680.それは...多分、大事な話(前編)
さて、次にルシアが目覚めた時、一番最初に目に飛び込んできたもの。
それは見知らぬ天井だった。
暗さに覆われたそれをルシアは濃淡のみで判別する。
見覚えのない、とただそれだけを。
さすがにその形のみを鮮明に見分け、本来の色や全容を頭の中で構築するにはルシアの瞳の焦点は合っていなかったのだ。
「......ど、こ」
寝起き特有の呂律が絶妙に回っていない舌足らずで無垢な声でルシアは譫言のように呟く。
それは誰にも拾われず、しんと沈んだ暗闇の中に落ちていった。
ルシアはぼやける視界を鮮明にする為に目を瞬かせる。
その上で半ば睨むように目を凝らすのも持ち上げた片手で擦るのも見ようとするあまりの無意識な行動だ。
人が咄嗟に取り得る分かりやすく無防備な姿。
そうして、ルシアはやっとその天井が天井であることを、そして全く見知らぬものではなく、見慣れていないだけのスターリの街に来てから泊っている部屋の寝室の天井だとルシアは気付く。
見慣れていないから、知らないと思ってしまったのだろう。
何より、寝室は寝る為の場所だから、見る機会は多くてもその時間というものはそう多くない。
だから、目を凝らし、天井の縁を縦に落ちる壁との色の差を見て、初めてルシアは知っている景色だと認識し直したのだった。
「......」
自分の居る場所に気付いたところでルシアは自身が寝台の上に寝ていたのだということにも気付く。
けれども、何処か寝足りないような気怠さにルシアは起き上がることはせず、そのままぼうっと天井を眺める。
ぱちり、ぱちりと瞬きをするが、当然ながら天井に変化は現れない。
しかし、気怠さの他にそれが痛みなのかも分からないような締め付けを頭に感じて、ルシアは僅かに身動ぎして、片手を持ち上げて額に押し付けた。
何のことはない、少しばかり強い力を加えることで気を紛らせる為の行為だった。
自覚はない。
じんわりと、額と指先、人体の中心から末端というほんの少しの体温の違いを感じる。
ちょっとだけ、額の方が熱かった。
視線だけを動かして、周囲を見やる。
時間は、夜中に違いなかった。
時計は見えないけれど、視界ギリギリにある窓の外の暗さにルシアはそう判断した。
室内もまた、灯り一つ煌々とはしていない。
しん、と沈まっていて、きっと触れてもひんやりとしていて、とっくに熱はないだろう。
真っ暗だった。
やっと慣れてきた目を駆使しても、暗闇の中にルシアもまた、沈んでいた。
何もこの部屋の中だけの話ではなく、この街だけの話でもなく、それこそ海を渡って遥か遠くの国まではその全てが同じようにこの安寧の闇の中で微睡んでいる。
それが自然の摂理であることを、ルシアは知っている。
けれども、ルシアはすぐにそれを遵守しようとはしなかった。
気怠さが一度、瞬きを繰り返す瞼をそのまま数秒の間、閉じているだけで夢も見ないような眠りの中へと連れて行ってくれると訴えていたけれど、ルシアはゆったりとしながらも、決してその瞳を瞼の裏側へ閉じ込め切ることはしなかった。
そうして、ぼんやりと鮮明になり切らない視界のせいか、覚醒し切っていないような心地を味わいながらも考える。
それはルシアがここで寝ていた、それに至るまでの記憶。
これが自ら睡眠を取る為に寝台に上がり込んだのであれば、そう可笑しなことではない。
だけれど、ルシアの記憶ではそれが今、起きるよりも前に覚えている最後の記憶という訳ではなかった。
当たり前のように毎晩繰り返すその行為は記憶をあやふやにして、混濁させてくるけれど、それでもルシアは否、と払い退ける。
――そう、ルシアが最後に見た景色は辛うじて夜ではあったけど、早朝に差し掛かっていたのだろう暗がりはもっと明るくなっていた。
そして、それは少なくともルシアの覚えている限りの時刻からまる一日近くの時間は経過していることを告げている。
ルシアはほう、と息を吐いた。
深く、深く、深呼吸。
時間の経過、自分で入った覚えのない寝台、それは意味するものは。
そんなの、気絶して運んでもらったということじゃないか。
情けない話である、倒れるなんて。
もしかしたら、ここまで何とか自分の足で辿り着いたのかもしれないけれど、記憶が曖昧な時点でその当時の自分の意識がはっきりしていたとはどうしても思えない。
どのみち、迷惑はかけたことだろう。
ああ、久しぶりにやってしまった。
最近は上手く調整して無茶はしても寸前までのことで、本当に倒れるなんてことはほとんどなかったのに。
これは説教が長くなる。
それはもう、大目玉である。
ため息にも似た長い息が再び、吐かれる。
ルシアは思わず、もう片方の腕まで持ち上げて、額に当てていた手も合わせて、両手で顔を覆った。
羞恥から周りに見えないように顔を隠す、というよりも情けない顔を自分もまた、見たくもないから押さえ付ける、といった仕草であった。
ぎゅうぎゅうと、そんなに力を入れるつもりはないけれど、肌の弾力に指先が沈む。
「...はぁ」
どれくらいの間、そうしていただろうか。
埒が明かないのは自分でよく分かっていたから、ルシアはそっと両手を顔から離して、上半身を起こした。
気怠さは健在。
けれど、それは多少の薄れを見せていて、起き上がることに億劫さは感じなかった。
ゆっくりと、それでもしゃんとした意識を持って、背筋を伸ばす。
下ろした両手は膝の上へ。
寝台の上で座る形を取る。
だけれど、自分で眠りやすい態勢を取った訳ではなかったからか、長いこと眠っていたかのように身体が軋む。
ギギギ、とぎこちなく、時にカクンと勢い良く。
まるで、人形のようでコントロールが取れない始末。
それでも、自分の身体で動かしているのも自分だというのは認識出来るから、凝りが解れてしまえば、そうしないうちにもっと滑らかに動かせるようになるだろう。
ルシアは正面を見る。
目に映る調度の類いは想像通りでやっぱり、ここはスターリの街の泊っていたあの宿の寝室だ。
「ん、......どのくらい、寝てたんだろう」
ルシアはぼんやり、呟く。
独り言である。
誰かに聞かせるつもりは毛頭ない。
ただ、疑問に思ったことがするりと口に吐いて出ただけだった。
ほぼ一日、それは分かっている。
でも、それは最低限というだけの話でもしかしたら何日も眠っていたかもしれないという恐ろしい可能性が残っているのである。
具体的に何が恐ろしいかというと、体調でも何でもなく王子やイオンからのお説教。
何を分かり切ったことを。
何度、考えても恐ろしい。
ルシアはどちらかというと杞憂に終わって欲しいけれど絶対に終わってはくれないだろう近い未来にややげんなりとした表情を浮かべて、あー、と小さく唸った。
同時にこほ、と乾いた咳を溢す。
喉がカラカラに渇いていた。
それで、咳が出たのだ。
ルシアは何度か、咳を繰り返して、喉を整える。
僅かに眉が寄るのは仕方がない。
そのまま首を横に振って、視線を逸らす。
そうして十中八九、そこにあるだろうと見当付けていたお目当てのものを寝台の横に置かれた小さな机の上に見つける。
夜、喉が渇いた時の為に用意されている水差しである。
ルシアは何の躊躇いもなく、いっそ無防備なまでにそれへと片方の手を伸ばす。
もう片方は未だに違和感の残る喉を押さえていた。
それも水を流し込んでしまえば、消えてなくなることだろう。
水差しを取るには寝台から身を乗り出すこととなる。
寝台を下りることこそしないが、横に向き直って、手を伸ばした。
胸囲から上が寝台から外へ出る。
しかし、支えとして手を突くほどのことはない。
ルシアは己れの体幹だけで身体を支える。
そうして、水差しに伸ばした手が触れようとした時だった。
グイ、と後ろに強い力で引かれたのは。
「......!?」
完全に気の抜けて無防備で居たルシアはあまりのことに言葉も失くして、目を白黒とさせた。
悲鳴すら出なかった口は引き結んだままで、瞳は見開かれたまま硬直する。
ルシアの指先が掠めた水差しは僅かに揺れてカタンと音を立てたけれど、なみなみに満たされたそれは重く、倒れるまでには至らなかった。
結果、寝室に沈黙が落ちる。
そんな夜の痛いくらいの静けさの中で大きく響く己れの心臓の音を聞きながら、強く引かれたことにより倒れ込むこととなった態勢でルシアは見上げる。
このスターリの街で何日も泊っていたあの宿の部屋、その寝室の天井と。
こちらを静かに見下ろすルシアを引き寄せた張本人、深い夜の色の双眸をした王子の姿を。




