675.彼女の体調、彼の怪我
※今回は後半より、王子の視点となっております。
「...お嬢、一旦、殿下のところに戻りましょう。その顔色、普通じゃないですよ」
「......」
一晩、駆け回ったことによる疲労もあるでしょう。
だから、休んだ方が良い、と。
イオンは再度、大丈夫と答えながらも呆然として受け答えのキレが悪いルシアに硬い声音で声をかけた。
見上げれば、声と同じく強張らせた顔のイオンが視界に入る。
そこでようやっと、ルシアはイオンの顔も見ずに居たのだと気付く。
そんなルシアの顔は蒼白のままである。
きっちり、正気度を削られていた。
「ああ、もう。行きますよ。――殿下に言えば、すぐに出発することも出来ますし、何なら俺が背負っても良いですけど」
反応の薄いままのルシアにイオンは今にも舌打ちでもしそうな呆れを含むようなため息を吐いて、取り繕うこともしない態度でルシアに形こそ提案であるが、実行前提のような形相でルシアの顔を覗き込む。
ルシアの最初の返事など、全くもって信用していないようである。
まぁ、イオンとしてはルシアの大丈夫という言葉は効力を失っているどころか、逆効果でしかないのだが、ルシアはそれを直接、面と向かって言われたこともあり、知ってはいるものの、いまいち根幹からは理解していないのであった。
だからなのか、散々信用できないと言われながらもこういう時に即座によく飛び出る言葉はそれであったのだ。
あ、と思うのはいつも一連のことが終わってから。
今回もそれを見事に指標として使われたのか、これはいよいよとイオンは無理やり抱え上げてでも王子のところまで強制的に運んでやろうか、と思ったらしい。
逃がさない、とばかりにルシアの腕を掴んだ仕草も含めて、荒々しい。
それなのに、まるで熱でも測るかのように額へ伸ばされ押し付けられた掌があまりにも優しくて、ルシアはほんの少し肩の力を抜いて、息を吐き出した。
僅かにではあるが、心にゆとりが出来た証明だった。
「それは、要らない」
「そうですか。じゃあ、ご自分の足で歩いてください?」
辛うじてではあるが、いつもの調子に近いものを見せたルシアにイオンもまた、顔の強張りを僅かに解く。
そして、からかい混じりだと分かるわざとらしい口調でルシアを促して、背を押すようにして王子の方へと足を踏み出させたのであった。
ルシアはそれに口を引き結びながらも従う。
それは何を言おうと即座に反撃が飛んでくるとか、逆らったら今度こそ有無を言わさずに抱き上げてでも運ばれるだろうとか、その口調にムッとしたとか、ではなく。
いや、それもあるのだけども。
イオンのわざとらしくもいつも通りにも見えるそれが自分を元気付けようと、余裕がなさそうにまだ完全には解け切ってはいない強張りを緩ませようとする意図を含んでいることに気付いているからである。
そういうことをする男、なので。
だから、ルシアは少し据わりが悪そうにむずがるようにしながらも、何も言わなかったのであった。
ーーーーー
気が付けば、辺りの薄暗さも緩和され始めている中でぽつんと立って、陣頭指揮を執るように周囲へ目をくれていた彼は近付いてきた己れの側近に視線を静かに向けた。
側近の青年――フォティアは向けられた視線に一度、綺麗な一礼をしてから正面までやってくる。
そうして、始まるのは報告だ。
「――どうやら、ここを急遽、仮の拠点に仕立て上げたようです。残っていた物資の量からしても他にこれ以上、別動隊が残っている可能性は限りなく低いでしょう」
「そうか」
証拠を示すようにその都度、見つけたものなどを手に取って差し出しながら、フォティアは淡々と無駄のない言葉遣いで幾つかの報告を上げていく。
静かに聞いていた彼――カリストはフォティアが口を噤むのを待ってから、ただ一言、それだけで答えた。
それ以上の質問もない。
それは質問の要るような報告の仕方をフォティアがしないからであって、考えるにあたって必要となるような情報はきちんとそこに含まれていたからだ。
後は自分で考えて、答えを出すだけ。
だから、カリストは必要以上の言葉を紡がない。
「後は休んで居てくれ」
「いえ、休憩の必要なほどの疲労はございませんので、出立の準備でもしていましょう。――幸い、あちらの手伝いはもう必要ないようですし」
よくやった、と助かった、とカリストは労いの言葉をかけながら、フォティアに後は身体を休めておけ、という意味で告げる。
実質、待機命令であるが、必要な時以外はあまり強い言葉を使わないカリストである。
今回のこれもそう。
だが、しかし。
カリストのこのルシアから伝染したかのような言い回しは側近たちには容易に跳ね除けやすいらしく、フォティアは指示に従わないことに頭は下げたものの、淡泊な態度で次の行動を宣言する。
けろりとそれをやって退ける辺り、その図太さはカリストの側近たちとルシアの護衛たち、その双方とも本当によく似ている部分であった。
そして最後に、フォティアが独り言のように溢した言葉へカリストはつられて、視線を伸ばす。
フォティアもまた、見つめていた先には先程までフォティアが行っていたのと同じ、この辺りの調査をしている他の仲間たちの姿が見えた。
確かに遠目に見るだけでもその行為が佳境に入っている様子が見て取れる。
きっと、そうしないうちに報告を持ってくるだろう。
「殿下、要らぬ気遣いだと思いますが、そちらは...」
「ああ、心配は要らない。この程度、支障はない」
暫く眺めていたところで横から声がかかる。
カリストが一瞥をくれれば、いつの間にかこちらに視線を向け直していたフォティアが映る。
その顔は少し困ったような表情をしていて、正確にはカリストを、ではなく、その腕の中にあるものを見下ろしていた。
その視線の意味に気付いたカリストはフォティアが皆まで言う前に答えを示す。
「――そうですか。貴方様がそう仰るのであれば、これ以上、余計な口は挟みませんが...」
断固として言い切った、とも言えるカリストの台詞にフォティアは苦く笑って、そう答えた。
それは己れの主をよく知っているからであり、きっとそう返事が返ってくるだろうと分かっていたからだ。
そこに続けて、提案をしても断られるだろうということが目に見えていたから、それ以上を言わなかったのである。
従順な側近である、からではない。
「......ただ、くれぐれもそれ以上の無理はなさらぬように。私は後で叱責を受けたくはありません」
「彼女が怒るとしたら俺であって、お前たちにではないだろうが...善処はしよう」
しかし、立場というものがある。
そう言わんばかりの忠告をフォティアは投げた。
そこに私情を混ぜるような言い方をするのは側近としてはあまり褒められたものではないだろう。
知らぬ者が見れば、いつも礼儀正しいフォティアのことだけに度肝を抜くに違いないが実は往々にして、フォティアを筆頭に側近たちはこうして私情を口にすることは多々あった。
理由は簡単。
それはその方がカリスト並びにルシアが比較的簡単に頷くことを知っているからである。
本当によく、己れの主の扱いが解っている臣下たちであった。
「――他の者の調査が終われば、すぐにここを発つ」
「承知致しました。それに間に合うよう、準備を整えておきましょう。そう手間はないので問題ありません」
言葉の応酬を終えて、沈黙が落ちた中でカリストは徐にそう言った。
指示を出す者として、上に立つ者としてのその言葉。
無表情で、ただ視線は真っ直ぐに前を見つめながら、カリストはそう宣言する。
フォティアは打って変わって、それににこやか且つ穏やかそうに見える優雅な一礼で拝命した。
そうして、すぐに行動に移す。
かと思われたが、フォティアはそこに留まった。
カリストが視線を再び向ければ、フォティアはそれを待って、口を開く。
「――先程の報告ではああお伝え致しましたが、未だ敵影が残っている可能性は十二分にありますので」
「ああ、油断はしない。――絶対に」
分かっているとは思うが、という体で告げられたそれにカリストは力強く頷いた。
そんな真似はしない。
フォティアは軽く頷いて、それでは御前を失礼します、と立ち去っていく。
出発の準備をしに行くのだろうフォティアを目で追うことなく、カリストは言葉を噛み締めるかのようにグッと腕に力を篭めた。
そうして、腕の中にあるそれを慎重に且つ大事そうに抱え直す。
見下ろせば、あの全てを映し出すかのような灰の瞳を固く閉ざした真白い瞼の奥に仕舞って、すうすうと寝息を立てる少女のいつもより幼げな顔がその視界を埋め尽くしたのであった。




