶように言った。
自分が気絶したのと同時に王子の怪我もまた、思い出したのだ。
大丈夫なのか、と許可もなしに王子の腕を覆う袖を捲り上げる。
そうして、ルシアの前には怪我一つない綺麗な筋肉の付いた腕が現れた。
まじまじ、とつぶさに観察するような、見逃し一つしやしないといった勢いで腕を見て、結果に驚いた様子で固まったルシアに王子ははぁ、とまたため息を吐いた。
頭が痛いようなそんな表情を浮かべたのはきっと、告げたばかりの忠告を即座に破られたから。
どうして君はそう、と言いたげな顔だった。
人のことよりも今は自分のことだろうに、と。
「......ゲリールの民を呼んだ。これは到着したグウェナエルに治してもらったんだ。もう痛みもなければ不具合も、ない」
どうどう、と落ち着かせるように柔らかな声でルシアが知りたいだろうその情報を落としていく。
もう心配はないから、この件はお終いというように。
早く切り上げる為には何事も納得に足るだけの情報を全て開示するに限る。
ルシアは新たに与えられたその言葉をゆっくりと呑み込む。
ルシアとて、彼の治癒に長けた者たちの実力を知っている。
何なら、王子よりも彼の民の一人であるエグランティーヌに手解きを受けているルシアの方がずっと。
だから、その情報は信用に足るものであった。
まぁ、虚偽ではないけれど言わないだけで、ということをされることもあるので過信はしないけれど、後で確認に行かれたら分かる嘘を余程の理由もないのに吐く人ではないと信頼しているので。
ルシアは最後にそうっと怪我のあった場所に触れて、王子が何も反応をしないのを確かめて、手を離した。
一先ず、納得した、という証明だった。
「――なら、良いわ」
すん、と少しだけ拗ねた声を出して、ルシアは言う。
本当は治ったからと言って、それが大丈夫にはならないのだけど。
そんな、完全に自分にも言えたことを内心で独り言ちながら。
ルシアはゆっくりと起き上がる。
先程、引き剝がしたことでルシアを寝転んだ態勢に押し留めていた一番の理由がなくなったからである。
ルシアが起き上がる気配を見せたことに王子は何とも言えない表情を浮かべたものの、このままルシアが寝てくれるとは思えなかったのだろう、仕方がなしといった様子で身を後ろに退いて、ルシアが起き上がれる空間を作る。
ルシアは水差しを取ろうとした時のように寝台の上へ座り込むような形で起き上がった。
さすがに立ち上がるのは止められると判断してのこと。
ただ、最初とは違って、今度は水差しのある寝台の端の方に背を向けて、王子に向き直った。
座ってもある身長差にルシアは自然と王子を見上げる。
慣れた仕草であった。




