676.良い眠りを
「はーい、お嬢。あと少しで殿下の元に着きますからね」
「...わざわざ言わなくとも見えているのだけど」
少しだけ開けた形になっている深山の麓を端の方から中央のより見晴らしの良い場所へと向かって、ルシアはイオンに連れられながら、とぼとぼと歩く。
周囲で調査をしている者たちは他とは違う動きをする二人に一度、動かしていた手を止めて、視線をやったが、その向かう先を見て、声をかけることはせずに調査へ戻っていった。
こうして、誰に邪魔されることもないまま、常よりは緩やかな速度で歩くルシアは王子との距離が僅か数歩というところで告げられたイオンの言葉の弾むような調子にややげんなりとした様子で受け答えたのであった。
「――どうかしたのか」
距離が縮んだことで声も届く範囲に入る。
既にルシアたちが自分の元へ向かってきていたのを認識していただろう当にこちらへ身体ごと向き直って、待っていた王子が口を開く。
ルシアたちの会話にも何処か違和を感じたのか、じっとルシアを観察するように視線を向けてくる。
それにルシアは大丈夫、というようにゆるりと微笑んで返したが、王子の表情はよくなるどころか、僅かに顰められることとなる。
何でだ、と口を引き結べば、さらに落とされるため息にルシアはもう意味が分からない。
「少し顔色が悪くなっていたのでこちらへ。今までの疲労でしょうね」
ルシアが何かを言う前にイオンがルシアの状態を王子に報告する。
普段なら、イオンが無理に口を挟むことはしない。
けれど、ルシアの体調などに関することであれば話が別であるのは昔からであった。
それはルシアが過少して伝えることが多いのを知っているからである。
どうせ、後ろから付け加えるなり、訂正するくらいなら端から歯に衣着せぬ言葉で伝えた方が良い、という結論が彼らの中で決まったらしい。
そして、これは王子とイオンだけに留まらず、ルシアの周りの人間にとっての共通であった。
だから、ルシアは今更のことに表情こそは不服を示し続けながらも口を挟まない。
無駄と知っているから。
意地を張ったところで後から付け足されたら、結局のところは伝わってしまうという結果になることは変わらないので余計なことに労力を割く真似は止めたのである。
こうして、ルシアのことでありながら当人が全く参加しない会話がその頭上で繰り広げられることとなる。
「...そうか。お前の判断なら確かだろう。よく連れてきてくれた」
「いいえ、これも俺の仕事なので。――後はお任せしても?」
「ああ、こちらで見ておく」
王子はイオンの言葉に一も二もなく頷いて、労いの言葉をかける。
イオンはそれに当たり前のことをしたのだという体は崩さずにルシアの受け渡しを推し進める。
ここでも疑問符付きの台詞であるが断られるとは到底、思っていない口調でもある。
やはり、それだけお互いを知っているということだろうか。
王子もそれに気にした様子もなく、頷いて、イオンに背を軽く押されて、一歩前に踏み出したルシアの手を取って、引き寄せた。
ルシアの受け渡し完了である。
「それではお願いします。俺は途中で投げ出してきた探索作業に戻りますね」
「ああ。そちらは頼んだ」
さて、自分の仕事はこれで終わり、とばかりにイオンはあっさりと切り替えて、仕事に戻ると宣言する。
先程まで心配に表情を曇らせていたとは思えない薄情さだ。
勿論、イオンがもうルシアのことを心配していない訳でもなければ、気にしていない訳ではないのはルシアも知っている。
王子に任せておけば、少なくとも無茶はさせないだろうという信頼からやるべきことをさっさと終わらせよう、というところだということも。
「......あの左側の茂みの向こうにも一つ、革袋が見えていたからそれもお願いね」
「はいはい、それも確認しておきます。なので、お嬢は心配せずにきちんと休んでいてくださいね。出発する時、ちょっとでも顔色が悪化してそうなら、問答無用で背負っていきますんで」
だから、ルシアはそれを詰ることもなく、伝えておくべきと思った情報だけをイオンに渡す。
既に踵を返そうとしていたイオンは半身の状態で留まって、それを受諾した。
そうして、少し困ったような、まるで兄のような顔をして、ルシアに受け取り拒否不可の忠告を落としていく。
ここへ連れられてくる前にも言われた言葉だ。
やると言ったら、やるのも知っている。
けれども、その声音の優しさにルシアはそれに何度も言わなくてもだとか、そうならないようにだとか、とあれやこれやと返す気力もなく、はあい、と小さく返事をしたのであった。
ーーーーー
「......なあに?」
「...いや、熱はなさそうだな、と思って。それを確認しただけだ」
イオンが来た道を引き返していくのを見送って、ルシアは王子に手を繋がれながら、ぼうっと周囲を眺めていた。
注視するというよりは茫洋として見る様子は観察というよりも景色を眺めているような目だ。
実際、ルシアはぼんやりと調査を淡々と熟している皆の姿をただ眺めているだけであった。
考えていることと言えば、手際が宜しい皆にかかれば数分としないうちに終わりそうだ、というくらいのもので何処の手が足りていないだとか、見逃しがあるとしたら、もしも罠があるのなら、調査を終えた後の段取りとして用意しておくべきこと、なんていういつもなら考えるそれらは全て思考の外であったのだ。
そんなぼんやりとした中で唐突に額へ手が伸ばされたら、びくりともする。
ルシアは僅かに肩を揺らして、その手の持ち主の王子を見上げた。
小首を傾げる。
その仕草さえ、いつもよりずっと緩やかであることを果たして、ルシアは気付いているのか。
王子は何かを考える素振りを見せながらも、ルシアの体調を確認しただけだ、と言った。
そうして、ルシアの顔を覗き込む。
イオンの言った顔色を確認しているのだろう。
ルシアは王子の好きにさせた。
「疲れ、だろうな」
「...そうね」
額に触れたまま、王子が言うのをルシアは鷹揚に頷いて、返した。
王子の手はひんやりと冷たくて、熱はないと言われたのに何だか、その冷たさが心地良いもののようにルシアは瞼を伏せる。
じんわりと伝わるそれが次第に温くなるのを感じながら、ルシアはゆっくりと口を開いた。
「――もう、ほとんど敵は居なくなったと見て良いでしょう。けれど、街の方には残党も残っている、可能性はあるわ」
「――そうだな。一度、セルゲイの店に着き次第、密偵たちには偵察に出てもらおう。そのまま問題がなさそうなら、各々で対処してもらうのも良い」
「...ええ、そうね。イオンにも出てもらおうかしら」
「提案して、行くと言ったなら任せても良いんじゃないか」
ルシアの口から飛び出たのは考えていないと言いながら、しっかりとした今後の段取り。
王子は僅かに間を空けたが、ルシアが怪訝に思って、閉じた瞼を押し開く前にその話題へと乗って、返事をする。
ゆったりとしながら、淡々と交わされるその言葉は距離の近さに比例しない、何とも事務的なやり取りだ。
だけども、二人らしい、そんな会話でもある。
ルシアは割かししっかりとした応答で王子と会話をしながらも、その実、瞼を開くのが億劫になってきていた。
どんどんと全てが遠ざかっていくように、アドレナリンで昂っていたのだろう心地が凪いでいく感覚を感じている。
保っていた神経が限界に来ているのだろう、と他人事のように考える。
ほとんど、会話の内容が入ってこず、反射のように口を開いていた。
それもそのはずである。
元々、竜玉探しに一日を使ったその帰りにあった襲撃でほぼ一晩中、駆け回って、限界が来ない訳がない。
ミアも居て、途中からは戦闘員も居ない完全スニークの一歩間違えばゲームオーバーの中、未知の場所まで踏み入れ、未知の存在と対峙して。
その上、追い打ちのホラー展開。
ルシアの精神は本人の自覚以上にぎりぎりであったと言える。
ことり、とルシアの頭が前へと傾ぐ。
いつの間にか、王子の手は額から離れており、ルシアの額は王子の胸元へと着地した。
ほとんど凭れ掛かるような状況で、ぎゅっと身体に腕を回された感覚だけをルシアは感じ取る。
王子が受け止めてくれたのだろう。
それだけを思って、ルシアは今度こそ完全に意識を手放したのであった。
「......お休み」
ゆっくりと休んで居てくれ、と。
もう、聞こえていない中でルシアには低く、優しい声がかけられた。




